魚桜
「多様性っていうでしょ!」
そう聞こえてきたのは僕が改札を出てすぐのことだった。髪色の濃い大学生風の男がいて、その男から発せられた主張に通行人らもちらほら足を止めて聞いているようだった。男は再度、「ね、多様性、多様性っていうでしょ!多様性、ね」とどもりながら繰り返して、僕もさっきまではアナタたちと同じ無関心の一味でしたみたいな、ある種の可愛げによって聞き手との一体感をつくることに成功していたが僕の気には何も触れず、僕はそんな大学生風の男などいないものとして無心で扱い、駅から目的地への足を止める考慮すら湧くことはなかった。
「多様性ってさ、矛盾に盾突いてる。多様性は、矛盾に……盾突いてるんですよ。なんでっていうと、みんなよく言うしね、なんで矛盾に盾突くってなるんですけど……、あのー排他性っていうか……、多様性を認めないという価値観を、多様性は認めてくれないじゃないですか。認めない、認めないでしょ。認めないよな。認めない……はいおっけーおっけー。じゃあ認めますと。多様性が、多様性代表が、多様性のこと認めない価値観も、まあ一理あるので、仕方ない、認めますってなったとします。そう、言ってくれたとする……でもさ、でもさそれ言ってるだけじゃん! ほんとに言ってるだけじゃないですか! まだね内容的にムチャクチャ、矛盾言ってるのはまだいいよ。矛盾してることはいい。そもそも、世の中には矛盾が溢れてるから。みんな色んな場所や人で、学校とか職場で起こる矛盾に悩んでる。僕も悩んでる。でもさ、そんな中……そんな中さ、一人だけ、見つめるべき矛盾に盾突いて、うんうん分かった。君も仲間認める認める、ってさ、そりゃ……そりゃないだろってさ。思いませんか? オレは人一倍思うから今ここに立ってるんです。」
結局ひと段落つくまで聞こえてしまったのは、目的地が駅前の精病院だったせいだ。なぜか診察室の窓は開いていた。患者のプライバシーとか今は冬とか、窓を閉じてもらうための理由はいくつか浮かんでも、その気持ちは今僕に走る緊張に加担するだけでただただ無力な重荷だった。
「その後どうですか。」
「ええ、まあ、悪くないです。」
調子でもなんでも質問に答えるとき、嘘をついているような気分になった。これは相手が誰でも僕がどう答えてもそうであって、これこそが病気の表れだと先生は言っていた。「でもどんな質問も正確な答えが不可能というのは真実でしょう」と反論すると先生は、「正確でなければいけないことはないんです」と優しい顔をして、数カ月前に来院したばかりの僕にはその笑顔がやけに恐ろしく映ったことが思い出される。あの頃に比べれば恐怖もだいぶ薄れている。思っているよりも回復は早いのかもしれない。
回復の兆しを過去に探し、その片手間に交わした先生との会話はあっという間だった。先生の言う「肩の荷を下ろしたコミュニケーション」に近づけているのだろうか。診療代を払って僕は精神病院のあるビルを後にした。
大学生風の男とその仲間たちは勢力を増してどこかへ消えた。
ポケットのスマホが十分おきに鳴る。それを無視し続けているのは、心当たりがありすぎていたからで、言い訳を探すかこれ自体を言い訳に使おうかするため、駅を中心に広がる雑多な街を徘徊していた。スマホがまた鳴っている。バイブレーションで太ももが痒くなって胸を掻きむしられるようだった。だんだん周囲の建物が薄汚れて、その背も低いというか不格好になってきている。中心地から外れてきたのだ。相変わらず人は多く通る。売りだされている物も得体が知れず、季節も外れだしている。幼少の風邪の日、学校を休んで車の窓を流れていく塾のビルと街路樹のような残像がちらついた。両親だけが知っているロックバンド。蕎麦屋を出てきた女が満足そうに笑って口から零れた歯並びから目を逸らして太陽に当たった。コンビニの入店音が違う。自分の猫背が加速する感覚を覚えた。視点が太陽から落ちるとそこは徘徊していた街ではなくなっていて、僕は一本の桜の木の下で立っているのだと、気づくのに五秒ほど遅れた。
桜の木を見上げた。花の中を青灰色の鱗をした魚が泳いでいた。大したサイズでもなく一匹だけで泳いでいた。それを見た僕は、とっさにあの魚と晴天に幕を引く鉛の雲とを重ねてみる、ほとんどあくびに似た連想が見間違いへの疑いよりもずっと早かった。満開の間を泳ぐ魚は視界に入れているだけで、僕の持て余した時間を減速させるほどどんくさく、前方に突き出た唇がやけに分厚い。鈍い色の鱗の光沢は頑丈な合金のようで、枝も花もかき分けて進行する姿に暴力性のかけらを見つけてしまう。
ポケットのスマホが鳴って魚は桜の中に消えた。誰からの連絡なのか予想が強まる感じがして、できることなら永遠に先延ばしにしておきたいと思った。だけど嘘はもう嫌で、そのことに正直なままスマホは確認することなく、僕はドラッグストアで詰め替え用シャンプーを買ってから家に帰った。