「妹に婚約者を譲りなさい」と父が言うので、妹には私の大切なものを一つ差し上げました
「お姉様。そのお菓子、食べないの?」
十歳の誕生日だった。
目の前には、苺のタルトが置かれていた。
大きな苺が一つ。
私は苺が好きだった。
だから、一番最後に食べようと思って残していた。
「食べるわ」
「でも、ずっと残してるじゃない」
向かいに座った妹のリベルタが、私の皿を見つめる。
「私、その苺が欲しいな」
「リベルタ。あなたの分はもう食べたでしょう?」
母がたしなめる。
「でも、お姉様の苺のほうが大きかったもの」
「そんなことは――」
「お母様」
私は母を止めた。
それから、自分の皿をリベルタの前へ押し出す。
「……どうぞ」
「本当!?」
リベルタの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう、お姉様!」
リベルタは苺をフォークで刺すと、真っ先に口へ運んだ。
「やっぱりセレストは優しいわね」
母が笑う。
「お姉様、大好き!」
リベルタも笑う。
だから私も笑った。
空になった皿を見ながら。
苺は食べられなかったけれど。
母も妹も、喜んでくれた。
それなら、これでよかったのだと思った。
◇
十二歳の誕生日。
「どちらがいい?」
母が二着のドレスを見せてくれた。
一着は、空のような青。
もう一着は、淡い黄色。
私は青いドレスを見た。
綺麗だと思った。
「お姉様! 私、青いほうが欲しい!」
隣にいたリベルタが声を上げた。
「リベルタ。今日はセレストの誕生日のドレスを選んでいるのよ」
「……そう」
リベルタが俯いた。
私はもう一度、青いドレスを見る。
「私は、黄色で構いません」
「まあ、いいの?」
「はい」
「お姉様、ありがとう!」
リベルタが青いドレスを抱きしめる。
母は私を見て笑った。
「セレストは本当に欲がないのね」
嬉しかった。
母が褒めてくれたから。
リベルタが笑ってくれたから。
私が何かを欲しがらなければ、みんなが喜んでくれる。
だから、それから私は、何かを選ぶたびに同じ言葉を使った。
「どちらでも構いません」
そう言えば、誰も困らなかった。
誰も悲しまなかった。
私は、優しい子でいられた。
いつしか、その言葉は私の宝物になっていた。
◇
十八歳になった春。
「セレスト。話がある」
夕食後、父に呼ばれた。
応接室には、母とリベルタもいた。
「座りなさい」
「はい」
父の向かいに腰を下ろす。
リベルタは母の隣で、俯いていた。
「実はな」
父が咳払いをする。
「リベルタが、サミエル殿を好きになったそうだ」
私は妹を見る。
リベルタは顔を上げなかった。
「それで、だ」
父が続ける。
「お前とサミエル殿との婚約を解消して、リベルタと婚約してもらえないかと思っている」
「……え?」
「もちろん、お前には別の縁談を探す」
母が私の手に自分の手を重ねた。
「セレストなら分かってくれるわよね?」
「お姉様……」
リベルタがようやく顔を上げた。
「私、サミエル様が好きなの」
その顔を見て。
私は、いつもの言葉を口にしようとした。
「私は、どちらでも――」
言葉が止まった。
どちらでも?
何と、何が?
「セレスト?」
母が首を傾げる。
「……少し、考えさせてください」
「何を考える必要がある?」
父が眉をひそめた。
「姉なのだから、妹の幸せを願うのは当然だろう」
「あなたは昔から優しい子だったものね」
母も笑う。
「ありがとう、お姉様」
リベルタまで笑った。
まだ何も答えていないのに。
その夜。
私は机の引き出しを開けた。
一冊の本を取り出す。
挟んでいた栞を、そっと抜いた。
青い花を押し花にした栞。
十五歳のとき、サミエル様からいただいたものだ。
『セレストは、青が好きだろう?』
『どうしてですか?』
『庭を歩くと、いつも青い花を見ているから』
私は栞を指でなぞった。
青いドレスを妹に譲ったことは、サミエル様には話していない。
それなのに、私の好きな色を知っていた。
「…………嫌」
声にしてみた。
ひどく小さな声だった。
「嫌……です」
もう一度。
「……嫌です」
胸が苦しかった。
誰かに嫌だと言うのは、こんなに怖いことだったのか。
母が悲しむかもしれない。
父が怒るかもしれない。
リベルタが泣くかもしれない。
それでも。
何度か繰り返してから、私は眠った。
◇
翌朝。
「では、サミエル殿にはこちらから話を――」
「お父様」
父の言葉を遮った。
三人が私を見る。
心臓が痛いほど鳴っていた。
「申し訳――」
そこまで言って、止めた。
私は、何を謝ろうとしているのだろう。
「私は」
息を吸う。
「譲りたく、ありません」
「……何?」
「嫌です」
父を見る。
「サミエル様を、リベルタに譲るのは嫌です」
父の手が机を叩いた。
「セレスト!」
肩が跳ねた。
「あなたらしくないわ」
母が困ったように言う。
「あなたは昔から、何も欲しがらない子だったでしょう?」
「お姉様は、私が悲しくても平気なの?」
リベルタの目に涙が浮かんだ。
「平気じゃないわ」
「だったら――」
「でも」
私はリベルタを見る。
「私も、悲しいの」
リベルタが黙った。
「私もサミエル様が好きなの」
声は震えていた。
「だから……譲りたくない」
謝らなかった。
父はしばらく私を睨んでいた。
母は困ったようにため息をついた。
リベルタは泣いていた。
誰も笑っていなかった。
それでも。
私は、謝らなかった。
◇
その日の午後。
私はサミエル様を訪ねた。
「実は……」
「うん」
「父から……」
そこから先が出てこない。
サミエル様は何も言わなかった。
ただ待っていた。
「父が、私との婚約を解消して、リベルタと婚約してほしいと……」
「そうか」
「サミエル様は、どうなさりたいですか?」
「その前に」
サミエル様が私を見る。
「セレストは?」
「え?」
「君は、どうしたい?」
答えようとして。
いつもの言葉が喉まで出かかった。
――どちらでも構いません。
私は唇を結ぶ。
「私の希望は、気にしないでください」
「気にするよ。君との婚約だから」
それだけ言って、また黙った。
私はカップを置いた。
手が震えて、受け皿に当たる。
「私は……あなたの婚約者で……いたいです」
サミエル様は、黙って私を見ている。
まるで、まだ続きがあることを知っているかのように。
私は一度、息を吸った。
「……これからも、あなたと一緒にいたいです」
「うん」
サミエル様は笑った。
「私も、セレストと一緒にいたい」
雷も落ちなかった。
誰も怒らなかった。
世界は、何も壊れなかった。
◇
その日のうちに、サミエル様は父へ書状を送った。
自分の婚約者はセレストであり、婚約者を変更するつもりはない、と。
翌日、父から返事が届いた。
そこに婚約についての言葉はなかった。
ただ、すぐに家へ戻れと書かれていた。
「帰る?」
サミエル様が尋ねた。
「それとも、ここにいる?」
私は少しだけ迷った。
「……ここに、いたいです」
「分かった」
それだけだった。
サミエル様のお母様が客室を整えて、「好きなだけいてちょうだい」と迎えてくださった。
私はしばらく、サミエル様の家に滞在することになった。
◇
翌朝。
「卵料理とパンケーキ、どちらになさいますか?」
使用人に尋ねられた。
「どちらでも構いません」
「かしこまりました。では、卵料理を」
「あ……」
呼び止める。
使用人が振り返った。
「何でしょう?」
「……やっぱり、何でもありません」
使用人が去ろうとする。
「待って」
サミエル様が呼び止めた。
それから私を見る。
「セレスト」
「はい」
「パンケーキを見ていたけど」
「…………」
サミエル様は、それ以上何も言わなかった。
「パンケーキが、食べたいです」
「かしこまりました」
しばらくして、焼きたてのパンケーキが運ばれてきた。
一口食べる。
「……おいしい」
「よかった」
サミエル様が笑った。
私はもう一口食べた。
甘くて、温かかった。
自分で選んだ朝食だった。
◇
数日後。
仕立屋で、二着のドレスを見せられた。
「こちらの白と、こちらの青はいかがでしょう?」
青。
私はそのドレスを見た。
「私はどちらでも――」
言いかけて。
止める。
「……青がいいです」
「では、ご試着を」
青いドレスに袖を通した。
鏡の前に立つ。
最初に見たのは、自分ではなくサミエル様だった。
「似合っていますか?」
「似合っていると思う」
サミエル様が言う。
「でも、私が着るわけじゃない」
そして鏡の中の私を見る。
「セレストは?」
私は青いドレスを見る。
「好きです」
口にすると、不思議なくらい胸が軽くなった。
「私……青が好きです」
「知ってる」
サミエル様が笑った。
鏡の中の青を、もう一度見る。
今度は誰にも譲らなかった。
◇
一か月ほど経った頃。
父と母とリベルタが、サミエル様の家を訪ねてきた。
応接室にはサミエル様も同席していた。
「サミエル殿の父上から、正式に婚約変更を断る書状が届いた」
父が言った。
「婚約については、もうお前の好きにすればいい」
母が私を見る。
「セレスト。帰ってきて」
その声は、以前よりずっと弱かった。
「また四人で暮らしましょう?」
「お姉様」
リベルタが俯く。
「ごめんなさい。私……」
そこで、リベルタが私のドレスに気づいた。
「それ、素敵ね」
私の青いドレスを見る。
「私も着てみたい」
「リベルタ」
母がたしなめるように名前を呼んだ。
けれど、すぐに私を見る。
「姉妹なんだから、たまには貸してあげなさい」
私は自分のドレスを見下ろした。
「……嫌です」
母が目を瞬く。
「このドレスは、貸したくありません」
「セレスト?」
「私が選んだドレスです」
「また買えばいいじゃない」
「嫌です」
父の顔が険しくなる。
「そんな些細なことで家族を困らせるのか」
私は反射的に、サミエル様を見ようとした。
でも。
やめた。
「私にとっては、些細なことではありません」
「お前は変わったな」
吐き捨てるような声だった。
私は父を見る。
「はい。変わりたいんです」
父の眉が吊り上がった。
「セレスト、我儘が過ぎるぞ!」
「……我儘ではありません」
以前なら。
ここで、父が納得してくれる言葉を探しただろう。
母を悲しませない答えを考えただろう。
リベルタが怒らない方法を選んだだろう。
今は。
「家には帰りません」
私は自分の胸に手を当てた。
「これからは、自分が選びたいものを選びます」
声は少し震えていた。
でも。
もう誰の顔色も見なかった。
「サミエル様!」
リベルタが彼を見る。
「サミエル様からも何か言ってください!」
サミエル様は静かに答えた。
「セレストが決めたことだ。私は待っていただけだから」
「でも……私だって、サミエル様が好きなのに」
「リベルタ嬢」
サミエル様が彼女を見る。
「セレストが青を好きなことを、私は知っている」
そして、少しだけ間を置いた。
「でも、君が何色を好きなのかは知らない」
「私は……」
リベルタが口を開いた。
けれど、その先は出てこなかった。
リベルタの顔から、血の気が引いた。
「……ひどい」
小さな声だった。
「お姉様は、ずるいわ」
私は妹を見る。
「ずるい?」
「だって……今まで、何でも譲ってくれたじゃない」
リベルタの目から涙がこぼれた。
「苺だって、ドレスだって。お姉様は、いつも私にくれたじゃない!」
「ええ」
「なのに、どうして急に……」
私は少しだけ考えた。
十歳の誕生日。
苺を譲ったとき、母は優しいと褒めてくれた。
十二歳の誕生日。
青いドレスを譲ったとき、母は欲がないと褒めてくれた。
私は、その言葉が嬉しかった。
だから、ずっと大切にしてきた。
誰かが欲しいと言えば、譲る。
誰かに選んでと言われれば、選ばない。
そうすれば、みんなが笑ってくれた。
そうすれば、私は優しい姉でいられた。
「……そうね」
私はリベルタを見る。
「今まで、何でも譲ってきたわね」
「だったら――」
「だから、最後に一つだけ差し上げるわ」
リベルタが瞬きをした。
「……何を?」
私は、妹の顔をまっすぐ見た。
「『どちらでも構いません』という言葉よ」
「……え?」
「これからは、あなたが使ってちょうだい」
リベルタは口を開けたまま、私を見ていた。
「私はもう、使わないから」
手放してみると、少しも惜しくなかった。
「セレスト……」
母が何か言いかけた。
私は頭を下げた。
「今日は、お引き取りください」
父も、母も、何も言わなかった。
三人は帰っていった。
リベルタだけが最後に一度、私の青いドレスを見て。
何も言わずに、扉の向こうへ消えた。
◇
それからしばらくして。
姉の婚約者を妹にすげ替えようとした話は、いつの間にか社交界に広まっていた。
リベルタのもとに来ていたいくつかの縁談も、先方から取り下げられたらしい。
母から手紙が届いた。
『リベルタが部屋から出てこないの。最近は、何を聞いても「どちらでも構いません」と答えるばかりで……。あなたから話を聞いてあげて』
昔なら、すぐに馬車を頼んだだろう。
窓の外では、庭の青い花が風に揺れていた。
私はペンを取った。
『行きません』
それだけ書いて、封をした。
◇
半年後。
私とサミエル様の結婚式の日取りが決まった。
「式場の花ですが、白薔薇と赤薔薇、どちらになさいますか?」
「白薔薇がいいです」
答えると、隣のサミエル様が笑った。
「早くなったね」
「何がですか?」
「決めるの」
私は少し考えてから答えた。
「練習しましたから」
「そっか」
その日の帰り。
私たちは街を歩いていた。
「夕食は何が食べたい?」
「シチューが食べたいです」
「じゃあ、あの店にしよう」
「はい」
少し先に、小さな菓子店があった。
ショーケースに、苺のタルトが並んでいる。
足が止まった。
十歳のあの日、最後まで残しておいた苺。
「セレスト?」
サミエル様が振り返る。
何も聞かれていない。
黙っていても、誰も困らない。
「あの」
「うん?」
「先に、あのお店に寄りたいです」
「いいよ」
「苺のタルトが食べたいんです」
サミエル様が頷く。
「じゃあ二つ――」
「三つです」
「え? 二人なのに?」
「一つは、明日の私の分です」
サミエル様が吹き出した。
「笑うなんて……ひどいじゃないですか」
「ごめん。嬉しくて」
「もう」
私も笑った。
それから、店へ向かおうとするサミエル様の袖を引いた。
「サミエル様」
「うん?」
私は彼の手を見る。
少しだけ、胸が鳴った。
でも。
今度は、自分から言いたかった。
「手をつないで、歩きたいです」
サミエル様が手を差し出す。
「よろこんで」
私は、その手を握った。
温かな指が握り返してくれる。
店の扉を開けると、甘い香りがした。
私はショーケースの苺を見て、思わず笑った。
「苺のタルト、三つくださいっ!」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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