2 源義経 日本史における最高の軍事的天才
明治前期に、日本陸軍の兵学教官としてプロシアから赴任したメッケルという人物がいる。
彼の最も有名なエピソードは、関ヶ原の合戦の東西両軍の陣の配置図を示されて、「西軍の勝ち」と、断言したという話であろう。但しこの話、司馬遼太郎の創作だったという説もあるようだ。
関ヶ原の合戦において、西軍の中で本気になって戦ったのは、石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家の軍だけだったようだ。毛利も島津も静観。
それでいて、小早川秀秋の寝返りがあるまでは、東軍に対しやや優位に戦っていたようだから、軍学の専門家から見て、勝っていたという陣形もあり、西軍諸将がみな本気で戦っていたら結果は逆になっていた可能性が高かったのであろう。
五大老の中で、西軍の側だったのは、関ヶ原には臨まなかったが、西軍の総大将とされた毛利輝元。
会津にとどまった上杉景勝。
合戦において奮闘した宇喜多秀家の三人。
関ヶ原で、もし徳川家康が消えていたら、その後の歴史はどうなっていたのか興味深い。
さて、以下は司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に書かれた挿話である。ただ記憶で書くのであるいは人物名等で誤りがあるかもしれない。ご容赦いただきたい。
前記の関ヶ原の合戦の陣配置図を見たメッケルの評価の話も、多分「坂の上の雲」に書かれた話だったのではないかと思う。
メッケルはある時、以下のような話をした。
人間の中には様々なジャンルで、天才と呼ばれる特別な才能の持主が出現する。
が、様々なジャンルの中でも最も希少で、めったには出現しないのが軍事的天才である。
世界史においても、真に軍事的天才であったと言えるのは、アレキサンダー、カエサル(シーザー)、フレデリック(プロシア)、ナポレオンの四人だけである。
これを聞いた人が、源義経の、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の戦いと、織田信長の桶狭間の戦いを語ったところ、メッケルは唸り、
その二人を加えて、これからは真の軍事的天才は六人しかいない、と言わなければならないな、と答えたという。
世界史全体の中で、軍事的天才のトップ6に、日本人が二人いる、というのは過分ではないかと思う。
信長については、桶狭間の奇襲は見事だったが、朝倉攻めで浅井に後顧を断たれ逃げ帰るなど、真に戦上手とは思えない部分もあるように思う。
寡兵をもって大軍を打ち破ったのは、桶狭間に限定される。が、三方ヶ原の戦いと比較すると、27歳の信長がやったことを、31歳の家康はやれなかったということになる。
軍事と政治、その総合的な評価はともかくとして、戦争における天才性という意味では信長は家康に勝るのかもしれない。
いずれにしても、日本史において最大の軍事的天才は、源義経であろう。
さて、前回予告したように、このあと源義経について書きたいと思う。
が、別のところでも書いたが、源平合戦の時代というのは、著者の少年時代の頃までは戦国時代と並んで著名な時代で、その主たる事件や、主要な登場人物は、特に歴史好きというわけでもない一般の方にもよく知られていたと思う。
が、2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」は、視聴率が悪く、その理由として「あまり馴染みのない時代だから」と言われていた。
源義経を書くにあたって、この源平合戦のその全体像の
概略を書いてみようかなと思います。
それではまた。
以下 2021年5月3日記
実家に置いてあった「 坂の上の雲」で、チェックしましたところ、メッケルが名前をあげた四人は、
・モンゴルのジンギス汗
・プロシャのフレデリック大王
・フランスのナポレオン一世
・プロシャの参謀総長モルトケ
の四人でした。
そしてこの四人については、騎兵の特性を意のままにひきだしたのは、中世以後ではこの四人の天才だけ。という内容の記述でした。
あと、いくさの司令官については、以下のような記述がありました。
ー あらゆる分野を通じて最も得難い才能は、司令官の才能であり、数百年に一人、やっと出るか出ないかと思われるほどに稀少なものである。
他の分野の天才と同様、天賦のもので、これだけは教育ではつくれない。




