5 日本史と世界史における、英雄退場後の時代を担った人物
英雄、あるいは巨大な個性を持った人物が退場したあとの時代を担った人物。
日本史、世界史を概観して、私がそのように感じる人物を列挙してみる。
日本史においては
聖徳太子、しばらく時代をおいて、天智天皇、天武天皇が退場したあとの、持統天皇と藤原不比等。
源義経、源頼朝が退場したあとの、北条政子、北条義時姉弟。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が退場したあとの、徳川秀忠、徳川家光。
吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、沖田総司(ここに加えるには異質の人物だが)が退場し、維新の三傑、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允も退場したあと、集団指導体制的に統治した明治政府における山縣有朋と伊藤博文。
世界史においては
アレキサンダー大王死去後の、ディアドコイ(後継者戦争)における、大王の部下であった諸将。
シーザー(カエサル)、その後継者でローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(オクタビィアヌス)退場後の二代目皇帝ティベリウス。
諸葛孔明退場後の三国志。
ジンギスカン死去後の、その四人の息子たち。
フランス革命とその後の混乱した時代を経て登場したナポレオンのあとの王政復古時代のフランス、及びナポレオン帝国崩壊後のヨーロッパをどう形成するかを論議したウィーン会議の中心人物、フランスのタレイラン、オーストリアのメッテルニヒ、ロシアのアレクサンデル。
さらには時を経てフランスに登場するルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)。
第二次世界大戦については、投稿済の短い文章があるので、以下引用する。
(引用はじめ)
第二次世界大戦の時代は、数百年後には、最後の英雄時代と定義されているかもしれない、ということについて書いた文章です。
04.9.4記
別のタイトルで、第二次世界大戦は、どんな理由があるにしろあるべきではなかった、と書いた。
しかし、この第二次世界大戦も歴史の一齣として見てしまえる時代。原爆も、ユダヤ人の虐殺も、冷静に客観的に「悲劇であった」と論述されてしまう時代。
具体的には、今から数百年後の世界。
その時代からみたら、第二次世界大戦はあるいは、最後の英雄時代であった、と定義されているかもしれない。
むろん、きわめて広義に解釈した英雄だが。
短絡的な見方かもしれないが、近代の世界史を代表する国家は、アメリカ、ソ連・ロシア、中国、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、そして日本の8国であると思う。
この8国の歴史を描けば、相当な時代まで遡って、世界史の主要事項が網羅できる。
そして第二次世界大戦の時代は、この8国全てに、その国を代表するに足る人物がいた。
アメリカ:ルーズベルト。
ソ連:スターリン。
中国:蒋介石及び毛沢東。
イギリス:チャーチル。
フランス:ドゴール。
ドイツ:ヒトラー。
イタリア:ムッソリーニ。
さて、日本にはいたのか。
東条英機ではこれらの人物に比べてスケールが小さすぎる(残されたご遺族に関しての著作を読んだことがあり、東条英機は、誠実で、職務に忠実な人物であったのだと思う。
極めて優秀な実務者であり、英雄でも独裁者でもなく、国家戦略を構想するべき人物ではなかったと思う)。
日本にもいたと思う。
上記の人物に比べれば、異質な人物であるが、同時代の国民に与えた影響力は上記の人物達に勝るとも劣らない。
天皇裕仁だ。
毛沢東、スターリン、ヒトラーは、その影響によりどれだけの人間が犠牲になったかという意味で、二十世紀における三大大量殺人者であるということも銘記されねばならないこと、と思います。
(引用おわり)
さて、上記のあとの時代を担った人物だが、列挙した人物の中には戦後においても権力を握り続けた人物もいるので、時代は前後することになるが、
西ドイツの初代首相アデナウアー。
ソ連の、フルシチョフ、ブレジネフ。
フランスのポンピドー、ジスカールデスタン、ミッテラン。
中国の鄧小平。
日本の吉田茂。
と言った人物が挙げられる。
英雄退場後の時代を担った人物たち。
多くは小説でも描かれているし、評伝も出ている。
私がこの文章を書く契機となったのは、来年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」の主役として北条義時が取り上げられると知ったからである。
北条義時については、英雄退場後の時代を担った人物として眺めていたので、では彼のことについて、ちょっと書いてみるか。書き終わったあと、もし気力が続けば、日本史、世界史において、私が北条義時的ポジションにいる、とイメージしている人物とその時代を順番に簡単に点描してみようかな。
そのように考えた。
が、そのような人物を扱った小説、あるいは評伝。私も一部の人物を除いて概ね読んできたが、北条義時については、彼を主人公とした小説、評伝を見出すことができず、読んではいないのだ。
もし彼を描くとしたら、例えばウィキペディアに頼って、それをまとめてみる、という形になりそうだ。
であれば、ご興味のある方は、ウィキペディアで、北条義時を検索して読んでみてくださいね。と一言書けば、それで済む話だ。
姫の前との恋愛話などは、私も最近、ウィキペディアを読んで知りました。
北条義時を、簡単に書けば、
初代将軍、源頼朝没後、18歳で鎌倉殿と呼ばれた二代将軍頼家のもと開始された13人の合議制の中に、父、時政とともにそのメンバーとなる。その時点で義時は37歳。
彼が歴史の表舞台に登場し、頭角を現すのはその時からである。
そのメンバーを構成した重臣や、それ以外の有力御家人たちを次々に滅ぼしていき、やがて、姉、政子とともに、父であり、初代執権でもあった時政をも追放し、二代目の執権となる。
二代将軍頼家、その弟の三代将軍実朝は、ともに若くして暗殺されるが、その両方の死に、義時が関わっていたという説もある。
源氏の正嫡の将軍は三代で絶え、その後の将軍は、摂関家から迎え、将軍はお飾り的な存在となり、実権は執権であり得宗(北条一族の棟梁)とも呼ばれた義時が握ることになる。
1219年の三代将軍実朝の死のあと、
1221年に、武家政権打倒と統治回復を図り、北条義時討伐の宣旨を発した朝廷軍との間に承久の乱が起こり、幕府軍が圧勝。
義時は、この乱に関わった上皇たちを配流し、天皇を廃した。
ゆえに戦前においては、天皇家に刃向かった人物として義時は、足利尊氏らと並んで逆賊として扱われていた。
北条義時が亡くなったのは、1224年、62歳。あとを継いで三代目執権となったのは、長男の泰時。
有能な人物であり、北条執権体制を強固に確立させた。
我ながら、とりとめがなくあっちこっちに飛ぶ文章を書いてしまったなあ、と思います。
お詫びのうえ、ひとまずこれにて筆を置かせていただきます。
完結して、しばらく経ってから、本作品のあらすじと、第1章の前書きを、当初の北条義時を前面に出したものから、実態に合ったものに書き直しました。
北条義時と明記されていたからアクセスされた方には、ご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。
いただいた感想の返信にも書きましたが、また読者の方に読んでいただくことより、自分の書きたいことを優先する私の悪い癖が出てしまいました。
北条義時と、彼が中心となった時代。魅力的です。
私にそれを小説にする意欲と力量があればよいのですが、残念です。
でもきっと三谷幸喜さんが、面白いドラマを作ってくださるでしょう。
もうキャストもどんどん発表されているようですね。
以下2021年8月19日 記
世界史上の人物の中でベルナドットも追加したい。
ナポレオンの部下。ナポレオンより6歳7ヶ月年上である。
ナポレオン帝国において、26人誕生した帝国元帥のひとりである。
その妻デジレは、元々は、ナポレオンの婚約者であり、デジレの姉は、スペイン王となったナポレオンの兄ジョセフの妻である。
ナポレオンに多大な興味を持っておられる方の中では周知のことであろうが、現在のスウェーデン国王家、ベルナドット朝の始祖である。
英雄ナポレオンの周辺にいた人物であり、またナポレオン退場後の時代もスウェーデン国王として様々な業績を残したので、筆者の少年時代からのお気に入りの歴史上の人物であった。
が、最近、ウィキペディアでベルナドットの項目を読んでみたのだが、私が思っていた以上に、高く評価するべき歴史上の人物であると言う感想を持った。
その言動、行動、書簡における文章。政治的にも軍事的にも深い洞察力を持った人物と感じる。
ナポレオン麾下の元帥の多くと同様、庶民階層を出自とする。若くして軍人となり、多くの功績を挙げ続けたことによりどんどん昇進していく。高等教育は受けていない。
ナポレオンから
「お前は古典の教養も、軍事論もよく知らない」
と言われたことがあり、そのあとその種の読書に励んだようだ。
その時点で、多大な、軍事的、政治的経験を持っていたので、その読書は、彼の血肉となっていったのであろう。
「栄光」「英雄」といった観念に大きな拘りを持っていたと思われるナポレオンに比べて、精神的にずっと大人であったと思う。
現状より、もっともっと知られて、一般的にも高い歴史的評価を受けてよい人物と思う。