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第1話《猿神あらわる》

夜の摩天楼に、ひとりの青年が立っていた。

ビルの屋上、風に揺れるネオンの光を背に、煙草の赤い火が小さく灯る。

その姿を人と呼ぶにはあまりにも異様な存在だった。

人間にしては鋭すぎる目。

猿にしては細身すぎるシルエット。

その両方を併せ持つ肉体は、彼がどんな生まれを背負っているかを雄弁に物語っていた。

アマサク――人間とニホンザルの遺伝子を引き継いだ獣人にして国家の諜報機関に属する特殊工作員。

裏社会では「猿神」と呼ばれ、恐れられている。

彼はただ煙を吐き出し、光り輝く街並みを見下ろしていた。

その胸の奥に潜むのは、誇りでも名誉でもなく、消えない孤独と苦悩だった。


夜の静寂を切り裂くように、胸元の通信端末が震えた。

短い電子音が、彼を現実へと引き戻す。

「……任務か」

低く呟き、アマサクは煙草を足元に落とした。

火の残滓が、夜風に吹かれて消える。

端末からは機械的な女の声が流れた。

「コードネーム《猿神》。対象のテロリストが市街地に潜伏している。即時排除を要請する」

街は、相変わらず無数の光で輝いていた。

だがその輝きの裏側で、血と影が渦巻いている。

アマサクは無言で端末を閉じ、黒いパーカーのフードを深くかぶった。

――孤独と苦悩を抱えたまま、またひとつの闇に足を踏み入れる。


街のざわめきの下で、不穏な気配が蠢いていた。

市街地の雑居ビルの一角――そこを拠点にした武装グループが、爆発物を抱えて立てこもっている。

目的は不明。ただ分かっているのは、彼らが今夜中に大勢の命を奪う計画を持っているということだった。

アマサクは、摩天楼を伝いながら影のようにビルを移動していた。

濡れたコンクリートの匂い、街のネオンが映す赤と青。

そのすべてを背に、彼は猿のごとき身体能力で無音のまま壁を駆け上がる。

屋上に身を伏せると、耳に入るのは風の音だけではなかった。

――銃のスライドを引く微かな音。

――息を潜める複数の気配。

「……ここか」

殺気を感知する感覚が、獣のように鋭く研ぎ澄まされる。

スナイパーが狙っているはずだが、彼に引き金を引く隙は与えられない。

次の瞬間、アマサクの体は宙を舞った。

影が、影を斬り裂くようにビルの窓を突き破り、テロリストの群れに飛び込む。

銃声。

叫び。

だが彼の動きはそれを上回る。

鋭い蹴りが喉を打ち抜き、拳が顎を砕く。

反撃の弾丸はすべて、予知したかのように空を切った。

彼の姿はもはや人ではなかった。

猿神――そう呼ばれる理由を、敵は理解する間もなく沈黙していく。


室内は、静寂に包まれていた。

割れたガラスの破片と、倒れた銃器だけが散乱し、先ほどまでの喧騒が嘘のように消えている。

アマサクは息ひとつ乱さず、最後の敵を床に転がした。

煙草を咥え直し、ライターで火をつける。

硝煙の匂いとタバコの煙が混ざり合い、室内に重苦しい空気を漂わせた。

その時、再び端末が震えた。

耳に届いたのは、冷たい女の声。

「任務完了を確認。……だが、次が本題だ」

アマサクの目がわずかに細められる。

「標的は、テロリストの背後にいる資金提供者。裏社会を牛耳る男だ。

名前は《カール・ヴァレンティ》。

奴を秘密裏に排除せよ。痕跡は残すな」

短い沈黙のあと、彼はただ低く答えた。

「……了解した」

煙を吐き出す彼の横顔は、ネオンの光を背に影となる。

表向きは正義のために戦う兵士。

だが今の一言で、また「猿神」という異名が裏社会に刻まれることになる。

アマサクは振り返らず、瓦礫の窓から夜の街へと身を投じた。

闇の底に、孤独と苦悩を抱えたまま――。


ビルの縁から跳び降りたアマサクは、夜の摩天楼を影のように駆け抜けていた。

ガラスの外壁を蹴り、看板を飛び移り、暗闇の隙間に身を滑り込ませる。

人の目に映ることなく、彼は都市の裏側を縫うように進む。

胸の奥には重い感覚があった。

――市民を守るための戦いの直後に、裏社会の暗殺。

正義と闇が混ざり合うこの仕事を、自分はどこまで背負うのか。

「……俺は人間じゃない。だからこそ、こうして使われるのか」

タバコの煙が夜風に散り、彼の独白も闇に溶けた。

――場面転換。

高級ホテルの最上階。

ガラス張りのスイートルームから街を見下ろしている男がいた。

カール・ヴァレンティ。

西欧系の巨体に仕立てられたスーツ。

白髪混じりのオールバックに、片手にはグラスの赤ワイン。

その目は、都市をただの「資産」として値踏みする冷酷さに満ちていた。

傍らには二人の用心棒が立ち、壁際では女がグラスを片付けている。

豪奢な調度品の中、カールの存在だけが異様に重たかった。

「猿神が来るかもしれん」

低い声で呟くと、彼は笑みを浮かべた。

「だが奴が来るなら、それもまた一興だ」

――再び、夜の街。

アマサクはビルの影から影へと移りながら、目標のホテルを見上げた。

赤いネオンがその輪郭を照らす。

闇の中で、彼の瞳だけが鋭く光った。


夜のホテル。

煌びやかな外観とは裏腹に、屋上は冷えた鉄と風の匂いが支配していた。

アマサクはエアダクトの影に身を潜め、音もなく着地する。

呼吸を整え、周囲を探る。

――二人、銃を持った警備兵。

足音と殺気で正確に位置を割り出す。

次の瞬間、影が揺れた。

一人の兵士の首が背後から押さえ込まれ、音もなく床に沈む。

続くもう一人が銃を構えるが、すでに遅い。

アマサクの跳躍が空気を裂き、膝蹴りが喉を砕く。

残されたのは静寂だけ。

アマサクは床に倒れた死体の影を跨ぎ、ホテルの通気口を抜けてスイートフロアへ向かう。

――猿神の侵入は、誰にも察知されなかった。

対峙前の心理戦

スイートルームの重厚な扉の前に立ち止まる。

中には標的カール・ヴァレンティ。

だがその気配は、まるでこちらを待ち構えているかのようだった。

アマサクはドアに耳を当てる。

低い笑い声が、重たい壁を通じて漏れ出ていた。

「……やはり来たか、猿神」

カールの声が、まるで会話を挑むように響く。

まるで彼が全てを見透かしているかのように。

アマサクは銃を抜かない。

代わりにタバコを口に咥え、火をつける。

煙が揺れ、瞳が鋭く細められる。

「……話をしてから死にたいらしいな」

扉越しに、カールの低い笑い声が応えた。

「死ぬのはどちらか……それを決めるのはこれからだ」

重たい空気が、互いの間に張り詰める。


扉を押し開けると、そこには豪奢なスイートルームが広がっていた。

赤い絨毯、金の装飾、重たいカーテン。

その中央に腰をかけたカール・ヴァレンティが、グラスの赤ワインを揺らしていた。

背後に控える用心棒たちが一斉に銃口を向ける。

だがカールは動じない。むしろ笑みを浮かべ、アマサクを迎え入れるように手を広げた。

「ようこそ、《猿神》。裏社会の怪物が、ようやく我が家に来てくれた」

アマサクは煙草を指で摘み、灰を落とした。

その視線は鋭く、氷のように冷たい。

「怪物かどうかは知らん。ただの道具だ」

「道具?」カールは目を細め、ワインをひと口含む。

「ならば、誰のための道具だ? 国家か? 財団か? それとも己の孤独を埋めるためか?」

挑発するような言葉に、アマサクの眉がわずかに動いた。

だが声は低く、静かだった。

「俺は……必要とされる限り、戦うだけだ」

その瞬間、室内の空気が張り詰める。

用心棒たちの指が引き金にかかり、アマサクの筋肉が静かに収縮する。

カールはグラスを置き、笑みを崩さず言い放った。

「ならば証明してみせろ。お前が“猿神”と呼ばれる所以を――」

次の刹那、銃声と共に戦いが始まった。


アマサクの体はすでに動いていた。

一閃。

影のように滑り込み、最初の用心棒の喉を拳で砕く。

次の瞬間、跳躍。

空中で足をひねり、もう一人の銃を蹴り飛ばす。

銃弾は壁に無駄に穴を開け、彼の前にはただ無防備な肉体が残った。

乾いた音。

倒れた二人は、二度と起き上がらない。

残る一人が恐怖に引き金を引くが、アマサクの動きはすでに先を読んでいた。

彼の腕がしなやかに伸び、銃口をそらすと同時に、肘が相手の顎を粉砕する。


――数秒。

用心棒たちは全員、床に沈んでいた。

タバコの煙だけが、戦場のような静けさに漂う。

アマサクは視線をカールへ向けた。

ワインを持つ男の手が、わずかに震えている。

「……見事だ。噂に違わぬ猿神よ」

カールの声は笑っていたが、その目だけは恐怖に濁っていた。

アマサクはゆっくりと歩み寄る。

その影がカールの体を覆う。

「最後に言い残すことはあるか」

カールは震えながらも、かすかな笑みを浮かべた。

「……人間に生まれ損なった者に、未来など無い」

一瞬、アマサクの瞳が揺れる。

孤独と苦悩――自分が人間ではないという烙印が胸を刺す。

だが次の瞬間、その感情を煙のように吐き出し、低く答えた。

「未来なんざ、俺の煙草の火と同じだ。……消えるだけだ」

そしてアマサクはカールに向けてひきがねを引く。

乾いた音が室内に響き、カールは椅子から崩れ落ちた。

夜の街は何事もなかったように光を放ち続けている。

だがアマサクの胸に残ったのは、勝利でも栄光でもなく、またひとつ積み重なった孤独の重みだった。


任務を終えた報告は、短い言葉で片付いた。

端末に「確認した」とだけ冷たい声が返ると、通信は一方的に切れた。

アマサクはホテルの屋上に立ち、夜風を浴びながらポケットから新しい煙草を取り出した。

ライターの火が、暗闇に小さく灯る。

その火は一瞬だけ彼の瞳を照らし、また闇に溶けた。

街はいつも通りの喧騒を続けている。

ネオンの光、人々の笑い声、どこかで響く音楽。

だがそのどれもが、彼の胸には届かなかった。

「……俺が守った街か」

独りごちる声は、風にさらわれる。

守ったはずの光景に、自分の居場所はない。

煙草を吸い終えると、彼は吸殻を指先で弾き落とした。

赤い火は夜空に消え、闇だけが残る。

アマサクは再びフードを深くかぶり、摩天楼の影へと姿を消した。

その背中にあるのは、誇りでも安堵でもない。

ただ、消えない孤独と苦悩――それだけだった。

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