第五章 生活の変化
「ええええええええええぇぇぇぇッ!?」
悲鳴が、あがる。あげたのは琥河―――ではなく、意外にも英光だった。
わなわなと両手を震わせながら、思考に走る。
(つまり、あの二人に俺のことを護らせる、ってことだろ!?)
何時、どこかも分からない場所で襲われるという、極限状態を続けろというのだ。そんなことを了承できるわけがない。
「んな、危なっかしい事させられるかよ!」
英光は、そう怒鳴り声をあげた。素直な感想がそれであり、条件反射で出たのだ。
「とはいっても、なぁ………。まぁ、少年の気持ちも分からんでもない」
英光の言葉に、樋上が眉をひそめながらも、理解したように頷く。
「女の子に護られるっていうのは、男の子としては屈辱かもしれないが、現状を見てくれ。引越しするにも、移動するにも、時間は掛かる」
想像してみろ、と樋上は英光に視線を向けた。
「理由も分からず、新居を買った家族が早々に引越ししていく。もし、長男だけが転校したとしても、変に勘繰られて居辛くなる。まぁ、親御さんには説明しないとなぁ」
たださえ、今の家は父親がローンを組んで買った新居だ。今は色々と忙しく、弟の事もあってゆっくりしていられないが、それでも家族団欒を望んで購入したのである。
それが、購入して一年も経たずに引っ越しをする―――明らかに、何かの犯罪者と間違うだろう。
樋上の言葉に、英光も言葉を詰まらせる。
軍に居る以上、親に連絡が行くのも時間の問題だ。もしかしたらすでに、連絡しているかもしれない。
そこで、英光は改めて頭を抱えた。
(うちの家族も、騒ぎそうだけど………。ああもう、嫌んなるッ)
そんなことがあれば、世間体は間違いなく悪印象になるだろう。生活の面は軍隊が保証してくれる可能性もあるが、どちらにしても軍の関係から逃れられないことになる。
痛む頭を押さえる英光へ、彼は言葉を投げかけた。
「だが、今までのデータから『キマイラ』は一年に一回程度しか出てこない。今回が、本当にたまたま、という事であれば、引越しやら移動やらは必要なくなる。そうすれば少年は今までどおり生きればいいし、何より迷惑も掛からないしな」
それは、英光からしてみれば、希望の言葉にも聞こえた。
もし今後、『キマイラ』が英光を狙わなければ、今回は「たまたま一年に一度しか起きない事象に二回会っただけ」ということになる。可能性としては低いと思うが、ゼロではないのだ。
「そういわれれば、確かに………い、いや、でも危険があるなら」
樋上の言葉に、少しだけ納得させられそうになるが、首を左右に振る。
確かに提案自体は魅力的だが、それらは全て「琥河と島崎が英光を守ること」が前提に来ている。つまり、危険なところはあの二人に任せるしかないのだ。
少なくとも、軍隊にお願いしよう―――そう考えて、英光が口を開こうとした時だった。
――――バンッ。
その音に、英光と樋上の、二人の動きが止まった。
叩いたのは、琥河。長机の中心に、両掌を叩きつけた琥河の肩は、細かく震えていた。
恐い。背筋にゾクッとした寒気が走り、英光は動きを止めた。
「………其れは何? もしかして、私達を侮っているの? 頼りにならないの?」
刺すような視線が、英光を貫く。暗い目元には白い眼光だけが宿り、その細い肩は何倍にも膨らんだような威圧感が宿っていた。
言葉にはしないが、隣の島崎からも威圧感があった。俯いて下りている前髪の隙間から、鋭い眼差しが覗いていた。
そこで初めて、英光は自分が失言していた事に気付く。
(や、やべぇ! なんか、地雷踏んだ!?)
しかし、その失言が何なのか、皆目見当がつかない。
少しだけ話した印象だが、琥河は間違いなく我が強いのはわかった。それに、目の前で『キマイラ』を一刀の元に斬り捨てたのだから、まず負けない自信はあるだろう。
しかし、島崎が怒りを見せるのは、意外だった。琥河のように露骨ではないので、それだけ威圧感もある。
ただし、英光からしてみれば、この二人の怒りの意味が分からない。
二つのプレッシャーを受けながら、英光は何とか言葉を搾り出した。
「ほ、ほら、別に「頼りにならないのか、って聞いてるのよ!!」――――いや、だから、な」
何か弁明しようとした瞬間には、二人から翡翠色の粒子が舞い初めていた。それが『フォディス』の出現の兆候だということが分かり、英光の顔が真っ青になる。
驚いている英光の肩を、ポンと叩く樋上。英光が振り返った先にあったのは、ニヤニヤとした、心底面白そうな樋上の顔だった。
その表情を向ける樋上は、ぼそぼそと声を掛けてきた。
「――――気をつけろよ、少年。島崎嬢はまだしも、琥河嬢は手荒だぞ?」
顔を真っ青にした英光は、大きくため息を吐き、肩を落とした。
「………よろしくお願いします」
威圧された英光には、その言葉を言うことしかできなかった。
こうして、英光の奇妙な物語は始まることになるのだった。
教室でそいつは、目立たなかった。
はっきり言っていい。視界に入るけど、名前を覚えているほどではない、といった相手なのは、間違いなかった。
見た目としては少し粗暴そうに見えるが、だからと言って暴力的ではない。ほとんど自分の席についているようだし、友人の………なんとか、って奴とは一度話したけど、そいつぐらいしか友達いないのか、って思うぐらい社交性がない。
………まぁ、私が言えた事じゃないけどね。
といっても、そいつに眼をつけたのは、あの日の夕方からだった。
いつもどおり、芳乃と屋上に向かって居た所、芳乃が声を上げたのだった。
「人が襲われてる」
その言葉に、私は眼を疑った。
あのキメイラ―――じゃなくて、キマイラだったっけ? キマイラに襲われていたのだ。しかも、あいつが。
正直言うと、この後、たまたま芳乃が生徒手帳を拾うまで、名前すら覚えていなかった。
日に焼けた赤い髪に、気の抜けた顔。それでも、キマイラと向き合った顔は、意外にも力強い眼差しだった。
最初に『フォディス』を見た者が、そんな眼をしたのを、初めて見た。私ですら、最初に見た時は恐怖したものだ。
え? 見えるのかって?
普通なら見えない距離でも、私と芳乃なら見える。そういうものなのだ。
「………もしかして、アイツ」
何か隠している? と、直感的に思った。『フォディスト』なら説明できるし、それでなくても軍人関係なら話を聞いているかもしれない。
でも、そういうタイプでもないだろうし、ましてや、『フォディスト』同士の奇妙な感覚もない事から、『フォディスト』ではない。
――――ただ、こっちを向いた時、初めて、奇妙な感覚になったのは、覚えていた。
「ふーん」
「………気になる?」
唯一の親友の、その言葉。それに、私は素直に答えた。
「まぁね」
結局、あいつはキマイラと一緒に森に消えていく。芳乃と一緒に襲われた場所まで行って、あいつの生徒手帳を拾った。
「とりあえず、樋上さんにでも相談するとしますか」
「そう、ね」
芳乃の言葉に、小さく頷いた。
まぁ、説明したときに、私か芳乃のどちらかがラブレターを出してそれとなく聞き出せといわれて困ったけど。
というわけで、芳乃と話し合ったけど、呼び出すことになった。まぁ、教室で聞くわけにはいかないしね。
「――――なんて書けばいいのよ?」
その日の夜、何もない部屋の中心で、そうつぶやいた。………実際、用意したのは私だけど、ぶっちゃけ、なんて書いていいか分からないんだよね。机の前で頭を抱えたわ、本当に。
何かないかと、視線を回りに向ける。質素な畳部屋には今座っている勉強机とちゃぶ台、箪笥に蒲団だけ。トイレとシャワールームは別々だけど、「わんけー」とやらはこんなものらしい。むしろ、良いほうだとか。
っと、思考がずれた。はっきり言って、自分の部屋に期待するほうが馬鹿だ。
「まぁ、用事だけでいいか」
すらすらと、『放課後、屋上にて待つ』と書いて、封筒に突っ込む。其れをちゃぶ台の上に放り投げ、布団を敷いた。
布団なのは、特に理由はない。何となく落ち着くだけだ。
「………寝間着だしね。私は心の奥底から日本人かぁ」
薄手、木綿生地の寝間着を着なおすと、布団に入ろうとする。
そこで、ふと目に付いたアイツの顔がついた学生証を、何気なく手に取った。やる気のなさそうな顔をしている写真を見て、鼻を鳴らした。
「さてさて、寝ますか」
布団の中にもぐりこむと、適当に生徒手帳を放り投げるのだった。
結局英光は、基地から車で自宅まで送られ、遅くなったことを家族に謝りながら、泥のように眠ってしまった。
朝の目覚めは、酷いものだった。
口の中の出血は止まったようだが、流れ出たよだれに混じった血でそまった枕を見て、母親が悲鳴をあげた所で眼を覚ましたからだ。
右腕の包帯を見て、昨日からずっと心配していたらしく、「今日は休みなさい」と言ってくれていたが、学校には行く旨を伝える。
制服に着替えるので母親を押し出し、着替えた後、リビングへ降りて行った。
「マジでか?」
朝食の席で、弟の弘樹が肺炎で入院した事を聞いた。今日は父親がついているが、明日からしばらく母親がつくらしい。
「夜遅くなるから、適当に食べててね」
「大丈夫なのか? 弘樹は?」
弘樹はまだ小さいので、流石に心配だった。しかし母親は軽い調子で手を振ると、答えた。
「大丈夫大丈夫。少し悪い風邪にやられちゃっただけだから。それより、そろそろ準備しないといけないんじゃないの?」
母親のその言葉を聞いたときだった。
――――ピンポーン。
玄関のチャイムが、誰もいない玄関で響いた。新聞配達はすでに終わっているし、宅急便の時間には少し早い時間帯での、来訪者。
怪訝な表情を浮かべていた英光を置いて、母親は「はいはい」といいながら玄関に向かい、ドアを開ける音がした。
二、三言話し声がした後、ドタバタと母親が駆け出す音。最後のご飯を飲み込み、牛乳を注いだコップを持ち、一気に飲み込もうとしたところで。
「英光! 彼女が迎えに来てるわよ!」
――――盛大に、白い液体を噴出した。
「――――何してんだお前?」
母親に満面の笑顔で外に押し出された英光を待っていたのは、島崎 芳乃だった。彼女は、少し長めの前髪から視線を向けてくると、ボソッと何かを呟いた。
「護衛」
あまりにも小さすぎて、英光に通じないほど、小さな声だったが。
辛うじて聞くことができた英光は、機能の会話を思い出し、納得するように首を振る。
登下校の護衛、というのも奇妙な話だが、万が一『キマイラ』が出てきた場合、また軍から応援を呼ぶのでは非効率、というより間に合わないのだ。
そういった旨を登校路で聞きつつ、英光は尋ねた。
「………つまり、明日から島崎さんか琥河さんが迎えに来てくれる、と?」
そう聞くと、島崎は首を左右に振った。違うのか? と英光が聞く前に、彼女は答える。
「麻衣、朝弱いから、私が迎えに」
どうやら琥河は朝が弱いらしく、遅刻しないだけでも大変だそうだ。成程、と納得している英光に、島崎は顔を向けた。
「………よろしく」
「ああ、よろしくな、島崎さん」
どちらにしても、英光には『キマイラ』に対応することはできない。
一撃殴られて、右腕と奥歯を持っていかれたのだ。朝になって気がついたのだが、右腕は、どうやら綺麗に折れていたようで、今でもギプスがついているが、大分楽になっていた。
軍医というのは凄いなぁ、等と考えていると、島崎が声をかけてきた。
「………痛い?」
「あ? あ、いや、それほどじゃないぞ? 右腕も大丈夫だし、口の中の出血は治まっているし。それより、悪いな。面倒かけて」
小さく首を左右に振る島崎を見て、英光は小さく笑う。彼女は、自分同様人見知りと言うことは分かるが、それ以上に心優しい女の子のようだった。
(昨日も結構気を使ってくれていたみたいだったしなぁ。いい奴だ)
そう評価しながら、もう見慣れた道路を歩く。島崎は無口なようで、ほとんど喋っていない―――むしろ、皆無だった。
歩く早さも、英光に比べれば遅い。歩幅が小さいからだろうが、それでも英光と並んで歩いているのは、英光が遅くしているのではなく、彼女が足早に歩いているからだ。
学校に近付けば、学園に向かう人に出会う。その姿が見えはじめた頃に、英光が声をかけた。
「あ~、島崎さん? 何なら、俺少し前に行こうか?」
「………なんで?」
英光の言葉に、島崎が疑問の声を上げた。眉をひそめている島崎へ、英光は頬をかきながら、明後日の方向を向きつつ、口を開く。
「あ~、その、何だ。実際さ、恥かしいんじゃないか? 俺と登校しているなんて噂されたら」
英光自身、クラスでの自分の立ち位置は知っている。多くの生徒が恭介の腰ぎんちゃくだと思っているのだから、島崎達にとってマイナス要素にしかならないだろう。
しかし、其れを尋ねた島崎の眼に、違う何かが宿った。其れは、戸惑いとも、不安とも、怒りとも取れる色であり、英光には理解できない色だった。
立ち止まる、島崎。一歩先を歩いていた英光が振り返った先で、島崎は目を伏せ、ボソッと呟いた。
「――――の?」
「は?」
あまりに小さな声で、思わず聞き返してしまった英光へ、島崎は少しだけ顔を上げると、告げた。
「一緒にいるのは、おかしいの?」
どんな感情が篭っているのか分からないその眼に、英光は息を飲む。それと同時に、自分の発言のどこかが彼女の逆鱗に触れてしまったのを、理解した。
慌てて、英光は返す。
「いや、一緒にいるのはおかしくないけど、ほら、恥かしくないのかって話だよ。こ、恋人とか誤解されるんじゃないか?」
英光からしてみれば、そういった意味で尋ねた言葉だ。
真っ直ぐ島崎を見て、言葉を続ける。
「別に、一緒にいるのはおかしくないさ。島崎さんが気にしなければ、俺は気にしなんだけど」
「なら、大丈夫」
そこで、島崎の眼から、先ほどまでの意思が消えていた。どのような意思を持っていたのかは分からないが、すでに平素の態度を取り戻した島崎は、スッと英光の横を取りすぎると、英光が振り返った先で、こういった。
「行こう?」
「………ああ」
英光はそう答えながら、島崎の横を、歩き出した。
(………なんか、大変なことが起きそうだなぁ)
なんとなく、そう考えてしまった。
高岡 恭介こと俺は、自ら親友と呼べる相手の変化を、機微に察していた。
「おっす」
「あ、ああ、おはようさん」
HR前。朝の少ない自由時間に、部活動の為少し遅めに登校した俺は、目の前の状況を一瞬で理解することはできなかった。
入学してからよくある席替えだが、今のところは自由になっている。
俺の隣は英光の席だ。まぁ、妥当だよな。
ちなみに、俺と英光の席は後ろの入り口付近で、英光の横には廊下を隔たる薄い壁がある。
そして、その壁に寄りかかっている人物を見て、俺は息を飲んだ。
「………おはよ」
「あ、ああ、おはよう、島崎さん、だったね」
島崎 芳乃。物静かな彼女は、壁に寄りかかる格好で、英光と向き合っていたのだ。
(な、何であの『シマザキ』がここにいるんだよ!?)
警戒していた人物の存在に、一瞬だけ息を飲む。其れをなんとか表面に出さないようにしながら、自分の席に座ると、鞄を机の上に置いた。
教科書を出していると、当然ながら隣から会話が聞こえる。
「結構コアな本読んでるんだなぁ。やっぱ、夏目漱石とか好きなのか?」
英光の問いかけに、返答はない。英光が一方的に話しかけているのか、と思ってみてみると、彼女は手に持った小さな本を掲げているところだった。
「ああ、そんな高尚なものじゃないって事か。いわゆるラノベだろ?」
小さく頷く『シマザキ』。傍から見た限りで、この二人は仲が良さそうに見える。
だが、俺は知っている。こいつは危険だということ、を。
「あ、あのよ、し「おはよう、芳乃、馬鹿」――――!」
『シマザキ』に、HRが始まる前に席にもどれ、と言おうとした時、もう一人の注意人物が来た。
亜麻色の長い髪を三つ編みにした、鞄を肩から後ろに流している姿は、見覚えない。
『コガ マイ』。このクラスで最も注意すべき人間だった。
「おいおい、馬鹿って何だよ」
………なんで英光が、苦笑しながら返答しているんだ? 何時の間に、接触してたんだ?
「馬鹿でしかないわよ。芳乃に迷惑かけなかった?」
「かけてねぇよ」
「………大丈夫」
英光の言葉に続くように、出てきた『シマザキ』の言葉。それに満足そうに笑った『コガ』は、『シマザキ』に「行くよ」というと、自分達の席に戻っていく。
幸いに、あの二人は正反対の席だ。
この間に、俺は英光の腕を取った。
「つぅ………ッ!」
「あ、わりぃ、って、何だそれ!?」
壁側を向き、右回りに視線を送っていた英光の右肩を掴むことになったが、こいつは何故か右腕に包帯を巻いていた。ギプスって事は………。
「骨折したのか!?」
驚いた俺に、英光は苦笑しながら告げた。
「まぁ、骨折しているけど、綺麗に折れてるから大丈夫だ。ほら、島崎さん達が助けてくれてさ」
話を聞くと、車にひかれた所をあの二人に助けてもらったらしい。腕だけで済んだというのは、不幸中の幸いだろう。
「ああ、大丈夫。右腕はダメでも右手は動くから。ノートは取れる」
そんな英光の言葉は、すでに届いていない。
車にひかれたという英光を助けてくれた事には感謝するが、しかし、あの二人はダメだ。危険すぎる事を、知っている。
しかし、それ以上に英光の事を知っている俺としては、無駄だという事が分かって居ても、言わずにはいられなかった
「………何でもいいが、あの二人には近付かないほうがいいぞ? あんまり、いい噂聞かないし、な」
それとなく、警告する。っていっても、英光は結局――――。
「そうか? あんまり悪い奴には見えないぞ? 実際、話してみると良い奴等だし」
………やっぱりそうか。偏見や先入観で判断しないお前の考えは嫌いじゃないが、でも、今回は危なすぎる。
「でもよ、あいつ「では、HR始めますよ。日直さん、お願いします」――――」
「ああ、始まるのか。ほら、前向けよ」
そういい、前を向く英光に、俺は伝えようとしていた言葉を、飲み込んだ。
「………おう」
そういいながらも、なんとなく手遅れな気がしていた。
「さーて、昼飯ね。今日は何食べようかしら。カツ丼とか?」
「………昨日、カツ丼だった」
今現在、琥河達が向かっているのは、学園中心にある噴水近くの学園食堂だ。利用する人は多いのだが、敷地も建物も大きいので、広々と利用できる。
入り口の券売機で食券を買い、それを渡す。すでに下拵えは済んでおり、カツ丼だけなら揚げて乗せて、ソースをかけるだけだ。
簡単で早く、美味しい食堂だが、弁当を持ってきている人は当然、利用しない。
「つまり、俺がいる必要はないんだが?」
半眼で呻いた英光の言葉に、琥河は心底意外そうに驚いていた。視線を向ける先は斜め後ろ下―――そこで背中を向けている英光へ、告げた。
「あ、不満?」
「当たり前だ!」
そこで、英光は久し振りに立ち上がった。
「なんで一歩も歩いていないのに、此処までこれるんだよ!」
痛むお尻をさすりながら、手に持っていた弁当を調べる。問題がないのは、不幸中の幸いだった。
一歩も歩いていないのに此処まで来た理由。それは―――。
「楽だったでしょ?」
「痛かったわ! 飯を食う直前に襟掴んで引きずるなよ! 吐くぞ!?」
コレである。
教室で恭介と昼食を取ろうとした矢先、教室を出て行く琥河に襟首をつかまれ、そのまま弁当ごと引きずられたのだ。誰か突っ込むだろうと思って無視していたのだが、誰も突っ込みを入れるものはいなかった。
パンパンとズボンのゴミを落としていると、島崎が何かを差し出しながら口を開いた。
「はい、コレ」
差し出してきたのは、英光の靴だった。
「あ、ああ、ありがとう。良く分かったな」
靴を受け取り、履き替える。上履きを拾い上げる英光へ、島崎はボソッと返した。
「………見ていたし」
「ああ、そうだったな」
そういいながら、非難の目を琥河に向け――――彼女が立っていた場所に、誰もいないことに気付いた。
怪訝な表情を浮かべた英光は、辺りを見渡して、それを見つけた。
「あれ? さっさと取ってこないの? 芳乃」
すでに御盆を持っている琥河に、島崎は小さく頷き、券売機に歩いていった。
英光は、歩み寄って来ている琥河に視線を向ける。
島崎とのやり取りは、それほど時間は掛かっていない。だが、もう券売機で食券を買い、物を受け取っているということは、英光の批難を完全に無視して買いに行っていたわけだ。
琥河は、何でもないような表情で、英光に声をかけた。
「ほら、さっさとあいている席に行くわよ? 何時まで立っているつもり?」
「………もういい」
色々といいたい事があったが、それら全てを飲み込む。さも当然のように歩き出した琥河に連れられ、英光は窓に程近いテーブルに座ることとなった。
景色も良い、四角形のテーブル。
テーブルに御盆を載せ、さっさと座る琥河。その向かい側に座り、テーブルへと弁当を置いた英光は、辺りを見渡すと口を開いた。
「しっかし、初めて学食に来たけど、煩いな」
「そう? すぐ慣れるわよ。盗み聞きされる心配もないしね」
そうこう言っていると、島崎も戻ってきた。御盆を琥河の横に置くと、自身も琥河の横へと、腰を下ろす。
二人のお盆に載ったものを見て、英光は息を呑んだ。
「島崎さんはうどん、で………琥河さんは何?」
「ん? とんかつ定食大盛りだけど?」
とんかつ定食大盛り。言葉だけなら女性でも食べる人がいると思うが、待って欲しい。
ここは、学食である。育ち盛りで食べ盛りの、高校生のお腹を満たすためにあるのだ。そして例外なく、大盛りは男子生徒向けに作っている。
その量は、英光の大き目の弁当の、一,五倍に相当していた。英光でも、完食できるかどうか、という量である。
「麻衣は、このぐらい食べる」
「マジッ!?」
島崎の言葉に、思わず聞き返してしまう英光。さっさとテーブルの上のソースを取り、キャベツととんかつに掛けていた琥河は、事も無げに言った。
「まぁ、私は運動するしね。朝御飯も食べてないから、丁度いいのよ」
「さいですか………」
ふふん、と鼻を伸ばす琥河に対し、英光は若干疲れた顔をしていた。弁当箱を広げ、おかずのから揚げを突きながら、口を開く。
「で? 何で俺まで連れまわしたんだ?」
「ん?」
英光の問いかけに、すでに御飯を掻き込んでいた琥河が反応する。次いで島崎も視線をこちらに向けるが、食事をとめるつもりはないようだ。
琥河はしばらく咀嚼をした後、飲み込んで口を開いた。
「まぁ、しばらく護衛だしね。昼休みってやることないし。別にいいでしょ?」
「そりゃ、構わないけどさ」
(ま、教室にいても結局は寝るだけだしな。構わないか)
そこで、ふと気付く。教室で寝ることが多かった英光だが、今まで二人を見たことがない。視界に入っていなかった可能性もあるが、流石に記憶の何処にもないのはおかしい。
その質問に、琥河は箸を動かしながら答えた。
「まぁ、一応学園内の見回り。当番制だけど、初日は高等部に出てきたから、集中的にね」
そういい、箸を英光に向ける。箸についていたソースが飛んで英光の服に掛かったのは、別の話だ。
「此処最近、どうもきな臭いのよね。ほら、馬鹿も見たことあるかもしれないけど、白い布か壁に囲まれた場所。あれって、『フォディス』が暴れたか、目撃情報があったところよ」
そういわれ、思い出す。学園のあちこちに現れたあれは、昨日の屋上の時のように、誰にも見られないような処置をしていたのだろう。
「………結構、大事みたいだな」
「ま、ヘリが飛ぶのは珍しくないしね。壊れているのも事実だし。ヘリなんかよりもアレがばれるほうが、問題でしょ?」
屋上の時は、ヘリが何機も飛んで、武装した軍人が降りて来ていた。今でも、屋上には白い布が張り巡らされており、軍人が補修工事をしているようだ。
琥河の言葉に、英光は眉をひそめた。
「それもおかしい話だよ。本当に」
「何が?」
英光の言葉に、琥河が眉をひそめる。島崎も気になっているようで、英光に視線を向けた。
二つの視線を受け、英光は唸りながら答えた。
「まぁ、昨日も言ったけど、極端な話ではこの島から撤収すればいいと思うんだよ。そりゃ、日本の領土だから軍は離せないし、少ないからって言っても………なぁ。不自由もあるだろうし」
第二次世界大戦で生まれた新領地は、天災と戦争で疲弊した日本にとっては、完全に急所だった。取られれば本州との距離はほとんどないのだから、それだけ必死に防衛するのは分かる。
しかし、それが人間同士で戦う事だけに留まって居れば、の話だ。
人間以外の存在が攻めてきているのであれば、本州まで下がるどころか、本州の一部も緩衝地帯として封鎖するほどの対応を取らなければならないのではないか、と思ってしまうのだ。
英光の言葉の裏を感じとった琥河は、小さく頷く。
「………まぁ、アンタの言いたい事は分かるわよ」
琥河は、英光の話を聞いて、難しい顔をしていた。島崎も同様で、視線を伏せている。
「わけの分かんない化け物がいて、それを操る人まで出てくる。いつコントロールできなくなるか分からない以上、さっさと対処すべきだ、ってことでしょ?」
その琥河の言葉に、英光派慌てて首を左右に振った。
「ああ、そうじゃなくて――――ああ、なんていえばいいか………」
そう言いながら、頭をかいた。確かに、自分の言葉を聞いた『フォディスト』からしてみれば、すでに覚醒している者の事を考えていないように聞こえただろう。
はぁ、と大きなため息が、対面から聞こえてきた。
顔をあげた英光に、琥河は苦笑しながら、とんかつに箸を伸ばしている。その表情には悲観の色はなく、どちらかといえば達観したような色があった。
口に含み、咀嚼した後、口を開いた。
「でも、実際問題、交通事故よりも発生件数が稀なのよ? 負傷したのも、アンタで一年振りなんだし」
「でもよ………ああ、まぁ、そういう考えもあるよな」
人間は生活している以上、どこかで過失による死亡事故が起きている。交通事故に始まり、疾患による死亡という事例まで考えれば、その数は確かに少ない。
(要因として一つ増えても、死亡率はほぼ皆無、だから大丈夫ってことだよな。………まぁ、利権があれば、どこかにほころびが出るのは、当たり前だよな)
正確に全て把握していないが、『フォディスト』の有用性は、考えるだけでもかなりのものだ。
無手の状態のまま、どこにでも侵入できる上、解放すれば琥河や島崎の様な女の子でも、英光の腕を折る「化け物」を一蹴する事が出来る。
軍に流用するのも、分からなくもない。
嫌な空気が流れ出したのを察し、しかも学食でする話ではない、と考えた英光は話題を変えることにした。
「そういや、琥河さんは英語苦手なのか? 今日、鈴木に差されて答えられなかったみたいだけど」
「うぐッ!?」
予想外の質問に、琥河がとんかつを喉に詰まらせたようだった。慌ててお茶を飲み込んでいる琥河の横で、島崎が微笑みながら口を開いた。
「麻衣は、ガチガチの日本主義だから………」
島崎の言葉に、英光はニヤリ、と笑った。
「そうなのか。まぁ、見た目どおりだよな」
「う、うっさいわね! 横文字が苦手なのよ! 横文字が!」
ギャアギャアと騒いでいる琥河に、英光が笑いながら言葉を続けた。
「琥河さんも、島崎さんも、見た目どおり「それよ」――――はい?」
話を続けようとしたところで、琥河からストップが入った。
いきなり中断され、眼をパチクリさせている英光へ、彼女は言葉を続けた。
「別にさん付けしなくていいわよ? 私はアンタのこと「アンタ」か「馬鹿」で呼ぶし」
「何じゃそりゃ」
唐突な申し出に、更にその内容の酷さに、流石の英光が声をあげた。しかし、話に続いたのは、意外にも島崎だった。
「私も、別に、さん付け要らない………。「古川君」って呼ぶから」
「あ、島崎さん―――」
まぁ、とそこで一旦、思考を切り替える。顎に指を当てながら、思考した。
(元々、さん付けで呼ぶのは好きじゃないし、別にいっか?)
そう考えると、悪い申し出ではない。今は微妙な付き合いでも、これから同じクラスでやっていくのだから、逆に親しみがあっていいかもしれない。
「了解。これから琥河と島崎って言わせて貰うわ」
「――――まぁ、それでいいわ。芳乃も良い?」
琥河が了承し、島崎も了承する。少し不満そうなのが良く分からないが、呼び捨てでも英光にとっては十分な進歩だ。
「っていうか、アンタ、右手大丈夫なの?」
「ん? まぁ、腕は痛いけど、手は動くし、問題無い」
こうやって心配する琥河は、意外と面倒見がいいのかもしれない。
「そ」
簡単な答えを返しながら、琥河は弁当を口の中に掻きこむと、包んでいたハンカチーフを掴み、その場で立ち上がった。
荷物を適当にかばんに放り投げると、琥河は二人に振り返り、口を開いた。
「んじゃ、私は見回りに行ってくるから。後で」
軽く手を上げ、屋上を去る琥河。
その背中を見送りながら、英光は口を開いた。
「そういや、そんなに出てくるものか? 『フォディス』というのは?」
「………」
島崎は、静かに視線を辺りに這わせると、口を開いた。
「………少なくとも私は、それほど見た事ない」
それでも、英光を襲うという事があって以来、二人が交代して見回っている。時間はそれほどではない上、可能性は低いが、やめるつもりはないようだ。
「………」
英光は、静かに思う。
(………情けないな、俺。………守ることも、出来ないのか)
自分のふがいなさ、情けなさ、そんなものを噛み締める。人外の力を扱う者相手に、人間である自分がどうにかできるわけがないのだ。
わかっているのだが、納得できそうにない。
それから話をしたのは、それぞれの趣味と午前中の授業の内容等。
何気ない、そんな会話をしているうちに、いつの間にか昼休みは終わっていた。