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紫陽花に何か嫌な思い出があって嫌いだ、と言ったわけじゃないような気がする。だって今の言葉、まず悲しみは入ってない。悔しさとか思い出を乗せた感情は何も入っていない。でもなんだろう、何かが上乗せされている気がする。少なくとも今のセリフを聞いて、「そうなんだ珍しいね」という当たり障りない会話をするつもりはない。なんだこいつ、一体何様なんだという微妙な感情が湧いてくる。紫陽花そのものが嫌いというよりも紫陽花を何かに見立てているような感じだ。
「感想は?」
「なんか見下された感があってモヤモヤしました」
「え、ほんとにドラマ見てないんだよね?」
「見てないです。どういう状況なんですかこれ」
「内容を教える前にどんなカットだと思った」
「ヒロインと紫陽花を見てる状態で、ヒロインが紫陽花綺麗だねみたいなセリフを言ったとか。いや違うか、きれいだって言ってる人に嫌いだって言うのは不自然だから。信号待ちとかしてて、何気ない話題の中でヒロインがもうすぐ紫陽花見ごろだねって言って。てきとうな会話の中でポロっと出た一言、とか」
「見たんじゃないかってくらい正確な説明ありがとう。踏切待ちしてる時のセリフな。すぐ電車が通過して会話が打ち切られたからよかったが、ヒロインは気まずくなってその後黙ったまま二人で駅まで歩くわけだけど。ネタバレするとこの男、とにかくきれいなものが好きなんだよね。見頃終わった後の紫陽花って結構汚いわけよ、花弁は茶色になるし。いかにも枯れました、みたいな見た目で」
それは俺も見たことがある。風間さんの言うとおり、花の萎れ方が露骨だ。ついこの間まではきれいだったのに、そんなふうに思ってしまうくらいには。
「だからこの時は二十八で結婚してないヒロインを軽く見てた。でもそっからヒロインの心の綺麗さに触れて惚れ込んでいくっていう話なんだけどな」
なるほど、本当に見下してたわけだ。興味がない相手だったから思わず漏れた本音だったってところかな。
「ドラマ内ではヒロインを見下してたってわかるシーンはない、監督からの指示だった。後に出る小説版だとその辺ちゃんと書くって言ってたからな。でも露骨に演技すると後で小説見た人から女性軽視だって批判が来るだろ。だからどう演技するかなってちょっと悩んだな」
踏み込みすぎず、でも小説を読んだ人が後で見てあのシーンってそういう意味だったと納得してもらえるように。何より風間さんがそれを演じたいって思ったんだろうな。撮影中を演じているキャラクターに入り込むタイプのようだ。
「んで、演技どうだった。ファンになってくれた?」
「いえまったく」
「うっそだろ。渾身の演技だったのに」
「演技はすごかったです。でもファンになるわけではないです」
「手厳しいな。まあでも、その感想も嬉しいよ。キャリア積むと指摘してくれる人とかいなくなってくるからな。あ、一緒に写真撮ってもいい?」
「役者の人からそう言われるのって結構貴重ですよね」
「いつか俺のファンになってくれたらいいなっていう記念撮影」
風間さんはスマホを持って自撮りモードにすると俺と一緒に一枚写真を撮った。ホイ、と見せてくれる。
「よく撮れてるでしょ」
「確かに」
その後は少し沈黙が続いた。俺はまだウーロン茶飲んでる途中で、風間さんは何を言うでもない。でも、気まずさはなかった。心地良い沈黙って初めてだ。この人ならではの雰囲気なのかな。
「そういえば」
「はい?」
「このドラマ、本来は東風晴海っていうアイドルが演じるはずだったんだよな。決定してたわけじゃないけど。ま、でもほぼ間違いなく。亡くなったけどね」
「そうらしいですね。俺日本にいなかったので知りませんでした」
「その時俺ら業界の中でこんな噂があったんだよな。有名人を死なせる死神」
死神。明石さんと話したことが芸能界でもあったのか。でもちょっと気になる言い方したな。
「死なせる? 殺す、じゃなくて」
「伸びしろとか成長点を求め続けてる人はいいんだよ。大御所とかも常にチャレンジ精神だからな。でも中にはいるんだ、ああ自分の成長は終わった。やり切ったなって瞬間を迎える奴。無理だって諦めるんじゃなくて、金メダル取ったら引退しようって決めてたアスリートが金メダル取った瞬間、みたいな」
大満足を迎えたってことか。例え人から評価されていなくても、自分の中ではこれが山の頂点だって思う到達点。するとどうなるか。
「そしたらあとは転げ落ちるだけ。何をしていいかわからない、っていうか何もしたくない。そんな時死神が死なせに来てくれる、ってな。俺の同期もそうだった」
「え」
「向こうは俺にライバル心バリバリだったけど、そりゃ俺だってそうだ。でもあいつは俺には絶対できない演技ができた。格が違ったんだよ、いろんな受賞して海外からの評価も高くて。俺の手の届かないとこ行っちまったなって思ってたら、死んだ」
何気ない世間話をするテンションだ。俺はそういうの気を遣わないっていうのがわかってて話してるっぽい。
「飛び降りだから、自殺とも他殺ともとれる死に方だった。けど」
「けど?」
「次のやりたい事は見つかってた。そこまで自殺したいわけじゃなかったと思うけどな。だから囁かれ続けるんだよ。役者として最高に輝いてる時、死神が来る。本気で死にたいわけじゃないが、死んでもいいかなって時に死なせる死神」
たぶん、だけど。ここの飲み屋のことかな、その人がやりたかったことって。店長はその人の家族か友人、いやその人の実家ってところか。家業を継ぎたかったんだ。だから通ってるのか、昔からの馴染の店だから。きっとその人と飲み食いしていろいろ語り合ったのだろう。
「さて、そろそろ戻るよ。売れてない時のツケの支払い残ってるから皿洗いしねえとな」
支払えるのに、皿洗いか。洗浄機だってあるだろうに。でも、洗っていることで店主さんと話をしたりできる。すごく人間臭い人なんだな、風間縁さん。
「楽しかったよ、久しぶりに八月の紫陽花思い出したし。ありがと」
そう言うと風間さんは店の中に戻っていった。ウーロン茶の瓶は店の外にあるからの瓶が入っているラックに入れておけばいいらしい。俺は残りを飲み干してそれに入れると家に帰った。
『八月の紫陽花は書き下ろした』
『……は? お前が書いたのか』
『当たり前だ、何のための人気投票だよ。アイドルなんて賞味期限がある、ここらで"東風晴海"は役者としての方向に進んでいかないと生き残れない。ドラマもやって、しかもかなり演技力が高い。印象づけるにはこれが一番だ』
本当に芸能界のマネジメントが上手い奴だった。何をやっても全てがうまくいく。メディアは人気投票の経済効果は五百万以上って言ってたけど桁が違う。実際は五千万以上の金が動いてた。何をやっても東風晴海が一位以外取るわけない。あいつはそう言っていた。
「過去のことが夢に出てくるって、ドラマとか漫画の世界だけだと思ってた」
目覚まし時計を止めながら一人つぶやく。