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"奴が追ってくる"
記された文字はひどく乱雑で、手で擦れて墨が滲んでいた。必死の形相で青年は文字を綴っていた。誰か1人だけも多く、このことを知ってくれる日が来るように。この恐怖が伝わるように。そして――被害が少なくなるように。焦りで働かない頭を必死に動かし、一文字でも多く書き記そうと足掻いていた。
"獣のように素早く、何処に隠れても必ず私を追い詰めるのだ。周りの連中はそれを知らない、奴がどれほど邪悪で、凶暴な生き物"
「あらまぁ」
囁かれた声が青年の思考を全て凍らせた。視線を動かすことすらも儘ならない。なぜならば、いるからだ。其処に、奴が、追いついて
「こんなところにいたのですね。さあ、観念して目玉を寄越しなさい」
絡みつくような声音が脳髄に響き渡る。この毒々しさがなぜ周りの連中にはわからない、こんなにも邪悪さを醸し出しているというのに!
ああ、逃げなければ。
逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ!!
ふと目に入った視線の先にある、ずらりと並んだ液体の入った瓶のひとつに手を伸ばす。よくよく見れば瓶の中身は液体だけでなく、標本のような、身体の一部のようななにかが入っていて、ひどく薄気味が悪い。その中のめだまのようなものと目が合ったような気がして、ぞくりと背筋が粟立った。
「愚かですね。本当に逃げられるとでも」
咄嗟に手に持っていた瓶を投げつける。がしゃりと床で瓶が割れた音がした。躱す際に後方に下がったのか、奴との距離が開いている。
これは絶好の機会だと、手当り次第に瓶を投げつける。見た目の不気味さなど些細な問題だ。ひとまず、この場を乗り切らなければいけない。例え奴に瓶を当てられなくとも、床に散らばった硝子の欠片は十分に奴の歩みの邪魔をしてくれるはずだ。
予想外の獲物の反撃に奴が面食らっている隙に、このまま距離を開けてこの建物から脱出を、
一瞬の静寂。そして―――爆音。
「えっ」「ちょっ」
待てと言ったところで進む時間は巻戻ることも止まることもしない。壁か床か、なにかしらの固いものに身体が強く叩きつけられると共に、青年の意識は白く染まった。
*****
目を開き、辺りを見回す。見事に吹っ飛んだ、建物と大量の資料や検体、そして器具や家具。確実に使い物にならなくなったそれらを見て、青年は天を仰いだ。
「まじか」
「ほらみなさい弟よ、お姉ちゃんに大人しく目玉を寄越さないからこんなことに」
「んなわけないだろ!?つかいやだよ?!無くなったら普通に前見えないだろ?!」
やばいどうしようどうしようとぶつぶつ呟く青年の顔色は冴えない。当然だ、なにせここは目の前の女――青年の姉から逃げるべく、無断で侵入していた余所様のお宅なのだから。
「全く仕方ないですね」
やれやれと言うように女は肩を竦める。何か妙案があるのかと、縋るような目で彼女を見る青年に対し、貼りつけた笑顔を浮かべ、そこはかとなく不自然に(誤字ではない)身体をくねらせつつ女は言った。
「目玉ちょうだい♥お姉ちゃんからのお・ね・が・い?」
「気持ち悪い!」
その反応は完全に条件反射であった。一瞬で女の表情が真顔になった。次の瞬間、青年の身体は強く床へと叩きつけられていた。爆風や重力なんて目じゃないほどの圧力が、目の前の女の腕からぎりぎりぎりぎりと絶え間なく加えられている。青年の悲鳴が響く中、まったく動じた様子もなく、凄味のある笑みで彼女は言い放った。
「よろしいならば戦争だ」
「意図も容易く行われる非情な所業!痛い痛い床に破片とか色々散らばってるの見えてるよねやめて!!?」
その必死さが溢れる言葉には見向きもせず、女は迷わず青年の眼窩へと手を伸ばす。
「男なんですから目玉の一つや二つけちけちしないでください男なんですから」
「ひどい男女差別を見た!あと大いに気にするよね!?世間一般的に気にするよね!!?」
「問答無用♥」
「ちょ、ま、アッ―――――!!」
ずぶり、と指が沈み込み、大した抵抗もなく嵌っていた目玉がつるんと抜けた。涙なのか血漿なのかよくわからない透明な液体が絡み、滑りのよいそれを躊躇うことなく女は己の空いている右の眼窩へと嵌め込む。
女には、左目しかなかった。もう片方の眼窩は空っぽだったのだ。
同様に、青年には右目しかなかった。そのたったひとつの目玉はたった今、目の前の女に奪われてしまったが。
広がった視界。溢れる力。ふう、と満足げに女は溜息を漏らした。対照的に青年は動く気力もないと言わんばかりに項垂れ床に伏せたままだ。
「地上に舞い降りし天使あかりん、完・全・体♥」
「うわーこれ間違いなくドヤ顔で決めポーズしてるわー。見えなくてもわかるわー」
「お黙りなさい愚弟。……まぁ、心配しなくてもたまになら貸してあげますよ」
「だからその目玉おれのだから」
周囲が見えず身動きがとれない青年のなにもない眼窩に、女は迷いなく「えいっ」と指を突っ込んだ。
「痛ぇえ!?目つぶし!!?眼の奥に?!」
「なぜこんなにもムダな口数が減らないのか…灯、困惑です」
「おれの方が謂れのない暴力の連続に困惑してるからね???」
「………が、」
聞き覚えのない声がして、青年はびくりと反応した。しかし真っ暗な視界ではなんとなく聞こえてきた方向は掴めても、それまでだ。嫌な汗がだらだら流れてくる。一方で女は堂々とした態度で現れた人影に顔を向けた。その態度からは佇まいだけで傍若無人さが伝わってくるような錯覚すら覚える。
現れた人影は、長身の男だった。貧弱というわけではないが、鍛えてはいない細身の身体つき。長い艶やかな黒髪が風で揺れて、そこだけ見れば絵になりそうななかなかの美丈夫だったが、今にも崩れ落ちそうなほどに呆然と、そして絶望に満ち満ちた表情では、ただただ滑稽さだけが際立っている。
「は、はは…わた、私の研究室が………20年以上かけて集めた素体が、資料が、文献が……」
男の言葉を拾って、思わず青年は「げ」と声を漏らした。どう考えても、今さっきうっかりばっちり爆破してしまった部屋の持ち主だろう。しかも現在自分は目玉を奪われていて相手の様子がわからない。何もできない現状では、ただ姉がどうにかしてくれるんじゃないかと僅かな希望に縋ることしかできない。男としては、ひどく情けないことだが。
そして女は淡々と、そんな僅かな希望を容赦なく木端微塵にした。
「あ、灯関係ありませんから。全部ここにいる弟に全責任が」
「アンタが追いかけて来なきゃ、んなことにはなんなかっただろクソ姉貴!!!!!」
「お黙り愚弟」
「うぐふ」
鳩尾に体重をかけた蹴りを放たれ青年は思った。このままでは男と対峙する前に自分の姉に止めを刺されると。
男は、ただ茫然と目の前の惨状を見ながら、うわごとを呟いている。客観的にこの状況を見ることができるものがいるのなら、こう言ったことだろう。
「え、なにこの混沌状態」
「む、新手!」
「新手!!?」
現れたのは女だった。年の頃は男と同じくらいだろうか。ぐちゃぐちゃになった研究室をみて顔を歪め、青年とその姉をみて困った顔をし、男の耳元で何事か囁く。ようやく青年たちの存在をまともに認識できるようになった男は、ふたりを見て、その姉を見て、驚いたように目を瞠った。
「………お前、"鬼"か?」
「ええ、まあ。あかりん完全体です。というか、貴方たちは鬼に成らないのですか?灯、理解できません」
不思議そうに、青年の姉――自身のことを灯と呼ぶ女は首を傾げた。心底理解ができないという心情を、器用に目だけで物語っている。
黒髪の男は左目に、深い森のような濃緑の瞳を持っていた。
茶髪の女も右目にも、全く同じ色合いの濃緑の瞳がある。
そして男は右の眼窩が、女は左の眼窩が、ぽっかりと穴をあけている。
「ふたりとも同じ目玉。灯と暗と一緒です」
灯の眼窩には、全く同じ色合いの似紫の瞳を持つ目玉がある。弟から取り上げた目玉のはずなのに、まるでもともと1人分の目玉だったかのように、そっくり同じ目玉が。
弟よりも赤味を帯びた紫色の髪を掻き上げながら、灯は告げる。
「つまり、貴方達はつがいということです。なのにどちらも鬼じゃない。理解不能です」
「……なるほど。ゆっくり話をするとしようか。ここでは落ち着かんだろう、着いてこい」
言いながら踵を返した男に、灯は即答した。
「灯、頭がいいので知らない人には着いて行かないことにしてるんです」
「お前人の研究室跡形もなくぐちゃぐちゃにしといてよくそんなことが言えるな…」
怒りを通り越し、呆れた様子で男はぼやくが、灯は全く動じない。
「あれは愚弟の責任であって灯に一切責任ありませんので」
「い、いっそ清々しいレベルやんなぁ…。連帯責任、とか」
「灯の辞書にそんな言葉はありません」
茶髪の女も流石に閉口したようだった。苦笑しながら男の様子を覗う。男は深い深いため息をついた。
「ていうかそもそも諸悪の根源アンタだからなクソ姉貴!?」
「あ、この愚弟は御自由にどうぞ」
「さらっとおれのこと見捨てた!?」
「いや、2人とも来い。……お茶と茶菓子を出してやる」
「そういうことは一番最初に言ってくださいさあ行きますよ愚弟目指すはこの男の家です!!」
「アッ、ダメだこの女」
先ほどまでとは打って変わって弟らしき青年を引き摺りながらずんずん進んで行く紫色の髪の女に、男はさらに深々と溜息をついた。「あんまり溜息ついとると、幸せが逃げるで?」と茶化すように、隣の茶髪の女に声をかけられ、男は渋面を作った。
「もうこれ以上ないほど逃げてるだろう。全く、散々だ。――穴埋めになる程度には、あの二人から手がかりが手に入るといいんだが」
「何をどうしてあんなことになったんやろうなあ。一応いくつか手段としては思いつきはするんやけど。………なあ、ところでアキト」
「なんだ五十鈴」
五十鈴と呼ばれた茶髪の女は、すっと遠くを指差して告げた。
「あの子らどんどん進んでいっとるけど、うち知っとったっけ?」
「……、………クソが!!!おいこら待てクソガキども!どこ行く気だお前ら!!」
響いた怒号にぴたりと灯の足が止まる。
「そういえば場所を聞いていませんでした。灯うっかり」
「そんな状態でおれ引き摺られてたの!?結構痛いんだけど!!!」
進みすぎた姉弟を追うために、男もまた足早に進んで行く。そんな男の様子を、茶髪の女は生暖かい目で見ながらその後を追った。
………男はなんというか、わりと、結構、なかなかに、足が遅かった。