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繋がる糸

 

    * * *


 


 窓に下ろされた鎧戸(よろいど)がかたかたと震え、隙間風が悲鳴を()らす。壁のランプの炎に合わせてそこかしこで影が揺らぐが、寝台に横たわるオーリの身体はぴくりとも動かない。


 赤狼(あかおおかみ)に襲われるウネンを見て錯乱状態に陥ったオーリは、憎き(かたき)を文字どおり完膚無きまでに切り刻んで、そのまま意識を失った。マルセルに荒っぽく介抱されても、彼の背に担がれて宿に運び込まれても、オーリが目を覚ます気配は一向になく、以来二日もの間、彼はただひたすら眠り続けている。


「ツェウさん――オーリのお母さん――のお陰で、オーリは(ほとん)ど無傷で助かったんだ。でも、あまりにも強い衝撃を心に受けたとかで、オーリは何日も目を覚まさなかった。やっと意識が戻った時、オーリは山での出来事をすっかり忘れてしまっていた」


 空いているほうの寝台に腰をかけたモウルが、眠るオーリを見つめながら淡々と話し続ける。ウネンはそれを、窓の前の椅子に座って聞いていた。


「目を覚ましたオーリが、何事も無かったかのように『お母さんは?』と()いた瞬間の、ヘレーさんの表情は、今でも忘れられないよ……」


 ウネンはきつく唇を引き結んだ。オーリの状況もヘレーの気持ちも、ともに痛いほど理解できたからだ。


「僕はオーリに、しばらく僕の家に来るように言ったんだけど、オーリは『お母さんが帰ってくるのを待たなきゃ』って言って、聞いてくれなかった。だから、僕がオーリの家に泊まることにした。あの親子を二人きりにしてはいけない、って思ったんだ。普段はとても優しいヘレーさんだったけど、その時は、今にもオーリをぶん殴りかねない様相だったから」


 夜風がまた鎧戸(よろいど)を揺らした。吹き込む冷気が、ウネンのうなじを()めていく。


「オーリの精神状態が落ち着くまではツェウさんのことは黙っておこう、って(おさ)様が言ったもんだから、ヘレーさんは本当につらかったと思うよ。オーリの奴、『お母さん、早く帰ってこないかな』とか無邪気な顔で言うんだもん。子供の僕にも、ヘレーさんが日に日に消耗してゆくのが分かったぐらいだ」


 幾度目か知らぬ()め息を吐き出し、モウルは(もも)の上で組んだ自分の両手に視線を落とした。


「でも、僕が大人達にそのことを言っても、皆『大丈夫だ』としか言ってくれなかった。『ヘレーはしっかりしているから、大丈夫だよ』って。それに、僕だって、オーリがツェウさんの死を知ったら今度こそ目を覚まさなくなっちゃうんじゃないか、って思うと、怖くてとてもそんな気にはなれなかった」


 そっと息を継ぎ、モウルはゆるりと顔を上げた。そうして(くら)い眼差しをウネンに向けた。


「一週間ほど経ったその夜、僕はふと夜中に目を覚ました。月明かりを遮る何かに気づいて、オーリのほうを見ると、ヘレーさんがオーリの首に両手をかけていた」


 モウルの(あお)の瞳が、ランプの光を映して翡翠(ひすい)色に(きら)めいた。


「僕が起きたことに気づいて、ヘレーさんは驚いて手を引いた。途端にオーリが()き込んだ。ヘレーさんは、愕然(がくぜん)とした顔で自分の手を見つめていた。それから、部屋を飛び出していった。そのまま、彼は二度と戻ってこなかった……」


 ああ、とウネンは息を吐いた。ああ、と(つぶや)くことしかできなかった。


「一人取り残されたオーリは、おばあさんに引き取られた。けれど、まだ足の骨折が治りきっていないのに無理をしたせいで、今度は大腿骨(だいたいこつ)を折る怪我をしてしまって、おばあさんは次の冬が来る前に天に召されてしまった。オーリは独りぼっちになったんだ」


 と、そこまで語って、モウルは弱々しいながらも(かす)かに悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべた。


「君の存在を知った晩の、オーリの様子はなかなかの見ものだったよ。寝つくまでに何度『妹か』って(つぶや)いていたか」


 いもうと、という響きがあまりにも新鮮で、気恥ずかしくて、ウネンは思わず口元に力を込めた。それでも頬がむずむずするのを止められなくて、それを誤魔化すべくモウルに問いかける。


「でも、独りぼっち、って、他に親戚の人はいなかったの?」

「ヘレーさんもツェウさんも兄弟がいなくてね。ヘレーさんのご両親はヘレーさんが子供の頃に亡くなっているし、ツェウさんのほうもオーリが四歳の時におじいさんが病気で亡くなってるし。実は、今の里長(さとおさ)はオーリのひいおじいさんではあるんだけど、何しろ里長(さとおさ)はあくまでも里長(さとおさ)であって、誰かの父母である前に里全体を取りまとめる存在だから、数に入れるには微妙でね」


 ウネンは唇を()み締めた。人々の輪から離れてただ一人ぽつんと(たたず)む少年の姿が、見えたような気がしたのだ。


『居場所を作らなければならなかったからな』


 先日の(じょう)術稽古の際に、オーリはそう言っていた。(わず)か七歳にしてたった一人で生きていかねばならなくなった彼は、医者になりたいという夢を諦め、より分かり(やす)い力を求めたのだろう。


『剣の世界の基本構造は、どこに行っても大して変わらない。強い者が、強い。それだけだ』


 チェルナの王城で聞いたオーリの言葉が、まざまざとウネンの胸に(よみがえ)る。強い者たるために、彼は一体どれだけの努力と苦労を重ねたのか。たまらずウネンは、自分の服の胸元を握り締める。

 深い()め息一つ、モウルが再び正面に顔を戻した。眠り続けるオーリの顔をじっと見つめた。


「ヘレーさんがいなくなってしばらくして、オーリは(おさ)様からツェウさんが亡くなった事実を告げられたけど、オーリは何も思い出さなかった。大きくなって、山に入ることも、野獣退治にかりだされることもあったけど、ずっと平気だった。だから、僕はすっかり油断してしまってた。彼の傷は、覆いをされて見えなくなっていただけで、少しも癒えてなんかなかったんだ」


 絞り出すようにして言い切って、モウルはがっくりとうなだれた。両膝に肘をつき、おのれの足元を見つめながら、両のこぶしを固く握り合わせる。


「このままオーリの目が覚めなかったら、どうしよう」


 普段のモウルからはとても想像できない、(ひど)く頼りなげな声が隙間風に震えた。

 ウネンは唇を()んだ。


「ぼくのせいだ」


 目を閉じれば、あの時のオーリの絶叫が聞こえるようだった。底知れぬ怒りと、憎悪と、そして何よりも激甚なる恐怖がそこにあった。その端緒を開いたのが他ならぬ自分だということに、ウネンは胸をかきむしる思いだった。包帯の巻かれた左手首を右手で握り締めれば、二日前に赤狼(あかおおかみ)につけられた傷がずくんと(うず)く。でも、オーリが心に受けた痛みは、こんなものではなかったろう。もっと(ひど)く、ずっと激しく、オーリを(さいな)み続けていたに違いない。


「あの時、ぼくがきちんと反撃できていれば」

「あれは誰にだって無理だ。ウネンは何も悪くない」


 下を向いたまま、モウルがゆるゆると首を横に振った。


赤狼(あかおおかみ)と聞いて、嫌な予感はしたんだ。僕が無理にでも依頼を断れば良かったんだ」

「でも、あの時ぼくが襲われるまで、オーリは全然平気だったじゃないか!」

「そもそも、僕がきっちりと術で周辺を探査しておれば、君が襲われることもなかったんだよ!」


 ひとしきり声を(あら)らげ、二人は互いに(にら)み合った。

 怒りを、それもおのれ自身への怒りを他人にぶつけたところで、事態が好転するわけがないのは二人とも充分に解っていた。解ってはいたが、そうでもしないと気がおかしくなってしまいそうだったのだ。


 鎧戸(よろいど)の隙間を抜ける風が悲鳴を上げる。

 と、それとは別な、もっと(かす)かな擦過音が、窓とは違う方角から聞こえてきた、ように感じられた。


 ウネンもモウルも、ほぼ同時に勢いよく寝台を振り返った。

 眠るオーリの唇が、(わず)かに震えていた。

 二人は一旦互いに顔を見合わせて、それから(そろ)って身を乗り出し、オーリの顔を(のぞ)き込んだ。

 今度は、(まぶた)が、震えた。


「…………さい」


 (かす)れた声が、風の音を押しのけてウネンの耳に届く。

 オーリがもう一度同じ言葉を繰り返した。


「……うるさい」


 ウネンも、モウルも、目を丸く見開いて再度顔を見交わした。


「もう少し静かにしてくれ」


 オーリの(まぶた)がゆっくりと(ひら)き、澄みきった(あお)が二人を映した。


「それに、全ての元凶は、赤狼(あかおおかみ)だ」


 二日間眠り続けていたために、喉がこわばってしまっているのだろう。何度も息を詰まらせながら、訥々(とつとつ)とオーリが言葉を紡ぐ。


「そして、俺が取り乱したのは、俺自身のせいだ。誰のせいでもない」


 オーリは、一言一言を()み締めるように言い切ったのち、大儀そうに息をついた。

 モウルが茫然(ぼうぜん)とした表情で(つぶや)いた。


「起きた」


 それに応えるでなく、ウネンもまたぼそりと言葉を()らす。


「目を覚ました」


 再びモウルが、そしてまたウネンが、「目を覚ましたよ」「起きたよ」と交互に(つぶや)く。最後に声を合わせて「よかった」と吐き出すや、ウネンとモウルは二人してその場にずるずるとへたり込んだ。へたり込んだまま大きな()め息を吐き出して、もう一度「よかった」と心の底からの(つぶや)きを()らす。


 オーリが目をしばたたかせた。一瞬だけ照れくさそうな笑みを浮かべると、ふいと視線を()らし、「心配をかけてすまなかった」と(ささや)いた。


 


 寝台の上に身を起こしたオーリが、パン(がゆ)を休み休み口に運ぶ。夕食の時間はとうに過ぎていたが、宿の厨房(ちゅうぼう)が特別に用意してくれたのだ。

 おまけで()れてもらった豆茶のカップを手に、ウネンとモウルはもう一つの寝台に並んで腰かけた。

 ランプの光が湯気にけぶる。熱いお茶が五臓六()に染みわたり、手足の先や心の中までもが温かくなるようだった。


「ヘレーさんが里を飛び出した翌朝には、ヘレーさんととても仲が良かったボロゥって薬師が中心となって、大勢の大人達がヘレーさんを捜しに行ったんだ。何しろ、ヘレーさんは里一番の優秀な医者だった上に、()()――次の里長(さとおさ)になる人を里ではこう言うんだ――の最有力候補だったからね。ヘレーさんがいなくなるのは、里にとって大きな損失だったんだよ」


 お茶をすすりながら、モウルが十五年前の出来事の始末をウネンに語ってくれていた。口封じの術のもと、どこまで語れるか分からないが、君も知っておくべきだろう、とのことだった。


「ヘレーさんが川を渡った形跡があったことから、皆は川向こうの隣町へ向かった。そして、ほどなく彼らは、失意と怒りとボロゥさんの亡骸を抱えて帰ってきた」


 まさか、と、ウネンは奥歯を強く()み締める。

 オーリがちらりとウネンを見やった。


「誰もボロゥさんが刺されたところは見ていないんだけど、ボロゥさんは、いまわのきわにヘレーさんの名を口にしたらしい。ボロゥさんもまた、()()候補の一人だったこともあって、里は大騒ぎさ。他に()()になれそうなエレグ兄さんは、姉さんとともに里を出て行ってしまってたしね。もはや事は里の存続に関わる大問題だ。まあ、皆、ヘレーさんのことを裏切り者っつって怒る怒る」


 カップを両手で握り締めたまま硬直するウネンに、モウルが殊更(ことさら)に軽い調子で肩をすくめてみせた。


「でも、実際にヘレーさんがボロゥさんを刺した現場を見た者はいないんだ。ボロゥさんの最期の言葉とやらも、『ヘレーさん』だとか『気をつけろ』だとか『里の秘密』ってなふうに断片的で、どうともとれるような文言らしいし、正直、僕は本当にヘレーさんが下手人なのかを疑っている」

「実の子供の首を絞めようとした奴だ。分からないぞ」

「そんなこと本気で思っていないくせに」


 モウルにさらりと言い返されて、オーリが決まり悪そうに口をつぐむ。


「それからほどなく、何か宝物を隠しているだの、自分達だけいい目をみているだの、里に関して良からぬ(うわさ)が外から聞こえてくるようになってね。ボロゥさんの(のこ)した言葉に、『里の秘密』なんて単語があったことから、『これもきっとヘレーの仕業だ、ヘレー許すまじ』ってことになって、本格的に追っ手が繰り出されるようになったというわけ」


 何よりも優先すべきは、ヘレーが里の情報や知識を拡散するのを止めさせること。そして可能ならばヘレーを里に連れ帰ってきてくれ。現時点において、彼が最も()()にふさわしい。落ち着いて話し合えば、ヘレーもきっと理解してくれるはずだから。里長(さとおさ)の命を受けて、何組もの探索者が新たに里を出発した。


 だが、その捜索の手は、今から十年前に一旦止まることになる。というのも、ロゲン近郊でヘレーの足跡(そくせき)がぷっつりと途絶えたからだ。ヘレーは漂泊の果てに死んでしまったのだろう。里の人間はそう考えた。


「それが覆されたのが、三年前だ。たまたまチェルナの王都に滞在していた探索者が、地震の被害に()った町で奇跡の技をふるう医者の(うわさ)を耳にした。彼らはさっそくイェゼロを訪ね……、そこで何があったかは、君もよく知っているよね」


 あの時の、ヘレーを捜しにやってきた二人組のことだ、とウネンは大きく(うなず)いた。


「彼らは探索を切り上げて真っ直ぐ里へ戻ってきて、ヘレーさんが生きている旨、(おさ)様に報告した。再びヘレーさんの捜索隊が召集され、それに僕達も立候補し、現在に至るというわけさ」


 モウルの視線を受けて、オーリがそっと目を伏せる。


「ヘレーは本当にボロゥさんを殺したのか。殺したのなら、何故そんなことをしたのか。俺は真実が知りたいんだ」


 空になった器に(さじ)が置かれた。

 深い()め息ののち、オーリがさも意外そうに眉を上げた。


「随分色々と(しゃべ)ることができたな」

「ここに至るまでに、少しずつウネンに情報を手渡してきてたからね。これぐらいまでなら大丈夫だと思ってたよ」


 モウルが得意げに口の()で笑う。

 これぐらいまでなら、と言うからには、彼らがウネンに言えないことはまだまだ存在するのだろう。ウネンは苦笑とともにちょっとした疑問を口にした。


「少し気になったことがあるんだけど、里の人が里の外の人と、もっと密に関係を持つ――例えば結婚する、とか、そういう場合ってどうするの? 結婚相手に対してずっと内緒事を抱えて接するわけ?」

「当人の立ち位置によるかな」


 事も無げな口調でモウルが答えた。


「そいつが里と関わらずに生きていくつもりならば、里の秘密を胸の奥に仕舞っておけばいいだけのことだからね」

「じゃあ、里で生活するつもりだったら?」

「配偶者を里の神に認めてもらう必要がある」

「そんなこと、できるの?」


 驚くウネンに「できるよ」と微笑(ほほえ)んで、モウルは話し続けた。


「具体的には、嫁ないし婿をとろうって本人の家族全員に加えて、立会人として二名以上の里人(さとびと)が、嫁ないし婿入りしてくる外部の人間を受け入れることによって、里の神がその人物を新たなる同胞(はらから)として認めるんだ。仕上げに里長(さとおさ)によって里の秘密を守る旨の〈誓約〉をかけられ、新しい里人(さとびと)が誕生する、ってわけ」

「へー。きちんと方法が確立しているんだね」


 まあね、とモウルが口角を上げた。


「その昔、初代里長(さとおさ)の書庫……」


 と、言葉半ばにしてモウルが(うめ)き声とともに身体を折った。頭を押さえて「くそっ」と毒づく。

 同時に、まるで空気がひび割れたかのような鋭い〈(ささや)き〉がウネンの鼓膜に突き刺さった。例の〈誓約〉が発動したのだ。


「ここまでか」


 オーリが()め息を()らす。


「まあ、気長にやるさ」


 荒い息の合間に、モウルが挑戦的な眼差しで顔を上げた。


 


 


 翌朝、出立の前にウネン達三人は古道具屋レヒトの店を訪れた。誘拐事件でうやむやになっていた、マントの留め具を確認しにきたのだ。


「やっぱり、これ、ヘレーさんのだ」


 (くだん)の留め具をためつすがめつ調べたウネンは、確信を持ってオーリとモウルを振り返る。

 レヒトが、いつになく静かな声でウネンに語りかけてきた。


「枯れ草色の三つ編みの人なら、山賊避けに隊商と一緒に北へ行くって言ってたよ。出発まで日が無くてお金を稼ぐに稼げない、ってことらしくて、この留め具以外にも幾つかの品を買い取らせてもらったんだ。それらはとっくに売れてしまったんだけど」


 ウネンは手のひらに載せた留め具をじっと見つめた。

 記憶の中、見上げた胸元に光る、真鍮(しんちゅう)の台座と小さな緑色の色ガラス。

 ウネンは、もう一度オーリを、モウルを、順に振り仰いだ。

 二人がゆっくりと(うなず)いた。


「あの、これ、お幾らですか?」


 ウネンの問いを聞き、レヒトが笑って両手を振った。


「お金はいいよ。あんた達には色々迷惑かけちゃったし、それ、あげるよ」

「本当に?」

「本当、本当。俺は(うそ)はつかないからね!」


 


 何度も礼を言って、三人は古道具屋をあとにした。

 表に出たところで、ウネンはあらためて日の光のもとで真鍮(しんちゅう)の留め具をじっと見つめた。それから、おずおずとオーリを見上げた。


「これ、ぼくが持っててもいい?」

「ああ」


 オーリがぶっきらぼうに首を縦に振った。「八つ当たりしたくなった時に、そんなものが手元にあったら壊しかねんからな」と付け加えて、ふいと(きびす)を返す。

 ウネンはしばしオーリの背中を見つめた。次いで手のひらの留め具に目を落とし、そうしてそれを外套(がいとう)の中、上着の胸元に大切に留めた。

 ウネンが顔を上げるのを待って、モウルが「あのさ」と口を開く。


「以前に僕がヘレーさんの髪のことを尋ねたの、憶えてる?」

「うん」


 かつて〈不在の神の教会〉の前でモウルに「ヘレーはずっと髪を伸ばしてたのか」と()かれた時から、ウネンはその問いの意味がずっと気になっていたのだ。勢い込んで(うなず)けば、モウルが僅かに唇をほころばせる。


「僕らの里ではね、家族を、大切な人を亡くした者は、()みが明けるまでは髪を切らないんだよ」


 そんなならわしがあるのか、と相槌(あいづち)を打ってから、ウネンはモウルの言葉が指し示すことに気がついて息を()んだ。

 モウルの眼差しが、そっと緩む。


「そりゃあ、何年もの間まったく散髪しないとなると日常生活にも激しく支障が出るだろうから、適度に整えざるを得ないわけだけど……、恐らく彼は、今もずっとツェウさんのことを想い続けているんだろうね」


 モウルの言葉が終わりきらないうちに、オーリが派手に鼻を鳴らした。「行くぞ」とだけ言い置いて、すたすたと大通りのほうへと歩いていく。

 モウルが苦笑とともに「行こうか」とウネンを促した。


 町の門では、マルセルとテオが馬車を用意して待っているはずだ。

 いざ、北へ。ヘレーが向かったという王都ヴァイゼンへ。三人は互いに(うなず)き合うと、混み合い始めた往来に足を踏み出した。

 

 

 


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