馬愛でるドラマー
好きだった女が、コンサートに来てくれた。なぜ、寒い中、こんなおかしな男のドラム演奏を、わざわざ聴きに来たのだろう。
俺は競走馬の世話をする、厩務員である。高校時代、よく分からない理由でいじめを受けていた俺が、唯一心を開き、腹を割って話すことができた人が、たまたま馬術部の監督だった。馬を愛でる監督の人柄に、一途に憧れたので、馬と関わる仕事にこだわり、今こうして励んでいるのだ。
人生万事、山あり谷ありなのは分かっているが、最近妙な出来事が続いた。半年前の酷暑の時期に、俺が育てた馬が二頭も、立て続けに病死したのだ。もう、思い出したくないくらいに、ショックだ。こんなにもつらいことなんて、他にありますか。
一方で、二頭が危篤状態だった最中、皮肉なことが起こった。俺が別に育て上げた、当初走るのが最も遅かった鈍臭い馬が、まさかの優勝をした。ため息が何発も出るほど、驚いて、感激した。婚期を逃した俺からすると、目の中に入れても痛くないくらい、けなげで愛らしい息子だ。
俺の今の唯一の趣味は、ドラム演奏である。気さくなある騎手が、社外でロックバンドを結成していることに感化されたのだ。しかも、彼が紹介してくれたそのバンドのドラマーが、地に足がつき、年季の入った建築士であることだけでも尊敬に値するのに、何だか男気ある風貌で、瞳がきらめく初老のナイスガイであった。その人に、俺は勝手に憧れた。それが、ドラムと友になった始まりであった。
前述の二頭の馬が死んで、つらく大変な目に遭っていた頃、驚愕することがあった。てっきり嫌われていると思い込んでいた、厩務員の後輩女性から突然に、惚れたと打ち明けられたのだ。
ただ、俺はまぎれもなく魅力が乏しい人間である。この十年の間で、二回続けて、恋愛で散々な目に遭っていたのだ。一回目は、友人に相手を取られ、三行半を突きつけられた。二回目は、相手が熱烈に信仰する、変な宗教に執拗に勧誘された挙げ句、絶交した。そんな酷い経緯があるため、すっかり恋愛アレルギー体質になってしまったのだ。しかも、生来人付き合いが大の不得手であることも手伝い、俺は愛すべき彼女に、失礼なことをやらかした。若い女性が、せっかく惚れたと言ってくれて、心の中でガッツポーズをとったのに、それとは裏腹に、どうリアクションをとればいいのか、皆目見当がつかなかった。ただでさえ、日頃から無愛想なのに、大バカ者の俺は、告白されて以降、彼女の前では、ますますぶっきらぼうな言動をとってしまった。好きな女性の前では、岩みたいに固まってしまい、つくづく弱く情けない男だと、痛感した。
彼女は、冷たくなった俺を、絶望した表情で見つめていた。そして、半年経たない間に、退職理由を一言も告げずに、職場を去った。俺が原因なのは、明らかである。
彼女と生き別れになって、半年後のクリスマスシーズン。俺が所属するバンドが、路上コンサートを開いた日のこと。本番五分前、ドラムの前に座り、ふと客側に視線をやると、仰天した。その時の俺は、しばらく目を見開き、口を半開きにした、滑稽な表情だっただろう。この目に飛び込んできたのは、俺のせいで仕事を辞めた、あの女性の姿だった。彼女は立ち見席で、ポツンとたたずんでいた。その切なくも優しいまなざしからは、恨みや怒りは見受けられず、俺たちバンドを見守るかのように、一人きりで開演を待っていた。一体、どうやって俺の所在を知ったのだろう。
そんな計り知れない謎が脳裏を駆け巡ってるうちに、コンサートがついに開幕し、緊張感が走った。疑問を振り払うかのように、昔懐かしのシティ・ポップのリズムに乗って、緩急つけてドラムを叩き続けた。彼女は口角を引き締め、真剣な表情で、まっすぐに俺を見つめていた。俺も、ドラムを職人のように操りつつ、彼女から視線を離さなかった。元々汗っかきで、しかもかつて思いを寄せていた女性が、客として雷のように突如現れ、音程がややずれたラブソングを享受しているので、真冬なのに汗だくになった。
最後の曲が終わると、彼女は俺と目線をしっかりと合わせ、誰よりも深々と一礼し、くるっと背を向けて、立ち去った。それは、未練など消え去ったかのような、清々さが漂う後ろ姿だった。彼女は果たして、こんな愚かな俺を許してくれたのだろうか。そんな自問自答の堂々巡りを頭の中に殴り書きしつつ、コンサートの片付けをさっさとせっかちに行っていると、粉雪が一粒、汗がにじんで赤くなった手のひらに、ひらひらと白い蝶のように舞い降りてきた。




