第二章:商才の開花と野心の芽生え
## 江戸の商業世界
江戸時代中期から後期、米は単なる食糧ではなく、経済の基盤そのものだった。幕府の財政は米に依存し、武士の俸禄も「石高」という米の収穫量で決められていた。「米遣い」と呼ばれる米本位の経済体制の中で、大坂の堂島米会所では米の先物取引が行われ、江戸でも米価の変動は人々の生活を左右する重大事だった。
しかし、開国以降の社会混乱と物価高騰は、米相場を一層不安定にしていた。凶作や政情不安によって米価が高騰すれば、庶民の生活は直撃され、「打ちこわし」などの暴動に発展することもあった。その一方で、こうした不安定な時代にこそ、柔軟な思考で新たな商機を見出す者たちがいた。
米を扱う商人の地位は、公式には武士の下、農民と同等かそれ以下とされていた。「士農工商」の序列である。しかし実際には、大規模な米問屋や両替商は莫大な富を築き、幕府や諸藩の財政を支える重要な存在となっていた。彼らの中には、公式の身分制度の壁を超えて、実質的な力と影響力を持つ者も少なくなかった。
能美崇が奉公する江戸屋も、そのような米商のひとつだった。規模はさほど大きくないながらも、確かな信用と安定した得意先を持ち、江戸の町で堅実に商いを続けてきた店だった。そんな江戸屋で、現代から転移してきた崇の商才が開花し始めようとしていた。
## 信頼の礎石
江戸屋での日々は、灰色の単調さと慣れない苦労に満ちていた。鶏鳴と共に起き、店の掃除から始まり、米の計量、配達の手伝い、そして夜は遅くまで番頭の肩揉みや雑用。物置同然の寝床で眠りにつく頃には、崇の体は鉛のように重かった。
それでも、彼は歯を食いしばって耐えた。どんな仕事も、「丁寧に、迅速に、文句も言わずに」をモットーに取り組んだ。読み書き計算の能力を活かしつつも、決して目立とうとはせず、飄々とした態度で店の中での立ち位置を確立していった。
江戸屋の構造は、主人を頂点とし、その下に番頭、手代、丁稚という厳格な階層を持っていた。主人は五十代半ばの円満な体躯の男で、普段は寡黙だが、取引の場では鋭い商才を見せる人物だった。一方、番頭の六左衛門は四十代の痩せぎすな男で、細かいことに厳しく、新参者である崇には特に容赦がなかった。
「おい、崇!その米袋、縫い目が甘いぞ!客に渡す品だ、やり直せ!」
「すみません、番頭さん。今すぐ直します」
崇は平伏して謝ると、黙々と米袋の縫い直しに取り掛かった。平針と麻糸を使った袋縫いは、現代の彼にとって最初は苦労の連続だったが、今ではかなり上達していた。
六左衛門は少し離れたところから、崇の仕事ぶりを観察している。彼の厳しさは単なる意地悪ではなく、新参者を一人前に育てるための教育でもあった。崇がその期待に応えて成長していることに、番頭は密かに満足していた。
「ところで崇、この前の大福帳の計算、よくやった」
突然の褒め言葉に、崇は手を止めて顔を上げた。番頭の表情は変わらず厳格だったが、その目には僅かな承認の色が見えた。
「いえ、番頭さんのご指導のおかげです」
崇は慎重に受け答えした。商家の風習として、褒められても素直に喜ぶのではなく、謙遜して主や番頭の手柄にするのが作法だった。
「まあ、まだまだだがな。他の丁稚どもは算盤一つまともに弾けん。お前は少なくとも数字に強いようだ」
この言葉は、江戸屋での崇の地位が僅かながらも上昇していることの証だった。彼の努力が、少しずつ実を結び始めていたのだ。
ある日の夕方、店が閉まった後、崇は帳場で帳簿の整理をしていた。他の丁稚たちは既に夕食を終え、裏庭で談笑している。崇だけが、自ら進んで残った仕事を片付けていた。
「まだ終わらんのか?」
振り返ると、そこには主人が立っていた。普段は滅多に丁稚に声をかけない主だ。崇は慌てて頭を下げた。
「もうすぐ終わります。申し訳ありません」
「いや、急かしておるのではない」主人は珍しく話を続けた。「お前、なかなか熱心じゃな。番頭も褒めておったぞ」
崇は心臓が高鳴るのを感じた。主人からの直接の言葉は、この店で働き始めてから初めてだった。
「ありがとうございます。皆様のご恩に報いるため、精一杯働かせていただいております」
主人は暫く崇を見つめると、何かを決断したように頷いた。
「よし、明日からは米の目利きも少しずつ覚えよ。番頭に言っておく」
「は...はい!ありがとうございます!」
崇は感激のあまり、深々と頭を下げた。米の目利きは、単なる雑用を超えた専門技術だ。それを教わるということは、彼が丁稚の中でも一段上の評価を得ていることを意味していた。
主人が去った後、崇は帳簿を閉じながら、静かに微笑んだ。
(ようやく、一歩前進だ...)
## 発想の転換
一年近くが経ち、崇も江戸屋での生活に馴染んでいった。いつしか彼は、店で信頼される存在となり、重要な仕事も任されるようになっていた。時には番頭の許可を得て、小規模な商談にも同席するようになった。
しかし、江戸屋の商売の仕方には、彼にとって疑問も多かった。
(なぜ米は「上米」「中米」「下米」といった大雑把な分類しかないんだろう?現代なら産地や品種でもっと細かく分けるのに...)
ある日の夕食後、崇は番頭に許可を得て、店の古い帳簿類を調べていた。江戸屋が過去に扱った米の種類や価格、得意先の好みなどを知りたかったのだ。
「崇、まだ起きておったのか」
番頭の六左衛門が、酒の匂いを漂わせながら戻ってきた。近所の酒屋との付き合いで一杯やってきたらしい。酒が入ると普段より饒舌になる番頭だった。
「はい、江戸屋の商売について、もっと勉強したくて...」
「ほう、感心じゃな」六左衛門は少し上機嫌に崇の傍らに座り込んだ。「何か疑問でもあるのか?」
崇はこのチャンスを逃すまいと思い、丁寧に尋ねた。
「お米の分け方についてなのですが...近江米や加賀米など、産地による違いはあるにも関わらず、店で売る時はただ『上米』『中米』『下米』と大まかに分けるだけなのは、もったいない気がしまして」
六左衛門は眉をひそめた。「江戸の米屋はみんなそうやってきたわい。何が不満なのだ?」
崇は言葉を選びながら続けた。
「不満ではなく...例えば、加賀米の中でも特に良いものだけを選り抜いて、特別な名前をつけ、少し高めの値段で売るという方法は如何でしょう。『加賀極上米』とか...富裕層のお客様には、値段よりも品質や希少価値を重視される方もいらっしゃるかと」
番頭は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに懐疑的な表情に戻った。
「そんな商売、聞いたことがないわ。米は米、質の良し悪しはあれど、そこまで拘る客がおるかな」
「でも、茶や絹織物では、特別に良いものには特別な名前がついていますよね。米だって同じことができるはずです」
六左衛門は少し考え込んだ。酒の勢いもあってか、崇の斬新なアイデアに完全に否定的というわけでもないようだった。
「まあ、面白い発想ではあるが...」彼は頭を掻きながら言った。「主人に相談してみるか?明日にでも」
崇は期待に胸を膨らませた。「ありがとうございます!」
翌日、六左衛門は約束通り、崇のアイデアを主人に伝えた。主人は最初、懐疑的な表情を浮かべていたが、崇が直接説明するうちに、次第に興味を示し始めた。
「『ブランド米』...か。確かに、茶や織物では当たり前の商法だが、米でやるとは面白い」主人は顎に手をやり、じっくりと考える様子を見せた。「しかし、失敗したら損失も大きいぞ。何より、江戸屋の評判にも関わる」
崇は懸命に説得を試みた。
「ですから、まずは小規模な試行からはじめましょう。番頭さんが目利きで選んだ最高品質の米だけを『特選』として、ごく限られたお得意様にだけお勧めするのです」
主人と番頭は顔を見合わせ、無言の意思疎通を行った。やがて主人が口を開いた。
「良かろう。小さく試してみるなら反対せん。次の仕入れの際、良い米を少量だけ別にとっておくことにしよう」
崇の提案が、ついに実行へと移されることになったのだ。
## ブランドの創出
「近江米、加賀米、出羽米...どれも良いが、特別感を出すには、名前にも工夫がいるな」
番頭と共に仕入れた米を選別しながら、崇は商品名について考えを巡らせていた。単に「極上近江米」では平凡すぎる。消費者の想像力を刺激し、高級感を演出する名前が必要だった。
「近江八景」
ふと、崇の頭に浮かんだ。近江国(現在の滋賀県)には、古くから詩歌に詠まれてきた八つの景勝地がある。琵琶湖を取り囲むそれらの景色は、雅やかさと風流の象徴だった。
「これだ!『近江八景』という名前なら、上品で風雅な印象を与えられる」
崇は早速、和紙に丁寧に「近江八景」と筆で書き、簡素ながらも琵琶湖と周囲の景色を思わせる図案を添えた。これを米俵に掛ける「掛け紙」とするつもりだった。
「おい崇、何をしておる?」
振り返ると、番頭が不思議そうに覗き込んでいた。崇は興奮気味に説明した。
「『近江八景』という名前で売り出そうと思いまして。この掛け紙を米に添えれば、見た目の高級感も増すかと...」
番頭は崇の作った掛け紙を手に取り、じっくりと眺めた。「ふむ...見栄えは良いが、手間もかかるな」
「でも、この手間こそが『特別』という価値を生み出すのです。他の米屋では決してやらない、江戸屋だけの特別なサービスとして」
番頭は、崇の熱意に少し圧倒されたように見えたが、否定はしなかった。むしろ、彼の商才に感心しているようだった。
「お前、どこでそんな商売の考え方を学んだ?」
崇は一瞬言葉に詰まったが、すぐに答えた。「故郷の...商家で少し見習いをしていたもので...」
嘘は最小限に留めながらも、自分の知識の出所について適当な説明をする必要があった。番頭は特に深く追及せず、「まあ、良い心がけだ」と肩を叩いた。
掛け紙の準備ができ、極上の近江米を小分けにした小俵も用意された。次は、このブランド米を最初に買ってくれる客を見つける段階だ。
「誰に最初に持っていくべきだろう...」
崇は江戸屋の大福帳(得意先帳)を熟読し、最適な「第一顧客」を探した。一般的な商家ではなく、少し高くても良いものを求める層——武家、それも文化的で理解のありそうな家がよい。
「青山家はどうだろう。旗本ながら文化人としても名高く、こういう新しい試みにも理解を示してくれそうだ」
崇の選定に、番頭も主人も同意した。青山家は江戸屋の重要な得意先の一つだったが、同時に商品に対する目も厳しかった。ここで認められれば、他の得意先にも広げやすい。
## 青山家での勝負
江戸の中でも小奇麗な武家屋敷が並ぶ地域。崇は緊張した面持ちで、「近江八景」の小俵と丁寧に書いた説明書きを風呂敷に包み、青山家の立派な門の前に立った。
この時代、商人が武家屋敷に出入りするには、様々な決まりごとがあった。まずは門番に用件を告げ、取次ぎを頼む。そして主人の許可が下りるまで、玄関脇の式台という場所で待つのが習わしだった。
「江戸屋より参りました。青山様に特別なお米を持って参りました」
崇は恭しく告げ、門番に取り次いでもらった。しばらくして現れたのは、青山家の用人。年の頃40代後半、顔つきの鋭い男だった。彼は崇を冷ややかな目で見下ろした。
「何用だ?主人は公務で忙しいのだが」
用人の冷たい態度に、崇は一瞬たじろいだが、すぐに姿勢を正して丁寧に頭を下げた。
「江戸屋にて若衆を務めます、崇と申します。本日は、我が店で選りすぐりました最高級の米、『近江八景』をご紹介にまいりました」
崇は小俵と説明書きを差し出した。用人は素っ気なく受け取り、ちらりと見ただけだった。
「なんだ、近江米か。うちはいつも上米を買っているが、それと何が違うのだ?」
「はい、『近江八景』は、通常の上米とは全く異なります。厳選された田からごく少量のみ収穫された、まさに逸品でございます」崇は営業トークを流暢に繰り出した。「炊き上げますと、香り、艶、そして噛むほどに広がる甘み、どれをとっても並の米とは比べものになりません」
用人は鼻で笑った。「ほう、随分と大きな口を叩くな。さぞや高いのだろう?」
崇は事前に主人と相談して決めていた値段を、恐る恐る告げた。通常の上米の倍近い値段に、用人の眉が吊り上がった。
「何!? 冗談ではない。そんな法外な値で買えるか!」
強い拒絶に、崇の心臓が早鐘を打った。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
「確かに一般的な米に比べれば高価です。しかし、その価値は十二分にございます」崇は冷静さを保ちながら語った。「特に青山様のような、本物の価値をお分かりになる方にこそ、まずご賞味いただきたいと思い、今日は特別にお持ちしたのです」
「わしの目を誤魔化せると思うな。米の目利きには自信があるのだ」
用人は、崇の熱意に少し興味を持ったようだったが、まだ疑いの目を向けていた。そこで崇は決断した。
「お言葉ですが、この『近江八景』は見た目だけではその真価は分かりません。どうか、一度お試しいただけませんでしょうか」崇は腰を低くして頼み込んだ。「もし青山様にご満足いただけなければ...代金は結構です!」
この最後の一言が、用人の態度を変えた。彼は驚いたように崇を見つめ、次いでじっと目を見据えた。
「ほう...随分と自信があるようだな」用人は考え込むように腕を組んだ。「そこまで言うか...よかろう、一度だけ試してみよう。だが、期待に応えられなければ、二度とそのツラを見せるなよ!」
「ありがとうございます!必ずやご満足いただけると存じます!」
崇は胸中で小さくガッツポーズを作りながら、深々と頭を下げた。第一関門を突破したのだ。
用人が代金を支払い、小俵を受け取った。商談が成立した瞬間だった。
「待て」用人が崇を呼び止めた。「お前、名は何と言った?」
「能美崇と申します」
「覚えておこう。あの繊細な主が気に入るかどうか...楽しみにしておるぞ」
用人の言葉には皮肉と期待が入り混じっていた。崇は再び礼をして、青山家を後にした。
## 評判の広がり
数日後、江戸屋に青山家からの使いが訪れた。崇は緊張で胃が痛くなるのを感じた。「近江八景」の評価が来たのだ。
「どうぞ、青山様からのお手紙です」
使いの男から受け取った封書を、崇は震える手で主人に渡した。主人が目を通すと、その顔にゆっくりと笑みが広がった。
「おお...青山様、大層お気に召されたようじゃ。『香り高く、味わい深く、まさに珠玉の米』と仰っておられる」
店中に安堵の声がもれた。崇は胸をなでおろした。ブランド米の価値が認められたのだ。
「崇、よくやった!」主人は珍しく高揚した様子で崇の肩を叩いた。「これからは『青山様も絶賛の近江八景』と言えるわけだ」
この成功を起点に、崇はさらに「近江八景」の販売先を広げていった。青山家で認められたという事実は、他の有力者への強力な営業ポイントとなった。
「松平様、先日、青山様にもお試しいただき、『これは素晴らしい』とお褒めの言葉を頂戴しました」
そう言うと、かつての頑固な態度が一変する。「ほう、あの青山殿が?ならば、一つ試してみるか...」
武士の間にも、商人の間にも、ひとつの評判の力は絶大だった。崇はその心理を巧みに利用した。
しかし、全ての商談が順調だったわけではない。失敗もあった。ある豪商は「そんな高い米、うちの台所では買わんよ」と一蹴した。別の武家では「家の料理人が気難しくてね。新しいものを受け入れないんだよ」と丁重に断られた。
崇はそれらの失敗から学び、次第に商談の技術を磨いていった。「近江八景」は贈答用としても推奨し、「大切な方への心づくし」という新たな付加価値を提案した。高級感を出すため、掛け紙のデザインも洗練させていった。
## セカンドブランドへの発展
「近江八景」の成功に味をしめた崇は、次なる一手として、もう一つのブランド米を企画した。今度は、富裕層ではなく、一般庶民をターゲットにする。
「『江戸屋小町』という名前はどうでしょう?」
崇は主人と番頭に新案を持ちかけた。「『近江八景』が特別な場面のための高級米なら、『江戸屋小町』は毎日の食卓を少し特別にする、手の届く贅沢米です」
主人は興味を示した。「ほう、今度は庶民向けか。値段はどれくらいを考えている?」
「上米より少し高く、しかし『近江八景』よりはずっと安く」崇は具体的な価格帯を提示した。「品質は中米の上位から上米の下位程度のものを選びます。そして、明るく親しみやすい掛け紙を作り、店頭で大々的に宣伝します」
番頭が眉をひそめた。「大々的な宣伝とは?」
「はい、引き札を作って配り、店頭での声出しも工夫します。『江戸屋がお届けする、いつもの食卓へのささやかな贅沢!』といった具合に」
主人と番頭は顔を見合わせた。これは江戸屋のこれまでの商売とは異なる、大胆なやり方だった。
「崇よ...」主人が口を開いた。「お前の『近江八景』は成功したが、今度のことで店の評判を落とすようなことがあれば...」
「もちろんです!」崇は真摯に応えた。「決して江戸屋の名を汚すようなことはいたしません。むしろ、『江戸屋』の名を江戸中に広めるための施策です」
しばらくの沈黙の後、主人は承諾を与えた。「よかろう。しかし、慎重にな」
崇の計画は実行に移された。「江戸屋小町」の掛け紙は、「近江八景」の高級感とは対照的に、明るく親しみやすいデザインとなった。丸みを帯びた文字で「江戸屋小町」と書かれ、周りには福々しいお多福や、稲穂を咥えた雀の絵が描かれた。店の前には「新発売!江戸屋小町」と書かれた幟が立てられ、炊きたての試食も振る舞われた。
これらの新しい販売戦略は、瞬く間に効果を現した。近隣の主婦たちや小商いの男たちが興味津々で店を訪れ、「江戸屋小町」を買い求めていった。
「これが噂の『江戸屋小町』かい?一度試してみるかね」
「江戸屋さん、随分と変わったねぇ。活気があっていいじゃないか」
崇はこれらの言葉を聞くたび、胸が高鳴った。自分のアイデアが人々に受け入れられ、江戸屋に新たな風を吹き込んでいることを実感したのだ。
## 野心の芽生え
「近江八景」と「江戸屋小町」の成功は、江戸屋に確かな利益をもたらし始めた。店の活気は増し、帳場の銭箱が重くなる日も多くなった。
主人は満足げに崇の肩を叩いた。「崇よ、お前の働きには感心しているぞ。来月からは手当も増やそう」
「ありがとうございます! この恩は決して忘れません」
崇は深々と頭を下げたが、その胸の内には、単なる感謝だけではない、何か別の感情が渦巻き始めていた。
(俺には、才能がある...)
江戸屋での成功体験は、崇に強烈な自信をもたらした。現代で平凡な高校生だった彼が、時空を超えて江戸時代で商才を開花させるとは。その事実は、彼の中に「自分は特別な存在なのではないか」という思いを芽生えさせていた。
夜、自室で一人になった崇は、反故紙に次々と新しいアイデアを書き連ねた。「米の定期配達サービス」「季節限定米」「地域別ブランド米」...次から次へと浮かぶアイデアに、彼は高揚感を覚えた。
(江戸時代の米市場は、まだまだ開拓の余地がある。俺なら、この市場を変えることができる...)
しかし、同時に彼は現実的な限界も感じていた。一介の手代にすぎない今の立場では、できることに限りがある。主人も番頭も、悪い人ではないが、古い考え方に縛られている部分もあった。
(もっと大きなことをするには...いずれは独立か?)
崇の野心は、静かに、しかし確実に膨らみ始めていた。夜空を見上げながら、彼は江戸の町が自分の手中に落ちる日を夢見ていた。それは、単なる商売上の成功ではなく、この時代の常識を変え、人々の生活そのものを変える力を持ちたいという欲望だった。
(あの日、貧しい母子を見たあの思いを、いつか形にしたい...でもそのためには...)
崇の心には、純粋な理想と危うい野心が、まだなんとか均衡を保ちながら共存していた。その均衡が崩れる日は、まだ遠いようで、そして近かった。
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## 歴史的注釈:米相場と商人の知恵
江戸時代の米相場は、年によって大きく変動した。享保の大飢饉(1732年)や天明の大飢饉(1782〜1788年)では米価が高騰し、都市部では餓死者も出た。幕末に至っては、開国に伴う経済混乱と物価高騰が重なり、米価は一層不安定となっていた。
こうした中で、先見の明のある商人たちは、単なる「米の売買」を超えた商売手法を模索し始めていた。有力商人の間では、特定産地の米を贈答用として高値で取り引きする慣習も生まれつつあった。しかし、それを明確な「ブランド戦略」として確立するには至っていなかった。
能美崇の「近江八景」「江戸屋小町」の試みは、現代のマーケティングの観点から見れば先進的だったが、当時の商習慣の延長線上にあるものでもあった。彼の成功は、時代の限界と可能性の狭間で、彼のみが持ちえた現代知識を活かした革新的アプローチの賜物だったのである。