7-2.
急激に腰痛とかどうでも良くなり、このままでいいかと、悪あがきを止める。今の俺は、完全に“無の境地”へと達した表情をしているはず。
そうなるくらい、彼女の微笑みは衝撃的だった。
「スティーブさん、行こ?」
途端、俺が決意した死の覚悟を一瞬で無に帰すようにマエルが立ち上がる。尻に付いた砂をポンポンと軽快に払う彼女を、ゆっくりと見上げた。
「お尻、冷たくなかった?」
「え、全然大丈夫だよ! ふふ、お肉いっぱい付いてるから!」
なぬ?
あ、女性特有の脂肪ってやつに守られてるのか、いいなぁ〜。
冷えてたの自分だけ。
ショックを受けた俺が小声で「そうか」とだけ返して、彼女の尻を羨むように凝視する。
「ちょ、そんなジロジロ見ないでよ、もう〜!」
照れ笑いして見せるマエルが、サッと両手で尻を隠してきた。天使すぎ。
「ははは、ごめんごめん! じゃあ戻ろっか、ガチで」
「うん!」
良かった。
表情も明るくなって、どうやらすっかり元気になってくれたみたいだ――。
車へ向かうため、少し急な丘を登る。
なるべく腰を刺激しないよう集中してマエルの前方を歩いていると、彼女が後から俺の小指をキュッと握ってきた。
「ん?」
振り返ると、口を真一文字に結んで目を逸らしている。そんなマエルの柔らかな手を握り直し、引っ張り上げながら歩いた。
車に辿り着いて一息つく。少し疲れてそうなマエルが、惜しむように海を眺めた。
「本当にいつまでも見てられる、素敵な海だよね……」
「もっと遅い時間だと、あの地平線に夕陽が沈む景色も見れるんだ。それもすごく綺麗でさ! 心が洗われるみたいにね」
マエルが哀しそうな表情を浮かべて「そうなんだ……」と遠い目をしている。
「ほら、そんな顔すんなって! また今度連れてきてあげるから!」
「……絶対だよ?」
「ああ、約束だ」
嬉しそうにニコッと微笑んだマエルが車に乗り込む。運転席にある、腰痛軽減用クッションの位置を入念にチェックしてから、座席に腰を下ろした――。
次はどこへ行こうかという話になろうとした時、ルームミラーに映るマエルが憂う眼差しで見つめてきた。
「スティーブさん……今更だけど、お婆様は大丈夫なの? 具合悪いんだよね?」
無駄な心配をかけないように黙ってたけど、やはり突っ込まれたか。
「あー、ばあちゃんね。まぁ看病してるとは言っても、付きっきりになるほどじゃないんだ。飯も自分で作ってるくらいだし、そんな心配しなくて大丈夫だよ!」
「でも、重病なんでしょ? やっぱり心配だし、とりあえず地元に帰ろうよ?」
「え、いいのかい?」
「うん! お陰様で、だいぶ気が晴れたから平気! それにこれ以上貴方を連れ回すのも、なんか申し訳ないしさ……」
「そっか……」
貴族令嬢なのに気取った素振りも見せない、本当に優しい子だ。
「マエルってさ、なんか令嬢っぽくないよな!」
「えー、そう? ……華やかさがないとか?」
「違う違う! 何回かお客として令嬢乗せたことあるけど、雰囲気が優しい感じする。なんていうか、高圧的な令嬢達と比べて、親しみやすいっていうかさ」
「あ、そういうことね! ……まぁウチは貴族といっても、そんなに裕福じゃないからね。あんまり我儘とか言えない環境で育ってきたせいなのかな〜」
「ふーん、なるほどね〜」
カスカリーノ家が貧しくなりだしたのは、数年前くらいからじゃなかったっけ?
だとしたら、元々マエルは我儘とか言うタイプじゃなかったんじゃないか?
「一瞬“馬鹿にされてる”のかと思ってビックリしたよ〜」
「ごめんごめん、でも今まで乗せてきた女の子の中じゃ、ダントツで一番可愛いよ!」
「むー、それ乗った子みんなに言ってるんでしょ〜?」
「そんなことないって。本気でそう思ってるよ。特に笑顔なんかマジで天使だな〜ってさ」
途端、マエルは顔を真っ赤にして「あ、ありがとう……」と小さく返事した。
それから何気なくエンジンをかけた間際、ふと腹が減っていることに気付く。
「あ、腹減ったっしょ? ココアも買うし、どっか喫茶店にでも寄ろうよ!」
「もうお昼過ぎてるもんね。テイクアウトでも良い? 溢さないように、気を付けて食べるから」
「え、店内で食べないの?」
ルームミラー越しに尋ねると、マエルが寂しげに少し俯く。
「あんまり、知ってる人とかに遭遇したくないんだ……ごめんね」
あー、“社交界で醜聞がうんたら”とか言ってたもんな。悪いことしてないマエルが、何でそんなこと気にしなきゃならないんだ。理不尽。
「マエルが謝ることじゃないさ……――」
溜息を漏らしつつ、ギアを入れて発進した――。
地元方面へ向かいながら、道端で見つけた喫茶店に寄る。サンドイッチ2つとココア1つを購入し、マエルが待つ車へ戻った。
「はいココア、熱いから気をつけて。あとごめん、サンドイッチはチーズサンドなかったから、ハムとレタスなんだけどいい?」
マエルが「全然いいよ、ありがとう〜!」と、目を輝かせて受け取る。
「あれ? スティーブさんのココアは?」
「勝負に負けた俺はいいよ! 飲み物とかなくても食べれるし」
そういってサンドイッチを頬張る。厚切りハムの絶妙な塩気と、シャキッとしたレタスの歯応えがマッチしてて超美味い!
感動していた矢先、モジモジしていたマエルが「……ココア、一緒に飲も?」と言い出した。
「ブッ!」
吹き出たサンドイッチがダッシュボードやらフロントガラスにまで散らばり、焦った俺は即座に雑巾を取り出した。
「ど、どうしたの!?」
驚くマエルを尻目に、身を乗り出してフロントガラスを拭いた瞬間、腰に猛烈な激痛が走る。
ぐおッ!
しまったッ!
「え、な、何か冷や汗かいてない!? 大丈夫!?」
「い、いや、ちょっと驚いただけ! あのねマエル君。そういうのは食事中の男に対して言っちゃダメよ絶対マジで――」
アウトだ。
これは医者から緊急事態用に処方されていた鎮痛剤を飲まないと、取り返しがつかなくなる。やはり、家に帰ることは必須。
でも家に着いた途端、マエルが『挨拶したい』とか言い出しそうで怖い。
出来ることなら、あの強烈なばあちゃんとマエルの接触は、避けたいところなのに――。




