第6話 まだ、戻れると思っていた
夜。
玄関を開けると、リビングから話し声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、おかえりー」
妹の声。
テーブルを見ると、家族はもう夕飯を食べ始めていた。
「ねえねえ、聞いて」
妹は箸を持ったまま、楽しそうに話す。
「今日もこの子といっぱい遊んだんだよ!」
猫は妹の膝の上で丸くなっている。
——背中に、小さな羽。
今日も、はっきり見える。
妹も、両親も、
同じものを見ているはずなのに。
「ほら、ちゃんとお座りもするんだよ」
そう言って、妹は猫を撫でた。
どこにでもある一家団欒。
「ご飯、まだでしょ?」
母に言われて、席に着く。
茶碗を持つ手が、少し重い。
噛んでいるのに、
飲み込んでいる感覚が遠い。
猫は、俺の方を一度だけ見た。
目が合う。
それだけで、
胸の奥がざわつく。
「どうしたの? 具合悪い?」
「……ちょっと疲れた」
嘘じゃなかった。
「先に寝る」
「え、もう?」
「うん」
箸を置いて、立ち上がる。
⸻
部屋に戻って、ベッドに腰を下ろした。
今日のことが、
勝手に頭の中を巡る。
呼ばれなかった名前。
季節外れの転校生。
郵便受けの封筒。
「……疲れた」
天井を見ながら、呟く。
目を閉じようとした、そのとき。
小さな音。
ドアが、少しだけ開く。
「……?」
茶トラの猫が、
何事もなかったように部屋に入ってきた。
「おい」
止める間もなく、
ベッドに飛び乗る。
「この世界のご飯、不味いにゃん」
「…………は?」
一瞬、思考が止まった。
「固いし、匂いも変だし」
猫は、普通に続ける。
「正直、あんまり好きじゃないにゃん」
理解が、追いつかない。
「……今、何て」
部屋を見回す。
テレビは消えている。
スマホも鳴っていない。
誰もいない。
「……喋った?」
猫が、ぴたりと動きを止めた。
次の瞬間。
「……え?」
猫の方が、固まった。
「……え?」
互いに、黙ったまま見つめ合う。
「……もしかして」
猫が、恐る恐る言う。
「……通じてるにゃん?」
心臓が、嫌な音を立てた。
「……通じてる」
声が、掠れる。
「えっ!?」
猫が飛び跳ねる。
「ちょ、待て、ちょっと待つにゃん!」
ベッドの上を、ばたばたと動き回る。
「普通、通じないにゃん!!」
「こっちのセリフだ!!」
思わず、声を上げていた。
「猫が喋るとか、意味分かんねえだろ!」
「にゃ!? 猫じゃないにゃん!!」
背中の羽が、ばさっと広がった。
俺は、言葉を失った。
理解が、追いつかない。
猫。
羽。
声。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「……待て」
やっと、それだけ言えた。
猫は、ぴたりと動きを止める。
それから、ぽつりと呟いた。
「……おかしいにゃん」
小さな声だった。
「ここ、そういう世界じゃないにゃん」
でも。
その言い方で、
この世界の生物でないことはわかる。
「……お前」
声が、低くなる。
「何なんだよ」
猫は、少しだけ視線を逸らす。
そして、困ったように尻尾を揺らした。
「……説明、しなきゃいけないにゃん?」
その言葉を聞いた瞬間。
——聞きたくない。
そう思ってしまった。
でも。
聞かずにいられない。
もう、ここまで来てしまった。
⸻
まだ。
現実が壊れたわけじゃない。
ただ。
——もう、
元に戻れるとは思えなかった。




