斯くして彼は地獄へ堕ちる
とんでもなく唐突に終わるので、読むのならそれを覚悟してください。
カーテンが閉め切られた薄暗い部屋の中、男が佇んでいた。
男の足元には血で描かれた魔方陣があり、その中心に首を切られた鶏が置かれている。
頼む、今度こそ成功してくれ。今度こそ、今度こそ……
富樫圭悟は酷く渇望していた。異世界への生まれ変わり、即ち転生を。
例え、人生をこの世界でもう1度やり直せるとしても、彼はその誘いに乗ることはないだろう。
この世への未練を抱かせる隙間も生じさせない程、積りに積もった後悔は大きかった。
10万円の借金なら返そうと足掻くだろうが、10億円の借金ならば夜逃げを選ぶ。そんな心理だろうか。
「チクショウ……これも駄目なのかよ、クソッたれが……」
彼は悪態を吐きながら手に持った本を地面に叩き付けた。
床には沢山の本が散乱していたが、その全ての題名に「魔術」だの「異世界」といったオカルチックな言葉が含まれている。
「クソ……これが実質最後の手段だったのに……アレをやるしかないのか……」
もうこうなったら仕方がない、仕方がないんだ。
彼は手を震わせながら、鶏の血で濡れた鉈を手に取った。
一度、深呼吸をする。それでも手の震えは収まらない。それどころか脚も震え始めていた。
深呼吸に今の自分を落ち着かせる効果がないと理解した彼は、脚も手もガクガクと震わせながら部屋を出る。
深夜0時を少し過ぎた頃、廊下に響くのは自身の乱れた呼吸音と足音だけだ。
「もう、これしか無いんだ。この手段しか残されていないんだ。仕方がないんだ……」
彼はひたすらに自分を正当化しようと試みる。
それは、彼が今から起こそうとしている行動の悪辣さについて、彼自身も十分に理解していたからに他ならない。
手や脚の震えもそのためであった。
彼は親の寝室の前で立ち止まった。
呼吸が一層荒くなる。
呼吸が上ずっているような感覚。いくら息を吸い込んでも、なお酸素が足りない。
「やるんだ……僕はやるんだ……」
1番大切な人間を殺し、それを供物に異世界への扉を開く。
それが彼が最後まで実行を渋っていた転生の呪法、今から起こす行動であった。
初めてその呪法を見たときは、その大きすぎるリスクと、まだ他の試していない転生術が沢山あった為読み飛ばしていた。大切な人を殺し、それでもなお転生できなかった時のことを想像するだけで冷汗をかいた。
しかし今は違う。
ネットや本で調べた転生術を片っ端から試していくが特に何も起きることはなかった。
残された方法はコレと、自殺のみ。
彼の大切な人……それは親だった。女手1つでここまで育ててくれた彼の母だ。
富樫圭悟に彼女など存在しなかった。それどころか友人すら存在しなかった。
ならば、彼の大切な人間が親になるのも必然だったのだ。
涙が溢れ出る。「それだけはするな」と彼に残った僅かな理性が、転生に拘泥する彼の狂気に訴えかける。
しかし、彼の狂気は聞く耳を持たない。
――大切だから。だからこそ僕は転生できるんだ。こんなに大切な人だから……
意を決し、富樫圭悟は部屋の扉を開けた。
もし彼の目に涙が溢れておらず、つまり視界がぼやけておらず母の顔をしっかりと視認できていたならば、あるいは彼は行動を起こさなかったかもしれない。
仕方ないんだ。仕方ないんだ。仕方ないんだ。仕方ないんだ。仕方ないんだ。仕方ないんだ。仕方ないんだ。
「仕方ないんだ。仕方ないんだ。仕方ないんだ。仕方ないんだ。仕方ないんだ。仕方ないんだ。仕方ないんだ。」
心の中で繰り返される文言を、いつのまにか口ずさんでいる。
富樫圭悟は母の頭に狙いをつけ、鉈を持った手を振り上げた。
ガタガタと鉈の切っ先が揺れる。それは依然として彼自身の腕が震えていたからだ。
「母さん……僕、頑張るから……転生した先で、勇者とかになって……それで……みんなが僕を褒め称えて、それで……」
幼稚で荒唐無稽な未来予想を呟く。
――呟いた後、彼は鉈を振り下ろした。
鉈は彼の狙い通り、母の頭に当たった。
鉈を持つ手に伝播する衝撃は彼の「何か」をこれ以上ない程に揺らす。
彼は茫然と立ち尽くしながら、母の頭から血が流れ出す様を見つめていた。
ぐらりと眩暈がしたのは。
とめどなく涙溢れ出しているのは。
手や脚のみならず全身がガクガクと震えているのは。
きっと「転生」の前触れなのだろう。
倫理観・道徳観が総出で鳴らした警鐘、それらが一斉に崩壊した余波などではないはずだ。
「こ、この血で魔方陣を……描かなきゃ……」
手が震える、気を失いそうになる。
これが……世界が揺らいでいる証左なんだ。次元が不安定になったんだ。
ガクガクと震える手で彼は魔方陣を描いた。
そして、ガチガチと震えている口で呪文を唱える。
もしこれで転生が成功しなかったら……
いや、そんなことはあり得ない。あり得てはならない。失敗などあってはならない、あってはならないんだ。
呪文を唱え終わり、祈るように瞳を閉じる。
きっと目を開けたら、ここではない世界が見えるはずだ。
見えるはずんだ……見えてくれ、見えてくれ……
もう10分くらいたっただろうか。
世界を移動したような感覚はまだ無い。
早く、早く転生してくれ。
そこから30分は経った。
考えては、認めてはいけない考えが富樫圭悟の頭の中で生じだす。
失敗。
あってはならない。あってはならないんだ。
大切な……親を殺したんだぞ。
そこまでしたんだから転生しない方がおかしい。
これほどまでに大きな対価を支払ったのだから、道は開かれねばならない。
あってはならない。失敗などあってはならない。
というかあり得ない。失敗なんてあり得ない。
何故なら僕は親を殺したのだから。
前を向かざるを得ない程に追い詰められた富樫圭悟の思考はもう1つの選択に気付いた。
自殺である。
そうだ自殺だ。そうと決まれば早くここから飛び降りなければ……
彼と親はマンションで一緒に暮らしていた。
階数は10。飛び降りれば十分死ぬことのできる高さである。
「そうだ……自殺だ。死ねば転生できる。なんで気付かなかったんだろう」
大切な人を殺し、その状態で自殺する。それこそが究極の転生術だったのだ。
不思議とベランダへ向かう足は軽い。
それは転生できるという盲目的な喜び故か、それとも親殺しの罪悪感がそうさせるのか。
富樫圭悟は躊躇うことなくベランダから飛び降りた。
これで、これでやっと転生できる……
親殺しだって意味のある行為だった筈だ。それによって次元が揺らいだのだから。
ああ……僕は……
世界は暗転する。
彼は自分がどこか別の、少なくとも自分が頭から落ちたコンクリとは違う感触を背中に感じ取った。
――――ここは……
灰色の薄暗い空。果ての無い砂漠の中心に僕はいた。
割と定期的に投稿します。