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第三章:理想と野望の分岐点

## 動乱の時代——民の苦しみ


慶応元年(1865年)、日本は未曾有の激動期に突入していた。長州征伐は一時的な講和で収まったものの、水面下では薩摩と長州の間に新たな同盟関係が形成されつつあった。開国以来の物価高騰は一向に収まらず、米価の乱高下は庶民の生活を直撃し続けていた。


江戸の町では「世直し」を標榜する民衆蜂起が各地で散発的に発生し、豪商や米問屋が打ちこわしの対象となることも珍しくなかった。「上げ相場(米価高騰)」の時期には特に暴動が頻発し、町奉行所の与力や同心たちが昼夜を問わず取り締まりに追われていた。


裏長屋では飢餓に苦しむ者も多く、病死や自害する者も後を絶たなかった。不安定な社会情勢は、支配階級への怒りと将来への不安を募らせ、さらなる混乱の種を蒔いていた。


そんな時代の中で、江戸屋の手代として確固たる地位を築きつつあった能美崇は、自分のキャリアと人生の意味について、次第に深い思索を巡らせるようになっていた。


## 雨の日の邂逅


五月雨の降りしきる午後、崇は江戸屋の店先で帳場の仕事を終えたところだった。傘を手に取り、得意先への配達に出かけようとした瞬間、店の軒先に人影を認めた。


雨に打たれ、ずぶ濡れになったボロ布のような着物を身にまとった女性が、幼い子を抱きかかえて立っていた。女性の顔は青白く、頬はこけ、目は熱に浮かされたように潤んでいる。子どもは五、六歳ほどの男の子で、痩せこけた体に包帯が巻かれ、時折咳き込んでいた。


「あの…」


女性は震える声で口を開いた。その声には、最後の望みにすがる者特有の、震えと絶望が混じっていた。


「旦那様…どうか…どうか、この子に…ほんの少しで良いので、お米を恵んではいただけませんか…」


彼女は深々と頭を下げ、続けた。


「亭主が…先月、コロリで…あっけなく逝ってしまいまして…もう、何日もまともなものを口にしておらず…お恵みを…」


涙が彼女の頬を伝い、地面に落ちた。雨水と混ざり合い、消えていく。


番頭の六左衛門が対応に出た。彼は女と子を一瞥すると、苦渋に満ちた表情で言った。


「すまねえが、うちも商売でな。施しはできねえよ。他を当たってくれ」


番頭の声は冷たくはなかった。むしろ心では同情していることが伝わってくるような、申し訳なさの滲んだ響きだった。しかし、商売を続けていくためには線を引かなければならない。それが江戸の現実だった。


女は崇と番頭を見比べ、わずかに頷いた。最後の望みを失った者の虚ろな表情で、力なく立ち上がった。


「すみません…ご迷惑をおかけして…」


彼女は子供の頭を抱きかかえると、再び雨の中へと歩き出した。子供は泣き声すら上げられないほど衰弱しており、ただ母親にしがみついたまま、小さく震えていた。


崇は、その光景に胸が締め付けられるのを感じた。番頭の判断は間違っていない。商売には商売の論理がある。しかし——。


「番頭さん」


崇は突然、自分の声が出るのを感じた。


「俺の給金から出します。あの母子に、小町を一升ほど分けてやりたいのですが」


番頭は驚いたように崇を見た。


「崇…お前、給金は少ないだろう。それに、施しを始めれば切りがない。町内にはあんな貧しい者がごまんといるんだぞ」


「わかっています。でも…ほんの一升だけです。一人の命も救えない商売なら…何のための米屋なのか、わからなくなってしまいそうで」


崇の声には、苛立ちではなく、静かで深い悲しみが滲んでいた。六左衛門は暫く崇の顔を見つめ、やがて小さくため息をついた。


「…わかった。お前の給金から引くからな」


番頭は無言で米櫃から「江戸屋小町」を一升ほど袋に詰め、崇に手渡した。


「ありがとうございます!」


崇は袋を受け取ると、傘も持たずに雨の中へと飛び出した。


濡れた石畳を、泥水を跳ね上げながら走る。女と子どもの姿を探し、通りを曲がり、横丁に入り——。


「どうか、まだ近くにいてください…」


やがて、路地の曲がり角で、崇は彼女たちを見つけた。壁際に座り込み、子どもを抱きしめたまま雨に打たれている。もう歩く気力すらないのだろう。


「お母さん!」


崇は駆け寄り、米袋を差し出した。


「これを持っていってください。江戸屋小町という、うちの良質なお米です」


女は最初、幻を見ているかのように崇を見つめた。


「え…なぜ…どうして…」


「どうか受け取ってください。これであなたたちは、三日か四日は食いつなげるはずです」


女の目に、再び涙が溢れた。今度は絶望の涙ではなく、突然の救いに対する感謝の涙だった。


「ありがとう…ありがとうございます…」


彼女は米袋を抱きしめ、崇に深々と頭を下げた。


「ご恩は決して忘れません…」


崇は恥ずかしさを感じて首筋をかいた。


「いえ、これほど感謝されることではありません。本当はもっと上げたいくらいです」


「いえ、これだけでも…命の恩人です…」


女は子どもを抱きかかえ、再び歩き始めた。今度はその足取りに、わずかな希望が見えた。


崇は彼らが去っていく姿を見送りながら、心の中で誓った。


(この程度の施しで、本当に救われるのか?一時しのぎに過ぎない。もっと…もっと根本的な解決方法があるはずだ)


雨は彼の全身を濡らし、冷たさが骨にまで染みた。しかし、崇の胸の内には、これまで感じたことのない熱い感情が渦巻いていた。


## 互助の構想


江戸屋に戻った崇は、仕事の合間に、あの母子のことを考え続けた。夜、自室で一人になると、彼は反故紙を広げ、何かを必死に書き始めた。


(この時代には、突然の病や死に対する備えがない。特に貧しい層には…)


崇の頭の中に、現代の制度が浮かんでいた。生命保険、健康保険、社会保障…現代日本では当たり前だった安全網が、この江戸時代には存在しない。


(もちろん、「講」という相互扶助の仕組みはある。伊勢講、富士講、頼母子講…でも、それらはもっと積極的な目的のためのもので、万が一の備えとしては不十分だ)


崇は現代の保険制度を思い出しながら、それをこの時代に適応させる方法を考えていた。


(保険会社のような大きな組織は無理だし、貨幣経済も不安定だ。でも、米なら…そうだ、「米」を使えばいいんだ!)


興奮に震える手で、彼は「米保険」の構想を書き始めた。加入者は毎月わずかな額(数十文程度)を支払い、万が一世帯主が死亡したり、大病や怪我で働けなくなったりした場合、一定期間、定量の米が支給される仕組み。


(これなら、あの母子のような悲劇を減らせるかもしれない…)


崇はさらに詳細を詰め始めた。対象地域、掛け金の額、給付条件、運営方法…。彼の頭の中では、すでに具体的なビジョンが形になりつつあった。


(でも、実現するには資金が必要だ。まとまった米の備蓄も必要になる。一人の手代の力では限界がある…)


崇は困難を前に一瞬たじろいだが、すぐに決意を新たにした。


(いや、まずは小さく始めればいい。例えば、江戸屋の近所の長屋だけを対象に、試験的に始めてみる。そして少しずつ広げていけば…)


彼は夜遅くまで構想を練り上げ、翌日、意を決して主人と番頭に相談することにした。


「主人、番頭さん。少しお時間をいただけますでしょうか?」


商いが一段落した夕刻、崇は二人を帳場に呼び止めた。主人は怪訝な表情を浮かべたが、崇の真剣な様子に気づき、腰を下ろした。


「何か新しい案でも思いついたか?」


「はい」崇は準備した反故紙を広げた。「『江戸屋互助会』と名付けた、新しい仕組みを考えました」


崇は熱を込めて説明した。店の近くの長屋住民を対象に、毎月わずかな掛け金を集め、万が一の際に米を給付する仕組み。単なる慈善ではなく、互いに支え合う持続可能なシステム。


話が進むにつれ、主人と番頭の表情が変わっていった。最初は困惑、次に関心、そして心配…。


「崇よ」主人が口を開いた。「その思いは素晴らしい。だが、新しすぎる仕組みだ。うまくいくかわからんし、万が一失敗すれば、江戸屋の評判にも関わる」


番頭も頷いた。「それに、人が集まるかどうかもわからんぞ。掛け金を払って、いつ来るかわからん災難に備えるという考え方は、江戸の人間には馴染みがない」


崇は予想していた反応だった。しかし、あの母子の姿が彼の決意を強くさせた。


「ですが、一度試してみる価値はあると思います」崇は静かに、しかし確固とした声で言った。「まずは小規模に、近所の長屋だけで。江戸屋の名で実施すれば、信用も得られるはずです。そして、これは単なる慈善ではなく、商売としても成り立つ可能性があります」


「商売として?」番頭が眉をひそめた。


「はい。『互助会に加入すれば、江戸屋の米が割引になる』などの特典を付ければ、新たな得意先も増えますし、町内での評判も高まります。何より…」


崇は言葉を選びながら続けた。


「これからの世の中は、ただ商売がうまいだけでは生き残れないかもしれません。人々の役に立つ商いこそが、長く続く商いではないでしょうか」


主人と番頭は顔を見合わせた。崇の情熱と、その構想の具体性に、二人とも心を動かされつつあった。


「よし」主人はついに口を開いた。「試しにやってみよう。だが、あくまで小規模に、そして慎重にな。もし失敗したら…」


「はい!責任は全て私が取ります!」


崇は喜びを抑えきれず、立ち上がった。彼の頭の中では、すでに次の展開が見えていた。長屋での説明会、加入者募集、帳簿の準備…。


彼はまだ気づいていなかったが、この「江戸屋互助会」の構想が、彼の人生を大きく変える転機となることを。そして、その変化は必ずしも彼が当初思い描いた理想的な方向とは限らないことを。


## 仙吉との再会


互助会の準備を進めるうち、崇は店の外での活動も増えていった。長屋の住民たちに説明するためのチラシを作り、大家との交渉も行った。彼の姿は江戸の街なかでも珍しくなくなっていた。


初夏の夕暮れ時、崇は長屋での説明会を終え、江戸屋への帰り道を急いでいた。薄暗くなりつつある路地を曲がったとき、彼は不穏な気配を感じた。


少し先の細い路地から、男たちの怒声と、何かがぶつかる音が聞こえる。崇はいったん立ち止まった。


(やばそうな雰囲気だ…関わらないほうがいいな)


そう思って通り過ぎようとした矢先、彼は見覚えのある声を聞いた。


「手前らごときに、ひれ伏すわけにはいかんのだよ」


その声には、独特の渋みと力強さがあった。崇は思わず足を止めた。


(仙吉さん…?)


彼は慎重に路地の角から覗き込んだ。そこには、佐々木仙吉が数人の男たちに囲まれていた。男たちは、安っぽい着物に刀を差した、典型的な無頼の姿だ。仙吉は壁際に追い詰められながらも、毅然とした態度を崩していなかった。


「貸した金は返してもらうぜ、仙吉」リーダー格と思われる、顔に傷のある男が言った。「ここ数か月、逃げ回りやがって…」


「すでに利子は十分支払った。元金は分割で返すと言っただろう」


仙吉の冷静な対応に、男たちはさらに苛立ちを募らせた。


「ふざけるな!一度に全額返せ!それができねえなら、その刀で払ってもらおうじゃねえか…」


男たちが少しずつ仙吉に詰め寄る。仙吉は腰に手をやり、刀の柄に触れた。一触即発の状況だった。


崇の頭に、あの雨の夜の記憶が蘇った。絶望的な状況で、仙吉が差し出してくれた一つの握り飯。あの小さな救いが、今の自分の原点だった。


(逃げるべきか…いや、できない)


崇は深呼吸をして、路地に飛び出した。


「仙吉さん!」


彼は大声で叫び、男たちと仙吉の間に割って入った。


一同が驚きに固まる中、崇は続けた。


「やっと見つけました!大変です!お母上が急病で…」


仙吉は一瞬混乱し、次に崇の狙いを理解した。


「何だ、お前…母が?」


「はい!今すぐ来てほしいと!私はお使いに来たのです!」


崇は必死に演技した。本気の演技だった。これがうまくいかなければ、二人とも命の危険がある。


男たちは顔を見合わせた。リーダー格の男が怪訝な表情で言った。


「おい、こいつ誰だ?まさか、お前の息子か?」


崇と仙吉にはまったく似ていないにもかかわらず、その質問が可笑しかったが、笑っている場合ではなかった。


「違う。知り合いだ」仙吉は平然と答えた。「今日はここまでだな。母親の様子を見に行かねば」


「ちょっと待て!話の途中だろうが…」


男たちが前進し、路地は一層狭まった。仙吉が崇の腕を引き、二人は背を向ける。その瞬間、一人の男が仙吉の背に飛びかかった。


「逃がすもんか!」


仙吉は驚異的な速さで身をひるがえし、男の手首を掴んだ。一瞬の間に男の体勢を崩し、地面に叩きつけた。


「うおっ!」


男が悲鳴を上げる間もなく、仙吉は崇の手を引いて走り出した。


「走れ!」


二人は猛スピードで路地を駆け抜けた。背後からは怒号と足音が迫っている。


「こっちだ!」


仙吉は崇を引っ張り、複雑に入り組んだ路地を縫うように進んだ。彼はこの辺りの地理に詳しいようだった。角を曲がり、狭い隙間を抜け、時には突如現れた塀を飛び越える。


「はぁ…はぁ…」


崇は息が上がり、足がもつれそうになった。現代の高校生と違って、ほとんど運動をしていない体は悲鳴を上げていた。


「もう少しだ!あそこに入るぞ!」


仙吉が指差した先には、古ぼけた倉庫のような建物があった。二人は滑り込むように中に入り、扉を閉めた。


「はぁ…はぁ…っ、追っ手は?」


崇が息を切らしながら尋ねると、仙吉は窓の隙間から外を窺った。


「もう見えん。撒いたようだ」


崇はその場に崩れるように座り込んだ。全身から汗が噴き出し、喉は乾き、脈は早打ちしていた。一方の仙吉は、わずかに肩で息をしているだけで、まだ余力がありそうだった。


「すまなかったな、巻き込んで」


仙吉が静かに言った。崇は首を横に振った。


「いえ…私こそ、突然飛び出して…状況をよく理解せずに…」


「いや、助かった」仙吉はにやりと笑った。「あの間の抜けた芝居のおかげで、敵の注意を引けたからな」


崇は照れたように首をかいた。


「演技が下手で…すみません」


「いや、むしろ良かった。『役者』だと思われたら、あいつらも簡単に引き下がらなかっただろう」


二人は顔を見合わせ、静かに笑った。数分前の生死を賭けた緊張が、急速に緩み始めていた。


しばらく沈黙が続いた後、崇は口を開いた。


「あの男たちは…?」


「借金取りだ」仙吉はあっさりと答えた。「俺が博打で作った借金の。まあ、もう返せる見込みはないがな」


「いくらほど…?」


「かれこれ…一両二分といったところか」


崇は驚いた。決して小さな額ではないが、命を狙われるほどの金額とも思えない。


「その程度で…あんなに粗暴に?」


「あいつらは、金よりも『例』を作りたいのさ」仙吉は皮肉げに言った。「逃げた奴は必ず捕まえて厳しく取り立てる。そうでなければ、他の借り手も逃げ出すだろう」


崇は黙って聞いていた。彼の中で、一つの考えが形になりつつあった。


「仙吉さん…」


「ん?」


「その借金、私が肩代わりします」


仙吉は驚いたように目を見開いた。


「何を言っておる?商家の者が、そんなことに関わってはいかん」


「いえ、恩返しです」崇は真剣な表情で言った。「あの夜、あなたがくれた握り飯がなければ、私は今ここにいない。あの小さな親切が、私の命を救った。そして今日も、あなたは私を助けてくれた」


仙吉は苦笑いした。


「あの程度の施しで恩など…これだけの大金を払わせるわけにはいかん」


「大丈夫です。今の私には、その程度の金は…」


崇は言いかけて、口をつぐんだ。確かに彼は江戸屋で手代として成功し、給金も増えていた。「近江八景」と「江戸屋小町」の成功による褒美もあった。しかし、一両二分は決して少ない額ではない。


仙吉は崇の躊躇いを見抜いたようだった。


「ほら見ろ。無理だろう?忘れてくれ」


「いいえ、本当に払えます」崇は心を決めたように言った。「ただ、少し時間をください。一括では難しいので…」


「やめておけ」仙吉の声は突然厳しくなった。「お前は今、良い身分を得た。それを無駄にするな。浪人風情の借金など、忘れろ」


崇は黙り込んだ。仙吉の言葉には理があった。しかし、恩を返したいという気持ちは消えなかった。


「そうではなく…」崇はゆっくりと言葉を選んだ。「実は、あなたの力を借りたいことがあるのです」


「俺の?」仙吉は不思議そうに眉を上げた。


「はい。今、私は『江戸屋互助会』という新しい仕組みを作ろうとしています。簡単に言うと、人々が少しずつお金を出し合い、困ったときに助け合う仕組みです」


崇は、互助会の構想を詳しく説明した。仙吉は腕を組み、黙って聞いていた。


「それで…?俺に何をしろと?」


「あなたには、互助会の活動を守ってほしいのです。長屋の人々に加入を勧め、掛け金を集める時、時には危険な目に遭うかもしれません。また、この仕組みを快く思わない者もいるでしょう」


仙吉は軽く笑った。


「つまり、護衛か?まったく、商人の考えることは…」


「いえ、護衛というより…」崇は真剣な表情で言った。「私と共に、弱い人々を救う仕事をしてほしいのです」


その言葉に、仙吉の表情が変わった。一瞬、彼の目に何かが浮かんだようだった。


「弱い者を救う、か…」


「この仕組みが広がれば、貧しい人々の多くが救われる可能性があります。あの母子のような悲劇を、少しでも減らせるかもしれない」


仙吉は長い間黙っていた。やがて、彼は静かに口を開いた。


「…わかった。協力しよう」


「本当ですか!?」崇は飛び上がりそうになった。


「ああ」仙吉はにやりと笑った。「だが、条件がある」


「何でも言ってください」


「俺は、お前の言う『護衛』はするが、決して命令には従わん。自分の判断で動く。それでいいなら、協力しよう」


崇は迷わず答えた。


「もちろんです!あなたのような方が協力してくれるだけで、心強いです」


二人は軽く頷き合った。運命の糸が、再び絡み合った瞬間だった。


## 世直しへの道


仙吉との再会から数週間、「江戸屋互助会」の準備は着々と進んだ。長屋での説明会には、仙吉も同席するようになった。彼の存在は、住民たちに安心感を与え、また、悪意を持った者たちを寄せ付けない効果もあった。


崇は、「米保険」の仕組みをさらに発展させていた。死亡や怪我だけでなく、火事や洪水などの災害時にも適用範囲を広げ、子どもの養育費や老後の備えにも対応できるよう、様々なプランを考案した。それは単なる「保険」から、総合的な「互助システム」へと進化しつつあった。


ある日の夜、仕事を終えた崇と仙吉は、とある木賃宿の一室で酒を酌み交わしていた。互助会の打ち合わせだけでなく、二人は次第に個人的な話もするようになっていた。


「崇よ」仙吉は燗酒を一口啜った。「お前は、なぜそこまでして人々を救おうとするのだ?」


崇は少し考え込んだ。彼自身、その動機を明確に言語化したことはなかった。


「私は…この国のあり方に、どこか違和感を感じているのです」彼は慎重に言葉を選んだ。「武士が支配し、商人や農民が苦しむ。豊かな者と貧しい者の差が広がる一方で、誰もその根本を変えようとしない」


「ほう…」仙吉の目が鋭くなった。「それは、大それた考えだな。世の中の仕組みそのものを変えようというのか?」


「はい」崇は自分の声が震えるのを感じた。「互助会は、その第一歩に過ぎません。私が最終的に目指すのは、もっと公平で、助け合いの精神に満ちた社会です。身分に関わらず、誰もが困ったときに支え合える世の中…」


仙吉は沈黙した。彼の表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。


「それが…お前の言う『世直し』か」


「世直し…そうですね」崇は、その言葉の重みをかみしめた。「ただ、私の考える世直しは、打ちこわしや暴動ではなく、新しい制度や仕組みを作ることで実現するものです」


仙吉はじっと崇を見つめた後、突然笑い出した。


「面白い奴だ、お前は。一介の商人が、世直しだと」


崇は少し赤面したが、引き下がらなかった。


「商人だからこそ、できることがあると思うのです。政治家や武士には難しい、草の根からの変革が」


「だがな、崇よ」仙吉の声が突然真剣になった。「力なくして、世は変えられん。どれほど立派な理想も、それを実現する力がなければ、単なる夢物語に終わる」


崇は黙って聞いていた。仙吉の言葉には、何か彼自身の経験に基づく重みがあった。


「もし本気で世を変えたいなら」仙吉は続けた。「お前は、力を求めねばならん。富も、人脈も、そして時には…武力も」


崇は眉をひそめた。「暴力では何も解決しません。むしろ混乱を招くだけです」


「それがお前の甘さだ」仙吉は冷たく言った。「この世は、理想や正義だけでは動かん。実力と覚悟、それがなければ何も変えられん」


二人の間に重い沈黙が落ちた。崇は、複雑な思いで酒を飲んだ。仙吉の言う「力」と「覚悟」。それは、彼の理想とは相容れないようにも思えたが、どこか心の奥で、その言葉が共鳴するのを感じた。


「仙吉さん」崇は静かに尋ねた。「あなたは、かつて何をされていた方なのですか?」


仙吉は顔を上げ、崇をじっと見つめた。その目には、何か深い陰りが見えた。


「それを知って、何になる」


「あなたを、もっと理解したいのです」


仙吉は暫く黙っていたが、やがて重い口調で語り始めた。


「俺はかつて、ある藩の下級武士だった。主家に忠実に仕え、誇りを持っていた」


彼は一息ついてから続けた。


「だが、俺の主君は、権力争いに敗れ、切腹を命じられた。汚名を着せられての自害だ。俺たち家臣は、それを防ぐことができなかった」


崇は息を呑んだ。「それで…浪人に?」


「ああ。主君の死後、俺は刀を捨て、江戸に流れてきた。だが、忘れられんのだ…主君の無念も、自分の無力さも」


仙吉の声には、普段は決して見せない深い感情が滲んでいた。


「だから言うのだ、崇よ。理想を持つことは良い。だが、それを守り、実現するには、十分な力と覚悟が必要だと」


崇は黙って聞いていた。仙吉の過去と、その言葉の意味を、彼は深く心に刻み込んだ。


## 野心の芽生え


「江戸屋互助会」の試験運用が始まって数ヶ月、それは予想以上の成功を収めていた。加入者は着実に増え、最初の給付事例も現れた。大工の熊五郎が仕事中に怪我をした際、互助会から提供された米は、彼の家族の命綱となった。


その評判は、対象地域の外にも広がり始めた。「江戸屋では、貧しい者にも配慮した仕組みを始めた」「困ったときに米をくれる、ありがたい制度だ」そんな噂が、江戸の町に流れていった。


崇は、毎日のように互助会の運営に奔走していた。昼は通常の手代の仕事、夜は互助会の帳簿管理や加入者訪問。彼の体は疲労に悲鳴を上げていたが、心は充実感で満たされていた。


しかし同時に、崇の心の中では、別の感情も静かに芽生え始めていた。


(この仕組みが全江戸に広がれば…いや、全国に広がれば…)


彼は自室で、互助会の将来計画を練りながら、その可能性に胸を躍らせていた。


(一つの町内から始まり、江戸中に広がり、そして全国へ…)


彼の頭の中には、壮大なネットワークが描かれていた。各地の拠点、統一された規約、階層的な組織構造…それは、現代で言う「企業」や「団体」のような形を取り始めていた。


(そうなれば…俺は…)


崇は思考を止めた。「俺は」という主語の後に続く言葉が、彼自身を少し驚かせた。


(俺は、大きな力を手にする…多くの人々の生活を左右する力を…)


彼は、自分の中にある「野心」という感情を初めて自覚した。それは純粋な「理想」とは異なる、何か熱く、そして暗いものだった。


(これは…単なる理想主義ではない。俺は、力を求めている…影響力を求めている…)


崇は自分の心の動きに戸惑いながらも、それを否定できなかった。確かに彼は人々を救いたいと思っていた。貧しい母子のような悲劇を減らしたいと願っていた。しかし同時に、その過程で得られる力と地位、名声を求める気持ちも、確かに存在していた。


(仙吉さんの言っていた『力と覚悟』…俺は、その力を求めているのかもしれない)


崇は、長い間自問自答を続けた。自分の動機は純粋なのか、それとも欺瞞に満ちているのか。答えは見つからなかったが、一つだけ明確になったことがあった。彼は、この互助会を、自分の理想と野心の両方を満たす道具として、強く推し進めていくということだ。


(力がなければ、何も変えられない。仙吉さんの言う通りだ。だから俺は、力を求める…それが最終的に人々のためになるのだから…それでいいはずだ…)


崇は、そう自分に言い聞かせた。彼の心の中で、理想と野心が奇妙な均衡を保ちながら共存し始めた。それがいつか崩れるとしても、今はまだ、彼はその二つを調和させることができると信じていた。


彼は窓から江戸の夜空を見上げた。星々は冷たく、そして遠く輝いていた。現代から来た彼には、それらは同じ星でありながら、なぜか違って見えた。


(この江戸で、俺は何を成し遂げるのだろう…)


崇の胸には、期待と不安、そして微かな高揚感が渦巻いていた。「世直し」への道は、彼が想像していたよりも複雑で、曲がりくねったものかもしれない。しかし彼は、その道を進む決意を新たにしていた。


---


## 歴史的背景:幕末の「世直し」運動


1860年代の江戸では、経済的混乱と社会不安が頂点に達していた。開国以来の物価高騰、米価の乱高下、相次ぐ凶作…これらは庶民の生活を直撃し、「世直し一揆」と呼ばれる民衆蜂起を誘発した。


この時期の「世直し」思想は、単なる暴動や打ちこわしといった暴力的手段だけでなく、様々な形態で表れていた。一部の思想家や活動家は、相互扶助の仕組みや、身分制度に縛られない新しい社会秩序を模索していた。


特に注目すべきは、「講」という伝統的な相互扶助制度が、この時期に新たな形で発展していたことだ。もともと宗教的目的や冠婚葬祭のための共同積立だった「講」は、次第に生活保障や相互援助の機能を強め、一種の社会保障システムとして機能し始めていた。


能美崇が構想した「互助会」は、実はこの時代の潮流と無関係ではなかった。彼が現代から持ち込んだアイデアは、既存の「講」の発展形として、当時の社会に受け入れられる余地があったのである。


しかし同時に、こうした民間の相互扶助の仕組みが、やがて権力構造を形成し、指導者の野心に利用されるケースも、歴史上稀ではなかった。理想主義的な始まりが、時に予期せぬ方向へと変質していく危うさ…それもまた、歴史が教える教訓の一つであった。

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