第7話 まだ、完全には変わっていなかった
朝。
スマホのアラームが鳴る前に、目が覚めていた。
あまり眠れなかった。
布団の中で、しばらく天井を見つめる。
昨夜までのことが、
嫌でも思い出される。
小さく息を吐く。
「……夢じゃないよな」
世界は、ちゃんと続いている。
ただ、
もう前と同じようには見えない。
ベッドから起き上がり、制服に着替える。
鏡に映った自分は、
昨日と変わらない顔をしていた。
寝不足で少し目が赤い。
それだけ。
それなのに、
世界の見え方だけが少し違っている。
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リビングに行くと、朝の音があった。
テレビのニュース。
洗い物の音。
「おはよう」
母に声をかける。
「おはよう。今日は早いわね」
「……目、覚めちゃって」
それ以上は聞かれなかった。
部屋の端で、
猫が丸くなっている。
薄い茶トラのキレイな毛並み。
そして小さな羽。
妹はもう学校に行ったらしく、
家の中はいつもより静かだった。
猫は、俺を見ると、
目を細めてあくびした。
——喋らない。
「……行ってくる」
「はーい」
母は洗い物をしながら軽い返事したが、
猫は何も言わずに尻尾の先を軽く揺らした。
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駅までの道。
見慣れた通学路。
同じ時間帯。
同じ景色。
ただ。
少し、違って見える。
何が変わったのかはよく分からない。
昨夜、猫が言っていた言葉がよみがえる。
『まだ完全に変わったわけじゃないにゃん』
その意味が、
少しだけ分かる気がした。
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学校に着く。
いつも通りの朝の喧騒があった。
賑やかな空気。
前から二列目、窓側。
そこに、
佐倉守はもういない。
それが、
もう当たり前になりつつあることが怖かった。
久遠エリナは、
そこに座っていた。
姿勢よく、
教科書を開いている。
視線が合うと、
少し笑って小さく会釈をされた。
何も特別なことはない。
変わらないの日常。
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放課後。
授業が終わり、教室を出る。
今日は珍しく一人で、帰り道を歩く。
見慣れた道。
昔からある店。
変わらない景色。
今日も夕方の商店街は買い物客で賑わっている。
一軒の八百屋の前で足が止まる。
店自体は、
昔からある、ごく普通の八百屋だ。
でも。
店の右半分と、左半分で、
並んでいるものが、違っていた。
右側は、
リンゴ。
ミカン。
キャベツ。
見慣れた野菜と果物。
左側は——
…色が違う。
…形が違う。
淡く光る果実。
葉脈が不思議な幾何学模様の野菜。
見たことのない文字が刻まれた木箱に入っている。
よく見ると境目は、
ハッキリとしていた。
線で区切られているみたいに。
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値札を見る。
右側の商品には、
見慣れた表記で値段が書かれていた。
でも、
左側は——
桁が違う。
というか円じゃない。
通貨単位が違う。
商品名は、
漢字でもない。
カタカナでもない。
英語ですらない。
それなのに。
——値段。
——商品名。
なんとなく、
分かってしまう。
あの文字。
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買い物かごを提げた女性が、
迷いもなく棚から野菜を取り、
値札を一度だけ見て、静かに頷いた。
右側も、左側も。
同じように視界に入っているはずだ。
それなのに。
買い物客も、通行人も。
そこに違和感が存在していない。
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店の奥で、
店主がこちらに気づいてニコッと笑った。
見覚えのある顔。
昔からいる、八百屋のおじさん。
その表情に、
違和感はない。
「いらっしゃい」
いつも通りだった。
俺は、
左側に視線を移した。
……少し躊躇ったが、
淡く光る野菜を、
一つ取る。
重さも、触感も、現実だった。
「……これ」
少し声が震えた。
八百屋のおじさんは、
ちらりと俺の手元を見る。
そして、
何の疑問もなく頷いた。
「ああ、それね。今日のは甘いよ!」
「銅貨3枚ね」
金額を聞いた瞬間、
少し混乱した。
ポケットから、
500円玉を出す。
おじさんは、
何も言わずに受け取った。
「はいこれ、お釣り200円ね」
いつもの買い物だった。
「ありがとうございました!」
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店を離れて、
少し歩いてから立ち止まる。
振り返る。
店全体を改めて確認する。
右半分は、いつもの八百屋
左半分は、
八百屋とは思えない造りをしていた。
ただ、
足を止める人はいなかった。
買った袋の中を見る。
淡く光る野菜。
「……買えちゃったな」
思わず独り言が、漏れた。
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まだ。
世界は、
完全には混ざっていない。




