11-1.ラクラル伯爵家(グレイス)
空が真っ赤に染まる夕刻。
キリアンと過ごしたホテルから帰宅した私が廊下を歩いていると、角を曲がる時に不意にメイドと衝突した。
さらに、彼女が持っていたティーカップのトレイから飲み残しの紅茶が溢れ、ドレスの裾辺りに掛かってしまう。
「お嬢様ッ……! も、申し訳ございません!」
名前も知らないメイドが気不味そうに謝りながら、ハンカチで必死に裾を拭き始める。私はフッと口角を緩めた。
「いいのよ、そんなに怯えなくて」
私の言葉に安堵したのか、メイドは「し、しかし、お召し物が……」と、薄ら苦笑いを浮かべた。失態を犯しといてあり得ない。
「こんな服、幾らだって代わりはあるわ。貴方の代わりもね」
目を細めて見下ろすように吐き捨てると、顔をギョッとさせたメイドが手を止めて固まり、頬に冷や汗を垂らした。
「……何やってるの? ボーとしてないで、早く侍女を私の部屋に呼んできて」
「は、はい……」
そそくさと逃げるようにメイドがその場を去る。
自室へ向かうために階段を上がろうとしたら、執事のナビルが執務室から出てくるのを見つけた。
「ナビル」
「はい、お嬢様」
「ブロンズ髪のメイドが辞めるみたいだから、新しい人募集しといて。どうせ募集すれば、応募なんて腐るほど殺到するんでしょ?」
裾に付着した紅茶を指差すと、ナビルは眉を顰めてお辞儀した。
「……これはこれは、新人が大変失礼致しました。早急に手配致します。もちろん、明日には着任出来ることでしょう」
「お父様は?」
「ロドルフ様は、本日も書斎に篭られていらっしゃるかと――」
自室でサンディに持って来させた服に着替えた後、お父様のいる書斎の扉をノックして入室する。
広々とした書斎には、窓から夕陽が差し込んでいた。その中央では、お父様が厳しい表情をしながら、重厚な机に視線を落として、何かを書き連ねていた――。
当主であるお父様は先代から家督を引き継ぐや否や、『ラクラル社』の主力事業を造船業から“自動車製造業”に切り替えた。
自動車のパイオニアであるウォード社が高級志向なのに対し、ラクラル社の車は造船業で培った技術を駆使し、庶民でも手の届き易い安価にしたことで飛ぶように売れた。
『車など所詮移動手段に過ぎない。走ればいいのだ――』
今となっては、ラクラル社の名を知らない者がいないほど、当社製の車が国内で普及している。
こうして、数いる実業家として類い稀なる商才を誇るお父様は、“仕事人間かつ冷徹過ぎるのが難点”とはいえ、先代とは比較にならないほど莫大な財産を築き上げてきた――。
「相変わらず忙しそうね」
入るなり私がそう言うと、お父様は筆をピタリと止めた。
「そう思うのなら無闇矢鱈に書斎へ立ち入るな。気が散る」
「話があってきたのよ」
「ならば手短に話せ」
私になど目もくれず、卓上の書類と睨めっこをするお父様。冷たい態度に嫌気を感じながらも、ポツリと囁く。
「実は今日、キリアンから求婚されたの」
一瞬の間を置きつつも、お父様が「……それで?」と表情ひとつ変えずに尋ねてくる。
「だから……ラクラル社次期社長の席、キリアンに譲ってやってくれない?」
「何を言い出すかと思えば、随分と突飛な要求だな。相手はポグバ家の長男だろう?」
「婿になる方向で合意は受けてるわ。同時にポグバ家の食品加工会社も手に入るから、お兄様はそっちの社長にでも就かせとけばいいのよ」
背中に隠していた婚約契約書を机の上に置くと、お父様はそれを手に取って確認し始めた。
「彼はお兄様が卒業したのと同じ、ブラッドファスト大学の経営学部に在籍してるの。成績も上位だし、文句ないでしょ?」
「回りくどい。何故そこまでキリアンを贔屓する必要があるんだ」
冷ややかな目でジロリと一瞥された私は、嘆息気味に腕を組んだ。




