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「姉だから」シリーズ

「妹に婚約者を譲りなさい」と父が言うので、妹には私の大切なものを一つ差し上げました

掲載日:2026/10/10

「お姉様。そのお菓子、食べないの?」


 十歳の誕生日だった。


 目の前には、苺のタルトが置かれていた。


 大きな苺が一つ。


 私は苺が好きだった。


 だから、一番最後に食べようと思って残していた。


「食べるわ」


「でも、ずっと残してるじゃない」


 向かいに座った妹のリベルタが、私の皿を見つめる。


「私、その苺が欲しいな」


「リベルタ。あなたの分はもう食べたでしょう?」


 母がたしなめる。


「でも、お姉様の苺のほうが大きかったもの」


「そんなことは――」


「お母様」


 私は母を止めた。


 それから、自分の皿をリベルタの前へ押し出す。


「……どうぞ」


「本当!?」


 リベルタの顔がぱっと明るくなった。


「ありがとう、お姉様!」


 リベルタは苺をフォークで刺すと、真っ先に口へ運んだ。


「やっぱりセレストは優しいわね」


 母が笑う。


「お姉様、大好き!」


 リベルタも笑う。


 だから私も笑った。


 空になった皿を見ながら。


 苺は食べられなかったけれど。


 母も妹も、喜んでくれた。


 それなら、これでよかったのだと思った。


     ◇


 十二歳の誕生日。


「どちらがいい?」


 母が二着のドレスを見せてくれた。


 一着は、空のような青。


 もう一着は、淡い黄色。


 私は青いドレスを見た。


 綺麗だと思った。


「お姉様! 私、青いほうが欲しい!」


 隣にいたリベルタが声を上げた。


「リベルタ。今日はセレストの誕生日のドレスを選んでいるのよ」


「……そう」


 リベルタが俯いた。


 私はもう一度、青いドレスを見る。


「私は、黄色で構いません」


「まあ、いいの?」


「はい」


「お姉様、ありがとう!」


 リベルタが青いドレスを抱きしめる。


 母は私を見て笑った。


「セレストは本当に欲がないのね」


 嬉しかった。


 母が褒めてくれたから。


 リベルタが笑ってくれたから。


 私が何かを欲しがらなければ、みんなが喜んでくれる。


 だから、それから私は、何かを選ぶたびに同じ言葉を使った。


「どちらでも構いません」


 そう言えば、誰も困らなかった。


 誰も悲しまなかった。


 私は、優しい子でいられた。


 いつしか、その言葉は私の宝物になっていた。


     ◇


 十八歳になった春。


「セレスト。話がある」


 夕食後、父に呼ばれた。


 応接室には、母とリベルタもいた。


「座りなさい」


「はい」


 父の向かいに腰を下ろす。


 リベルタは母の隣で、俯いていた。


「実はな」


 父が咳払いをする。


「リベルタが、サミエル殿を好きになったそうだ」


 私は妹を見る。


 リベルタは顔を上げなかった。


「それで、だ」


 父が続ける。


「お前とサミエル殿との婚約を解消して、リベルタと婚約してもらえないかと思っている」


「……え?」


「もちろん、お前には別の縁談を探す」


 母が私の手に自分の手を重ねた。


「セレストなら分かってくれるわよね?」


「お姉様……」


 リベルタがようやく顔を上げた。


「私、サミエル様が好きなの」


 その顔を見て。


 私は、いつもの言葉を口にしようとした。


「私は、どちらでも――」


 言葉が止まった。


 どちらでも?


 何と、何が?


「セレスト?」


 母が首を傾げる。


「……少し、考えさせてください」


「何を考える必要がある?」


 父が眉をひそめた。


「姉なのだから、妹の幸せを願うのは当然だろう」


「あなたは昔から優しい子だったものね」


 母も笑う。


「ありがとう、お姉様」


 リベルタまで笑った。


 まだ何も答えていないのに。


 その夜。


 私は机の引き出しを開けた。


 一冊の本を取り出す。


 挟んでいた栞を、そっと抜いた。


 青い花を押し花にした栞。


 十五歳のとき、サミエル様からいただいたものだ。


『セレストは、青が好きだろう?』


『どうしてですか?』


『庭を歩くと、いつも青い花を見ているから』


 私は栞を指でなぞった。


 青いドレスを妹に譲ったことは、サミエル様には話していない。


 それなのに、私の好きな色を知っていた。


「…………嫌」


 声にしてみた。


 ひどく小さな声だった。


「嫌……です」


 もう一度。


「……嫌です」


 胸が苦しかった。


 誰かに嫌だと言うのは、こんなに怖いことだったのか。


 母が悲しむかもしれない。


 父が怒るかもしれない。


 リベルタが泣くかもしれない。


 それでも。


 何度か繰り返してから、私は眠った。


     ◇


 翌朝。


「では、サミエル殿にはこちらから話を――」


「お父様」


 父の言葉を遮った。


 三人が私を見る。


 心臓が痛いほど鳴っていた。


「申し訳――」


 そこまで言って、止めた。


 私は、何を謝ろうとしているのだろう。


「私は」


 息を吸う。


「譲りたく、ありません」


「……何?」


「嫌です」


 父を見る。


「サミエル様を、リベルタに譲るのは嫌です」


 父の手が机を叩いた。


「セレスト!」


 肩が跳ねた。


「あなたらしくないわ」


 母が困ったように言う。


「あなたは昔から、何も欲しがらない子だったでしょう?」


「お姉様は、私が悲しくても平気なの?」


 リベルタの目に涙が浮かんだ。


「平気じゃないわ」


「だったら――」


「でも」


 私はリベルタを見る。


「私も、悲しいの」


 リベルタが黙った。


「私もサミエル様が好きなの」


 声は震えていた。


「だから……譲りたくない」


 謝らなかった。


 父はしばらく私を睨んでいた。


 母は困ったようにため息をついた。


 リベルタは泣いていた。


 誰も笑っていなかった。


 それでも。


 私は、謝らなかった。


     ◇


 その日の午後。


 私はサミエル様を訪ねた。


「実は……」


「うん」


「父から……」


 そこから先が出てこない。


 サミエル様は何も言わなかった。


 ただ待っていた。


「父が、私との婚約を解消して、リベルタと婚約してほしいと……」


「そうか」


「サミエル様は、どうなさりたいですか?」


「その前に」


 サミエル様が私を見る。


「セレストは?」


「え?」


「君は、どうしたい?」


 答えようとして。


 いつもの言葉が喉まで出かかった。


 ――どちらでも構いません。


 私は唇を結ぶ。


「私の希望は、気にしないでください」


「気にするよ。君との婚約だから」


 それだけ言って、また黙った。


 私はカップを置いた。


 手が震えて、受け皿に当たる。


「私は……あなたの婚約者で……いたいです」


 サミエル様は、黙って私を見ている。


 まるで、まだ続きがあることを知っているかのように。


 私は一度、息を吸った。


「……これからも、あなたと一緒にいたいです」


「うん」


 サミエル様は笑った。


「私も、セレストと一緒にいたい」


 雷も落ちなかった。


 誰も怒らなかった。


 世界は、何も壊れなかった。


     ◇


 その日のうちに、サミエル様は父へ書状を送った。


 自分の婚約者はセレストであり、婚約者を変更するつもりはない、と。


 翌日、父から返事が届いた。


 そこに婚約についての言葉はなかった。


 ただ、すぐに家へ戻れと書かれていた。


「帰る?」


 サミエル様が尋ねた。


「それとも、ここにいる?」


 私は少しだけ迷った。


「……ここに、いたいです」


「分かった」


 それだけだった。


 サミエル様のお母様が客室を整えて、「好きなだけいてちょうだい」と迎えてくださった。


 私はしばらく、サミエル様の家に滞在することになった。


     ◇


 翌朝。


「卵料理とパンケーキ、どちらになさいますか?」


 使用人に尋ねられた。


「どちらでも構いません」


「かしこまりました。では、卵料理を」


「あ……」


 呼び止める。


 使用人が振り返った。


「何でしょう?」


「……やっぱり、何でもありません」


 使用人が去ろうとする。


「待って」


 サミエル様が呼び止めた。


 それから私を見る。


「セレスト」


「はい」


「パンケーキを見ていたけど」


「…………」


 サミエル様は、それ以上何も言わなかった。


「パンケーキが、食べたいです」


「かしこまりました」


 しばらくして、焼きたてのパンケーキが運ばれてきた。


 一口食べる。


「……おいしい」


「よかった」


 サミエル様が笑った。


 私はもう一口食べた。


 甘くて、温かかった。


 自分で選んだ朝食だった。


     ◇


 数日後。


 仕立屋で、二着のドレスを見せられた。


「こちらの白と、こちらの青はいかがでしょう?」


 青。


 私はそのドレスを見た。


「私はどちらでも――」


 言いかけて。


 止める。


「……青がいいです」


「では、ご試着を」


 青いドレスに袖を通した。


 鏡の前に立つ。


 最初に見たのは、自分ではなくサミエル様だった。


「似合っていますか?」


「似合っていると思う」


 サミエル様が言う。


「でも、私が着るわけじゃない」


 そして鏡の中の私を見る。


「セレストは?」


 私は青いドレスを見る。


「好きです」


 口にすると、不思議なくらい胸が軽くなった。


「私……青が好きです」


「知ってる」


 サミエル様が笑った。


 鏡の中の青を、もう一度見る。


 今度は誰にも譲らなかった。


     ◇


 一か月ほど経った頃。


 父と母とリベルタが、サミエル様の家を訪ねてきた。


 応接室にはサミエル様も同席していた。


「サミエル殿の父上から、正式に婚約変更を断る書状が届いた」


 父が言った。


「婚約については、もうお前の好きにすればいい」


 母が私を見る。


「セレスト。帰ってきて」


 その声は、以前よりずっと弱かった。


「また四人で暮らしましょう?」


「お姉様」


 リベルタが俯く。


「ごめんなさい。私……」


 そこで、リベルタが私のドレスに気づいた。


「それ、素敵ね」


 私の青いドレスを見る。


「私も着てみたい」


「リベルタ」


 母がたしなめるように名前を呼んだ。


 けれど、すぐに私を見る。


「姉妹なんだから、たまには貸してあげなさい」


 私は自分のドレスを見下ろした。


「……嫌です」


 母が目を瞬く。


「このドレスは、貸したくありません」


「セレスト?」


「私が選んだドレスです」


「また買えばいいじゃない」


「嫌です」


 父の顔が険しくなる。


「そんな些細なことで家族を困らせるのか」


 私は反射的に、サミエル様を見ようとした。


 でも。


 やめた。


「私にとっては、些細なことではありません」


「お前は変わったな」


 吐き捨てるような声だった。


 私は父を見る。


「はい。変わりたいんです」


 父の眉が吊り上がった。


「セレスト、我儘が過ぎるぞ!」


「……我儘ではありません」


 以前なら。


 ここで、父が納得してくれる言葉を探しただろう。


 母を悲しませない答えを考えただろう。


 リベルタが怒らない方法を選んだだろう。


 今は。


「家には帰りません」


 私は自分の胸に手を当てた。


「これからは、自分が選びたいものを選びます」


 声は少し震えていた。


 でも。


 もう誰の顔色も見なかった。


「サミエル様!」


 リベルタが彼を見る。


「サミエル様からも何か言ってください!」


 サミエル様は静かに答えた。


「セレストが決めたことだ。私は待っていただけだから」


「でも……私だって、サミエル様が好きなのに」


「リベルタ嬢」


 サミエル様が彼女を見る。


「セレストが青を好きなことを、私は知っている」


 そして、少しだけ間を置いた。


「でも、君が何色を好きなのかは知らない」


「私は……」


 リベルタが口を開いた。


 けれど、その先は出てこなかった。


 リベルタの顔から、血の気が引いた。


「……ひどい」


 小さな声だった。


「お姉様は、ずるいわ」


 私は妹を見る。


「ずるい?」


「だって……今まで、何でも譲ってくれたじゃない」


 リベルタの目から涙がこぼれた。


「苺だって、ドレスだって。お姉様は、いつも私にくれたじゃない!」


「ええ」


「なのに、どうして急に……」


 私は少しだけ考えた。


 十歳の誕生日。


 苺を譲ったとき、母は優しいと褒めてくれた。


 十二歳の誕生日。


 青いドレスを譲ったとき、母は欲がないと褒めてくれた。


 私は、その言葉が嬉しかった。


 だから、ずっと大切にしてきた。


 誰かが欲しいと言えば、譲る。


 誰かに選んでと言われれば、選ばない。


 そうすれば、みんなが笑ってくれた。


 そうすれば、私は優しい姉でいられた。


「……そうね」


 私はリベルタを見る。


「今まで、何でも譲ってきたわね」


「だったら――」


「だから、最後に一つだけ差し上げるわ」


 リベルタが瞬きをした。


「……何を?」


 私は、妹の顔をまっすぐ見た。


「『どちらでも構いません』という言葉よ」


「……え?」


「これからは、あなたが使ってちょうだい」


 リベルタは口を開けたまま、私を見ていた。


「私はもう、使わないから」


 手放してみると、少しも惜しくなかった。


「セレスト……」


 母が何か言いかけた。


 私は頭を下げた。


「今日は、お引き取りください」


 父も、母も、何も言わなかった。


 三人は帰っていった。


 リベルタだけが最後に一度、私の青いドレスを見て。


 何も言わずに、扉の向こうへ消えた。


     ◇


 それからしばらくして。


 姉の婚約者を妹にすげ替えようとした話は、いつの間にか社交界に広まっていた。


 リベルタのもとに来ていたいくつかの縁談も、先方から取り下げられたらしい。


 母から手紙が届いた。


『リベルタが部屋から出てこないの。最近は、何を聞いても「どちらでも構いません」と答えるばかりで……。あなたから話を聞いてあげて』


 昔なら、すぐに馬車を頼んだだろう。


 窓の外では、庭の青い花が風に揺れていた。


 私はペンを取った。


『行きません』


 それだけ書いて、封をした。


     ◇


 半年後。


 私とサミエル様の結婚式の日取りが決まった。


「式場の花ですが、白薔薇と赤薔薇、どちらになさいますか?」


「白薔薇がいいです」


 答えると、隣のサミエル様が笑った。


「早くなったね」


「何がですか?」


「決めるの」


 私は少し考えてから答えた。


「練習しましたから」


「そっか」


 その日の帰り。


 私たちは街を歩いていた。


「夕食は何が食べたい?」


「シチューが食べたいです」


「じゃあ、あの店にしよう」


「はい」


 少し先に、小さな菓子店があった。


 ショーケースに、苺のタルトが並んでいる。


 足が止まった。


 十歳のあの日、最後まで残しておいた苺。


「セレスト?」


 サミエル様が振り返る。


 何も聞かれていない。


 黙っていても、誰も困らない。


「あの」


「うん?」


「先に、あのお店に寄りたいです」


「いいよ」


「苺のタルトが食べたいんです」


 サミエル様が頷く。


「じゃあ二つ――」


「三つです」


「え? 二人なのに?」


「一つは、明日の私の分です」


 サミエル様が吹き出した。


「笑うなんて……ひどいじゃないですか」


「ごめん。嬉しくて」


「もう」


 私も笑った。


 それから、店へ向かおうとするサミエル様の袖を引いた。


「サミエル様」


「うん?」


 私は彼の手を見る。


 少しだけ、胸が鳴った。


 でも。


 今度は、自分から言いたかった。


「手をつないで、歩きたいです」


 サミエル様が手を差し出す。


「よろこんで」


 私は、その手を握った。


 温かな指が握り返してくれる。


 店の扉を開けると、甘い香りがした。


 私はショーケースの苺を見て、思わず笑った。


「苺のタルト、三つくださいっ!」

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


少しでも「よかったね」「セレスト頑張れ!」と思っていただけましたら、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると嬉しいです。


ブックマークも、今後の執筆の励みになります。

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