第一章:異世界・江戸への転移と生存戦略
## 歴史的背景:動乱の幕末
元治元年(1864年)夏、日本は未曾有の転換期を迎えていた。徳川幕府の権威が揺らぎ、尊王攘夷を唱える志士たちと佐幕派の対立は極限に達していた。五月には池田屋事件が京都を震撼させ、諸藩の動きは不穏さを増すばかり。長州藩は禁門の変(蛤御門の変)への準備を進め、全国に緊張が高まっていた。
開国以来の物価高騰は庶民の生活を直撃し、米価の乱高下は都市部の貧困層を苦しめていた。江戸の街では、徳川家茂が上洛中のため政情が不安定となり、テロや暗殺が頻発。町奉行所や新徴組(浪士隊)も増え続ける騒乱や犯罪に十分対応できず、浪人や素性の知れない者たちが街に溢れていた。
この混沌とした時代に、ある若者が突如として投げ込まれることとなる——。
## 転移
「じゃあな!また明日!」
友人との別れ際の言葉が耳に残る。能美崇は帰り道、イヤホンから流れる音楽に身を任せていた。高校からの帰り道、夕暮れ時の空を見上げながら、彼はスマートフォンの画面に目をやる。友人からのメッセージ通知が表示されていた。
その瞬間だった。
突如として視界が白く染まり、全身が宙に浮いたような感覚に襲われた。
「なっ——!?」
耳鳴りと目眩、そして強烈な浮遊感。それはほんの一瞬だったのか、永遠に感じられたのか。崇の意識は混濁し、次に彼が知覚したのは、かつて一度も嗅いだことのない異様な臭気だった。
鼻を突く生ゴミと汚水の混じった匂い。焼き物の油煙。そして大勢の人間が密集して生活する、石鹸やシャンプーで隠されることのない生々しい体臭。
「うっ...げほっ!」
咳き込みながら目を開けると、そこは見慣れた舗装された道ではなかった。土と泥がむき出しの狭く薄汚い路地。両側には古びた木造の家々が密集し、石や土でできた排水溝からは黒ずんだ汚水が流れ、強烈な腐臭を漂わせていた。空気はじっとりと湿り、初夏の暑さと相まって不快な粘り気を帯びている。
(ここ...どこだ?何が起きたんだ?)
崇の思考は現実を理解しようともがいた。視界に映る光景は、教科書や時代劇でしか見たことのないもので溢れている。
路地を行き交う人々は、木綿の着物や浴衣姿。男たちの髪は奇妙な形に結い上げられ、女性たちは簪で髪を留めている。履物は下駄や草履ばかりで、その音が周囲に木霊している。
崇は自分の服装を見下ろした。ブレザーにシャツ、ネクタイ、学生ズボン、革靴...あまりにも場違いな現代の制服が、彼がこの世界の異物であることを雄弁に物語っていた。
(まさか...タイムスリップ?冗談だろ...)
しかし、冗談と片付けるには、あまりにもリアルすぎた。周囲の人々は好奇と警戒の入り混じった視線を崇に向け、彼の存在に気づいた者たちが足を止め、次第に小さな人だかりを作り始めていた。
「あれ何じゃ?」
「奇妙な装束じゃのう」
「南蛮人か?いや、顔は日本人のようじゃが...」
「気違いではないのか?」
ひそひそと交わされる言葉が崇の耳に届く。明らかに現代の日本語とは異なるアクセントと言い回し——しかし不思議と意味は理解できた。
(これは...江戸時代の言葉?でも、なぜ理解できる?)
混乱と恐怖が胸に渦巻く中、崇は本能的に路地から抜け出そうと歩き始めた。膝が笑い、足がもつれる。現実感の欠片もない状況に、身体が正常に機能しない。
「す、すみません...ここはどこですか?」
通りかかった商人風の男に恐る恐る声をかけるが、男は崇の奇妙な服装を一瞥すると、怪訝な表情を浮かべて立ち去ってしまった。
「おい、そこの変な格好の若いの!邪魔だ、どけ!」
荷物を担いだ男が荒々しく崇を押しのけた。よろめいた彼は、石畳に膝をつき、路地の泥で汚れてしまった。
(このまま...どうすればいいんだ...)
漠然とした恐怖が全身を支配する。ポケットに手を入れると、スマートフォン、財布、イヤホン...すべて現代のものばかり。全くの無価値な異物でしかないことを、崇は直感的に理解した。
## 極限状態の認識
雨が降り始めたのは、転移から数時間後のことだった。
崇はその間、江戸の街をさまよい歩いていた。広い通りに出れば、遥か遠くに江戸城とおぼしき巨大な城郭が見え、湯島辺りだろうか、神田川らしき川の流れも見えた。しかし、現代の東京と地形は似ていても、建物も道も人も、すべてが異なる世界だった。
(これが...本当に江戸時代なのか?夢じゃない?)
疲労と空腹が次第に現実感を増していった。そして今、降り始めた冷たい雨が、彼の思考にさらなる鮮明さをもたらす。
「くそっ...雨か...」
薄手の学生服はすぐに雨水を吸い込み、崇の体温を奪っていく。軒先を探して雨宿りをしようとしたが、店主たちは奇妙な服装の彼を追い払った。
空腹が痛みに変わり始めていた。転移してからまだ何も口にしていない。カバンの中のお菓子でもあればよかったが、放課後に友人と寄り道した帰り道だったため、何も持っていなかった。
財布の中身を取り出してみる。紙幣と硬貨、計4,320円。日本円しかない。
「ねえちょっと、おたくさん」
からかうような子供の声に振り返ると、10歳前後の少年たちが数人、崇を囲むようにして立っていた。
「その変な着物、どこの国の人?」
「頭のてっぺんから変だぜ。髪結ってないし」
「耳にぶら下げてるそれは何だ?」
崇のイヤホンを指さす子供もいた。その瞬間、崇はスマートフォンの電源が入るかを確認しようと取り出した。しかし、電波はもちろん圏外で、バッテリーも残り20%を切っていた。
「おお!なんだそれは?」
「光る板だ!」
「妖術か?!」
子供たちが騒ぎ立てるのを見て、崇は慌ててスマートフォンをポケットにしまった。現代の物品が不要な注目を集めることを自覚したのだ。
「こらこら!そこの子供たち!邪魔になっとる、行け行け!」
近くの店から、年配の店主が声をかけ、子供たちは渋々と散っていった。その店は小さな煮売り屋で、雨宿りで立ち寄る客も数人いた。店主らしき老婆が崇を見て、少し顔をしかめるが、
「まあ、雨も強くなってきたし、軒先くらいは貸してやるかのう」
と、かろうじて雨を避けられる場所を許してくれた。
崇は深々と頭を下げ、言葉少なに礼を述べた。ふと、煮物の匂いが鼻をつく。腹が大きく鳴り、しゃがみ込んでしまうほどの空腹に襲われた。
老婆はそれを見て、少し柔和な表情になり、「そんなに腹を空かせておるのか」と小さく呟いた。だが、無償で食べ物をくれるわけでもない。
崇は財布から硬貨を取り出し、試しに老婆に見せてみた。
「すみません...これで、何か食べられますか?」
老婆は500円玉を手に取り、不思議そうに眺める。
「何じゃこれは?見たこともない銭じゃが...」その目は疑いに満ちていた。「いたずらではないじゃろうな?」
「いえ、違います!これは...その...」崇は咄嗟に思いついた言葉を口にした。「遠い...外国の貨幣です。価値はあるはずです」
老婆は銭を手の中で転がし、重さを確かめるように持ち上げた。
「銀ほど重くはないが...なかなかの細工じゃな」老婆は迷った末に、「まあ、可哀想に腹を空かせておる。一椀分くらいはよかろう」と、あまり温かくはない煮物の椀を一つ崇に手渡した。
崇は感謝の言葉を述べ、急いで口にした。薄味の大根と人参、わずかな鶏肉が入った煮物は、現代の味覚からすれば極めて素朴だったが、空腹の崇にとっては天国の味だった。
「ありがとうございます...本当に...」
声を詰まらせながら、崇は椀を空にした。わずかな食事だったが、とりあえず命の危機からは脱した気がした。
老婆は崇の様子を見て、「どうした、泣きたくなるほど美味かったかえ」と少し冗談めかして言った。
「いえ...ただ...」崇は言葉を選びながら、「旅の途中で全財産を盗まれてしまって...これから生きていく術もなくて...」と、咄嗟に思いついた設定で語った。
老婆は少し同情的な目で崇を見た。「そうかい。世知辛い世の中じゃのう」彼女は崇から受け取った硬貨をもう一度眺め、「これが本当に価値あるものなら、まだ少しは生きていけるじゃろう。だが、その服装では怪しまれるばかりじゃ。どうにか着替えを手に入れることじゃな」
崇はうなずき、言葉少なに礼を述べた。老婆の言う通り、何よりもまず着替えが必要だった。だが、雨は一向に止む気配がない。結局、崇はその日、煮売り屋の軒先で夜を明かすことになった。
## 夜の恐怖と現実の重み
煮売り屋が閉まると、崇は行き場を失った。雨は小降りになったが、完全には止んでいない。暗くなった路地を彷徨い、人気の少ない裏路地の軒先に身を寄せた。ずぶ濡れの制服は冷えて、体温をどんどん奪っていく。
(こんなところで...死ぬのか俺は...)
現代の日本では考えられない極限状況に、崇は震えながら膝を抱えた。スマートフォンを取り出すと、バッテリーはわずか7%。もはや連絡する相手も存在しないのに、最後のつながりとして、画面を開いた。
ホーム画面には家族の写真。母、父、そして高校生の自分。今朝まではごく普通の日常だったのに。今や彼らとは200年近い時を隔てて存在している。
「お母さん...」
崇は小さく呟いた。涙が頬を伝った。恐怖と絶望、そして何よりも強烈な孤独感が、全身を締め付けた。
スマートフォンの画面が突然消え、完全に電池が切れた。最後の現代とのつながりも失われ、崇は闇の中で完全に一人になった。
雨音の向こうから、時々聞こえる足音や話し声。明かりを持った人影が通り過ぎることもあったが、誰も崇のような怪しげな若者には関心を示さない。いや、むしろ避けているようだった。
夜が深まるにつれ、崇の意識もまた薄れていった。空腹と疲労、そして冷えた体...もはや生命の危機に瀕しているという認識さえ、朦朧としていた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
雨は一層強く降り始め、軒先でさえ崇の体を濡らすようになった。もはや起き上がる力もなく、壁にもたれ掛かったまま、彼は半ば意識を失いかけていた。
(こんな終わり方...あんまりだな...)
その時、ふと足音が近づいてきた。しかし、もはや反応する気力もない。目を閉じたまま、崇は運命を受け入れようとしていた。
「...おい、まだ生きてるか」
低くしゃがれた男の声が、雨音を突き抜けて耳に届いた。
崇は重い瞼を開け、目の前を見上げた。そこには、無精髭を生やした逞しい男が立っていた。陽に焼けたやつれた顔に、鋭く光る目。腰には刀を差し、雨に濡れた着流しの姿から、浪人か何かだろうか。
「殺すなら...早くしてくれ...」
崇は震える声でそう言った。男は少し驚いたように眉を上げ、やがて低く笑った。
「殺すだと?ずいぶん大胆な奴だな」男は懐から何かを取り出し、無造作に崇の足元へ放り投げた。「命が惜しければ食え」
泥の上に転がったのは、少し歪んだ形の、白い握り飯だった。
崇は信じられない思いで、それを見つめた。救いの手など、もう期待していなかったのに。
「遠慮するな。この辺りじゃ見知らぬ者同士の恩は三日だ。今日は俺が施すが、明日は別だぞ」
男は顎で路地の先を指し示した。
「運が良けりゃ、あそこの潰れた堂で雨露はしのげるだろうよ」
崇は声を振り絞って「なぜ...」と尋ねた。男は少し考えるように空を見上げ、「さあな。死に損ないが一人増えたところで世は変わらんさ」と意味深な言葉を残した。
「佐々木...仙吉だ。覚えておけ」
名乗るだけ名乗ると、佐々木仙吉と名乗った男は、雨の中を飄々と歩き去っていった。
後には、泥の上に転がる一つの握り飯と、「潰れた堂」というわずかな情報だけが残された。崇は震える手で握り飯を拾い上げた。泥が少し付いている。現代なら絶対に口にしないだろうものだ。しかし今は——。
一口かじった瞬間、塩味が広がり、喉が鳴った。米粒は硬く、味などほとんどしない。それでも、胃の中に固形物が入る感覚、わずかな塩気が、全身の細胞を目覚めさせるようだった。
(生きる...生きなければ...)
崇は佐々木が指し示した方向を見た。ようやく雨も小降りになり、夜空のわずかな月明かりが道を照らし始めていた。
立ち上がる力を振り絞り、崇は潰れた堂を目指して歩き始めた。小さな、しかし確かな生への一歩。この見知らぬ世界で生き抜くための最初の一歩だった。
## 潰れた堂と生存への決意
朽ちかけた小さな木の鳥居。その奥に、屋根が半ば崩れ、壁も所々剥がれ落ちた、見るからに打ち捨てられた小さな堂があった。かつては地域の小さな祠だったのだろう。今は誰も訪れる者のない、忘れ去られた場所となっていた。
崇は最後の力を振り絞り、ようやくたどり着いた堂の中へと転がり込むように入った。中はがらんとしており、床には埃と枯葉が積もっていたが、幸い先客はいないようだった。そして何より、激しく打ち付けていた雨音が、弱まった。かろうじて、残った屋根が雨を防いでいた。
「はぁ...はぁ...助かった...」
崇は壁にもたれかかり、そのまま床に座り込んだ。心の奥底では、もう一度現代に戻れるかもしれないという淡い期待があった。しかし、現実は非情だった。ここが江戸時代であり、彼が突如として時を超えてきたという事実は変わらない。
(もう戻れないかもしれない...)
その認識が、崇の心に重くのしかかる。家族、友人、学校、当たり前だった日常の全て——彼はそれらを一瞬にして失ったのだ。
しかし同時に、不思議な冷静さも訪れていた。人間、追い詰められると逆に思考が明晰になることがあるという。崇は今、まさにその状態だった。
(とにかく、生き延びなければ...)
雨の音を聞きながら、崇は自分の状況を整理し始めた。
現状の問題点:
1. 適切な衣服がない(現代の制服では目立ちすぎる)
2. 食料、水の確保
3. 寝場所の確保(今夜だけならこの堂でも)
4. 長期的な金銭・生活の手段
崇はポケットの中身を改めて確認した。財布の中の現金4,320円。これが江戸時代で価値を持つか怪しいが、少なくとも煮売り屋の老婆は硬貨に興味を示した。現代の日本円は金属製のものなら、珍しさや金属としての価値で何かと交換できるかもしれない。紙幣はどうだろう?
(これも...資源として使えるかも)
崇は千円札を取り出し、明かりの少ない堂の中でも見えるように目を凝らした。精巧な印刷、特殊な紙...これらも何かの価値に変えられるかもしれない。
問題は、どのようにして新しい社会に溶け込むかだ。江戸時代の言葉や礼儀作法、生活様式...全てを一から学ばなければならない。
(無理だ...できるわけがない...)
一瞬、絶望が彼を襲った。しかし、佐々木仙吉の顔が脳裏をよぎる。あの男は、崇を見捨てず、一つの握り飯とわずかな情報を与えてくれた。その小さな親切が、今の崇の命を繋いでいる。
(ここから...俺は成り上がってみせる)
崇は震える手を強く握りしめた。裂けそうな爪の間に入った泥、現代では考えられないほど不潔な状態。しかし、この手で新しい人生を掴み取るしかない。
(ひとまず、明日は着物を手に入れる。そして食べ物...水...できれば仕事...)
具体的な行動計画を立てながら、崇の意識は次第に薄れていった。疲労は限界を超え、彼は堂の床で深い眠りに落ちていった。
その夜、彼が見た夢は、江戸の混沌とした街並みと、遠く遠く離れた現代の家族の姿が入り混じる、不思議なものだった。
## 最初の一歩 - 衣服の調達
冷たく硬い床の上で浅い眠りから覚めると、全身が痛みに包まれていた。一瞬、どこにいるのかわからなくなったが、すぐに昨日の出来事が鮮明に蘇った。崇は重い体を起こし、堂の外を窺った。
雨は上がり、朝の柔らかな光が差し込んでいた。しかし、腹の虫は正直で、再び強烈な空腹が襲ってきた。濡れた制服はまだ完全には乾いておらず、じっとりとした不快感が体力を奪う。
(このままでは、本当に飢え死にするか、病気になるかだ...)
恐怖が背筋を這い上がる。意を決し、崇は重い体を起こした。
(このままじゃダメだ。動かなきゃ...)
堂を出た崇は、朝の活気に包まれた江戸の街に足を踏み出した。朝の清々しい空気が肺に染みる。昨夜の雨で洗われた街並みはより鮮明に見え、崇の目に飛び込んできた。
人々が忙しく行き交う中、崇は周囲を注意深く観察した。魚を担いで威勢の良い声を上げる男、野菜を並べる女、急ぎ足で歩く町人たち。そして時折、刀を差した武士の姿も見える。崇の奇妙な服装に向けられる視線は、相変わらず好奇と警戒に満ちていた。
(まずは着物だ...そのためには、この硬貨を使うしかない)
崇は再び人通りの多い場所へと向かった。昨日の煮売り屋は見当たらないが、様々な品物が並ぶ市場のような一角が目に入った。露店が立ち並び、威勢の良い声がここかしこから聞こえてくる。
視線を巡らせると、古道具や小間物を扱っているらしい店が見つかった。店先には、様々な形の鉢や皿、使い古された道具類が並んでいる。店主は頬のこけた老人で、暇そうに客を待っていた。
「すみません、ご主人」崇は恐る恐る声をかけた。「何かご用かい?」老人は怪訝そうに崇の制服を眺め、首を傾げた。
「これ...」崇はポケットから100円玉を取り出し、「これと、何か着るものを交換していただけないでしょうか」
老人は100円玉を手に取り、好奇心に満ちた目で眺めた。「ほう、妙な模様じゃのう。どこの銭じゃ?」
「遠い...国のものです」崇は曖昧に答えた。「旅の途中で強盗に遭い、持ち物を奪われてしまって...この変わった衣服以外何も残らなかったんです」
老人は崇を疑わしげに見たが、硬貨には明らかに興味を示していた。周囲からも、珍しいものを見ようと、ひそひそと人だかりができ始めた。
「何じゃ、その銭は?」「珍しいな」「外国のか?」
熱が入った自然な驚きの声だった。崇はこれがチャンスだと悟った。
「他にも数枚あります」彼はさらに数枚の硬貨を見せた。「全て差し上げますので、どうか着るものを...」
老人は硬貨を転がし、光に透かして見るなど、様々な角度から観察した後、ようやく口を開いた。
「ふむ...面白い。だがな、こんな得体の知れないもんで、まともな着物が買えると思うのかい?」
老人はそう言いながらも、硬貨から目を離さない。崇は彼の心理を読み取った。
「では...これらと引き換えに、ご主人のお持ちの中で一番安くてもいいので、私の体に合う着物をいただけないでしょうか」
老人は少し考えてから、「それらの銭、全部置いていくなら、あの隅っこにある一番安い古着と交換してやらんでもないぜ」と指差した。
それは、誰が着ていたかわからない、継ぎ接ぎだらけで色も褪せた木綿の着物だった。明らかに上等なものではないが、今の崇にとっては救いの神だった。
「ありがとうございます!」崇は素早く財布から全ての硬貨を取り出し、老人に差し出した。老人は満足げに硬貨を受け取り、古着を投げるように渡した。
一部始終を見ていた通行人たちは、浮世絵に描かれた奇妙な服装の若者が、不思議な銭と古着を交換する様子に、好奇心と突拍子もなさを感じたことだろう。
「あの若い者、どこの国の者じゃろう?」
「銭も衣服も見たことがない...」
「旅の途中で強盗に遭ったというが...うさんくせえな」
噂話が広がるのを感じながら、崇は堂への帰路を急いだ。
## 変化と覚悟
廃寺に戻った崇は、人目を避けるように堂の隅へと移動した。昨日までの制服を脱ぎ、入手したばかりの古着に袖を通す。
着物を着る経験など、文化祭の時くらいしかなかった。それも、現代の簡略化された着付けだ。しかし、必死の思いで何とか体に巻き付け、帯のようなものを締めた。見た目は決して美しくないが、少なくとも異様な現代服よりはマシだった。
生地はゴワゴワして肌触りも悪い。お世辞にも清潔とは言えない。しかし、崇は深い安堵を感じた。これで少なくとも周囲から奇異の目で見られることは減るだろう。
「よし...これで一歩前進だ」
彼は制服を丁寧に畳み、隠せる場所を探した。廃寺の隅、床板の一部が浮いている箇所を見つけ、そこに制服と財布、充電が切れたスマートフォンなど、現代の品々を隠した。いつか現代に戻れる望みがあればの話だが、最後のつながりとして手放せなかった。
自分の変化を確認するため、外に出て雨上がりの水たまりに映る姿を覗き込んだ。そこに映っていたのは、ボロボロの着物を着た、やつれた顔の若者だった。現代の高校生の面影は既に薄れ、江戸時代の貧しい放浪者のように見える。
(これが...今の俺なのか)
現実が突きつけられる瞬間だった。しかし同時に、この姿こそが新しい一歩の始まりなのだと、崇は受け入れた。
「次は...仕事だ」
崇は再び江戸の街へと足を踏み出した。