その頃、王都では 5
アブシース王国の王宮で、一人の王子が暗い部屋で酒を飲んでいた。
「くそっ、どうしてこうなるんだ」
国王の第二王子であるキーサリスは、辺境地に兵を向かわせることには消極的だった。
それなのに「ケイネスティ様がいる」という言葉を聞いて、カッとなってしまったのである。
自分でもよく分からない。
どうして、自分はこう、あの名前を聞くと心がざわつくのか。
まだ二十歳の若い王太子は、従者も侍女も下げ、一人で酒をあおる。
小さく扉を叩く音が聞こえたが無視した。
「酷いなあ、一緒に飲もうと思ったのに」
王太子の返事も待たずに、気軽に入って来たのは、弟で第三王子クライレストである。
国王陛下に容姿がそっくりな兄と比べ、地味な印象しかない弟。
しかし、彼は才能を見出され、次期宰相になるべく勉強中なのである。
将来は兄を国王に、弟である彼を宰相として国を強化することが見込まれていた。
一つ違いの二人はそれほど仲が悪いわけではないが、こうして一緒に酒を飲む仲でもなかった。
王太子の豪華な私室に似合わぬ、暗い顔。
「キース。 どうしてあんなことを?」
クライレストは親しみを込めて兄を愛称で呼んだ。
兄はふっと口元を歪めて弟を見る。
「お前だって分かってるんだろう。 どうせ、俺には王なんて不相応なんだ」
「それと今回の南方への調査と何の関係が?」
弟は、自分が持って来た口当たりの良い酒を兄のグラスへと注ぐ。
「ケイネスティだ」
クライレストは驚いたように、しばし酒を注ぐ手を止める。
「南の国境の町に現れた」
「そうですか。 でも、それと兄上に何の関係があるんでしょう」
すでに相当飲んでいるらしい王太子は、弟の注いだ酒を一気に飲む。
「私は、何故か、あの名前を聞くと気持ちがザワリとするんだ」
兄は酔っ払いの濁った眼をしている。
「どうして?。 あの長兄は継承権を放棄しているのに。
エルフの血の入った者など、たとえ王族であっても王位には就けませんよ」
このアブシース王国は女神様が降臨する国だ。
その神殿を管理する教会がかなり大きな力を持っている。
国民からの信頼や、人気も、国王より女神様のほうが上なのだ。
そしてその教会が提唱している人族至上主義がある限り、長兄であるケイネスティは王位に就くことはない。
「分かってる」
そう言いながらキーサリスは不安に顔を曇らせる。
「それでも私はケイネスティのような魔術の才能もなく、父のように民からの人気もない」
クライレストは、兄が何を言ってるのか分からない。
「私は王になってもいずれ引きずり落とされるのだ」
そう言って、ガタガタと震え始める。
「それ、本気で言ってるの?、キース」
兄のグラスを取り上げ、水差しの水を頭からぶっかけた。
「な、何をするっ」
立ち上がった兄に、弟は真正面から向き合う。
「キースは、ケイネスティ兄上に会ったことはある?。
国民の声を直に聞いたことは?」
キーサリスは目を背ける。
「ない」
「だろう?。 今、キースが言ったことはすべて妄想だ」
何もその目で見てはいない、その肌で感じてもいない。
それなのに、そうと思い込んで病みかけている。
「兄上。 キース兄上に、それを吹き込んだのは誰です?」
まともに自分と顔を合わせようとしない兄に、クライレストは食らいつく。
「兄上に人気がないのは当たり前だ。
まだ兄上の実力を知らない者が多いのだから。
それに、ケイネスティ兄上が魔術師だからって、それがどうした」
それらは王太子であるキーサリスが、王位を継ぐのに不都合な話ではない。
「キース、 誰がそう言ったの?」
クライレストは兄をもう一度、問い詰める。
口をつぐんだ兄に、弟は暗い笑顔を浮かべた。
「だいたい想像はつくよ。 兄上の側近連中だよね。
侍女?、従者?、警備の近衛兵?。 それとも、友人の顔をした、ただの噂好きかな。
いいよ、僕が一人ずつ片付けてあげる」
「クライス!」
兄が弟の名を呼び、その腕を掴む。
「ふふっ、少しは以前のキースに戻った?。
でももう遅いよ。 兄上は派兵してしまった」
キーサリスの顔色が変わる。
「ケイネスティ兄上は、キースを敵だと認識するだろうね」
その時、はっきりと兄のほうは自覚したのだろう。
自分が何に加担してしまったのかを。
「クライス。 私はどうしたらいいのだ」
「大丈夫、キース兄上。 もしかしたら、まだ間に合うかもしれない」
船が南の辺境地に到着するまで、まだ日はある。
「さあ、兄上。 父王のところに相談に行きましょう」
「あ、ああ」
よろりと足元をふらつかせる兄の身体を支えながら部屋を出る。
クライレストはそっとため息を吐いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
王宮の、一番奥にある国王の部屋。
その部屋の窓からは様々な花が咲き乱れる花園が見える。
真夜中の庭は明かりも無いはずなのに、その一画に白い大輪の花が揺れていた。
この季節になると彼は後悔するのだ。
どうして、あの時、自分は何もかも捨てて逃げてしまわなかったのかと。
「俺もやっぱり王族の血が流れているということか」
国を、民を見捨てることが出来なかった。
愛する妻や産まれたばかりの子を不幸にしても。
「失礼いたします、陛下」
こんな時間に訪ねて来る者など緊急に違いないと、従者に通すように伝える。
「父上、このような時間に申し訳ありません」
入って来たのは四人の息子のうち、二番目のキーサリスと、三番目のクライレストだった。
何故か布を被った上の息子のほうは髪を濡らし、どうやら酔っているようで足もふらついている。
「どうした」
座れと言って椅子を勧め、従者にはお茶と水を用意させる。
国王の私室には何故か女性の使用人は一人もいない。
彼は女性に関しては嫌気がさしていて、誰であろうと個人の部屋に入れることはなかった。
「はい、ケイネスティ兄上の件です」
クライレストは人払いをしてもらった後、呟くように小声で話す。
いくら王宮の中とはいえ、誰の目が光っているか分からない。
王と呼ばれる父は、息子の前で、ただ心配そうに眉を寄せた。
「ウザスに軍用船を出した件か」
父王は基本的に子供たちが「何かしたい」と申し出れば、それを頭ごなしに拒否したりはしない。
「本当にそれでいいのか」と一度は訊きはするが。
「はい。 ほら、キース」
弟に促され、酔った目をした兄が俯いていた顔を恐る恐る上げる。
「私は今回のことは、その、本意ではなかったので」
ボソリとようやく聞こえるかどうかも怪しい声だ。
「そうか。 ではお前は俺に嘘をついたのか?」
ひと月近く前の話になる。
この息子が堂々と「派兵」を進言した。
「南端のサーヴの町で、南方諸島連合と秘密裏に怪しい取引をしている者がいる」
それを誰かが兄王子の耳に入れたのだ。
「俺にはもう少し違う話が入っているがな」
そう言って、部屋の隅に目をやる。
暗い影の中から、老人とも中年とも見える男性が浮かび上がる。
二人の王子のギョッとした顔を前に、黒い影のような人物が王の側に控えるように立つ。
「こちらの情報では、王都の貴族が南方諸島の香辛料を独占しようとして派兵したと」
「え?」
王子たちは思ってもいなかった話に驚く。
「つまりな。 お前は利用されたんだよ」
雇われた傭兵たちの仕事は、南方諸島の一つを占拠することだったのである。