8-1.帰りたくない(マエル)
ゆらりと湯気が登るココアを、両手で包むように持って飲んでみる。じんわりと染みる温かさと、甘く豊かなカカオの香りが鼻を抜けていく。
はぁ、美味しい……。
そして、一口だけ飲んだココアをスティーブさんに「はい!」と手渡した。
「ホ、ホントにいいの? 俺が口つけちゃって」
「いいよ、気にしないで飲んで!」
「お、おう……」
彼の喉元がゴクリと上下する。
カップを回しながら目を凝らし、ルージュの付いた部分を一生懸命探している様子が“もっとさりげなく探せばいいのに”と愛おしくなる。
敢えてその場所を避けてきたら、すんごいショックだけど――。
昼食を終えて車を発進しようとしたスティーブさんが、クラッチレバーをやたらガチャガチャさせ始めた。
「あれ? またギアの入りが悪くなっちったな……」
いきなりポツリと呟かれ、驚いた私はすぐさま口を押さえた。
「え、何!? もしかして帰れない感じ!?」
「いや、ミッションが少し滑ってるだけで、走れないほどの不具合じゃないから安心して! あとで調整すれば、すぐ直るやつさ!」
安堵して「なんだ、良かった〜!」と、座席の背もたれに寄りかかる。
「でも壊れちゃったら、やっぱ乗り替えたりとかするの?」
「んー乗り替える気はないかなぁ〜。しょっちゅう調子悪くなるけど、こいつを気に入ってるから、何だかんだ修理しちゃうんだ。“手間のかかる子供ほど可愛い”っていうじゃん?」
彼は車のことなら、ほとんど自分で直せるらしい。それだけじゃなく、精巧な機械式腕時計とかも不具合があれば修理出来るみたい。手先が器用なんだと思う。
「大事なのは“手順”なんだ。どういう順番で組み上がっているのかをちゃんと理解して、どっから手を付けるべきなのかってね!」
「へぇ〜、本当に車とか機械が好きなんだね! 良い車に憧れとかはないの?」
「まぁ、1回くらいウォードみたいな車とかも乗ってみたいとは思うよ! でも財産ぶっ飛んで、そんな車買う頭金すらないけどな、ははは」
頬をぽりぽりと掻きながら苦笑するスティーブさん。ぷっと吹き出してお腹を抱える。
「あははは! もう、そんな自虐ネタで笑わせないでよ〜!」
その瞬間――ついにずっと我慢してたトイレが、限界まできていることに焦る。
あー、めっちゃヤバい。
海では『全然大丈夫』なんて強がっていたけど、砂浜へ直に座っててお尻冷えてたし、昼食を買った喫茶店にも寄り損ねてしまった。
えーどうしよ。『トイレ行きたい』なんて言えないよ――。
走り始めても、行きで居眠りして見れなかった窓からの景色なんて、全く楽しむ余裕のない私。
「ス、スティーブさん。行きで寄った給油所ってまだ遠い?」
「そこまで遠くないよ! どうかした?」
「ガ、ガソリン大丈夫なのかなぁ〜て!」
片手を挙げた彼から「行きで満タンにしたから、とりあえず大丈夫!」と軽く遇らわれる感じで返される――が、ここで引き下がったら大惨事になる!
「え、でも入れれる時に給油しておいた方が良くない!? ほら、い、いつまた遠出するか分からないし!」
必死にそう訴えると、スティーブさんが考え込む素振りを見せてきた。
「……ん〜、言われてみれば確かにそうだな! じゃあ寄ろうか!」
「うんそうしよそうしよ!」
ホッとして胸を撫で下ろす……ってダメダメ、油断したら漏れちゃう――。
前方から給油所が見えてきた時の、安堵感が半端じゃない。
何とかギリギリで辿り着き、車を降りたスティーブさんが慣れた手つきで給油を始める。座り過ぎてお尻痛い……。
「座り疲れたから、ちょっと歩いてくるね!」
「あいよー!」
隙をついた私は、早歩きでトイレへと駆け込んだ――。
難を凌いでトイレから出ると、給油を終えたスティーブさんが、真剣な顔で車の窓を丁寧に拭いていた。
彼の背景には広大な畑が広がっており――太陽に照らされて黄金の野原のようになっている。
気付くと、車へ戻ろうとする足が止まっていた。
帰りたくない。
何で行きで居眠りなんてしちゃったんだろ。




