プロローグ1
作家やワナビ(注、作家志望者のことをいう)ならばおそらく聞きかじったことがあるであろう言葉、『ヴォネガット創作講座』という八カ条が実在する。
小学生の頃、語感の響きだけで覆面作家になりたいなんて夢を抱いた僕だったが、その八カ条を初見にした際に打ちひしがれるほどの感銘を覚えてしまった代物だ。
曖昧でぼやけていた小説家になりたいという夢の輪郭が整い、明確な目標と指針が生まれた。
後世にまで大きな影響を与え、いまや英文学の寵児としての確固たる地位を築いている劇作家シェークスピア――彼が一生涯に渡って大衆向けの小説を書いていたように、熱狂させるドラマと分かりやすいドグマを物語に散らせば良いと思っていた。
目指すべきは軽楽小説の分野であり、当時のメディアミックス戦略拡大傾向の萌芽から分析して、そこで一旗揚げたいと思うのは理にかなっていると考えた。
しかしこの考えの在り方に、意義を申し立てるかの如く文学復興の時代がやってきたのだから驚きといえよう。とかく希求してやまない真の心の在り方、知の行方を時代が求めた。
……そう、これらは今から五年前の出来事だ。
つい最近、父もそのことを言及していたのを僕は思い出す。
その時、父は饒舌になる程度の飲酒量だったと記憶している。
あの日もいつもと同じように、僕の名前を枕言葉にしてから話し始めた。
「ヒビキ、悪貨は良貨を駆逐という言葉がある。しかし、この言葉の真理を判別するのは難しいものだ」
抑揚の利いた声色を確かめながら、僕はただ聞いていた。
「たとえば、大学教授が書いた難解な本よりも、三文芝居にも近いマンガや戯曲の方に重きを置く場合が大半であろう。経済曲線は、流通の観点で全てが決定が下される。市場の価値は絶対多数の需要で決まる」
僕はとりあえず頷いていた。
「しかし、だ。在りえない現象が五年前に起こった。ノストラダムス騒ぎの狭間で大騒ぎになったあれだ。まるで突然変異のウイルスが異常増殖したかのように、未曾有の文学ブームが訪れた。どういう扇動をすればこんな現象が起こるのか……たった一人の作家、一人の啓蒙者しかいなかったことしか今は分からない。もう亡き人で、死人に口なしなんだ」
そしてその後も、父は様々な仮説を打ち立てていた。
もちろん僕にとっては、何が正しいか、などは到底分からない。
答えなど、本当はそう簡単に出ない。だから謎は魅力的であり、巷にはミステリの本で溢れているのだろうか……。
さて、父の印象的な言葉を文章に起こしたせいで、話は大きく脱線してしまった。
主題は、冒頭で挙げた『ヴォネガット創作講座』である。
それでは、この八カ条を一字一句正確に記載して、紐解いてみたい。
尚、剽窃と捉えられては堪らないので、文末に詳しく出典を記しておく。
『ヴォネガット創作講座』
1、赤の他人に時間を使わせた上で、その時間は無駄ではなかったと思わせること。
2、男女いずれの読者も応援できるキャラクターを、少なくとも一人は登場させること。
3、例えコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること。
4、どのセンテンスにも二つの役目のどちらかをさせること……登場人物を説明するか、アクションを前に進めるか。
5、なるべく結末近くから話を始めること。
6、サディストになること。どれほど自作の主人公が善良な人物であっても、その身の上に恐ろしい出来事を降り掛からせる――自分が何からできているかを読者に悟らせるために。
7、ただひとりに読者を喜ばせるように書くこと。つまり窓を開け放って世界を愛したりすれば、あなたの物語は肺炎に罹ってしまう。
8、なるべく早く、なるべく多くの情報を読者に与えること。サスペンスなぞくそくらえ。何が起きているか、なぜどこで起きているかについて、読者が完全に理解を持つ必要がある。たとえゴキブリに最後の何ページかをかじられてしまっても自分でその物語を締めくくられるように。
まさに魅力的な八カ条であり、作家志望者にとっては盲目的に信頼してしまいそうなほどのセンテンスだ。疑念を向けることすら躊躇われるほどの、魔力めいた言葉が綴られている。
しかしさきに挙げたシェークスピアの見解から鑑みてみれば、そこには多少なりともアンビバレンツが潜んでいる。
サスペンス。伏線の情報量。読者の理解程度。どんでん返し。
すなわち、ミステリィにおける重要性の主眼は、どこに向けられればいいのか。
そんな懊悩を考えたくもなるが、とりあえずこれは脇に放り投げておく。
僕がこの八カ条を示したのは、8の見解についてを議論したいわけではないからだ。
それよりも、この4の部分を取り上げたい。
――どのセンテンスにも二つの役目のどちらかをさせること……。
――登場人物を説明するか。
――アクションを前に進めるか。
そう、登場人物を説明するか、アクションを前に進めるか。
なので、ここからは余計な背景は全て取っ払ってしまうつもりである。
だから始めに、人物を紹介する方向で進めていこうと思ったのだ。
とすれば最初は、唯一無二の親友だと自負している綿貫 渚について語るべきであろう。
なぜならば、今から紡ぐ物語で一番最初に思い浮かぶのは彼だ。
そこで、唯一無二の――あるいは奇妙な信頼関係を築き上げつつあるこの朋友に敬意を示すために、一つルールを定めたいと考えた。それは、《綿貫 渚》の呼称でもある《ナギ》ではなく《彼》という表現を使用すること。馴れ馴れしさが地の文から露見しないように、それと他者との明確な区別をつけたいがため、あえてそう記させてもらうのだ。
要するにこの物語は、彼が一番の主要人物であり、暫定的に探偵みたいな位置づけになるからだった。