18-2.
自身の腕を枕にする彼を見ながら、何と返したらいいか分からなくなる。自分の描いていた妄想が、どれほど邪な茶番だったのかを思い知り、居た堪れない気持ちになった。
『自分の財産すら碌に守れない男が、どうやって複雑な事情を持つあの子を守るんだい』
テレさんからそう諭された彼は、親友から騙されたことで自信を失いかけていたみたい。
「……エンゴロのことだって、やっぱり悔しくてたまんないんだ。でも俺なんかじゃ、上手く太刀打ち出来なくてさ」
囁いた彼の背中から、哀愁に満ちた空気が漂う。私は毛布の端を握る手を見ながら、軽く首を振った。
「スティーブさんは、もう十分闘ったよ。だから、あなたにはこれ以上、無理して欲しくないんだ。それに、私のこと心配してくれるだけでも……すごく嬉しいんだよ?」
「けどこのままじゃ、マエルは海外に行っちまうんだろ?」
「うん。明日両親が帰ってきたら詳細は分かるはずだけど、そうなると思う……」
途端、スティーブさんは体を起こし、眉を顰めて私を見つめてきた。
「ホントにそれでいいのかよ、マエル。海外へ行けば、君は幸せになれるのか?」
真剣な眼差しで問われて、ドキンと心臓が跳ねる。
『海外なんか行きたくない! あなたと一緒にいたい!』
今ここでそれが言えたなら、どれだけ楽になれるだろうか――でも、そんなこと言えない。
貴族と庶民では、背負うものが違う。
貴族には、どうしても守らなければならないものがある。
だから、令嬢の婚約に恋愛感情なんて二の次扱いなんだ。
多分、彼の介入を阻止しようとしたテレさんは、それを分かってる。私とスティーブさんが身分不相応な者同士で、上手くいく訳がないと。
テレさんとは仲良くなれたと思っていたからすごく寂しい。ただ、それも彼女なりの優しさなんだと思う。
じっと返答を待つ彼から、私が視線を外して俯く。
「幸せに……なれるんじゃないかな……」
やんわりと彼との決別を匂わす、心にもない言葉が出る。
途端、目頭からポロポロと涙が滴り始め、頬を伝う雫が顎先から垂れ、握り拳の上に落ちた。
『いいんだっつの、そんなこと気にしなくて! マエルの気持ちの方が大事なんだから――』
私の気持ちなんて、言えないよ。
好きなのに。
大好きなのに。
離れたく……ないのに。
すると――毛布を握る私の両手に、彼の手が重なった。
スティーブ……さん?
コツンと、私と彼の額が触れ合う。
目を瞑った彼の、長いまつ毛が鮮明に見えてくる。
彼の唇が近づいてくる――すると彼は躊躇ったのか、私の唇の寸前で止まってしまった。
嫌……キスしたい。
ぎゅっと抱きついて、吸い込まれるように私からキスをする。
彼の柔らかな舌がゆっくりと口内に入ってきて、たちまち頭の中が真っ白になっていく。それでも、無我夢中になって舌を絡ませた。
情熱を注ぎ込まれるような口付けで、身も心もトロけていく感覚に襲われる。
そんな私を、全身を優しく包み込む腕がゆっくりとベッドに押し倒してきた。
「マエル……」
小さく囁いた彼は私に覆い被さり、緊張で震える私の手をそっと握ってくれた。互いの指が複雑に交差し、口付けはさらに濃密なものへと変わっていく。
はぁ……。
私、これからスクラップ(?)にされるんだ。
でも、いいのかな。
最初で、最後になるのかな……。
期待と不安が入り混じる中、じんわりと熱を帯びてきた下半身が疼き始めて、
「んっ……」
幸せの吐息が唇の隙間から溢れた瞬間――突然、覆い被さっていた彼の唇が離れた。
あれ……?
な、何?
胡座をかいた彼は“しまった”と言わんばかりに顔を歪めて、後頭部を掻きむしる。
「ど、どうしたの……?」
虚をつかれて尋ねたら、彼はあどけない表情を浮かべて苦笑いした。
「あ、危ねぇ〜、また突発的に行動しちまうとこだった」
「え〜ッ、今のはいいんじゃないの!?」
「ダ、ダメだって……! こういうのは、ちゃんと順序を踏まないと」
唇をキュッと結んだ彼に対し、口をぽかんと開けて固まってしまった私。
完全に受け入れ態勢だったのに、お預けを喰らって超絶ガックリしつつ、恥ずかしがるように毛布で顔を半分隠した。
「で、でも、勢いとかも必要なんでしょ……?」
お互いに気持ちを確認したわけじゃない。それでも彼がその気なら、間違いなくそのままシてたはず。
「そうだけど、今はダメなんだ」
「……今は?」
「マエルのことは、もっと大切にしたいんだよ。ばあちゃんから何と言われようが、俺はマエルを“守る”って決めたから」
「本当……? 私が変態に襲われても?」
「んなの当たり前じゃん! 俺、毎日腕立てと腹筋20回やってるし、格闘技の試合観戦も3回行ったんだ。あと、プロボクサーの自伝も半分くらい読んだし」
「スティーブさん……」
役に立つのか懐疑的&超不安なのは別として、彼の気持ちはすごく嬉しかった。そして、海へ行った日の帰りの車内で言われた、彼の言葉を思い出す。
『大事なのは“手順”なんだ――』
そっか、あの時も似たようなこと言ってたっけ。根が真面目なんだね。ガックリしてた自分が情けない。
もしかして、大好きな車とか機械くらい……私のこと大事に想ってくれてたのかな。
「海外なんて、俺が絶対に行かせない。だからマエル。事が落ち着くまで、待ってくれないか?」
トクン。
私が突き放そうとしたのに、スティーブさんは諦めていなかった。『待ってくれないか』の中には、たぶん告白も含まれているんだと思う。
そんな彼の誠実を貫こうとする姿を見て、ふぅと深い溜息を吐き、毛布からヒョコっと顔を出す。
「……も、もう一回、キスして欲しい……なんちゃって」
辿々しくも願いを乞うと、フッと顔を綻ばせたスティーブさんが、私と向き合うように寝転がった。
改めて間近で見る彼の顔に、うっとりする私。
こんな近い距離で見つめ合うのはすごく恥ずかしいけど、彼が側に居てくれると分かった安心感で、私の胸は幸せな気持ちでいっぱいになっていた。
下着が空振りしたことなんて、すこぶるどうでも良い。
私の頬に、ふんわりと手を添えてきた彼がニコリとはにかむ。見れば見るほど、その整った甘い顔をした視線から、照れ臭くて目を背けたくなる。
再び毛布を被ろうとしたら、彼がその手を止めてきた。
「隠れちゃダメ」
「だ、だって恥ずかしいから……」
「いいよ。マエルの恥ずかしがる顔、マジでめっちゃ可愛いんだ。ホントに可愛いよ……ずっと見てたい」
「……いじわる〜」
少し頬を膨らませて口を尖らせた瞬間、はむっと唇を奪われる。
一瞬驚いたけど、さっきとは打って変わって、落ち着いた気持ちで唇を重ねることが出来た。
『大好き』
喉元まで出かけた言葉を飲み込む。
こんな状況なのに、やっぱり自分からは言えなかった。
寝たくない。
ずっとこのまま、時間が止まってて欲しい。
お互いを求め合うように、何度も、何度も吸い付き合う。離れてもすぐに向きを変え、唇と舌の柔らかさを執拗に確かめ合った。
こうして私は眠りに落ちるまで、彼から優しく抱っこされながら、ずっと口付けしてもらっていた――。
ムクリ――。
スティーブさんが寝静まったのを見計らい、ゆっくりと上体を起こす。あることが気になり、しれっと狸寝入りしていた私。
あそこの異変に気付き、どうしても確認しなければ、と思い立ったのである。
「スー……スー……スー」
うん、大丈夫。簡単に起きないくらい爆睡してる。
ベッドから降り、床が軋まないように気を遣いながら部屋を出て、そのまま浴室へと向かった。
そっと扉を閉めて洗面台の前に立つ。急いでナイトガウンの裾を捲り上げ、ショーツを覗き込む。
や、やっぱり……。
思った通り、純白のショーツには股を中心に“謎の液体”による染みが広がっていた。太ももの付け根からも滴りつつある。漏らした訳ではないし、生理にしては早過ぎる。
今一度誰も起きていないことを確認し、ショーツを脱いでみる。手に取ったショーツの股の部分には、無色透明の蜂蜜みたいな液が、たっぷりと付着していた。
こ、これが噂に聞く『濡れる』ってやつ?
たしか『愛液』だったっけ?
え、キスしかしてないのに?
しかもこんなにいっぱい?
想定外のことに目を疑いつつ、クンクンと匂いを嗅いでみても無臭。不可思議な現象解明はさておき、とにかくこのショーツを洗って股を拭き、新しいものに履き替えようと思った矢先だった。
カチャン――。
「う〜ん、まえるぅ〜?」
「ひゃッ!?」
突如、背後からスティーブさんの声がした途端、仰天した私はショーツを上にポイッと放り投げてしまう。
心臓が爆発しかけて固まっていた私が、ゆっくり振り返る。
「どした〜?」
と、眼前には目が33状態のスティーブさんがドアから顔を出していた。そして投げ飛ばしたショーツは、こともあろうか彼の頭上に乗っている。絶体絶命の大ピンチ到来。本日2度目のオワた。
「ス、ス、スティーブさん……起きちゃったの?」
「う〜ん……」
ほわんとした表情をする彼は寝ボケているのか、まだショーツに気付いていない様子。奇跡的な状況とはいえ、ピンチに変わりない。
「わ、私は何でもないから! ほら、ベッドに戻ろ?」
「お〜う……」
ひとまず誤魔化して、彼の背中を押しながら浴室を出る。寝室へ向かって歩き出しつつ、背後からショーツを取り返そうと試みる。しかし。
「……マエルがいなくなったから、ビックリしたんだよ〜」
「ひょえッ!」
突然振り向かれ、咄嗟に手を引っ込める。
「そそそ、そうだよね! ごめんね、心配させちゃって」
あれよあれよとそのまま寝室に入ってしまい、あまりの焦りで背中から冷や汗が滲み出てきた。33スティーブさんがベッドに腰を下ろし、私は向かい合わせにソファへ座る。
どどど、どうしよどうしよ……!
どうやってショーツ回収すればいいの!?
ていうか何この状況……!?
私ノーパンじゃん……!
お股も拭けてないし……!
「いやぁ、マエルがいなくなっただけで起きちゃうなんて……はは、意外と俺も敏感でしょ?」
と、愛液だらけのショーツが頭上にあることすら気付かない超鈍感な33スティーブさんがキメ顔を披露してきた。
「そ、そうだね……」
「後ろ姿だったからよく見えなかったけど、何か持ってなかった〜?」
「な、何も持ってないよ見間違いじゃないかな! それより早く寝ないと、明日も早いしさ……!」
「お、そうだった〜。うん、寝よっか〜」
そう囁いた彼が、何気なく後頭部に手を添える――あ、不味い――ショーツに指が触れ、彼が「……んお?」と反応した瞬間――私はジャガーが獲物を仕留める勢いで飛び掛かった。
「ごふッ!?」
ところが、勢い余ってスティーブさんの後頭部がベッド背後の壁に激突――焦燥した私がすぐさま見遣る。首だけ壁にもたれ掛かる彼の目は、グルンと上を向いて99になっていた。
「ちょ、ごめん! スティーブさん大丈夫!?」
「……ピヨピヨ」
あ、本気でピヨってる……!
でも、朦朧とした中で『ピヨピヨ』言ってるくらいだから大丈夫かな。うん、今のうちにショーツ回収しちゃお。
ホッとしたのも束の間、彼の腰上で馬乗り状態になっていることに気付く。股のじんわりした感触から、間違いなく彼のスウェットにアレが付着してしまったのを確信する。
はわわ……やっちゃった!
恐る恐る腰を浮かせる――やはり彼の股間あたりは、ベットリと濡れていた。
ダッシュで洗面に戻って股の処理をする。ショーツを履き替える余裕はなく、濡らしたタオルを持ってきて彼の股間をゴシゴシした。しかし粘液のせいか中々落ちず、必死に精一杯ゴシゴシしてみる。
ゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴ……シゴシゴシゴシゴ――。
「んしょ、んしょ、んしょッ!」
「う、う〜ん……?」
そこへ突然、99スティーブさんが意識を覚ましてしまう。ササッとタオルを背中に隠して苦笑いする私。
「え、えへへ、起こしちゃった……?」
「マ、マエル、どしたの? なんか今……俺の股間、シゴシゴしてなかった……?」
「ち、違うよ〜! そんなことする訳ないじゃん!」
「ん〜? でも、なんか反応しちゃってるし」
という彼の指先を追って視線を向ける――彼の股間は、スウェットを突き破るんじゃないかってくらい“モッコリ”としていた。
こ、これって……!
「いや〜、やっぱ俺に似て素直――」
「も〜、スティーブさんの変態ッ!」
「――だぷッ!?」
笑いながら、悪ふざけで軽く平手打ちしたつもりだった。
ところが、濡れタオルを持った右手で重いビンタをしてしまい、彼の頬を狙ったつもりが顎先にクリーンヒット。
ボクサーから右フックを喰らったように脳を揺さぶられたスティーブさんは脳震盪を起こして――カクンッ――と首が傾げるように落ち、輝きを失った目が66になって失神していた。
「う、嘘でしょ……? あ〜もう、ホントごめ〜ん! 何やってんだろ私、最悪……」
『俺はマエルを“守る”って決めたから――』
『海外なんて、俺が絶対に行かせない――』
あんな心強い言葉をくれたのに、感謝するどころか不本意で2回もノックアウトしてしまった。何も悪いことしていない彼を。
「はぁ……」
自分のドジっぷりに対する呆れと、罪悪感に満ちた深い溜息が漏れる。
とはいえ、66さんが大人しくなったのは不幸中の幸い。もう私の邪魔をする存在や不安要素はない。これで気兼ねなく股間清掃を継続出来る。しかし。
「んんッ?」
何故かさっきより“膨らみが発達している股間”を見て硬直する私。さらなる困難が待ち受けていた模様。
何で……?
気を失ってるのに……?
猛々しく聳え立つモッコリの先端をよく見ると、私が付けた染みとはまた“別の何か”の染みが、どんどん広がっていく。動揺を隠せずに観察していたけど、それが何かすぐに判った。
し、失禁してる……!
まさかの緊急事態に困惑しつつも、ただじっと黙って見ている訳にはいかない。失禁で濡れた衣服を着たまま寝たら、身体が冷えて体調を崩してしまう。
とにかく、ズボンとパンツ脱がして着替えさないと!
で、でも直にあんなのみたら、私も失神しちゃうかも知れない……!
いやいや、そんなことビビってる場合じゃないって!
直視しないで手探りでやればいいじゃん!
気合いを入れ、生気を消失させた表情の66さんの腰に手を伸ばし、グレーのスウェットズボンに指を掛けようとする。
しかし“キングオブタワーモッコリ君”が目と鼻の先という、あまりにも至近距離過ぎるせいで集中出来ず、即座に断念。
ダメだ無理……脚の裾を引っ張ろう。
だらんと脱力した脚を持ち上げて両裾を掴み、引っ張ってみる。ところが、どれだけ引いても脱げない。キンタモが引っ張る方向と逆に反り返っていて、超抵抗しているせいだ。
くぬぬぬ、負けるもんですか……!
絶対、風邪なんか引かせないんだから!
引き寄せる力をさらに増した瞬間――スポンッ――不意に抜けたズボンが顔面に直撃。急に脱げたせいでドテンと床に転んだ挙句、後方にあったタンスにガンッと頭を打ってしまう。
「いったぁ〜い……」
衝撃の痛みを堪えながら薄らと目を開けたけど、少し目眩がする。そんな私の手元には、66さんのズボンとチェック柄のパンツが。
……え、ってことは。
ぼんやりとした視界のまま、ゆっくりとベッドの上を見上げる。
ドックン……ドックン――そこには、窓から見える満月の輝きを背景に“天空を穿つ飛龍の如き威厳を秘めた黒曜石彫像の奮い脈打つ姿”が、大地を見下ろすように悠然と立ちはだかっていた。
はぁぅっ……!
心が震えるほどの神々しさを纏う象徴を目にし、時が止まったかのような感覚に陥る。目が00になりながら、思わず両手を胸の前で祈るように組んだ。
「か……神……様……」
全身の力が抜けて、息を吐くように自然と呟いてしまう。途端、少しずつ目の前が暗くなっていき、フッ――と意識を失った――。




