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調子のいい奴

掲載日:2026/11/07


「明日香、今度の連休に駒に登らない?」

 美晴から電話があったのは四月の終わりだった。

 駒というのは道南の駒ヶ岳だ。噴火湾沿いに暮らす私たちには、毎日見慣れた山である。

 本当は連休に彼に会いに行きたかった。でも、最近は手紙の返事もなかなか来ない。

「いいよ。行こうかな」

 気分転換にはちょうどいいかもしれない。

 私は佐野明日香。道立高校の事務職員で、卒業後そのまま母校に勤めている。二年目の春に転勤してきた事務長と恋に落ちた。二十歳の誕生日だった。相手には妻がいた。

 海辺の車の中や出張先で、秘密の逢瀬を重ねた。だが彼は日高管内へ転勤になり、初めは続いていた往来も、少しずつ途絶えた。

 昭和五十四年の春。私は、あまり明るい毎日を送っていなかった。

「山岳会に新しい人が来たの。関西の人」

「何してる人?」

「開発局。港を造ってるんだって。ハンサムじゃないけど、話が面白いよ。あと声がいい」

「ふうん」

「行くならその人の車になるけど」

「うん、いいよ」

 五月三日。私は駅で待ち合わせた途端、行くと言ったことを後悔した。

 今日の運転手、氏家という男は、すっごく人相が悪かった。同い年とは思えない。目の下には隈まである。

「氏家です。すんません、今朝まで飲まされてたんで。安全運転で行きますけど、できれば何か話しててください。黙られるとちょっとつらい」

 確かに声はいい。関西弁の調子も面白い。だが山に登る前夜に朝まで飲むなよ。

「ひどいやろ。山行くいうのに、会長と先輩と三人で日本酒一升やで。『越乃寒梅』はうまかったけど、朝飯も食えへんかった」

 会長もひどい顔をしていた。なるほど、共犯か。

「サンドイッチ、食べます?」

「ええの? あんたの昼飯とちゃうん?」

「朝用です。食べるの好きだから多めに作ったんです」

「ほんま? ありがとう。ほな、お言葉に甘えて」

 運転中の氏家に、頼まれるたび横からサンドイッチとお茶を渡した。食べるにつれて、ひどかった顔色もだんだん人間らしくなってきた。

 速そうな車なのに運転は穏やかだった。無理な追い越しをせず、横断歩道に人がいればきちんと止まる。

「この道、詳しいんですね」

「前任が函館やったからね」

 工業高専を出て北海道開発局に入り、函館へ赴任したらしい。京都生まれの大阪育ちだが、父親が函館出身で、母親も利尻の生まれだという。

「北海道に憧れてたんです。おやじの故郷でもあるし」

 そう言って笑った顔は、最初に見たときよりずっとましだった。


「明日香ちゃん、今日うちの練習を見に来ない? あと飲み会もあるけど」

 昼休み、音楽の佐々木先生に誘われた。先生は町の吹奏楽団の指揮者で、家庭科の加賀尚美先生も団員だ。小中学生から社会人まで三十人ほどが集まる、町民の楽団である。

「邪魔じゃなければ、行きます」

「七時半ごろ町民会館においで」

 会館に着くと、入口の喫煙場所で佐々木先生が手を振った。その横から聞き覚えのある声がした。

「あれ、佐野さん?」

「氏家さん?」

 驚いた。サックスのケースを持っている。どう見ても音楽をやりそうな顔じゃないのに。

「俺が二人とも誘ったんだよ」

 背後から山岳会の会長が現れた。

「そっか、氏家君は山岳会にも入ったんだっけ。それで明日香ちゃんに目をつけた?」

「そりゃそうでしょう。こんだけかわいい子なんやから、チャンスがあれば」

「きゃあ、関西弁で口説いてる!」

 そばにいた中高生の女の子たちが騒ぐ。

 冗談じゃないぞ。私にはちゃんと彼がいるんだ。秘密だけど。

「最初の印象が最悪やったから、望み薄ですけどね」

 駒ヶ岳での出来事を話すと、みんなが笑った。

「帰りの車では佐野さん、ビール飲んでましたし。俺には興味なさそうで」

「あれは氏家さんが勧めたんでしょ!」

「そりゃ勧めるよ。登山中ずっと温泉とビールの話してたんやから」

 この馬鹿。みんなに飲んべえだと思われるじゃないか。まあ、もう知られているけど。

 氏家はサックスを吹いていた。上手かどうか私にはわからないが、佐々木先生の指揮に合わせて真面目に演奏している。

 練習が終わると、氏家は子供たちを車で送っていった。車を置いてから飲み会に来るらしい。あのいかつい顔なのに、子供たちには人気があるようだ。

「氏家さん、面白いでしょ」

 車に乗せてくれた尚美先生が言った。

「先生、好みなんですか?」

「それはないかな。でも一緒にいると明るくなる人よね」

 確かにそうかもしれない。

 結局、飲み会は三次会まで続いた。気がつけば私は氏家の隣で笑っていた。何を話したかほとんど覚えていない。大した話じゃなかったのだろう。でも飽きなかった。時間が過ぎるのが早かった。

「じゃ、佐野さんは俺が送っていきます」

「いいですよ、すぐ近くですから」

「あほな。こんなきれいな女の子を夜中に一人で帰せるかいな」

「明日香ちゃん、送ってもらいな。襲われたら責任取らせればいいから」

 みんな面白がっている。田舎の町では誰かと誰かがくっつく話が大好物なのだ。

 歩いている間も、氏家は馬鹿話で笑わせてくれた。

「明日、暇ですか? デートしませんか。俺の造ってる港、見に行きません?」

「港?」

「隣町で防波堤の設計してるんです」

 彼に会いに行けるわけでもないし、家にいても退職したばかりの父に小言を言われるだけだ。

「……いいですよ」

「ほな、十時に迎えに行きます」

 にこっと笑って、氏家は帰っていった。

 家に戻り、二階で煙草に火をつけた。前の彼と付き合い始めて覚えた煙草だ。

 今日は彼のことをほとんど考えなかった。どうしたんだろう。飲み過ぎたのかな。

 いつもつけている日記も面倒になった。とっとと寝よう。明日、寝不足の顔を氏家に見せたくなかった。


「今日ちょっと出かけるね。晩ご飯はいらない」

「昨日も遅かったな。何してたんだ」

「学校の先生たちと飲み会」

「嫁入り前なんだから、ほどほどにしなさいよ」

「はいはい」

 母の言葉に胸がちくりとした。不倫していると知ったら、何と言うだろう。

 約束の五分前にチャイムが鳴った。母が先に玄関を開けてしまう。

「おはようございます。明日香さんとお付き合いさせてもらうかもしれない、今は単なる友達の氏家といいます。開発局に勤めています」

「あ、はい。それはどうも」

 待って、何を言い出すんだ、こいつは。

「遅くなるかもしれませんけど、ちゃんと送り届けますので」

「よろしくお願いしますね」

 慌てて車に乗り込んだ。

「氏家さん、私、付き合うなんて言いました?」

「言うてへんよ。だから付き合ってるとは言わへんかったやろ」

「そういう問題じゃなくて!」

「そのうち『明日香さんを僕にください』って挨拶に行くかもしれんし」

「はあ? どうしてそうなるの」

「可能性、可能性。俺のこと嫌いやないやろ?」

 どこから来るんだ、この自信は。

「カセット、何がええ? 中島みゆき、かぐや姫、石野真子」

「どういう取り合わせですか、それ」

「石野真子、かわいいやん。明日香ちゃんと一緒で」

 よくそんなことを照れずに言えるものだ。関西人はみんなこうなのか、それともこいつだけか。

 流れ出したのは中島みゆきの『リバイバル』だった。

「中島みゆきは大好きだけど、デートでこれ聴く?」

 思わず突っ込んでしまった。

「え、あかん? じゃ石野真子にする?」

「いいです、このままで。私、みゆきのLP全部持ってるんです」

「へえ、俺よりずっとファンやね」

 音楽の話をしているうちに、私は自分がすっかりデートの会話をしていることに気づいた。

「今日は港に行くんですよね?」

「ケーソン積んでるところ見て面白い?」

「ケーソン?」

「防波堤のコンクリートの大きな箱みたいなもん」

「……つまらなそう」

「ほな、鹿部の間欠泉と大沼公園は?」

「行きたい。地元なのに行ったことないんです」

「そんなもんやね。俺も大阪城行ったことないし」

「大阪城、行ってみたいな」

「いつでもお連れしますよ」

「考えときます」

「つまり振られてへんわけや。一歩前進」

 この男は、自分に都合のいいことしか考えないのだろうか。

 鹿部の間欠泉は、大きな桶のようなものがかぶせられ、道端に小さな看板が立っているだけだった。拍子抜けしたが、大沼公園は楽しかった。

 木々の間を歩きながら、氏家は昔の家族の話をした。函館で米屋を営んだ親戚がいて、近くに別荘まであったという。

「お金持ちだったんですか?」

「昔の話。今は落ちぶれてすまん」

 父親は京都で大学の教員をしていたが、氏家が物心ついたころには辞めていた。両親とも、もう亡くなっている。

「ごめんなさい、つらいこと聞いて」

「別に。兄姉も多いし、貧乏で困ったのは大学を諦めたことぐらいかな」

 あっさり言う。あの明るさの奥に、そんな暮らしがあったとは思わなかった。

 帰りに名物の駅弁を買い、「明日香ちゃんの家へのお土産」と渡してきた。親を味方につけるつもりらしい。抜け目のない奴だ。

 函館まで足を延ばし、港の見えるレストランで夕食をとった。

「そろそろ帰ろうか。八時には着く」

「あれ、もう?」

「夜景は今度。初めてのデートから遅く帰したら印象悪いやろ」

「いろいろ考えてるんですね」

「それより、氏家さんって呼ぶのやめへん? 巧って名前で呼んでくれたら嬉しい」

「じゃあ、明日香ちゃんもやめて。明日香でいいから」

「嬉しいなあ。恋人同士みたいや」

 何となく、悪い気はしなかった。

 家の前で車が止まった。

「次のデートも楽しみにしてる」

 そう言うと巧はいきなり顔を寄せて、唇を重ねてきた。

 突き飛ばすこともできたはずだ。なのに私は、キスを返してしまった。

「おやすみ、明日香」

 車が走り去っても、しばらく玄関に入れなかった。

 今日は日記を書かなくちゃ。指先でそっと唇に触れた。


 それから巧とは、喫茶店で待ち合わせ、食事をしたり飲みに行ったりするようになった。

 人口一万人ほどの町で、待ち合わせる喫茶店は中学時代の同級生の店、飲みに行く居酒屋は高校の後輩の店。噂が広まらないわけがない。札幌の友達からまで「どんな人と付き合ってるの」と電話が来た。

 付き合ってる、か。否定するのも、何となく違う気がした。

 そんなある日、職場の電話が鳴った。

「明日香か」

 その一言で心臓が跳ねた。前の事務長だった。

「今日、十九時に家に電話する」

「はい、わかりました」

 電話は切れた。半年以上もほったらかしにしていたくせに。

 その日は仕事が手につかなかった。別れ話だろうか。それとも。考えるたび、昔の優しかった彼の顔が浮かぶ。

 十九時ちょうどに家の電話が鳴った。

「久しぶり。どうしてた」

「普通に、一人で寂しく」

「明日、苫小牧で会おう。プリンスに部屋を取ってある」

「わかりました」

 それだけだった。事務連絡みたいな会話。もう少し声を聞かせてほしかった。

 でも、会える。ずっと会いたかった彼に会える。それだけで頭がいっぱいになった。

「明日から札幌に行ってくる。亜紀ちゃんたちと遊ぶ約束なの」

 母にはさらりと嘘をついた。嘘は短いほうがいい。

 苫小牧駅で彼は待っていた。ホテルの部屋に入ると、すぐ抱き寄せられた。

 おしゃれをしてきたのに、何も言ってくれない。久しぶりなのに、ゆっくり話すこともない。

 昔はこんな人だっただろうか。

 夕食をとって少し飲み、部屋に戻った。彼は満足したように眠ってしまった。髪を撫でてくれることもなかった。

 窓の向こうには苫小牧の港が見えた。石油タンクの明かりが、妙に冷たかった。

 翌朝も彼はそっけなかった。それでも一緒にいられるだけでいい。そう思おうとした。

 朝食に向かうエレベーターで、そっと彼の腕に手を絡めた。昔のように寄り添ってみたかった。

 途中の階で扉が開いた。

 そこに、巧が立っていた。

 目が合った。巧は私を見て、それから私の腕が絡んだ男を見た。

 ほんの一瞬、表情が曇った。

「どうぞ」

 巧は乗らず、扉が閉まった。

 そうだ。家族が来るから苫小牧へ行くと、巧は言っていた。私はすっかり忘れていた。

 どうしよう。

 昨日まで会いたくてたまらなかった男が隣にいるのに、もう何も考えられなかった。

 あの曇った顔ばかりが、目の前に浮かんでいた。


「明日香、どうしたの? 二人とも急に来なくなったから」

 一週間後、いつもの喫茶店に入ると、同級生の茜が心配そうに声をかけた。

「巧も来てないの?」

「うん。うちの店に飽きちゃったのかと思った」

「ごめん。そうじゃないの」

 ナポリタンとコーヒーを頼み、煙草を二本吸った。窓の外を見ていたけれど、巧は現れなかった。

 電話をかけようと何度も思った。でも最後のダイヤルを回せない。吹奏楽の練習に行けば会える。だけどみんなの前で拒まれるのが怖かった。

「明日香ちゃん、何があったの」

 金曜の昼休み、尚美先生に呼び出された。

「何もないですよ」

「あなたも氏家さんも変。振ったの、それとも振られたの?」

 その言葉に、涙があふれた。

「巧は私に振られたと思ってるはず。でも、本当は私が振られるんです」

「前の事務長のこと、ばれた?」

「……知ってたんですか」

「私だけじゃないわ。気づいてた人は多いと思う。事務長は隠す気がなさそうだったもの」

 唇を噛んだ。秘密にしているつもりだったのは、私だけだったのか。

「だから氏家さんとのこと、応援してたのに」

 私は苫小牧での出来事を話した。

「もう駄目だと思います。怖くて会えない」

「ちゃんと振られたの?」

 首を横に振る。

「なら、今夜おいで。練習が終わるまで待ってなさい」

「みんなの前で振られたら?」

「そのときは諦めればいい。でも、まだ見込みはあると思う」

「どうして?」

「氏家さん、いつもどおり明るく騒いでるけど、見ていてぼろぼろよ」

 それが私のせいなら。そう思うと、ますます苦しくなった。

 家に帰って風呂に入り、尚美先生と飲むから遅くなると母に告げた。

 だめなら諦める。全部、自分が悪い。

 九時少し前、町民会館に着いた。扉の向こうから練習終了の挨拶が聞こえる。心臓が破裂しそうだった。

 巧が出てきた。私に気づき、視線をそらして歩く方向を変えた。

「氏家さん! 話を聞いて。今日だけでいいから!」

 思わず叫んだ。

「はいはい、お子様は帰る帰る。ここからは大人の時間!」

 女性団員が中高生を追い立て、尚美先生が巧の車で帰るはずの子供たちを引き受けた。

「飲み会はいつもの店。さあ行こう」

 団長の一声で、潮が引くように人がいなくなった。

「ここじゃなんだから、車に乗って」

 久しぶりに聞く巧の声は、知らない人のように冷たかった。

 車の中で、巧は前を向いたまま言った。

「それで、何の用?」

「謝りたかったの」

「何を? 俺たちは婚約も結婚もしてへん。君が誰とどこで何をしようと、俺には関係ない」

 鋭い言葉だった。あの優しい声を、こんな声に変えてしまったのは私だ。

「ごめんなさい」

「だから謝らんでええ。話は終わり。降りて」

「もう、駄目なの? 本当に終わりなの?」

「終わりも何も、始まってへんやろ。俺が勝手に熱上げてただけや」

「そんなことない!」

「そうやね。君は笑って、ほかの男と会ってたんやから」

「やめて。笑ってなんかいない」

「もうええよ。降りて」

 降りたら二度と会えない気がした。私は動けなかった。

「この一週間、寂しかった。後悔したの。だから、お願い……」

 巧は無言でエンジンをかけた。車が急発進した。いつもは穏やかな運転なのに、速度がどんどん上がる。

「巧、怖い! やめて!」

 返事はなかった。国道に出て、車は海のほうへ向かった。

 ようやく速度が落ち、海岸近くの空き地に止まった。

 見覚えがあった。前の彼と車で会っていた海岸だ。

「ここは嫌……」

「なんで? ここで何かあったん?」

 私は答えられなかった。

「なんとなくわかった。ここらにホテルはないし、車なら誰にも見られへん」

「……うん」

 巧は車を降り、暗い海に向かって叫んだ。

「バカヤロー!」

 その声に体がすくんだ。巧はしばらく海を見ていた。

 やがて戻ってきた彼の声は、少しだけいつもの声に近かった。

「みんなのところへ飲みに行こうか」

「え?」

「飲まな、まともに話できそうにないわ」

 帰りの運転は、いつもどおり穏やかだった。

 巧のアパートに車を置き、二人で居酒屋へ歩いた。突然、肩を抱かれた。

 人に見られたら恥ずかしい。でも、その腕が温かかった。

 前の彼とは、こんなふうに並んで歩いたことがなかった。ホテルの外で、手をつないだことさえなかった。

 私はそっと巧に寄り添った。


「おお、お二人さん。待ってたよ!」

 居酒屋に入ると、みんなが一斉に声をかけた。

「何があったかは聞かん。二人で来たんだから、とりあえず乾杯だ」

 団長がジョッキを渡してくれた。

「皆さん、ご心配おかけしました」

「本当だよ。氏家君、ひどい顔してたんだから」

 佐々木先生が言う。恥ずかしくて顔が熱くなった。

「すんません。お詫びに余興をひとつ」

 巧はビールを飲み干し、立ち上がった。

「はい、皆さん注目!」

 店が静かになった。

「私、氏家巧は、この場で佐野明日香にプロポーズします!」

「ええっ!」

 声を上げたのは私だったかもしれない。

「明日香、結婚しよ」

 おお、と歓声が上がる。尚美先生が私の背を押した。

 何を言ってるんだ、こいつは。さっきまであんなに怒っていたのに。私にはそんな資格があるんだろうか。

「こんな私で、いいんですか」

「明日香がええんや」

「……それなら、お受けします」

 涙があふれた。

「婚約のキス!」

 誰かが囃し立てた。巧が私を抱き寄せ、唇を重ねた。周りの歓声も聞こえなくなった。

 私はその背中に、ぎゅっと腕を回した。


 翌朝、玄関のチャイムで目が覚めた。

「おはようございます!」

 巧のよく通る声だ。時計を見ると十一時。慌てて飛び起きた。

「明日香、氏家さんよ。起きてらっしゃい!」

「今日は明日香さんより、ご両親にお話がありまして」

 嫌な予感がした。この男、また何を言い出す気だ。

 急いで着替えて居間へ下りると、巧は父の前にきちんと座っていた。

「お父さん、お母さんに。灘のお酒と大福です」

 どういう取り合わせだ。

「明日香、俺の横に座って」

 巧は正座し、両親に向かって頭を下げた。

「私の両親はもう亡くなっています。こんな形で失礼します。単刀直入に申し上げます。明日香さんを私にください。安月給の公務員ですから、楽をさせられるかわかりません。でも幸せにすることは誓います」

 私は息を呑んだ。

「お父さん、お母さん。私も巧さんと結婚したい」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。涙が止まらない。

「まったく、近頃の若いもんは常識を知らん」

 父は苦虫を噛み潰した顔をした。

「娘にそこまで泣かれたら、反対もできんだろう」

「ありがとうございます!」

「氏家さん、こんな娘ですけどよろしくお願いしますね」

 母も頭を下げた。

「よし、夜は飲むか」

「いいですね。じゃあ車を置いてきます。明日香、婚約指輪見に行こう」

 何から何まで、巧のペースだ。

 車に乗るなり、私は言った。

「びっくりした。巧ったら、やること無茶苦茶!」

「なんでや。延ばしてたら、またほかの男に取られるかもしれんやろ。親を味方につけたら、もう逃げられへん」

「家出するかもよ」

「ほな、今日から一緒に暮らす?」

「本気?」

「まさか。そこまで非常識やないよ」

 そこで巧は、いつもの調子のいい笑顔を見せた。

「それに明日香は絶対逃げへん。俺にべた惚れなんやから」

「しょってる!」

 でも、そのとおりだった。

 この人が大好きだ。心からそう思った。

 幸せにしてもらうだけじゃない。私も、この人を幸せにするんだ。

 私はシフトレバーを握る巧の手に、そっと自分の手を重ねた。


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