婚約破棄されたので引き継ぎ事項を申し上げます
「オリビア・ワトソン! 本日この時をもってお前との婚約を解消し、このラズリー・ジャクスンと新たに婚約を結ぶことをここに宣言する!」
学園の創立記念パーティー会場の中央でそう声高に宣言したのは、私、オリビア・ワトソンの婚約者である「エドガー・ルシェル」。この国の第一王子である。
他の王族が不在のこの場で婚約破棄を宣言したことは賢い選択だろう。他の王族がいれば即座に止めに入られ、そのまま拘束されていただろうから。
そのくらいに私との婚約は重要なものであることは王族ならば周知のはずだ。
度重なる飢饉のために財政難に陥っている王家にとって、私との結婚で得られる予定の鉱山や、婚約したことで得られている侯爵家からの援助金が打ち切られることは大打撃でしかないのだから。
我がワトソン侯爵家は資源豊富な鉱山を幾つも有しており、地位としては侯爵止まりの家門だが、総資産としては国内一位と言われるほど裕福な家である。
エドガー殿下との婚約が決まったのは今から七年前、私達が共に十一歳の時である。
七年の間婚約関係にあったエドガー殿下の顔を見ると、彼はこちらを見下し、勝ち誇ったような顔をしている。
きっとこの婚約破棄の件が王家の耳に入れば王子としての地位も怪しいだろうに。
「婚約破棄の件、慎んでお受けいたします。七年間ありがとうございました」
何事もなかったかのような顔をしてカーテシーをすると、エドガー殿下はなぜか悔しそうな顔をされた。
「お、お前は最後まで可愛げの欠片もない女だな!」
「可愛げ……私とエドガー様の間にそのようなものが必要でしたでしょうか?」
そう告げるとエドガー殿下は悔しそうに顔を歪めた。
その隣で未だに勝ち誇った顔でこちらを見ている令嬢、ラズリー・ジャクスンを見た。
ジャクスン家は商売の才を買われ準男爵の地位を賜ったばかりの新興貴族であるが、野心だけはたくましいほどに強く、その血を引いているラズリーも上昇志向の強い女性である。
殿下と今のような関係になる以前は伯爵家、侯爵家、公爵家のご子息らと目に余るほど所構わず体を寄せ合い愛を囁き合っていたことは誰もが知ることだ。
そのご子息達は学園から除籍されてしまったため、ラズリーが次のターゲットに選んだ人物こそエドガー殿下だったというわけだ。
事情を知るものならば関わりを持つことすら避けるはずだが、エドガー殿下はまんまとその毒牙にかかってしまった。
「本当に分かっているのかしら? 大変なのはこれからですのに……」
二人には聞こえないようにそっとつぶやいた。
「ラズリー様、それでは私の方から殿下に関する引き継ぎ事項を申し上げます」
「ひ、引き継ぎ? そんなの必要ないわよ!」
「いいえ、引き継いでもらわねば困りますので」
そう言うとラズリーは「分かったわ」と言った。
「その一・殿下は一筋縄ではいかないほど朝が弱く、どれだけ起こされようが起きてくださいません。ですので今後はラズリー様が毎朝起こして差しあげてください」
周囲からクスクスと笑い声が湧き起こったがどうでもいいことだ。
私はこの七年間、毎朝四時に起き家から城へと向かい、殿下を起こすという役目を果たしてきた。
こちらの体調が悪かろうが、どんなに天候が悪かろうがそんなことは一切関係なく、それが当然のことであるのだと押し付けられてきた。
ラズリーが婚約者になるのならばそれを引き継ぐのは当然のことである。
「毎朝六時半には殿下を起こし、身支度を整え、王家の皆様が揃う朝食の場までお連れしなければなりません。ラズリー様の家は王城まで馬車で片道三時間少々かかります故、最低でも深夜二時には起床し、城へ行ってもおかしくないように身支度を整えてから出立しなければなりません。こちらの都合など一切考慮していただけないため、体調が悪くとも、天候が悪くとも、身内に不幸があろうとも、殿下の体調が悪くない限り一日も欠かさず行うことが婚約者としての義務だそうですので、今後はラズリー様が引き継いでくださいませ」
ここまで言うと周囲からは先程までの嘲笑は消え、ヒソヒソと囁く声が聞こえ始めた。
「その二・王家の財政は大変厳しいもののため、殿下が使うお金の全ては婚約者の家が負担することが義務だそうですので、今後はラズリー様のご実家であるジャクスン準男爵家の負担になります。年間にしてざっと二千万、その他に年に五回ほど視察と称した観光の度に二、三百万ほど必要となりますので、それを念頭に入れてご準備願います」
「そ、そんなの無理よ!」
「無理と言われましても、我が家は婚約が決まったその日からそう義務付けられてきましたので、婚約者になる以上、ラズリー様が引き継ぐことでございますわ。私は今後婚約者ではありませんので、これ以上義務を果たす必要もありませんし」
具体的な金額が出たことで周囲のざわめきは一層強くなっている。
今殿下が身に着けている物全てが我がワトソン侯爵家で用意したものであり、隣にいるラズリー様が身に着けている物一式も我が家の金で用意された物だ。
それも忘れてこのような婚約破棄を行うのだ、それなりのダメージは受けてもらって当然である。
自分に非難的な視線が集まっていることに気付いた殿下は「も、もうよせ!」と言い出したが、伝えておかなければならないことはまだある。
「そういうわけには参りません。国政にも関わる事項がございますので、殿下は黙っていてください」
「国政」という言葉に周囲のざわめきはより一層大きなものへと変わった。
「その三・殿下に任された公務以外の執務は全て婚約者が行うこと」
そう言った途端、会場は静まり返った。
それもそうだろう。殿下が現在任されている殿下主導の政策は有名なのだから。
「殿下は書類仕事を行うと蕁麻疹と呼吸困難に陥るという特異体質であると聞かされ、婚約した日からこれまで殿下の執務の全ては私が行っておりました。案の提出から実行まで全てです。公の場に顔を出される公務に関しては問題なく行えるようですので、それ以外のことは今後はラズリー様が行ってくださいませ。現在の主だった政策は『スラム街の環境整備と改善化』『上下水道の国内完全配備』の二つ。どれも我が家の資産から費用を捻出しておりましたので、今後はその費用もジャクスン準男爵家の負担になります」
蕁麻疹や呼吸困難など嘘だということは始めから分かっていたが、我が家がどんなに資産を持っている家だとはいえ一介の侯爵家である以上、王家に逆らうことなど出来ない。
どんなに理不尽なことを押し付けられても耐えるしかなかった我が家の恨みは大きい。
婚約がなされた際、王家から我が家への支度金などの準備は一切なく、侯爵家から王家への支度金としてワトソン家が保有している鉱山の中で一番大きなものを結婚成立後に王家へ寄贈する約束までさせられている。
財政難だからと国の予算の半分近い寄付をさせられ、殿下の使うお金以外にもあれこれ理由をつけては金を要求されてきた。
我が家は鉱山で採れた宝石や鉱物を他国へと輸出しているため収入的には全く問題はなかったが、お金は無限に湧くわけではない上に、領地の民へ還元していくものであるため頭を抱えていたのだ。
「以上が引き継ぎ事項となります」
全てを聞き終えたラズリー様は顔面蒼白で魂の抜けたように呆然とされている。
「それでは、本日この場を以て、我がワトソン侯爵家は帝国領土となり、この国から移籍いたします。皆様、ごきげんよう」
「ちょっ、な、何だそれは!」
殿下の声と共に周囲のざわめきが戻ってきた。
帝国とは、我が家が保有する鉱山を挟んだ隣にある大国で、我が家の一番大きな取引相手でもある。
我が家が置かれている理不尽な状況を知った帝国側より再三にわたり亡命を勧められて来たが、先祖から受け継いだ領地とワトソン家を慕ってくれる領民を捨てていくわけにはいかないためその誘いを断り続けていた。
ワトソン侯爵家は元より裕福な領地ではなかった。
山ばかりの土地を与えられ、その昔は木材の加工を細々と行って何とか領地を守ってきた零細貴族だったのだが、ある時領民が鉱石を発見し、その鉱石に一縷の望みをかけて山を掘り、ようやく鉱脈を発見し現在に至るのだ。
鉱脈は地下深くの場所にあったため、掘り当てるために相当な年月と資金を要したのだが、領民の支えもありなんとか成し遂げることが出来たため、その大切な土地と領民をわがまま放題の王家になどくれてやりたくないというのが我が家の総意だった。
それを知った帝国側から再度申し出があったのは三年前。
内容は「この婚約が破棄された場合、ワトソン侯爵家は領地と領民ごと帝国領へと移籍する」という内容であった。
とんでもない内容だったが、私と婚約破棄をするなどありえないと考えた王家は渋りながらも了承し、正式に書面まで交わしている。
その書面の片方は王家が、もう片方は帝国が保持しているのだが、王家は帝国側が所持していることなど知らないだろう。
「では、参りましょうか?」
いつの間にか隣に来ていた帝国の使者。
「あなたはいつも突然現れるのね」
そう言うと彼は小さく微笑んだ。
立ち去る私に殿下が何か喚いていたが私の知るところではない。
帝国の兵士たちに守られながら私は我が家へと帰った。
すぐさま王家から使者がやってきたが、もう帝国民であるという理由で会うことすら断った。
帝国側の行動は早く、婚約破棄が決まったその時から我が領地を取り囲むように塀の建設が開始され、十日もしないうちに我が領地には立派な塀と関所が設けられていた。
「オリビア」
いつの間にやって来ていたのか、耳元で名を呼ばれ「キャッ!」と悲鳴を上げてしまった。
「本当にあなたはいつも音もなくやって来るのね。そのうち私の心臓が驚きのあまり止まってしまうのではないかしら」
「そんなことになっては困ってしまうよ。君はこれから私の花嫁になるのだから」
「へ? 花嫁?!」
「正式に婚約と結婚を申し込みに来た」
そう言うと私の前に跪く彼。
「オリビア・ワトソン嬢。あなたを愛している。私と結婚して欲しい」
真っ直ぐ私の目を見つめる黒い瞳に心臓が跳ね上がった。
「で、でも、私はあなたのことを何も知らないわ」
「これから少しずつ知っていけばいい。私はあなたを全身全霊で愛すると誓う。あなたは私の愛に少しずつ応えてくれればいい」
「あなたの本名すら知らないのよ?」
「あぁ、そうだった……私としたことが……」
スクッと立ち上がった彼は胸の中央に軽く握った右手をあて「私の名は『ノーチェ・ザルハラー』。この国、ザルハ帝国の第一皇子です」と言うと頭を垂れた。
「あなた、いえ、あなた様は皇子だったのですか?!」
慌てて立ち上がってカーテシーをしようとした私を止めると、見慣れた小さな笑みを浮かべこちらを見つめてきた。
「これまで通りに接して欲しい。ありのままのあなたが好きなんだから」
彼はあのとんでもない書面を交わした時から「帝国の使者」として私のそばにい続けてくれた人であり、婚約者がいる身でいけないことと分かっていたが密かに恋をしていた相手でもある。
立ち居振る舞いの美しさからきっと爵位の高い人なのだろうとは思っていたが、まさか皇子だったとは……。
「私はこの国に移籍してきたばかりのしがない侯爵家の娘です……きっとこの国の民達が私達の婚約など認めてはくれないでしょう」
「そのことかい? あなた達は知らないだろうが、ワトソン家の亡命を望んだのは帝国の商会組合や国民たちだ。ワトソン家は単なる鉱石の販売だけではなく、その加工の技術まで惜しみなく伝授し、スラムに住む者達に職を得るチャンスまで与えてくれた。その功績の素晴らしさは国内で知らない者はいないだろう。そして、ワトソン家に恩を感じている者も大勢いる。理不尽な扱いに我慢出来なかった者達から亡命を受け入れて欲しいと声が上がるほどに」
帝国での我が家の評価など伝え聞くこともなかったため、その言葉にただ驚いた。
「だから、私とあなたが結婚したら、きっと国を挙げて祝福されるだろう」
驚きのあまり言葉も出ない私を優しく見つめる大好きな黒い瞳。
「だから、どうか私を好きになって」
耳元でそんなことを囁かれ、顔は火を噴くのではないかというくらい熱くなり、足腰に力が入らなくなった。
「ふふふ、どうやら望みはありそうだ」
その後何度も口説かれ続けた私は翌年にノーチェ様と結婚。
結婚式こそは厳かな雰囲気の中で行われたが、その後のお披露目パレードは国中の人が集まったのではないかというほど賑わい、大勢の民達からの祝福の声が響いていた。
その後の元祖国はというと、一番の納税者であり、王家の財布として使われていた我が家を失ったため、本当に財政難に苦しんでいるようだ。
私と婚約した当初は本当に財政難だったが、我が家からの支援もあり数年で持ち直していたことは帝国側の調べで後から知った。
殿下は王位継承権を剥奪され、準男爵家の入婿として王家から除籍されたそうだ。
殿下を受け入れざるを得なかった準男爵家は一切の信用をなくしたため、商会を畳んだと聞き及んでいる。
ラズリー様と結婚したものの夫婦仲は冷えきっており、ラズリー様は仕事と称しては夜の街で男を漁っているのだとか。
エドガー様からは、私がノーチェ様と結婚するまでの間に数度手紙が送られてきていたようだが、私の目に入ることもなく処分されている。
「幸せかい?」
「えぇ、とっても……愛しているわ」
初めて口にした言葉にノーチェ様は目を見開いて驚き、次の瞬間満面の笑みを浮かべた。
「あぁ、ようやく聞けた……ずっとそう言われる日を待っていたんだ」
初めて見た心底嬉しそうな笑顔に胸が高鳴る。
「私の方があなたを愛しているけどね」
そう言うとおでこに口付けを落とした。
柔らかな日差しが二人を優しく照らしていた。