ライター貸してよ兼元先輩
たまには現代もので息抜き。
「…やば。くせえし暑いし何この空間」
喫煙所の扉を開けた途端にむわりと流れたその空気に、俺は思わず一人言を漏らしてしまった。
スライドの扉は透明で外からも中が一望出来る。誰も居ないのを確認して開けたそこは、壁はヤニで黄色く染まってべとついているし灰皿は山盛りで灰が幾つも零れ落ちている。
とても居心地の良いとは言えない空間。申し訳程度に設置されている換気扇が、もう寿命だと言うように異音を立てながら精一杯稼働していた。
今朝買ったばかりの煙草の封を切りながらがたついた椅子に座る。ぎしりと悲鳴が上がって、いい加減買い換えてくれないかなと思いながらポケットをまさぐった。
「…、あー、畜生」
そういえば出勤途中に車で一服をした時、残り少ない煙草はそのままドアポケットに置いてきたんだった。
箱に入れた使い捨てライターも一緒に残してきてしまった事に今更気付き、深くため息を吐く。
「…誰か来ねえかな」
期待を込めて扉に目をやる。午前中の十分休憩、駐車場まで戻ってしまっては往復だけで時間が終わってしまう。
そんな願いが届いたのか、立て付けの悪い薄汚れたスライドドアががたがたと揺れた。
ライター貸してよ兼元先輩
「新谷、来てたの。今日出勤だっけ」
「…っす」
よいせっ、と気合いを入れながらドアを閉めた小柄な女性、兼元先輩が振り向きながら言う。
作業着の袖に油だろうか、黒い染みが見える。暑いねえ、と言いながら捲った腕は細く、捲った甲斐なくずるりとすぐに落ちていった。
一つに結われた髪を乱さないように帽子を脱いで、俺の右隣に座るなり一本咥えて火を点ける。その無駄のない動作に、この人何年吸ってんだろうな、とぼんやりと思った。
「吸わないの? 休憩終わるよ」
「火、車に忘れちゃって」
「仕方ねえな、貸してやるよ」
「あざーす」
咥え煙草で黄色いライターを差し出される。礼を言いながら受け取ると、先輩は煙が沁みるのか少しだけ目を細めていた。
火を点けて一口吸い込むと、やっと気持ちが落ち着いてくる。まだ今日は二時間しか働いていないけれど、それでも遊んでいる訳ではないし疲れは溜まる。第一今日は金曜日。日々の疲れは一晩寝たところでそうそう快復しないし、明日は午前中だけではあるが休日出勤が控えている。
何となく悪戯心が働いて、先輩のライターを自分の胸ポケットに仕舞ってみる。すぐに見付けた先輩は、お前ふざけんなよとどつきながら俺の作業着に手を伸ばした。
兼元先輩は小柄で、小動物でも連想するような可愛らしい容姿の癖に意外と手が早いし力が強い。
どつかれた右腕は冗談抜きに痛くて、謝りながら俺は先輩にライターを返した。
先輩はそれを大事そうに撫でると、煙草で膨らんだポケットに滑り込ませて作業着に付けられたマジックテープでしっかりと蓋をする。
ぽんぽん、と確認するようにそこを叩いた時に、女性らしからぬほどに短く切られた爪が見えた。先輩だけではない、この工場で働く全員が同じ位爪が短い。そういう規則だからだ。
派遣で来た若い女の子なんかは、伸ばすこともマニキュアも許されないそれが嫌だと即日辞めていく子も多い。
「兼元先輩、今日調子どうっすか。残業?」
「残業ー、は出来ないからー、何とか定時に持ち込む」
「金曜なのに? 定時でいけます?」
「いくしかないのー」
今晩デートだからさあ。にやにやと先輩が親指を立てる。二十代の女性に見えないおっさん臭いその仕草は多分、この職場で培われたものだ。男性比率が七割を超える上にそのほとんどが俺の父親世代の男性陣。
俺と先輩は性別こそ違うけれども、どちらも二十代で若いからと何となく仲良くなった。それだけ若手が少ないのだ。とは言えラインが違うから、会うのはフロアですれ違うかこの喫煙所で短い会話を楽しむか、その程度。
「あー、デートねえ」
「もっと一緒に喜んでおくれよ。久しぶりに会うんだよ、一回帰ってシャワー浴びないと。だから定時は必須」
「ヤバいっすもんね、このまま行ったら」
ゴム臭いというか、油臭いというか。到底デートに来た女性から香っていいにおいではない。車載部品を扱っているこの工場では先輩みたいな女性社員は検品作業がメインで、一番臭くて危険な業務には回されないけれども、そもそも工場自体に何とも言えないにおいが充満している。それが嫌で続けられずに辞める新人も結構多い。
「久しぶりってどれくらい会ってないんでしたっけ?」
「前に会ったのは三週間? 位前かな? 飯食って映画観てバイバイした。新谷観た? コウヘイが主演のアクションのやつ。面白かったよ」
「俺最後に映画館で観たの去年っすわ。ゾンビの」
「やべーね」
けらけらと笑う先輩はいつもよりテンションが高くて、よほど今晩が楽しみなんだろうなと思わせる。三年目になるというその彼氏との話は他に話す相手が居ないのかしょっちゅう聞かされていて、会ったこともないのに知り合いのように感じてしまうレベルだった。
先輩と同い年の、高校の同級生。同窓会で再会して連絡を取り合うようになって、向こうから告白されたこと。
先輩は煙草を吸っているけど酒には弱い。反対に彼氏は酒には強いけれども煙草は吸わなくて、何度か禁煙してほしいと言われていること。それに「フェアじゃない」と断ったこと。
元々淡白なのか仕事が忙しいのか、会うのは良くて月に二回。少ない時には一回だけ、ご飯を食べて終わりという日もあったということ。
先輩はそれでも良いほど彼氏のことが好きで、一時間でも会えれば良いのだとその日は仕事のスピードが目に見えて上がるほど楽しみにしていること。
営業をしている彼氏はスーツがよく似合って格好いいのだということ。
「今日会うならお泊まりすか? 明日は先輩休みでしょ」
「どうだろう。あっち次第かな」
ぷかりと煙を吐いた先輩は吸殻を灰皿に押し込んで、じゃあちょっくら頑張ってくるわと手を振りながら喫煙所を出ていった。やる気に満ちた小さな背中は浮き足立っているようで、苦笑しながらそれを見送る。
見送って、熱さを覚えて慌てて俺も灰皿に手を伸ばす。フィルターぎりぎりまで燃えた煙草は動いた拍子に灰を落として、床にまた一つ汚れを増やした。
「あー…くそ」
盛り上がった灰皿は既に消すためのスペースがない。捨てられた誰かのフィルターに捩じ込んで煙が出なくなったのを確認してから、俺も喫煙所を後にした。
先輩が顔を出した時に浮上した気持ちは一気に底まで落ち込んで、午前休憩でこれじゃあ終わりまで持つのかよとげんなりする。
俺は彼氏持ちの兼元先輩に、何も貰わずとも彼氏と会うというだけで心底嬉しそうにする安っぽくて可愛い彼女に、この上ないほどに不毛な恋心を抱いていた。
先輩のラインの機械の調子が悪い、そう聞いたのは午後の休憩も終わってもう一息頑張ろうなんていう時間に差し掛かった時のことだった。
子持ちのパート社員が上がる時に、わざわざ俺のところに寄ってきてそれを教えてくれたのだ。兼元ちゃん残業になりそうよ。手伝ってやれと言うことだったのか、とりあえずハイと返事をしてパートさんを帰らせる。 保育園の迎え時間の厳守をモットーとしている彼女たちは告げるなり足早に現場を立ち去って行った。
俺のラインは一時間程度の残業で済みそうで、だからこそ長引くラインには手伝いに入らねばならないかもしれない。そう考えて一段落して様子を窺いに行って唖然とした。
昼までに出荷する筈の部品をまだ作っている最中のそれは半端なところで動きを止めていて、物流ラインの係長が苛立ちながら修理はまだかと整備の社員に催促している。これはしばらく無理かもなあ。整備の社員がそう言うと、係長はぶっすりとした顔で胸元からぶら下がるスマホを取り出した。
「ドライバーさん待たせてんだよ、こっちは。何でこんなギリギリにしたの」
「製造の班長に言ってよ。俺は呼ばれて直しに来ただけだしそんな事言われても困る」
「…一旦、ドライバーさんに後回しにしてもらうよう連絡するから。六時までに三割分、出来る?」
「交換部品が合うかどうかだね。在庫の部品で何とかなれば一時間以内には直ると思う」
先輩の居るラインの人たちは、手が空いた分他のラインの手伝いに入っていた。周りで作業をしながらちらちらと修理する様を見守っている。金曜、週末、どれだけかかるか分からない残業。ぐったりとした空気が漂っていた。
「係長、今ここ何作ってましたっけ? L社向けですか?」
唾を飲み込んで一歩踏み出した俺に、係長と周りの作業者がちらりと視線を寄越す。
「ああ、新谷君。そうだよL社さんのやつ。そっちのは終わったの?」
「もう少しです。L社のなら、俺のとこのラインでも規格合うから作れましたよね? 今やってるのはD社さんなんで、L社さんの三割分で良いならとりあえずそれ終わってからでも出荷間に合」
うかなと思って。
係長に肩を掴まれ、最後まで提案を言い切る事は出来なかった。勢い良く寄ってきた係長は、大声でありがとうありがとうと叫び始める。よほど切羽詰まっていたのか、運ぶの手伝うよ! と切り替える為のパーツをがたがたと外し始めた。
「係長、待って、俺外します。あと俺ラインの奴にL社品作るって言ってくるから、係長は一回物流行った方が良くないすか」
壊されかねない力強さに慌てて止めて、係長を追いやろうと促す。そうだね! と元気に走って行った係長を見送ると、整備の社員が苦笑して肩を叩いてきた。
「やるね~新谷君。俺惚れ直しそうだわ」
「良いから直して下さいよ。部品あるんですか」
「微妙なんだよねえ。五号機用に買ったやつだからさ、この三号機には合わないかもなあ。一応やってはみるけど」
一号機から三号機は同じ機械を使っていて、四号機は系列工場から回ってきたやや古いけれど大きい機械、五号機は新しくこの工場で買った最新のものだ。俺のラインで使っている機械は一号機で、兼元先輩のラインの、この故障した機械は三号機。形は同じものだからパーツさえ入れ換えれば同じ製品を作ることが出来る。
そのパーツを三号機から外していると、ぱたぱたと寄ってくる軽い音がした。見上げた先に居たのは、案の定兼元先輩。
そういえば今日会ったのは午前休憩の時だけだった。休憩をずらしていたのかと思ったけれど、故障してバタバタしていたから会わなかったのかもしれない。
「ちょっと、新谷、良いの?」
「良いすよ。どうせ元々残業だし、L社品最優先でしょ。D社さんは待ってくれるから」
「だって、」
「こういう残業って稼げて好きなんすよ。来月ほら、クラシック出るでしょ。あれの金稼げるならラッキーっす」
予約していた昔のゲームの復刻版。それが来月発送される筈で、結構高いのに衝動でデラックス版ポチっちゃったやべえ、と喫煙所で俺が騒いでいたのを先輩は聞いていたはずだった。
眉間に寄せられた皺は、後輩に借りを作るのが嫌なのか単に心苦しいからなのか。
そもそも先輩が雑に扱っていたから壊れた訳ではなく、交換が必要だと言われた部品を見るに古い機械の経年劣化による故障なのだ。先輩が気にする事ではない。
切り替え手伝うよ。落ち込んだような声で先輩が部品を半分持つ。俺のラインに戻る足取りは重い。気にしなくて、良いのに。
「とりあえずこっちでL社品やるんで、三号機直ったら逆にD社品そっちでやって貰えます?」
「…うん」
「そしたら定時でも、最悪ちょこっと過ぎるかもしんないけどあんま遅くはなんないでしょ」
「…うん…」
「あー。じゃあさあ、先輩、来週以降で良いからさあ、誰か女の子紹介して下さいよ」
「…うん?」
「あとライター貸してよ兼元先輩。先輩来ねえから、俺昼も午後も煙草吸えなかったんだけど」
「…あんまガスないよ」
「無いよりマシでしょ。だからさあ、いつものかんわいー顔でデート行ってきてよ。そんな辛気くせえ顔してたら振られんじゃない」
「…あんたさあ」
「うん?」
「しょっちゅうライター忘れるけど、そろそろ脳みそ劣化してんじゃない?」
どすどすと先陣を切るように足を早めた先輩は、俺のラインの面子に事情を説明し始めた。ぶっきらぼうな返事だったけれど帽子から覗いた耳は赤くなっていて、素直なくせに素直じゃねえなあ、と矛盾した事を考える。
説明が終わったのか先輩はラインメンバーに頭を下げた。誰も気にしていない。そもそも俺のラインは独身男性社員で固められていて、残業余裕です、というラインなのだ。仕事は別に好きではないけれど、いつも明細を見るのが楽しみで仕方のない集まり。
不意に勢いよく振り向いた先輩が、つかつかと歩いてきて俺のポケットに何かを捩じ込んだ。
見下ろしたそこには黄色いライター。先輩のものだ。
「よろしくね、新谷。…ごめんね」
「ありがとうでしょ。どうせならめっちゃ可愛く言ってよ」
「…ありがと」
おどけて言ったそれの答えは、俯いて消えそうな声だった。先輩の帽子、全員お揃いの作業用キャップのつばをぺしりと叩いて、先輩の視線を俺に向かせる。
「デート楽しんでね」
困ったような顔で見上げてきた先輩の肩を一つ叩いて、俺は自分のラインへと戻った。
これ以上その顔を見ていたら、今晩デートをする彼氏が羨ましくて余計な事まで言ってしまいそうで、下唇をぎゅっと噛み締めた。
誰か紹介してもらって、適当に彼女作って。いずれは兼元先輩以上に好きになる相手が現れるかもしれない。
兼元先輩の紹介なら、類は友を呼んでて似た雰囲気の人も居るかも。…好きに、なれるかも。
最低な事を考えながら、帽子を深くかぶり直した。
「…あ~~っ、終わった~~…」
目に刺さるほどに眩しい蛍光灯が点った食堂で、自販機で買ったばかりの缶コーヒーを掴んで背伸びをする。
すっかり外は暗くなって、窓には明かりを求めた蛾が張り付いて白い腹をこちらに向けていた。
十一時を少しばかり過ぎた時計。事務所にはもう誰も残っていなくて、同じラインの作業者たちもさっき帰ったところだった。
結局ドライバーは一旦帰して、超特急で進めた作業。全員やれば出来るんじゃねえか、日報の達成率百パーセントを超えたそれを見て皆がそんな一体感を得た。
俺たちのラインと、物流の係長。残ったのはそれだけで、先程係長も今度奢るから! と笑顔で去って行ったところだった。これから高上がりだけれど二十四時間営業な運送屋に頼むのだろう。
そもそもこんな日に出張に行っていた製造の班長が悪い、ぶつぶつと責任転嫁をしながら缶コーヒーを一口啜る。
タイムカードはもう押して、後は着替えて帰るだけ。けれども疲労感が凄くて、一服してから出ようと俺は食堂の先の喫煙所に向かっていた。
そうしてスライドドアに手を掛けた時。がちゃり、食堂の扉が開く音がした。
「忘れ物か━━…は?」
ライン作業者の誰かか。そう思って振り向いた俺は、驚いて動きを止めてしまった。
そこに居たのは兼元先輩だった。普段の作業着姿ではなく、白いブラウスに弛いデニムを履いていて、気取った格好ではないけれど「ああデートなんだろうな」と思わせる服装。
場違いなスリッパがぺたぺたと音を立てた。
「何してんの先輩。デートは?」
兼元先輩はそれに答えないまま、俺の隣まで来て喫煙所のドアを開けた。
がたがたと鳴ったドアはいつも通りで、後に続いた俺がそれを閉める。いつもの空間で、いつもと違う時間。
「…新谷、こんな時間まで働いてたの」
「あー、まあ。でもさっき終わったんで」
後は帰るだけっすよ。
答えた俺のへらへらした顔とは真逆に、先輩はぎゅっと唇を結んで何も言わずに腰を下ろした。
老若男女問わず平等にぎしりと鳴る椅子は女性に対して少し意地悪だ。まあ俺の方が音はでかいんだけど。
「…先輩、何で戻ってきたんすか」
「…通ったら、電気点いてるの見えたから」
胸ポケットを探る。いつもの煙草と黄色いライター。残業前にも使わせてもらったそれを、火を点けた後で先輩に差し出す。
少し浚巡した後で先輩はそれを受け取った。換気扇が回る音が響く。
「デートは? どうなったの。楽しかった?」
「うん…」
ライターを握り締めた先輩は煙草を吸う気配がない。吸わないのか、そもそも何をしに戻ってきたのか。用が無いならわざわざ工場に戻ってくる必要はない。煙を換気扇に向かって吐きながら、先輩の様子を窺った。
「…ねえ、新谷。ぶっちゃけて訊くけど」
「はい」
「…煙草吸う女って、そんなに駄目かなあ?」
俯いて表情こそ見えないけれど、泣いているようにか細い声。
普段の快活な兼元先輩のそれとは余りに違うそのトーンに、手を伸ばしかけてやめる。
…何か、言われたのか。
「あのね、今日。博貴君、会社の子に告白されたんだって」
煙草は勿論お酒もやらない、年下の可愛い女の子。
そう言いながら握り締めた指先は白くなっていて、何も言えずに俺は煙草をまた口元へと運んだ。こういう時の煙草は小道具としてちょうどいい。…どうしたら良いか、どう返すのが適切なのか判断つきかねる時。
「何回言っても禁煙しない女なんかより、ずっと可愛いよねえ。仕事でくさくもならないし、休みだって同じ会社だから合うし。…揺れちゃったんだって」
「…そっか」
「私、訳分かんなくなって。逃げてきちゃった。そしたら煙草吸いたくなったんだけど、新谷にライター貸しちゃったでしょ。…会社の前、通ったら、食堂に電気点いてたから。新谷まだ居るかなって思って」
「わざわざ返して貰いに来たの?」
灰を落として先輩を見る。午前の休憩とは違い正面に座った先輩が、こくりと一つ頷いた。
ジッポや思い出の物なら回収しに来るかもしれない。けれどこれは会社の近所にあるコンビニのレジに並んでいた百円のライターで、先月に黄色はラストだったと自慢気に見せてきたのが記憶に新しい。
だからライターは口実で、先輩は誰かに寄りかかりたかっただけ。
それの相手に真っ先に選んでくれたのが、俺だったと言うだけ。
「先輩さー。本当にさあ」
「…なによ」
「そんな顔しないで欲しいんだけど」
吸殻を灰皿に放り投げる。定時前に清掃が入って綺麗に水を張られたそこは、じゅ、と音を立てて投げ込まれたそれを受け止めた。
訝しげな先輩の顔。そんなに不細工だった? 先輩が呟きながら顔をくしゃくしゃにする。そうじゃなくて、
「付け込んで良いの? 俺、調子に乗っちゃうよ」
「…どういう意味」
「俺さあ、こういうの自分から言った事ないんで洒落た事言えないけど。とりあえずヒロキ君はぶっ飛ばしたいよね、大人だからしないけどさ」
「何が言いたいの」
「先輩が好きってこと」
ぽかんと口を開けて、間抜けな顔が俺を見る。
ああやっぱり可愛いな。笑ってしまった俺の声に、慌てたように先輩が首を振る。この人は一途に彼氏の事しか見ていなかったから、ずっと俺の気持ちに気付く事はなかったのだろう。今この瞬間俺が言うまでは。
「俺さー。先輩が好きなの。もう一年以上は多分好きだよ、日記とか付けてねえからよく覚えてないけど。知らなかったでしょ」
「知らない! だって新谷、何も言わなかったじゃん」
「言えないでしょ、そりゃ。彼氏大好きな人にさあ。困らせたくないもん」
三年間のろけを聞き続けた俺がこの人に心を奪われた瞬間。それが最早いつだったのか本当にもう覚えていない。なかなかに残酷な仕打ちだったと思う、今度旅行行くんだとか次はいつがデートだとか、喫煙所で二人きりになった時はそんな話をよく聞かされていたのだから。
俺は気にしていないのに、それに気付いた先輩が酷く傷付いたような顔をした。俺は逆に役得だったとすら思うよ、だって恋に浮かれる先輩の顔は本当に可愛かったのだから。相手が俺じゃないのは残念だったけれど、それでも先輩が楽しそうなら良かったのだ。
けれど亀裂が入って、先輩が悲しそうな顔をするならば話は別だ。
「俺ね、もし兼元先輩が俺の知らない誰かと、例えばヒロキ君と結婚したとして。しなくてもババアになってからフリーになったり、熟年離婚なり何なりしたとしてね。その話聞いた瞬間にぶっ飛んでって先輩口説き落とそうと思ってた程度には、先輩が好きだよ」
「ババアって、あんたね」
「どんだけ皺増えてても白髪増えてても、先輩が隣で笑ってくれるんならさ。それ以上の幸せねーじゃん。でも先輩が自分で選んだ誰かと幸せになってくれてるんなら、それはそれで良いと思う」
「…新谷」
「けど、先輩がそんな顔するならさあ。今すぐ俺が割り込んでって、先輩のこと貰っちゃうのもありなんじゃねーのってなるよね」
新しく一本出して咥える。自分のライターは車の中のまま。先輩に手を差し出して、催促をした。
「ライター貸してよ兼元先輩。俺、自分も吸ってるし酒も飲むし、無理にやめろとは言わねえよ。やめらんねーもん。吸ってるの見ると吸いたくなるしさ。禁煙とか全然続かねー」
「…そうだね。私も吸おうかな」
「うん。一緒に吸おう。んでさー、俺から一個だけ提案あんの」
「何よ」
「俺もう二度とライター買わない」
「…はあ?」
先輩は今まさに火を点けようと咥えていた煙草を取り落としかけて、慌てて小さな手のひらでそれをキャッチする。
意味分かんないでしょ、俺もぶっちゃけ意味分かってない。平静に見えるけど今相当緊張してる。
「だからね、一方的にやめろとは言わないってことっす。俺、ずっと先輩からライター借りるから。先輩がもし節煙とか、最終的に禁煙とか。したくなったら俺も付き合いますよってこと」
一人でしんどい思いはさせたくない。 ストレス溜まって煙草吸いたくなった時に、俺にぶちまけて少しでも解消してよ。そんな気持ちで先輩に持ち掛けてはみたけれど、やべーこれ意味伝わんの? 緊張し過ぎて煙草を持つ手が震えてくる。
「…馬鹿じゃないの?」
案の定返ってきた言葉はそんな調子で、でも小さく笑った声が聞こえた。
ふふ、だって。すげえ可愛いよ今、先輩。さっきのしょぼくれた声よりずっと良い。
「ね、貸してよ。先輩の後で良いから」
「当たり前じゃん」
ライターの小さな光に照らされた先輩の顔は少し赤らんでいて、見間違いじゃないと良い。そう思っている内に黄色いそれが差し出された。
「貸しっぱとか腹立つから、あんたも時々買いなさいよね」
「了解です。ね、先輩。別れたらすぐ教えてね」
ばーか。
そう言って煙を吐いた先輩の顔はどこかすっきりして見えて、きっとその日も遠くないなと俺もライターに火を点けた。