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第四章:権力掌握と腐敗の始まり

## 幕末の政治状況 - 揺らぐ秩序


慶応二年(1866年)、日本は大きな転換期を迎えていた。将軍・徳川家茂の突然の死去は幕府に動揺をもたらし、若き徳川慶喜が第15代将軍に就任するも、その権威は過去の将軍たちと比べ物にならないほど弱まっていた。長州藩への再征伐は失敗に終わり、薩摩と長州の秘密同盟(薩長同盟)の噂が広がるなか、幕府の威信は日に日に低下していた。


西洋列強の圧力も日増しに強まり、横浜や長崎では外国人居留地が拡大し、通商関係の影響力は幕府の管理を超えつつあった。開国以来の物価高騰はさらに激しさを増し、特に米価の乱高下は庶民の生活を直撃し続けていた。


江戸の町では、打ちこわしや世直し一揆の脅威が常に存在し、町奉行所や目付の役人たちは、不穏な動きの潜む裏社会に神経を尖らせていた。大小様々な秘密結社や志士の集団が暗躍し、変革を求める声が日増しに高まる一方で、旧来の秩序を守ろうとする勢力との緊張が極限に達していた。


そんな混沌とした時代に、能美崇は意図せず足を踏み入れつつあった。彼はもはや単なる米屋の手代ではなく、「江戸屋互助会」の創設者として、小さいながらも確かな影響力を持ち始めていた。しかし彼の運命は、一人の謎めいた来訪者によって、さらに大きく、そして危険な方向へと変わっていくことになる。


## 謎の接触


夏の夜気が残る初秋の夕暮れ時、仕事を終えた崇が自室に戻ろうとした瞬間、一人の男が静かに姿を現した。簡素な着流しだが、その佇まいには隙がない。鋭い目は人を見透かすようで、崇は本能的に身構えた。


「能美崇殿とお見受けする」低く落ち着いた声音で男は言った。「少々、お耳に入れたい儀があり、参上つかまつった」


その気配と口調、何より視線の鋭さに崇は緊張した。武家の者か、それとも——。崇の背筋に冷たいものが走る。


「どちら様でしょうか」崇は平静を装いながら尋ねた。


男は微かに笑みを浮かべた。「私の名は、今はまだお伝えできません。しかし、あなた様のことは存じております。江戸屋の敏腕手代、そして『江戸屋互助会』の創始者...」


互助会の名を出されて、崇は息を呑んだ。互助会の評判が高まり、様々な人の耳に入ることは覚悟していたが、このような形で注目されるとは思っていなかった。


「ご心配には及びません」男は崇の緊張を察したのか、わずかに口元を緩めた。「我々は、あなた様の敵ではありませぬ。むしろ...あなた様のお力を、お借りしたいと考えている者でございます」


「我々、とは?」


「それは...」男は言葉を選ぶように一瞬間を置いた。「この国の行く末を憂い、腐敗しきった幕政を正し、真に民のための世を打ち立てんとする者たちです」


崇は静かに息を吸った。その言葉に、危険と可能性の両方を感じた。


「世直し組...とでも名乗っておきましょうか」男は続けた。「幕府の中にも、諸藩の中にも、我々と志を同じくする者はいます。外国に屈することなく、武士も町人も農民も、皆が安心して暮らせる世の中...それが我々の目指すものです」


崇は男の言葉に、自分の「互助会」の理想との共通点を感じた。同時に、この「世直し組」なる組織が、互助会とは比べものにならない規模と影響力を持っていることも直感した。


「...具体的に、私に何を求めておられるのでしょうか」崇は慎重に尋ねた。


「二つのことです」男はさらに声を落とした。「まずは、我らの活動のための資金をご援助いただきたい。江戸屋の、そしてあなたの互助会の力...我々は承知しています。次に、江戸市中の確かな情報です。商人たちの動き、物価の変動、市井の噂...あなたなら、我々が得られぬ情報を掴めるはずです」


資金と情報。崇はその要求の裏にある意味を瞬時に理解した。彼らは崇の財力と商人としてのネットワークに目をつけたのだ。そこには利用されるリスクがある。だが同時に、「世直し組」という力を利用できる可能性も見えた。


崇の頭の中で、急速に計算が始まった。この組織に協力することの危険性、そして得られる利益の可能性。そして何より、「世直し組」が本当に「民のための世」を目指しているのか、それとも単なる政治的野心に過ぎないのか。


「...お話は分かりました」崇はようやく口を開いた。「『民のための世』という志には、私も共感します。ですが、あなた方のやり方の全てに賛同できるかは分かりません。ましてや、私の身一つならともかく、江戸屋や、互助会の皆々様を危険に晒すわけにはまいりません」


崇は、男の目を真っ直ぐに見据え、条件を提示した。

「それでも、もし私の力が、真に民のためになるとお考えなら、限定的ながら協力しましょう。ただし、条件があります」


「ほう、条件とは?」


崇は冷静さを取り戻し、頭の中で言葉を選びながら語った。江戸屋や互助会との関係の切り離し、提供する資金と情報の範囲の限定、組織の活動内容についての情報共有、そして最も重要なこととして、彼らの行動が崇の理想に反すると判断した場合の協力の停止。


男は崇の毅然とした態度に、わずかに感心の色を浮かべた。

「...面白い。実に面白い若者だ。よかろう、その条件、呑もう。我々も、無用な争いや犠牲は望んではおらん。あくまで目的は『世直し』だ」


男は懐から小さな紙片を取り出した。「今後の繋ぎ(連絡方法)は、これに記してある。三日後の夜、ここに示された場所に来られよ。改めて、話そう」


男はそれだけ言うと、背後の影と共に、再び音もなく闇へと消えていった。


後に残されたのは、崇と、手の中にある小さな紙片だけだった。彼は深く息をついた。


(これは...危険な橋を渡ることになるかもしれない。でも、この組織を利用すれば、互助会をもっと大きく展開できる可能性もある...)


崇の心の中では、既に次の一手が動き始めていた。「世直し組」を単に協力するだけでなく、むしろ自分の目的のために活用する方法を。


## 侵入と計算


三日後の夜、崇は紙片に記された場所——裏通りにある、廃屋同然の仕舞屋へと向かった。周囲に目立った人影がないことを確認し、約束された合図を送ると、中から戸が開き、手招きされた。


室内は薄暗く、数人の男たちが沈黙の中で座っていた。中央には、あの目つきの鋭い男——さかきと名乗った男が控えていた。


「よく来たな、能美殿」榊は静かに言った。「約束通り、まずは我らの活動について、話せる範囲でお伝えしよう」


榊の話は、表面上は崇の想像していた通りだった。幕政の腐敗を糾し、外国の脅威から国を守り、民の安心を取り戻す——高邁な理想を語りつつも、具体的な行動計画や組織構造については、まだ多くを明かさなかった。


崇は熱心に聞く素振りを見せながらも、その言葉の裏に隠された真意を探ろうとしていた。榊の眼差し、声のトーン、身振りの細部に至るまで、全てを観察し分析する。


(組織の実態はまだ見えない。だが、少なくとも彼らが相当の力と情報網を持っていることは確かだ)


崇は、時折鋭い質問を織り交ぜた。

「なるほど、崇高な目的です。しかし、具体的に、いつ、どのような『事』を計画されているのですか?」

「組織の運営は、どなたが中心となって?」

「活動資金は、主にどこから?」


榊は、質問の一部には慎重に答え、一部は曖昧に濁した。崇はその反応から、組織内の情報管理の厳しさと、彼らがどの程度崇を信頼しているかを測っていた。


会談の最後で、崇は懐から金包みを取り出し、榊に差し出した。

「微力ながら、私からの最初の志です。お役立てください」


そして、すかさず付け加えた。

「ただ、この貴重な資金、無駄にするわけにはまいりません。よろしければ、資金の管理や、より効率的な使い方について、私も知恵を出させていただきたい。互助会の運営で、多少なりとも経験がございますので」


榊は一瞬驚いたように見えたが、すぐに頷いた。

「ほう...それは、ありがたい申し出だ。我々は、金の勘定には疎い者が多くてな。ぜひ、あなたの知恵を拝借したい」


(最初の一手は成功だ)崇は内心で微笑んだ。資金の流れに関与できれば、組織の実態を把握し、やがては影響力を持つための足掛かりになる。


帰り道、崇の心は高揚感と緊張感で満ちていた。彼は既に「世直し組」の内部に、わずかながらも入り込む糸口を見つけていた。今後の戦略が、彼の頭の中で次々と形作られていく。


(彼らの目的に沿いながらも、私自身の影響力を高めていく。最終的には、この組織を...)


崇は自分の野心に、一瞬たじろいだ。彼の目的は、本来「人々を救うこと」だったはずだ。だが今、彼の胸に広がっているのは、冷静な計算と、権力への渇望だった。


(いや、違う。私の目的は変わっていない。人々を救うためには、力が必要なのだ。組織を掌握することは、その手段に過ぎない...)


そう自分に言い聞かせながらも、崇の心の一部は、その言葉が自己正当化に過ぎないことを知っていた。


## 金庫番の戦略


「世直し組」との接触から数ヶ月、崇はこの秘密組織との関わりを深めていった。定期的に資金を提供しながら、組織内での自分の立場を少しずつ固めていった。


当初は単なる「協力者」でしかなかった崇だが、彼の商才と計算能力、そして冷静な判断力は、次第に榊たちの信頼を勝ち取っていった。特に、組織の財政管理に関しては、彼の手腕は目を見張るものがあった。


「榊様、お預けした資金、有効にお使いいただけておりますでしょうか?」


ある晩の会合で、崇は切り出した。「いささか僭越ながら、資金の管理について、私にお手伝いできることがあるやもしれません」


榊は、組織の財政状況がかなり混乱していることを認めた。多くのメンバーは武士上がりの者たちで、帳簿や金銭管理には疎かったのだ。崇は、その隙を逃さなかった。


「よろしければ、一度組織の収支を拝見し、整理させていただくことは可能でしょうか?」


榊は最初躊躇ったが、崇の真摯な申し出と、組織の財政難を考慮して、ついに了解した。


崇が手にした帳簿は、驚くほど杜撰なものだった。収入と支出の区別があいまいで、使途不明金も多い。崇は、この混乱した帳簿を整理するだけでなく、そこから組織の活動実態や資金源、主要メンバーの動向など、さまざまな情報を読み取った。


新しい帳簿システムを構築し、収支を明確に分類し、将来の資金計画までを提案した崇の仕事ぶりに、榊や他の幹部たちは感嘆した。


「これほど明晰な金銭管理は見たことがない」榊は崇の肩を叩いた。「お前には、我らの金庫番として、今後も力を貸してほしい」


こうして崇は、「世直し組」の実質的な財務担当、金庫番となった。全ての資金の流れが彼の目を通り、彼の許可なしには支出できない仕組みが作られていった。この立場は、崇に組織内の膨大な情報と影響力をもたらした。


しかし同時に、彼の心には次第に影が忍び寄っていた。


(私は...正しいことをしているのだろうか)


夜、一人部屋に戻った時、崇は時折そんな疑問を抱くようになっていた。互助会は民衆のため、という大義名分があった。しかし、「世直し組」の活動の中には、明らかに暴力的、違法なものもあった。彼の提供する資金が、どこかで人を傷つける武器になっている可能性もある。


(でも、世の中を変えるためには、時に汚れた手段も必要だ...きれいごとだけでは何も変わらない)


崇は、自分の行為を正当化するための論理を組み立てていった。大きな目的のための小さな犠牲。一時的な混乱を経ての、より良い世界の実現。それらは、彼の心の葛藤を一時的に和らげる麻薬のような効果を持っていた。


さらに、崇は金銭だけでなく、江戸中の商人たちから得た情報も組織に提供した。米価の動向、商家の資金繰り、町人たちの噂話...それらは、「世直し組」の活動計画に大きな価値を持っていた。


「能美殿、お前の情報は実に正確だ。先日の米問屋の打ちこわしも、お前の情報のおかげで効果的に行えた」


榊の言葉に、崇は複雑な感情を覚えた。自分の情報が暴力に繋がったことへの罪悪感と、組織内での評価が高まることへの満足感が入り混じる。


(これも...目的のための手段だ)


そう自分に言い聞かせながらも、崇の心の奥底では、純粋な理想を持っていた元の自分と、今の自分との距離が、日に日に広がっていくのを感じていた。


## 内部工作と情報操作


崇の「世直し組」内での地位が上がるにつれ、彼の野望も膨らんでいった。資金管理の立場を利用し、組織内の様々な勢力関係を把握した彼は、次なる一手として、内部での権力闘争に関与し始めた。


彼のターゲットは明確だった。榊に次ぐ発言力を持ち、崇の急速な台頭を快く思っていない過激派のグループと、組織の古参であり、保守的な考えを持つ幹部数名だ。彼らが排除されれば、榊と崇の二人を中心とした新たな権力構造が生まれる可能性があった。


崇は、巧妙な情報操作を始めた。


まず、彼は懇意になった瓦版屋に接触し、二種類の記事を流した。一つは「世直し組」と榊を称賛するもの。「腐敗幕政に立ち向かう謎の義士団! リーダーは高潔なる人物との噂」という、実態とはかけ離れた美辞麗句に満ちた内容だ。これは榊の自尊心をくすぐり、崇への信頼を深めるためのものだった。


もう一つは、より意図的な記事だった。「義士団の中に、私利私欲に走り、組織の金を使い込む不心得者がいるとの噂」「一部の過激なメンバーが、無謀な計画を進めようとし、内部で対立か?」という、扇動的な内容だ。この記事は、崇のターゲットとする敵対派閥を暗に批判し、組織内に疑心暗鬼の種を蒔くことを目的としていた。


さらに、崇は金銭管理の立場を利用して、敵対派閥のメンバーの「弱み」を探り出した。些細な金の使い込み、遊郭での不行跡、過去の失敗談...その情報を、あたかも偶然耳にしたかのように、あるいは「組織の規律を守るために」という大義名分のもとに、榊や他の幹部の耳に入れた。


「榊様、申し上げにくいことではございますが...」崇は心配そうな表情で告げた。「老川どのが、先日預かった資金で、遊女屋に豪遊したという噂が...」


「なに? 証拠はあるのか?」


「はい。彼の部下から直接聞きました。また、この帳簿をご覧ください。この日の支出、明らかに不自然でございます」


崇は、信頼できる(あるいは金で動く)下位メンバーを使い、敵対派閥に関するネガティブな噂も広めた。「あの人は、どうも幕府の密偵と繋がっているらしい」「組織の金を博打につぎ込んでいるそうだ」といった、根も葉もない、しかし疑念を抱かせるには十分な噂だ。


これらの工作は、次第に効果を現し始めた。榊は、瓦版で自分の評判が上がっている(ように見える)ことに気を良くし、崇への信頼をさらに深めた。同時に、崇が巧妙に流した情報や噂によって、敵対派閥への不信感を募らせていった。


「組織の結束を乱す不穏分子」という認識が、榊の中で固まりつつあった。敵対派閥のメンバーたちは、謂れのない噂や疑念の目に晒され、組織内で急速に孤立していった。


ついに、崇は榊との密談の席で、最終的な一手を打った。


「榊様。例の者たちの件ですが、もはや看過できませぬ。彼らの存在は、我らが大義への道を阻む癌でございます。このまま放置すれば、組織そのものが内部から崩壊しかねません」


崇は、これまでに集めた(あるいは捏造した)敵対派閥の「証拠」を提示し、言葉巧みに榊の決断を迫った。


「苦渋のご決断とは存じますが、組織の未来のため、そして榊様ご自身のためにも、彼らを排除...粛清なさるべきかと存じます」


榊は苦悩の表情を見せたが、既に崇が作り上げた情報網の中で、他の選択肢は考えられなくなっていた。崇への信頼、敵対派閥への不信感、そして組織を守らねばという使命感。それらが、榊に非情な決断をさせた。


「...分かった。能美殿の言う通りだ。彼らには、組織から去ってもらおう。いや、場合によっては...」


榊の言葉は、それ以上続かなかったが、その意味するところは明らかだった。


数日後、組織内で粛清が断行された。敵対派閥の中心メンバーは、会議の場で糾弾され、組織からの追放を宣告された。抵抗しようとした者は、榊の指示を受けた部下たちによって、力ずくで排除された。その後の彼らの消息を知る者は少ない。あるいは、闇から闇へと葬られたのかもしれない。


崇は、その粛清の場には直接関与せず、あくまで「金庫番」として、事後処理を淡々とこなすだけだった。しかし、その裏で糸を引いていたのが誰なのか、聡い者は気づいていたかもしれない。


粛清によって、組織内での崇への異論は消え失せた。榊は、崇を自身の最も信頼する腹心とみなし、組織運営の多くの部分を彼に委ねるようになった。崇は、実質的に「世直し組」のナンバー2、あるいは影の支配者としての地位を手に入れたのだ。


しかし、その成功と引き換えに、崇の心には暗い影が落ちていた。


## 変わりゆく関係


権力を手にした崇の周囲では、様々な人間関係が微妙に、しかし確実に変化していった。


まず、江戸屋での立場だ。「江戸屋互助会」は順調に拡大し、今では複数の町内をカバーするほどになっていた。主人や番頭は、互助会の成功と崇の商才に敬意を払いつつも、彼の行動に対して些かの懸念を抱き始めていた。


「崇、最近、夜の外出が多いようだな」ある夕食の席で、主人が静かに言った。


「申し訳ありません。互助会の業務が増えておりまして...」崇は滑らかに答えた。


主人は意味深な表情で頷いたが、それ以上は追及しなかった。しかし、彼の目には明らかな懸念の色が浮かんでいた。


番頭の六左衛門もまた、崇への態度を変えつつあった。かつての厳しさの中にも垣間見えた温かさは影を潜め、代わりに警戒心と距離感が生まれていた。


「崇」ある日、番頭は崇を呼び止めた。「お前、互助会の資金、きちんと管理しているな?」


「もちろんです」崇は即座に答えた。「帳簿もつけておりますし、いつでもご覧いただけます」


「そうか...」番頭は何かを言いかけて、口をつぐんだ。「...気をつけろよ。お前の作ったものだからな」


崇は番頭の懸念を理解していた。彼は確かに互助会の資金の一部を、「世直し組」への支援に流用していた。帳簿は巧妙に操作されており、表面上は全く問題なかったが、番頭のような経験豊かな商人は、何かの齟齬を感じ取っていたのかもしれない。


互助会の加入者であり、崇の片腕として働いていた忠助も、彼への態度を変えていた。かつては崇を慕い、彼の指示に熱心に従っていた忠助だが、最近では彼の目に疑問の色が浮かぶようになっていた。


「兄貴...いや、崇さん」ある日、忠助は恐る恐る言った。「互助会は、最初に始めたときの精神とは、だいぶ変わってきているように思うんですが...」


「そうか? 人々を支え、救うという目的は変わっていないと思うが」崇は冷静に答えた。


「でも、最近の方針は...」忠助は言葉を選びながら続けた。「なんというか...もっと厳しいというか...加入を強制されてるようなところもありますし...」


「忠助」崇は静かに、しかし威圧を込めて言った。「互助会を大きくするには、時に強い手段も必要なんだ。これは、最終的には皆のためになる」


忠助は口をつぐんだが、彼の目には明らかな失望の色が浮かんでいた。


最も大きな変化は、佐々木仙吉との関係だった。かつての恩人であり、互助会の立ち上げにも協力してくれた仙吉は、崇の変化に最も敏感に反応していた。


「崇よ」ある夜、二人だけの酒の席で、仙吉は切り出した。「お前...何か変わったな」


「変わった?」崇は平静を装った。「どういう意味で?」


「目の色だ」仙吉は真っすぐに崇を見つめた。「昔のお前の目は...もっと透明だった。今は...何か濁ったものを感じる」


「仙吉さん...」崇は苦笑いを浮かべた。「私はただ、理想を実現するために尽力しているだけです」


「理想か...」仙吉は酒を一気に飲み干した。「だが、その道で、自分を見失うなよ。何のための理想だったのか...それを忘れたら、全てが無意味になる」


崇は黙り込んだ。仙吉の言葉が、彼の心の奥深くに眠る何かを揺り動かしていた。


「ところで」仙吉は話題を変えるように言った。「最近、お前のところに、見慣れない客が来るようになったと聞くが...」


崇は一瞬、息を呑んだ。「世直し組」の者たちのことだ。


「ああ...互助会の関係者です」崇は嘘をついた。


仙吉は長い間崇を見つめた後、ゆっくりと頷いた。「そうか...気をつけろよ。この時代、いろんな輩が、いろんな名目で集まっている。特に、『世直し』なんて言葉を掲げる連中はな」


崇は動揺を隠せなかった。仙吉は何かを知っているのだろうか?


「私は...自分の道を行くだけです」崇は静かに言った。


「そうか...」仙吉は立ち上がり、去り際に言った。「ただ覚えておけ。道を誤れば、後戻りはできん。お前の選ぶ道が、本当に望むものかどうか、よく考えることだ」


仙吉との会話から数日後、崇は彼が姿を消したことを知った。行き先を告げることなく、彼は忽然と江戸から姿を消したのだ。


(仙吉さん...)崇は複雑な思いで夜空を見上げた。心の片隅では、彼の去っていく背中に、自分の中の何かも一緒に連れ去られたような感覚があった。


## 深まる闇


崇の権力掌握が進む一方で、「世直し組」の活動もますます過激さを増していった。かつては民間人を巻き込まないよう注意していた組織も、今では民衆の恐怖心を利用した宣伝活動や、「非協力的」な者への脅迫も辞さなくなっていた。


崇自身も、かつての理想主義的な青年とは別人のようになっていた。冷静な計算と戦略的思考が彼の特徴となり、目的のためには手段を選ばない姿勢が身についていた。


互助会は、もはや単なる相互扶助のシステムではなく、「世直し組」の資金源であり、情報収集網であり、民衆を管理するための道具となっていた。「江戸大互助講」と名を変え、江戸中の多くの地域をカバーするまでに拡大。加入は半ば強制的なものとなり、掛け金の滞納者や組織に批判的な者は、様々な形で「制裁」を受けるようになっていた。


崇は互助会の資金を、巧妙に「世直し組」の活動に流用しながらも、表向きは慈善活動を続けていた。この二重生活は、彼の中の道徳的葛藤を一層深めていった。


(これは必要な犠牲だ...より大きな目的のために...)


そう自らに言い聞かせながらも、崇の心の奥底では、元々持っていた純粋な救済の理想と、今の自分の行動との乖離に苦しんでいた。時に、夜中に目を覚まし、冷や汗を流すこともあった。


「お前は本当に民のためと思ってこんなことをしているのか? それとも単に権力に酔いしれているだけなのではないか?」


かつての自分、あるいは仙吉の声が、彼の頭の中で問いかけてくる。崇は必死にその声を打ち消そうとした。


(黙れ...私は確かな目的を持っている。混乱期には強い指導力が必要なのだ...)


しかし、このような内面の葛藤が表面化することはなかった。外から見れば、崇は冷静沈着で、計算高く、そして徹底して自分の目的に向かって進む男だった。


ある夜、「世直し組」の幹部会議で、崇は重要な提案を行った。


「榊様、我々の影響力をさらに広げるためには、互助講のネットワークを最大限に活用すべきです。各地区に監視者を置き、民衆の不満や動向をより細かく把握する。そして、不穏分子は事前に排除する...」


崇の提案は、明らかに人々の監視と管理を強化するものだった。かつて人々を救うために始めた互助会が、今や彼らを抑圧するための道具に変質しようとしていた。


榊は崇の提案に頷いた。「さすが能美殿。それは良い案だ。実行しよう」


崇は、榊が自分の提案を全面的に受け入れることに、もはや驚かなくなっていた。榊は表向き組織のリーダーだが、実質的な決定権と影響力は、既に崇の手にあった。榊は今や、崇の作り上げた情報と計算の網の中で、彼の意図通りに動く駒に過ぎなかった。


(これでいいのだ...私の理想を実現するには、力が必要だ。その力を手に入れるためには...)


崇はそう自分に言い聞かせながら、次の一手を考え始めた。しかし、彼の心の奥底では、かつての純粋な思いが、静かに、しかし確実に死に絶えつつあった。


---


## 歴史的背景:幕末の秘密結社と民衆運動


慶応期(1865-1868年)の日本では、政治的混乱と社会不安が極限に達し、様々な秘密結社や民衆運動が活発化していた。薩摩と長州の秘密同盟、尊王攘夷派の秘密ネットワーク、そして民間レベルでの「世直し」を掲げる集団など、公式の政治体制の外側で多くの勢力が暗躍していた。


これらの秘密結社の中には、単なる政治的野心だけでなく、社会改革を目指すものも存在した。特に「世直し」を掲げる集団の中には、民衆の困窮を救い、不平等な社会構造を変革するという理想を持つものもあった。しかし、その多くは理想の実現過程で、過激化し、当初の目的から逸脱していくという共通のパターンを持っていた。


注目すべきは、こうした秘密結社が、しばしば既存の社会ネットワーク——例えば商人の取引関係、講や頼母子講のような互助組織、町内の結びつきなど——を基盤として発展したことだ。能美崇の「互助会」から「世直し組」への関与という物語は、こうした歴史的事実を反映している。


また、幕末期には、社会的混乱の中で急速に力を持った人物が、やがて腐敗し、あるいは権力に酔いしれ、当初の理想を見失うという事例も多く見られた。理想主義で始まった運動が、次第に指導者の個人的な権力装置と化していくという過程は、歴史上繰り返されてきた現象である。


能美崇の辿る道は、時代の制約を越えて普遍的な、権力と理想の間の危うい均衡の物語として読むことができる。それは、変革を求めて立ち上がった無数の人々が直面してきた誘惑と堕落、そして苦悩の物語でもあるのだ。

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