3 物語としての歴史
もう少し北条義時に焦点を絞った文章を綴るつもりだったのだが、書き継いでいくうちに、あとからあとから書きたくなることが増えてくる。私の悪い癖だ。
タイトルに、「北条義時」という人名があったので、アクセスしてくださった方には誠に申し訳ありません。
北条義時が出てくるのは、まだしばらく先になりそうです。
今回も、さて、源平合戦の全体像を、と思ったら、その前に、また書きたいことができてしまった。
歴史は、言うまでもなく物語ではない。
歴史という学問についても、従来の、権力者や偉人たち、そして大事件を中心に描くのではなく、それぞれの時代で、普通の人々が、どんな暮らしをしていたのか、どんなことを考えながら人生を送っていったのかを語る、庶民史、社会史こそ真実の歴史である、という歴史学の見直しを目指す動きが、近年表れている。
筆者もそのとおりだと思う。
宮本常一という民俗学者がいる。筆者の父方の先祖の地でもある周防大島の出身である。
エリートとしての学歴は持っていない。しかし、日本中を歩きまわり、様々な生業を営む庶民の、それぞれのヒューマンヒストリーを聴取し、様々な産業についての考察を重ね、民具を集め、彼が生きたその時代の日本の風景と人々の姿を膨大な写真に残した。
彼が行ったこと、彼がまとめた業績、こういう類の仕事、研究こそ、真の学問であり、歴史であると思う。
庶民の歴史、地方、地域の歴史。村里の歴史。
それを超えたとき、歴史は記号化、象徴化、概念化の道をたどる。
さらには、歴史を素材とした様々な物語を生む。
この連載、北条義時を除けば、タイトルは、「英雄退場後の時代」。
だが、英雄の在、不在。英雄の存在した時代、退場後の時代などということは、真の歴史からみればどうでもいいことで、それは記号化、象徴化、概念化し、そして物語となった歴史の中での概念である。
私がこれから書こうとしていることは、真の歴史ではなく、物語としての歴史。このことについては、しっかりと認識しておかなければならないと思う。
が、私がわざわざ書かなくても、例えばNHKの大河ドラマを観て、そこで描かれていることが全て歴史的真実だと思っている人はほとんどいないであろう。
多くのファンがいる三国志も、あれはその時代をモデルに描かれた三国志演義という創作をもとにした、歴史に材をとった物語であるということは周知の事実であろう。
司馬遼太郎が描くのは歴史小説であり、歴史ではない。
実際に起きたことをもとにして、様々な物語としてのエピソードを付け加えていく。
坂本龍馬が、これほどまでに人気があるのは、司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」で描かれた主人公、坂本竜馬が、魅力に溢れた人物であったからであろう。
だが司馬遼太郎が描いたのは、坂本竜馬であって、歴史における実在人物、坂本龍馬ではない。
では、歴史を物語としてとらえたとき、日本の歴史の中で最も大きな物語となるのはいつの時代であろうか。
私は黒船来航から始まり、日本が開国し、幕府が倒れ、明治の世となり、西洋列強に追いつこうと新しい国造りを始め、やがて日清、日露の戦役を経て、世界の列強となり、植民地を広げ、八紘一宇、大東亜共栄圏の夢を描き、日中戦争、大東亜戦争の結果、国家が敗亡する。
その百年弱の時代こそ最大の物語であると思う。
その物語の中に一体どれほど多くの個別の物語が含まれているだろう。
それほどの時代でありながら、その時代の国家的指導者となった人物の中に、世界史的と称されるに足る英雄はいない。
軍神と称された橘中佐も広瀬中佐も、個別の戦闘における英雄である。
世界の海戦史上にも稀な日本海海戦の完全勝利をもたらした連合艦隊司令長官東郷平八郎も、国家全体を指導する立場とは無縁だった。
が、例えば、大東亜戦争の末期に行われた特攻は、世界史上でも、これほど悲惨で残酷で理不尽な戦法はあるまい。結局はそれが無駄死にであったことも含めてかくも愚劣な作戦命令を従容として受け入れ、生還の望みのない特攻におもむく。その精神の気高さは、それこそ英雄として讃えられるべきではないだろうか。
この百年弱の物語、最終盤には、様々な地での玉砕、沖縄の悲劇、原爆投下、日本にとっては突然のソ連の参戦による満洲の悲劇、シベリア虜囚などの正義、善悪の概念を嘲笑するかのような所業、神の存在を疑問視せざるを得ない不条理な所業が、そのエピローグとなる。
私は、戦争は絶対悪だと思っている。戦争は起こしてはならない。しかし人の世から戦争は無くならない。
そして時代を経ると、どんなに悲惨な戦争であってもそれは物語となる。
そしてその物語は、人の心の中のヒロイズムに合致した英雄を生む。
私は百年弱の物語と書いた。
だがその時代は、私の知る祖父母が、そして父母が生きた時代をも含む。
私にとっては物語としては語れない、歴史の真実が含まれる。
この時代はやがて大きな物語として後世語られるのであろう。そこには敗亡した国家が、やがて高度経済成長によって世界第二位の経済力を持つまでに至る物語も付け加わるのかもしれない。
そうであるなら、その物語には、私が生きた時代も含まれることになる。
私が歴史に多大な興味を覚えるようになった少年時代、
その時「大きな物語」というような言葉での概念定義をしたわけではなかったが、自分が今生きている時代は、太平洋戦争という激動の時代が終わった、そのあとの時代なのだな、という風には思っていた。
私の少年時代も、様々な政治的大事件が、国内でも海外でも起こった。
が、第二次世界大戦と比較して、世界史全体での意味合いはずっと小さいだろう、
心の中で、そんなことも思っていたように思う。
では、その百年弱の時代よりも前の日本の歴史の中で、最も物語として語られるに相応しい時代はいつだろう。
私は源平合戦の時代であると思う。