第二章 コガ
「何なんだよ、ッ畜生!」
くしゃくしゃと髪の毛をかきながら、英光は一人、噛み殺したように叫んだ。一気に駆け出した所為で動悸と共に呼吸が乱れているが、必死に其れをかみ殺す。
自分が、情けなかった。
少なくとも状況的には、屋上から女子生徒がこっちを見ていただけだというのに、その場にいたくないほどの焦燥感を覚えたからだ。
何故か分からないが、さっきまでの光景が走馬灯のように眼の裏で流れていく。その映像を振り払うように頭を左右に振りながら、英光は辺りを見渡した。
適当に駆け出した所為で、今いる場所が良く分からない。視界に映るのは深い森なので、今現在、雑木林のほうにでも着てしまっているのだろう。
校門の在る南方向に走ってきたから、その辺りだと思えるが、知らないうちに奥まで来たせいか、街路は見えなかった。
「ああ、情けねぇ………」
得体が知れない恐怖に、此処まで走って逃げてきたことを考えると、自分の度胸がたいした物ではないと再確認したように思えた。つまり、度胸無し、と。
いうほど、自分に度胸が無いとは思っていない。
走ってきた方向を見れば、藪などが倒れ、道になっている。その道を戻るのが正解だろうと、足早に元の街路まで歩いていこうとした時。
ザク。
何かを踏む音が、した。其れは、乾燥しきった落ち葉を踏み抜くような音であったし、積もった雪を踏んだときの音にも、聞こえた。
つまるところ、何の音かは、分からない。そして、その音が足音だという確信も、なかった。
何故なら、その音は真上から聞こえてきたのだから。
――――視界が、嫌に霞む。心臓の音が高鳴り、顔には尋常じゃないほどの脂汗が、浮かんでいた。
振り向いてはならない。漠然とした恐怖が身を包み、恐怖心を煽っていくが、それでも身体は、音の正体を知ろうと、振り返るのをやめなかった。
振り返った先にあるのは、ごく普通の、なんでもない樹―――其れに張り付く、『何か』、だった。
眼は赤く、二つの球体。口は半月状に淡く光り、笑っているようにも見えた。細く、長い両腕と両足は、蜘蛛の足のように、変則的な形で曲がり、樹の幹をしっかりと掴んでいた。
「あ、あ………」
声を出そうにも、出ない。喉の奥で声が実体を持って引っかかっているようだった。
ミシッと、異音が響く。それが、影の掴んでいた樹の幹からしたものだと気付いた瞬間、腰が砕けた。
重力に引かれ、腰を落とす英光の頭部を、何かが通り過ぎた。
それは、細く黒い影の腕であり、英光の真上を通り過ぎて、空を薙ぎはらった。
「は――――?」
気がつけば、影は英光に乗りかかっているような格好を、していた。眼前に浮かぶ、赤い二つの球体は、息も届きそうなほど近いのに、その正体をさらすことはなかった。
まるで、真っ黒な画用紙に、そのまま赤のクレヨンで眼をぐりぐりと、立体感が出るまでなぞったような、そんな顔が存在しているのだ。
細い手が、腕を押さえている。右腕にある時計と上着のせいで、それが温度を持っているかですら、判断できない。
そして、その口が動く。
『私はいつでもお前を見ている』
その影が、言葉を発したと同時に。
後頭部に重い痛みが走り、英光の意識が、遠のくのであった。
「………ここは?」
――――それからどれだけの時間が流れたのか、英光が眼を覚ましたのは、肌寒さを感じた所為だった。
場所は、学園入り口から各校舎に向かって伸びている道の一つで、英光が駆け出した森近くの道だった。ベンチは、少し離れた場所にある広場の、一つだった。
春先だが、まだ肌寒い。二の腕に手をやると、同じ肌とは思えないほど、冷たくなっているし、続けて頬に手を当てると、ひんやりとしていた。
ようやく吐いた息は、冷たかった。
心臓が跳ねるような音が、耳を叩く。ひんやりとした汗を拭いながら、立ち上がった。
身体が、軋む。今の時間を確かめようと、腕時計に視線を向け―――――また、寒気が走った。
時計のガラス盤が、砕けていたのだ。何故、と考えたが、すぐに思いつく。
「………手か」
強く握られた感覚はなかったが、それでもこれは割れていた。硬化ガラスで早々壊れるはずが無いし、何より、割れるほどの握力なら、手首にもう少し痛みがあってもおかしくないはずだ。
「………」
しばらく考えてみたが、結局、何も分からなかった。あれが何だったのか、何で襲われたのか、言われた言葉と言うのはどういう意味なのか、どれもが分からない。
頭をかく。難しい事を考えるのは嫌いじゃないが、手掛かりがないのではどうしようもない。
納得しないままも、帰宅するべく、暗くなった夜道を歩き出した。
ただ、胸中には、もやもやした気持ちだけが、渦巻くのであった。
次の日、英光は朝、起きたときに眩暈は感じたものの、特に違和感無く登校することができた。両親は顔色が悪い、と言っていたものの、本当に体調が悪くないので、休むわけにもいかなかったのだ。
と言うわけで、いつもよりも眉間に皺を寄せながら、英光は教室に入った。
珍しい事に、恭介の姿はなかった。
自身の椅子を引き、座った時、それに気がついたのだ。
手紙。
真っ白な便箋に丁寧に織り込まれた其れは、ラブレターのようにも見えたが、封もしていないので、そうでもないようだ。
便箋から紙を、適当に出す。それなりに早い時間なので、教室にほとんど人がいなかったから、というのが理由だ。
紙には、こう書いてあった。
『放課後、屋上にて待つ』
―――思わず、辺りを見渡してしまった。周りでは、多くのクラスメイトが教室に入って来ていたところであり、教室に最初にいた人物が誰かは、わからなかった。
再度、紙に視線を落とす。内容を読んで、率直な感想を口にした。
「果たし状かよ」
紙をポケットに突っ込み、一気に冷めた頭で考え込む。
(朝、扉を開けて、誰がいた? 琥河と島崎は?)
気になるのは、昨日の夕方に見た、あの二つの影。教室を視て回ったときに、確かあの二人の姿は―――
「………いた」
ほんのついさっきのことだ。見間違えるなど、するわけがない。
確認のために、あの二人がいる、教室右奥に視線を向けたかったが、心臓が跳ね上がって、動けない。
しかし、それでも大きく首を振るうと、振り返ろうとして―――
「何してんだ? お前?」
視線の先には、不思議そうな顔をした恭介が立っていた。その顔を見て、英光は―――
「………」
とりあえず、拳骨を放つのであった。
黙って後ろに立っていた恭介は、英光を脅かそうとしていたようだった。それに呆れかえりながらも、いつものように対応する。
それから、授業が始まったものの、英光に落ち着きはなかった。
琥河と島崎の方向を見れば、相手の視線の先がわかり、まだ落ち着けたかもしれないが、今の場所から振り返ると、二人がこちらを見ていたときに不自然に思われてしまう。
ましてや、本当にこちらを見ていたとしたら、疑念が確証に変わってしまう。何かに影響されやすい性格ではないが、今の英光の心理状況は、まさに推理小説で追い詰められた犯人の心境の其れだった。
そういう状況に慣れている学生が居るわけもなく、昼休みを迎える頃には、英光はすでに憔悴しきっていたのであった。
実際に、昼休みを越えたころには、朝あった頭痛がぶり返し、警鐘の如く頭に響いているのだ。それと共に顔色が本格的に悪くなってもいた。
対面で弁当を突いていた恭介も、心配そうに覗きこむほどに。
「おいおい、だいじょうぶかよ、英光」
「………うっさいわい」
死に掛けの声で返した英光に、恭介は眉をひそめた。
「口癖が荒っぽくなってるぞ? 余裕がないなら、早退しろよ?」
早退、という言葉に、英光の眉が僅かに反応した。
(そうか、早退か………。思えば、さっさと帰ればいいのか)
そこまで考えて、鼻で笑う。其れは問題の先送りであり、結局は何も解決していない。そもそも、屋上に呼び出されただけで、何の違法性もなく、今思っていることも杞憂に終わる可能性があるのだから、問題にすらなっていないのだ。
力なく首を左右に振り、英光は机に突っ伏した。
(………寝よう)
憔悴しきった英光に出来るのは、放課後までただ、眠ることだけだった。
―――蠢く。
赤く、湿気を帯びた其れは、生き物のように鼓動し、周りに波打っていった。
やがてそれらは、上に向かって波紋を広げ、頂上で大きく、跳ね上がったのだった。
―――蠢く。
壁にはそれぞれ赤い管が血管のように張り巡らされ、頂上に向かっている。その中に流れる液体には、白と青の小さな結晶が流れ、其れも頂上へと、向かっていた。
―――音が、消えた。
今まで明かりのなかった空間に、初めて赤い色が宿った。
卵の形をした、独特な部屋。その頂点にて蠢くのは、真赤な『実』。胎動する部屋の壁は、生物の中に酷似し、また『実』と形容されたそれも、良く視れば何かの卵にも、見えた。
―――蠢く。
『実』から毀れた液体が、部屋に落ちる。其れは、地面と思わしきところに落ちると、黒い影を広げ、形を成してきた。
やがて、それらは人の形を持つと、顔と思わしき場所に、赤い球体が二つ、燈った。
それと同時に、開く半月状の赤い口。その影は、しばらくすると、そのまま地面へと浸透していくのであった。
―――蠢く。
ただ、其れだけを繰り返す場所。
ただひたすらに大きな赤い眼差しが、其れを見守っていたのだった。
結局、英光は放課後に会いに行く事に決めた。
屋上には、基本的には入ることを許されてはいない。
しかし、屋上に行く階段が封鎖されているわけでもなく、鍵も掛かっていなかったので、生徒が自由に出入りしている。
無論、先生達も知っているので、結局のところ空文化した規則となっていた。
とはいえ、見回りがある放課後に、好き好んで屋上に上る生徒などいるわけもなく、英光が来た時も誰もいなかった。
呼び出されたのは、放課後と言うくくりだけで、何時とまでは書かれていない。
まだ、影が無いと言う事は、一番のりか、と思い、鞄を入り口近くに置き、視線を回りに向けた。
視てみると、前日に見えていた場所が、視界に治まっていた。もちろん、視界に人影もなく、昨日のような気持ち悪さもなかったので、何気なく歩み寄っていった。
―――異変は、ない。
「………」
ぼりぼりと、頭をかく。放課後まではほぼ寝ていたので、流石に頭がすっきりしてきて、さらに具合も良くなってきたからか、不安も消え初めていた。
高校生になったという事で、身体も大きく、気も大きくなっていたのかもしれない。
――――ガサッ。
そんな物音がして、思わず振り返った英光の。
視界が反転した。
一瞬、何が起こったのか、わからなかった。
しばらくして身体が地面に叩きつけられ、転がり、壁にぶつかる。それと共に右腕に熱が燈り、そこでようやく、息を吸う事ができたのだ。
それと共に、口から何かが毀れる。真赤に染まった大きな白い物体―――歯だった。
そこでようやく、自分が吹き飛ばされたことに気がついた。視線を中空に向けると、そこに居たのは、昨日見た黒い『影』だった。
「て、てめぇッ………!」
その影を見た時、右腕が異様に熱くなるのを感じながらも、慌ててはっきりした意識を頼り、転がるように立った。そして、視線を相手に向ける。
のっぺりとした黒い身体に、赤い球体のような眼と、半月状の赤い口。
思わず、奥歯を噛み締め―――右奥に感触がないことを、知った。
折れていた。
右腕を思いっきり横に薙ぎ払われて、地面に叩きつけられた時にぶつけたのか、もしくは無意識に噛み砕いてしまったのか―――。
かなり、痛い。いや、時間がたつにつれて痛みは増していき、それに答えるように頭が熱くなったのを、感じた。
それは、恐れや痛みではなく、怒りだった。
「てめぇッ! 何してくれんだッ!」
古川 英光は、切れやすい性質なのである。たとえ先生でも、論理に乗っ取らない言葉を聞けば、間違いなく反論するほど、相手を選ばない。
相手を選ばない事が、今回は功を奏した。
痛む右腕を放るように振り払い、相手に駆け出す。意思とは違う方向に大きく揺れる右腕は、完全に折れているかもしれない。
しかし、それでも英光は、左拳を握りこむと、相手の身体に自分の左肩を叩き込んだ。
体格が勝っているのは英光の方であり、影もその膂力に似合わず、身体が軽いのか、たいした手ごたえもなく突き飛ばす事が出来た。
影が転がるのを見送る間もなく、階段に駆け出す。
一発で人間の骨を折るような何かだ、痛みと恐怖で涙が出て来ている。恐怖が噴き出せば動くこともできなくなるので、相手を持つ訳がない。
それよりも英光は、違うことに意識が行っていた。
こいつが、もし下で暴れたら。
――――恭介にも言われていたことだが、こういう時、自分が本当にバカなんだと、英光は悟った。
なぜなら、そう考えただけで目の前の相手に対する恐怖も、腕の痛みも、何もかもが消え去ったのだから。
乱暴に、近くにあった屋上の扉を、力いっぱい殴りつける。大きな音と共に扉が閉まり、拳には冷たい感触だけが伝わった。
誰かに助けを求める―――それが正しいのだろう。もしくは、全力で逃げるのも正しいのだろう。
痛む腕に力を入れる。握りこぶしは作れるが、腕を曲げられないようだ。
足で地面を、踏む。恐怖と焦りで浮足立った足を収め、息を吐き出すことによって何とか緊張をほどいた。
喧嘩をするときもそうだが、この緊張が最大の敵でもある。特に、目の前の異質な存在に対しては。
犬やイノシシではない。
それでも、相手は人間大の化物だ。何とかするしかないだろう。
目の前に、一つの『影』が進み出てきた。低く重い声のようなものを発しながら、こっちを見ている。
視線は、わからない。一色に塗りつぶされたような丸い目は、何処を向いているかわからないが、こちらを意識している様子はあった。
利き腕ではない左手に、力を込める。右足を少しだけ前に出して、腰を落とした。
爪が掌に刺さるような感覚が、少し逃避し始めていた意識を、引き戻した。向こうも警戒心を深めたのか、もしくは本能なのか、腰を落として警戒している。
それでも、動き出すのは、相手の方だった。
次の瞬間、獣が大きく膨らむ。
膨らんだように見えたのは、凄まじいスピードでこちらにとびかかって来たから。
そしてその行動に、英光の身体は反応してくれた。
『影』の繰り出してきた顔を狙った爪を、首を曲げるだけで避け、その得体のしれない顔面へ、左拳を叩きつけた。
肩を捻じりこみ、捻った腰を回す。体重を入れるように斜め下へ、思いっきり振りぬいた。
水を含んだ布団のように重い感触と共に、黒い『影』が吹き飛ぶ。殴った時に肩への負担が大きかったのか、きしむような音が響いたが、代わりに『影』は、大きく吹き飛んで行った。
渾身の一撃。
カウンター気味に、顔面に入ったそれは、普通の人間であれば骨ぐらい砕けている代物だ。人間なら、意識を刈り取れるだろう。
しかし、英光は眼前の光景を見て、一瞬だけ言葉を失った。
それは、渾身の一撃だったにもかかわらず、なんてことは無い様子で立ち上がった一匹の『影』のせいではなかった。
眼前の光景、二匹目の『影』が視界に入った時だ。
其れは、吹き飛んだもう一匹を守るように、こちらを睨んでいるようである。その向こうで、影がうごめいているようだった。
「二匹、め………?」
『影』は、けたけたと笑っている。その笑いに、英光の深層心理がひたすらに危険信号を送りつけてくるが、身体が動くことはない。
視界の中で、『影』が、大きく腕を振り上げる。慌てて我に戻った英光が、左腕を上げようとして、肩の痛みに動きを止めた時。
鋭い金属音と共に。
「しゃがむッ!」
そんな声と同時に後ろで何か重いものが倒れる音が響き、英光は、体が竦んだ。
そして、彼は見た。
突然の声に反応したのではなく、脚が限界で折れたその瞬間、きらめいた其れ。
鷹よりも鋭い眼光に、亜麻色の髪の毛。そしていきなり現れた、その人物よりも二周りも大きな、紅い武士鎧の肩当てと手甲、そして彼女の身長よりも大きい、日本刀。
それが振るわれ、建物ごと『影』が一刀両断された。
そして、視たのだ。
『影』の横を転がり出た彼女の身体に浮かぶ、武士鎧の肩当てと巨大な手甲、そしてその手が握り締める大刀。
現実離れした、その風景の中心に立っているのは、『人殺し』と言われた―――
琥河 麻衣、その人であった。