孤独死した前の住人について
俺は、お得な部屋を借りた。
東京23区内、駅まで徒歩五分。ワンルームユニットバス付き。それで、家賃は三万円。2025年現在としては、破格の安さだ。
もちろん、事情がある。どうやら、前の住人が孤独死して、数日間放置されていたようだった。ただ下見をしてみると、臭いもなく目立った汚れもない。清掃業者が仕事をしたのだろう。俺は幽霊とかそういった類のものは信じていないし、むしろ事情がはっきりしている分ありがたいとさえ思った。
随分と下手に出る不動産屋と交渉し、俺はこの部屋を借りることにした。
俺が菓子を持って挨拶に行くと、大家さんは四十代くらいの小太りの男性だった。彼は終始にこやかで、あの部屋の借り手が現れて満足しているようだった。
「前の住人は、どんな人だったんですか?」
興味本位で聞くと大家さんは顔をしかめたが、俺がもうすでに成約していることもあって、話してくれた。
「五十代の男性でしたよ。まだ六十にもなって無いのに、白くて長いあごひげがあったね」
「へえ」
下見の時以来のこの部屋に、大きな変化は見られなかった。引っ越し業者が運んできた家具や小道具の配置を指示する。終えると、随分と疲れたので、さっき運び込まれたばかりにベッドに横たわり、春の穏やかな青空を眺めていた。アパートの横には、仏教系のお墓があった。どうやらこの部屋は死が近い場所なのかもしれない、と感じた。
それからというもの、平日は営業の仕事に行き、休日はスマホを持ってこの部屋でゴロゴロとしていたが、幽霊が現れる気配は全くなく、俺も次第に前の住人の話を忘れ始めた。
五月の終わり。夜中の二時十五分くらいに、尿意のため目が覚めた。いわゆる、丑三つ時である。慣習を頼りにトイレに行って、そのままベッドに帰る時、妙な気配を感じた。俺が顔を上げると、いた。人である。白くて長いあごひげを持って、細くて、俺よりもやや小さい身長の高齢男性である。俺は、驚いて後退りする。
しかし、こいつは消えない。一瞬の幻覚の類ではなさそうだ。次第に一つの可能性に結び付く。こいつは泥棒だ。真夜中に忍び込んできたのだろう。
「警察呼ぶぞ!」
俺は、恐怖を打ち消すように言った。しかし、その男は逃げず、ゆっくりと何かを期待するように顔を上げた。こいつは泥棒としての自覚があるのか。こんなどんくさい奴なら俺でも取り押さえられそうだ。
俺はがっと、踏み込んで、その弱々しい身体を地面に叩き付けようとした。しかし、そいつの身体に触った感触はない。トンネルから出たかの如く、視界に向こう側の地面が現れた。俺はよろけて地面に転んだ。後ろを振り返ると、そいつがいた。
間違いない。今、こいつの身体をすり抜けた。
俺はもう一度確かめるように、二、三回、確実に取り押さえようとしたが、やはりすり抜ける。仕方がないので、玄関まで行き、部屋全体の電気をつける。そいつの足首から下は無くなっていて、宙に浮いていた。プロジェクターの類かと思って、光源を探したが、見つからない。泥棒ではなく、どうやら本当に幽霊らしいので、俺は随分と安心してしまった。
「お前、幽霊なのか?」
真っ白な死装束を着た幽霊は、逆に嬉しそうに聞き返してきた。
「俺が見えるのか?」
「ああ、見える。で、お前は本当に幽霊なのか?」
「そうなんだろうと思うんだがな」
なんでこいつは自分のことが良く分かっていないんだろうと、疑問に思いながらベッドに腰掛ける。眠気はすっかり飛んでしまった。
「この部屋で亡くなった前の住人?」
「そうなんだよ。気付いたらこうなっていて、宙に浮いている。どうやら誰も俺のことを見ることができないらしい。話しかけても気付いてくれない。俺のほうから、触ろうとしてもすり抜ける」
幽霊は、浮き上がり、天井へと吸い込まれていく。頭、首、胴体、そして足首と通り抜けていって、最後は天井しか見えなくなった。
「ほうら、通り抜けられる」
天井のほうから、幽霊の声が聞こえてきた。脚、胴体、首と見えなくなった逆順で再び現れる。
「屋根裏にゴキブリがいたぞ」
俺は頼んでもいないその報告を聞いて、どっと、憂鬱な気持ちになった。こいつはこれからずっと、この部屋に住み着くのだろうか。しかも、俺だけしかこいつを認知できない以上、被害を訴えても、狂人扱いだ。追い出そうにも、接触できない以上、どうにもならない。
「名前はなんていうの?」
「山下 啓三。若造は?」
若造って。俺はもう、二十五だ。花の十代を通り過ぎてしまった。
「中川 紳司。ここの入居者」
「ずっと、見ていたよ。新しい入居者が決まって、嬉しいね」
山下は、自立する子供を見る親のように、しみじみと言った。俺は、意を決して部屋の明かりを消し毛布に包まった。幽霊が現れようと、明日は仕事だ。
「俺は寝るから、喋りかけないでくれよ」
「そうかい」
しかし、眠気が無くなってしまったので、何度か寝返りを打つ。やがて、眠気が訪れた。
翌朝、山下を名乗る幽霊の姿はなかった。やはり、あれは夢なのではないか。ただ、夢にしては感覚がリアルで、腑に落ちない。俺はネクタイを締め、仕事へと向かった。駅の前の喧騒から離れ、人通りが少ない雑居ビルにうちの会社はある。営業部のほとんどが外回りに出払うから、日中はほとんどいない。せいぜい、最初と最後、タイムスタンプを押すためだ。
「お」
部屋に入ると、小泉に出くわした。
「お疲れ様です」
「仕事終わったら、飲みに行かない? 事業部の高橋も来るらしいんだけどさ」
「あー」
俺は、あの幽霊が思い浮かんだ。山下と名乗る幽霊が、本当に今日も現れるのか確認したかった。酔いが回った状態で帰れば、幽霊なのか幻覚なのか判断ができない。
「悪い。今日はちょっと」
「えー。そりゃ残念」
小泉はオーバーに手を広げた。小泉は年がら年中、飲み会を主催している。小泉は、引き返していった。外回りに行かないのだろうか。別に数字は出しているわけで、謎の多い人間だ。
俺は会社用の携帯で、前に取引先から教えてもらった見込み客の情報を確認すると、足早に向かっていった。今日も仕事が始まる。
俺は仕事を終えて、午後七時過ぎ、帰路についていた。最寄り駅のスーパーで買った惣菜弁当を片手に、トボトボと歩いて行った。働きながら自炊というものは無謀ではないかと、俺は思う。
「おうい。中川。今、帰りか」
聞き覚えのある声で、今日の目的は果たされた。やはり、昨日のことは夢ではなかったのだ。
「日中、何していたんだ?」
「うん? そりゃあ、空を浮かんだり、あてもなく浮遊したり、うーん、そんな感じだろう」
随分とのんきな奴だ。猫と分かり合えそう。
「居心地が悪いんだよ。みんなせっせと歩いていて、平然と俺のいる場所を通っていく。見えないんだから当然だ。でも、居場所がねえんだ」
「変な感じなんだろうな」
俺は、雑な返事をしながら、山下の話を聞いていた。すれ違った女性の怪訝な面持ちに、俺は気が付いた。周りから見ると、幽霊は見えないわけで、そんな居場所がない幽霊と接している俺も、やがて居場所がなくなるのかなと思った。幽霊は、人をそちら側へ引き込むのだ。
俺は部屋に帰ると、電気をつける。誰もいないので、ただいまも言わない。山下は、当たり前のように俺の部屋へ入ってきた。幽霊を確認するという目的を達成したので、俺は心置きなく冷蔵庫にある缶ビールを取り出した。
「もっと、度数強くないと酔えなくないか? 中川。若ければ、もっと大酒のみじゃなくっちゃ」
「うるさいね。老人」
「おっと、老人つっうにゃあ、まだ俺は若いぜ」
幽霊に若いも何もあるか。俺もそんなことを言うほどノンデリカシーではない。ただ、山下は典型的な面倒くさい奴に見えた。野放しにしていたら、どこまでも増長しそうだ。
俺はベッドに転がり込んで、ビールを飲む。夜は都会の電気が押し寄せてきて、この場所から見える景色も、案外悪くない。残業しているのだろうか。だったらなおさら、美味い。自分はもう働かなくていいのだ。働いている人がいるからこそ、働かない喜びが際立つ。
もしかしたら、幽霊と生者もそういう関係なのかもしれない。
「酒は一人で飲むのが好きなのか?」
「悪いかよ」
「悪いことじゃあない。だが、もっとも良いつまみは、至高の友人だ」
「俺はそんな奴と会ったことがないがな」
結局、一人で飲むのが一番うまい気がしている。社会人になってからは特に。
「いいや会えるさ。俺でさえ、会えたんだから」
この幽霊は孤独死したが、生前、酒を飲む友人くらいはいたらしい。
それから幾日か経って、土曜日。いつものようにスマホでゲームをしていると、壁からにょきっと山下が現れた。
「中川、競馬しに行こう」
「はあ、なんで」
「俺がやりたいんだよ」
「勝手に行けばいいじゃないか」
「そういうわけにはいかないんだ。幽霊は、馬券が買えない。代わりに買ってくれ」
「なんで俺が」
「絶対に勝つ。俺を信じろ。俺には秘策がある」
にわかに信じがたい。しかし、山下は幽霊だ。誰からも認知されずに、視覚することができる。どんな研究所も、こんなすさまじいステルス性を作り出すことはできない。存在が知れ渡れば、世界中が欲しがるだろう。そう考えると、馬券を一つ当てる奇跡なんて、造作もないことではないか。
「本当にあるんだな」
「任せろ」
ちょうど、欲しいゲームキャラクターがあって、利益を使って手に入れたらいいなと考えていた。俺はぼちぼちと準備をし、この胡散臭い幽霊の手引きに従って、競馬場へ向かった。
電車は席が埋まっていたので、俺は席の前に立っていた。俺の隣には、空間があり、そこに山下がいた。しかし少しすると、Tシャツを着た若い男性がやってきて、そこに立ってしまった。
俺の視界から見ると、半透明な幽霊とその男性が一体化して、実に奇妙な光景だった。山下は珍しく、やや居心地悪そうに、きょろきょろとしてどこか自分の居場所がないか探していた。接触できない以上、人がいてもいなくても、変わらないはずなのに。
最寄り駅には、競馬場に向かう人々で溢れていた。中年の男性が多かったが、四十くらいの夫婦や大人しそうな若い男性もいた。それらの人ごみの流れについていく。
「いやあ、よく来たわ。地上から入っていくと、懐かしさが蘇る」
幽霊は一人ご満悦のようだったが、俺は競馬場に来たことがないので、緊張を持っていた。当日の入場券を購入し、中に入っていく。俺は、円状に囲われた広い座席に出る。その中心には、一面の緑とトラックがあった。
「で、俺はどうすればいいんだ?」
俺は幽霊に耳打ちした。
「馬券を買うんだ」
「どこで?」
「あっちの機械で買える」
俺はとぼとぼと立ち上がり、馬券の機械の前に並ぶ。どうやら、馬券にも種類があるらしい。俺にはなんのことだが良く分からない。単に、勝つ馬を当てるという話ではないのか? 俺はやや慌てて、幽霊に話しかける。
「何を買えばいいんだ、これ」
「単勝を変え。これだ。俺の長年の分析によれば、この馬が必ず勝つ。オッズも高いから、戻ってくる額も大きい。一攫千金だ」
「単勝?」
「一位の馬を予想することだ」
「なんで、戻ってくる額が大きいんだ?」
「人気がないからだ」
「いや、そんな馬を買わないほうがいいだろ」
「そんなことはない! みんな分かっていないだけだ! この馬は、キテいる。間違いない。大化けするぞ」
俺は、熱く語る幽霊にげんなりしながら、最小額の馬券を買った。
「もっと買え。買えば買うほど、返ってくるんだから」
その上、文句まで言っている山下を無視した。最初は様子見だ。
戻ってくると、静かになっていた。嵐の前の静けさだ。今日は天気が良く、空は透き通るようである。フランクフルトのような香ばしい匂いと草の匂いが、鼻をくすぐった。俺は寂しくなって、山下に話しかける。
「よく来たのか? この競馬場には」
「ああ。職場の先輩に、よく連れて行ってもらったよ。上京して、右も左も分からない俺をかわいがってくれた」
「へえ。上京してきたのか」
「そりゃあ、俺が働いていた地元の建設会社が潰れたんだよ。いわゆる『失われた二十年』ってやつ。仕方ないから、上京したってわけだ」
「苦労したんだな」
すると大きな歓声が上がった。どうやら、レースが始まるらしい。一通りの歓声が上がると、馬たちと騎手たちは所定の位置につく。そこでまた、静かになる。俺も、少額とは言え、自分のポケットマネーをつぎ込んだんだ。それらの当事者として、引きずりこまれていった。
レース開始直後、その圧迫感は反発し、歓声へと再び変わる。思わずそれにつられて、俺の賭けた馬を懸命に応援してしまった。利害を共有すると、人はここまで素直な気持ちで声援をかけるものなのか。
そう思い、勝利を願った。
結果。幽霊が予想した馬は、五着だった。
「負けてんじゃねえか!」
「そんなことはない。今回はたまたま運が悪かっただけだ。たまたまだ。次は必ず勝つ。俺を信じろ」
「いや、もういい。俺は帰る」
超然的な幽霊だから、因果を捻じ曲げる何か超越した力でもあるのかと思っていたが、単なる競馬好きのおじさんだった。奇跡なんてものはなかったのである。
「まだレースはあるぞ。俺は見てく」
「そうかよ」
好きにしろ。応援していたら、ずいぶんと疲れてしまった。もう家に帰って、ゴロゴロ、スマホをやっていたい。せっかくの休日なのだから。
その後も、山下はいつもと変わらず悪びれる様子もなく顔を出した。それどころか、競馬の話をする頻度が増えた。
不本意ながら、幽霊との奇妙な同居生活にも慣れつつあった七月。外回り営業を終え、会社でばったり小泉に出くわした。
「どうよ、この後飲みに」
「いや、ちょっと」
「なんか最近、付き合い悪くない? 来る頻度減ったじゃん」
確かに、そうかもしれない。幽霊がいるせいだろうか。
「今日、結構な人数来るんだよ。高橋たちだけじゃなくて、営業部からも来るし、七人くらい」
あんまり断り続けて、ノリが悪いと思われても厄介だ。人数が多いなら、行っておいたほうがいいかもしれない。俺は承諾することにした。
いつもの安価な居酒屋で、俺たちはビールを頼み、飲み会が始まった。高橋たち事業部の連中は、遅れてくるらしい。そういうわけで、営業部の四人で先に始めていたのである。
「ルート営業はどうなの? 移ってから」
「いや、楽よ、やっぱり。新規営業、向いてなかったわ」
小泉が先陣を切って、営業部のやつに話しかけた。大抵こういう飲み会の冒頭は、仕事の話から始まる。この前に数時間働いていたわけで、一番話しやすい。そのうち、高橋たち、事業部の面々も合流してきた。しかし、交流会で行うような当たり障りのない仕事の話は、段々と尽きる。
「でも、面倒くさいお客さんがいてさ」
「加藤さん?」
「そうそうそう」
「あの人やばいよ。すごい文句言ってくるのに、対応すると『別にいい』とか言い出すし」
「だるいですよね」
話題がなくなれば、悪口のような安直なものに走っていく。から揚げと枝豆をつつきながら、俺はビールを飲んでいった。ぼちぼち、この時間帯からスマホをいじり出す人が出てくる。
やがて仕事の悪口すら尽きると、人のプライベートに土足で入り込むようになる。そして、職場で友情なんてものはないので、性愛の話だ。営業部の男性と事務の女性で付き合っている数少ないペアの話が、メイン。もちろん、当事者はここにいないので、陰口じみていた。
大胆な体育会系を自認しているくせに、こそこそ下衆な噂話にふけるのは、わが営業部の情けない伝統だと思う。
「中川、彼女いたっけ?」
唐突に、俺の名前を呼ばれて、反応する。
「いないですね。大学生の時にいたんですけど」
この話をするのは何度目だったか。小泉が、毎回忘れているあたり、興味がないんだろう。なぜそこまでして、話を続けるのか、俺には理解できなかった。
「あーまじか。作らないの?」
「仕事に集中しようかなと。俺も、そろそろ結婚の歳だから」
「彼女、作ったほうがいいよ。やっぱり独身の男って無責任だと思うんだよね、俺。そういうやつらが孤独死するんじゃない?」
「なるほど」
適当にうなづいておいた。俺は彼女ができたことがない。童貞だと知られれば、どんな酷いいじり方をされるか分かったものじゃない。こんな話をしている奴らの時点で、察しが付く。自分を守り、人を思いやる嘘は、むしろ善だと俺は思う。
幽霊山下とは、相変わらずだった。スマホで芸能ニュースを見ていると、横から現れて懐かしんでくるし。スーパーマーケットに行くとついてきて、酒類の話をしてくる。
一度、上空に上がった幽霊が雨雲の異変を察知して、窓を閉めろと教えてくれたこともあった。俺が転職サイトを見ていた時、山下がかつての上司の話をしてきた。
そんな中、八月二日。山下が奇妙なことを言い出した。
「俺は八月十六日に成仏するらしい」
「どうして、急に」
「俺もよく分からん。最近、仏様が話しかけてきた。『八月十六日、天へと上がるように』って」
八月十六日というと、盆休みの終わりだ。察するに、山下自身が超然的な能力を持っているというより、仏様に何かしてもらっている可能性が高い。だから、どうにもできないのかもしれない。
「そこでどうやら、八月十六日の成仏の直前に、一時間だけ実体化できるらしい。つまり食べることができるし、酒が飲めるというわけだ」
山下は胸を張って、言っていた。これが幽霊になった死者が辿る一般的なルートなのだろうか。そんな話、聞いたことがない。山下が特別なのだろうか。だとすれば、一体原因はなんだろう。
「結局のところ、なんで幽霊になったの? 何か特別な死に方をした?」
「いや、単なる孤独死だ」
「なんで、孤独死することになったの?」
「前、上京して働きだしたって話しただろ。そのあと、リーマンショックでその会社も潰れたんだよ。日雇いとかバイトで食いつないだけど、腰を悪くして、その後一気に身体のガタがきて。そのままぽろっと」
「世の中への恨みとか後悔とかで、現世に残っているんじゃない。なんかない?」
俺が山下の立場だったら、相当恨んでいそうだ。
「そういうのはないね。そりゃあ、持ち家とか、定職とか、結婚したかったとかあるけど。でも、俺は一生懸命生きたし。何も恥じることなんてない」
「羨ましい」
俺は山下に対して敬意を抱き、そして俺はこういう風に思えないだろうと考えた。結局、山下が幽霊になった理由は分からなかった。世の中、良く分からないことばかりだ。
八月十六日、土曜日。その日は薄暗い曇り空だった。成仏前に山下が食べたがったのは、カップ麵のシーフード味と、缶ビールだった。どうやら、好んで食べていた組み合わせらしい。午前中に、スーパーマーケットへと出かけて行った。子連れが多い中、カップ麺の売り場を訪ねる。
そこには醬油味とカレー味がある。だが、シーフード味の棚には何もない。店員に聞いてもないそうだ。
「別に俺は、醤油でもカレーでもいいぞ」
山下の声を聞きながら、手を伸ばしかけて、やめた。俺はそのまま、トボトボと歩き出し、もう一回り大きいスーパーマーケットへと行き、シーフード味とそのビールの六缶パックを買い物かごに入れた。俺もせっかくだからと、そのカップ麺のしょうゆ味を購入した。
俺は家に帰って、ビールを冷蔵庫に入れ、ベッドに寝ころんだ。山下は不作法にも、覗き込んできた。幽霊と窓から見える灰色の雲が、融合する。
「俺は、お前に親近感があるんだ。たぶん、孤独死するから」
「まだ若いのに、なんでそんなこと言うんだ」
「想像できないんだよ。俺が、友達とか、妻子とか、地域の仲間とかに囲まれている姿が」
「想像ねえ。俺だって、想像できない。孤独死した側の人間だから」
「そりゃあ、そうか」
俺は、幽霊の後ろにある空へ焦点を合わせ、ぼうっとした。
「人生悪いものじゃない。虚しい言葉だが、そう言うしかない」
その言葉に、俺は少し考えに耽った。
「俺には、母親がいるんだ。女手一つで育てて、大学の学費まで払ってくれた人だ。俺は馬鹿だったから、小さい頃、『父親はどこにいるんだ』って聞いていた。ある時、『お前は竹から生まれたんだよ』と言い始めてさ」
「『竹取物語』か」
山下の感嘆に、俺は頷いた。
「虚しい嘘だったが、あれは間違いなく善だった。父親をせがむ息子にどうしていいか分からなかったのだろう」
どうにもならないことに対して投げかける言葉が、虚しくなりがちなのは仕方がない。
それから俺たちは、大きな変化なく過ごした。俺は相変わらず、スマホをいじっていたし、山下はこの部屋に飽きると出て行って、当てもなくふらついていた。成仏という仰々しい儀式が行われるそうだが、外を見ても、何気ない日常が続いていた。
夕方午後五時半、ついにそれが始まった。山下の実体化は、胸の心臓のあたりから、徐々に広がり、最後は足の指先まで広がり切った。そして、数センチメートルをストンと重力に乗って落ちてきた。
胸が膨らみ、縮み、それは呼吸をしている証拠だった。半透明でないこと以外見慣れた姿のはずなのに、随分と違和感がある。オンライン通話をしてきた奴と、初めて実際にあったような感覚だった。
俺は、電気ケトルでお湯を沸かし始め、ビールを二缶持ってきた。山下は、持ってくるビールを凝視していた。さぞかし飲みたいのだろう。床に座り込み、向かい合う。ビールを開けて、乾杯をした。一口目は、夏の暑さも相まって、格別だ。
「成仏したら、どうなるんだ?」
俺が聞くと、もはや幽霊からただのおっさんになってしまった山下は、首を傾げた。
「仏様が言うには、無になるそうだ」
「無は、大変そうだな」
「死んでも何とかなったから、成仏しても、何とかなるんだろう」
と言って、缶ビールの中を眺めた。そうして、俺のほうを見てきた。
「どうするんだ? この後」
「転職するよ。今の会社、やっぱり合わない」
「そうか」
「あと、母親に顔を出す」
「それは良い。お袋は大事にしたほうがいい」
電気ケトルを持ってきて、俺はしょうゆ味、山下はシーフード味のカップ麵を作る。その三分間、カップ麵の蓋を眺める山下は、どこか童心に返っているようだった。
スマホに設定したタイマーが鳴ると、山下は蓋を開ける。割り箸を割り、大きな音を立ててすすった。それをモグモグと咀嚼して、首を傾げやや難しそうな顔をした後、ほほ笑んだ。
「うめえな。よく食べたんだよ、これ」
「良かった。買ってきた甲斐があった」
山下は、ビールをすすって、その後汁を飲んだ。俺も、しょうゆ味を食べ始めた。何の変哲もない、ある意味安心できる、定番の味がした。こうして、何かを語りながら、食べ、酒を飲んだ。これほどまでに楽しい酒の飲み方は久しぶりだった。
夕暮れが現れ、太陽は沈む。時間は進む。永遠に続くものはなく、終わりを前に、人はどうすることもできない。時と連動し、俺と山下も食べ終え、飲み疲れ、ぐったりとしていた。
「そろそろ、お別れだ」
山下はオレンジ色の雲を、窓越しに眺め言った。これからは夜が始まる。この幽霊と初めて会ったのは、深夜だった。そこで俺はあることを思い出した。
「せっかく会ったんだから、名前を書いてくれ。成仏するんだろう?」
と言って、俺はメモ帳とボールペンを手渡す。実体化した今なら、書けるはずだ。山下はやや恥ずかしそうに苦笑いをして、ペンを走らせる。
『山下 啓三』と書かれたメモが生まれた。
ついに、その時はきた。白い光が、屋根を貫き、スポットライトのごとく降ってきた。山下は白い光に包まれる。
「俺が、山下 啓三のことを覚えている。だから、孤独じゃない」
頼りなく虚しい言葉を投げかけると、山下は笑った。
「じゃあ、長生きしてくれよ」
実体化した山下は、幽霊へと戻る。ゆっくりと浮遊し、天井を突き抜けていく。山下の姿が見えなくなり、俺が慌てて外へ出ると、もうずいぶんと高い場所にいた。スポットライトの根元は、雲が無く、穴になっていた。異様な光景であるのに、それを見ることができるのは俺だけだ。山下が雲の上へたどり着くと、天の意思のごとく、その穴を雲で覆い、彼を隠した。
山下は天へと昇った。
部屋へ戻ると、誰もいなくなった。三か月ほど、にわかに信じがたい事象であった。だが、食べ終えたシーフード味のカップ麵と空き缶は残っていた。そして、『山下 啓三』と書かれたメモもしっかり残っていた。俺の記憶もそうだ。
俺は何もかも消えてしまうんじゃないかと不安になっていたが、どうやら違うらしい。
山下が存在した軌跡は残っている。




