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秘伝の書

 

 

 体力自慢なだけあって、イレナの疾走は勢いを失うことなく、ウネンは行程の半分以上を彼女に引きずられたまま町の中心にある広場へと辿(たど)り着いた。

 息も絶え絶えに地面にへたり込むウネンに、イレナが苦笑を投げかける。


「ウネンは、もうちょっと身体を鍛えたほうがいいと思うのよ」

「イレナは、自分が、標準から、逸脱、している、ことを、もう少し、自覚、したほうが、いいと、思う……」


 イレナが、さも心外そうに頬を膨らませる。


 イレナの父親は、かつてはバボラーク領主の城で衛兵を務めていたほどの、腕の良い剣士だった。二十年前のチェルヴェニーとの小競り合いで膝に矢を受け、今はイェゼロの町で領主から下された農地を耕して暮らしている。引退したとはいえ〈雄牛〉の二つ名はまだまだ健在で、市井には貴重な剣の使い手として自ら町の自警団を組織し、その長を務めるほどの猛者だ。


 そしてそんな父親を見て育ったイレナは、女だてらに剣を手にするようになり、今では町で一、二を争う腕前となっていた。ウネンより三十センチ以上も背が高いといった身体(しんたい)的優位を差し引いたとしても、ウネンに勝ち目がないことは明らかだ。


「でも、将来、世界を回って地図を作りたいのなら、もう少し腕っぷしを強くしておかないと、すぐに野獣や盗賊の餌になってしまうわよ」

「その時は、腕っぷしの強い護衛を雇うからいいよ」

「……その件で今、とっても苦労してるんじゃない……」


 イレナの()め息に返す言葉を見つけられず、ウネンは、「苦労をかけます」と素直に頭を下げた。


 


 広場の東、ケヌ川にかかる橋を渡った先にある赤い瓦の二階建てが、ウネンの住む家だ。一階の軒先を飾る「診療所」と書かれた看板の前には、もう日暮れを迎えたというのに、まだ何人もの診察を待つ人が列を成している。


 手に包帯を巻いた人が中から出てきて、「ありがとうございました」と礼を言って去っていった。次いで、エプロンをつけた金髪の青年が、扉の陰から「次の人、どうぞ」と顔を出す。

 青年は、ウネン達に気づくや、次の患者と入れ替わるようにして往来へと出てきた。(つえ)を片手に、ぎくしゃくと右足を引きずりながら、ウネン達のほうへやってくる。


「いつもすまないな、イレナ。俺がこんな状態でなければ、君の手を煩わせることもないんだろうに」

「何を水臭いこと言ってるのよ、シモン。私は、ウネンやシモンと同じように、自分にできることをしているだけよ。ていうか、こんな状態とか言わないでよ、殴るわよ」

「ここで『ありがとう』と言うと、なんだか『殴ってくれ』って言っているみたいだな」


 シモンと呼ばれた青年は、左のこぶしを口元にあてて小さく笑った。その、日に焼けていない頬が、残照を映して赤く染まっている。


「ところで、護衛は見つかったのか?」


 ウネンとイレナが互いに顔を見合わせるのを見て、シモンの眉がそっと曇った。


「何があった?」


 と、その時、診療所の中からシモンの名を呼ぶ野太い声が響いてきた。彼の父親で、この診療所の(あるじ)である、医者のミロシュだ。


「何を遊んどるんだ! さっさと戻ってこんか! 手伝え!」

「ちょっと(かわや)へ行ってきます」


 涼しい顔で戸口に向かって声を投げてから、シモンは家の裏手へとウネン達を(いざな)った。

 納屋の陰に落ち着いたところで、イレナがいつになく険しい表情で口を開く。


胡散(うさん)臭い男が、『(すずめ)の眼』を探していたのよ」

「仕事を依頼しようとしてではなく?」


 シモンの問いに、ウネンも大きく(うなず)いた。


「うん。イレナに()かれて、仕事を頼むつもりではない、って、はっきり言ってた」


 そうして二人は、交代々々で酒場での出来事を逐一シモンに報告した。


「とにかくね、()きたいことがあるのなら、まず自分から名乗れってのよ。仕舞いには、ウネンの足を止めようと体当たりして、こう、熊みたいにぐわーっと覆いかぶさって、捕まえようとするとか!」


 熊みたいに云々(うんぬん)は、ウネンの頭が彼の鳩尾(みぞおち)に入ったからのような気もするが、ウネンは何も言わずにおいた。


 ひとしきり()えて溜飲(りゅういん)が下がったのだろう、イレナの表情はいつの間にか随分晴れやかになっていた。代わりにその隣では、イレナの怒りを転嫁されてしまったシモンが、「乱暴な奴だけしからん」と、顔も知らない無礼者に対して悪態をついている。


「あまりの失礼さについつい足払いかけてしまったけど、まさかウネンがとどめを刺すとはねー」

「刺してないよ!」

「踏んだ、って言ってなかったっけ?」

「……ハイ」


 足の裏に感じた、柔らかいとも硬いともつかない微妙な感触を思い出し、ウネンは神妙な顔で(こうべ)を垂れた。怖くて目を閉じてしまったため、おのれが一体どこを踏みつけたのかはっきりとは分からないが、あまり痛い思いをさせていないことを祈るばかりだ。


「大丈夫だって! あの人、かなり頑丈そうだったもん、ウネンの体重ぐらいじゃびくともしないわよ!」


 そう言ってひとしきり笑ったのち、イレナはふと眉をひそめた。


「それにしても、測量技術がどうとか言ってたけど、あの人、地図の作り方なんか()いて、どうするつもりだったのかしら」


 首をかしげるイレナを、ウネンはじっと見つめた。無言のままに。

 それからウネンは、シモンの様子をそっと(うかが)った。

 シモンもまた真剣な眼差しをウネンに投げる。


「そりゃあ、ウネンの地図は(すご)いと思うけど、実際に生活していて、あんなに精密な地図って特に必要ないじゃない。自分の土地、それも結構まとまった広さの土地を持っておれば、話は別かもしれないけど、そういう家ってそうそう無いでしょ。手間がかかる上に仕事が少ないだなんて……」

「自分の土地があるから地図を作る、という者ばかりではない」


 滔々(とうとう)と持論を展開するイレナの声を、聞き覚えのある男の声が遮った。


「自分の土地にするために、地図を作ることもある」


 納屋の陰から姿を現したのは、誰あろう、先刻、酒場でウネンに踏みつけにされた、あの青年だった。

 予想もしていなかった事態に、イレナが目と口を真ん丸に見開いて硬直する。

 ウネンも、どう対応すれば良いのか分からず、茫然(ぼうぜん)とその場に突っ立つことしかできない。

 そんな二人を守るようにして、シモンが青年の前へと一歩を踏み出した。


「自分の土地にするために、だと? 戦争でも起こす気か」

「一般的な話をしただけだ」


 刺々しい視線をするりと(かわ)したのち、青年は、ウネンとイレナを順番にねめつけると……意外にも()びの言葉を口にした。


「さっきは、突然失礼した。俺の名は、オーリ。地図のことを()いたのは、人を探しているからだ」

「人を探している? 『(すずめ)の眼』とは別に、ということか?」


 青年――オーリは、シモンのほうに向き直ると、「そうだ」と(うなず)いた。


「今は何と名乗っているかは知らないが、俺が依頼人から聞いた名は、『ヘレー』といった」


 ウネンの手のひらに、一気に汗が吹きだしてきた。ああ、やはり、そうだったんだ、と。

 オーリは、淡々と尋ね人の詳細を語り続ける。


「年齢は四十、瞳は(あお)、頭髪の色は枯れ草色、身長は……あんたと同じぐらいだな」


 シモンと背比べをするように、オーリが空中に手刀(しゅとう)を滑らせる。シモンは決して背が低いわけではなかったが、オーリは彼よりもさらに十センチは余分に上背(うわぜい)があった。

 ムッとした顔を隠そうともせずに、シモンが口を開く。


「何故、その人を追っている?」

「盗っ人だ」


 三年前には明かされなかった理由が、今、初めてオーリによって語られた。

 どうせまたはぐらかされるんだろう、と考えていたウネンは、想像もしていなかった(げん)に思いっきり息を()んだ。シモンも同様に驚いたのだろう、「まさか」との(つぶや)きが、ウネンの傍らから聞こえてくる。


 だが、と、ウネンは奥歯を強く()み締めた。一方の意見だけを鵜呑(うの)みにして物事を判断するのは、愚か者のやることだ。ウネンは、真実を見極めんとばかりに、全身全霊の力を目に込めてオーリを見る。

 ウネンの視線に気づいたか、オーリが、シモンからウネンへと顔の向きを変えた。


「今から十五年前、とある高位の魔術師の書斎から、なにやら小難しい秘伝の書を盗み出した、と聞いている。我々の知らない秘術が記された、門外不出の書だということだ」


 淡々と語りながら、オーリは懐から再びウネンの地図を取り出した。


「お前が作ったというこの地図は、信じられないほど正確に地形を写しとっている。まるで鳥の眼を借りたかのように。そして、三年前にヘレーがこの町に居たのは確かだ、と依頼人は言っていた。もしかしてお前は、ヘレーから測量を教わったんじゃないのか?」


 酒場でオーリから「測量技術」という単語を聞かされて以来、危惧していた質問が、とうとう正面からウネンにのしかかってきた。ウネンは唇をきつく引き結び、下腹に気合いを込める。

 だが、ウネンが口を開くよりも早く、シモンがオーリの前に出た。


「『ヘレー』という人物は、確かにいっときここにいた」

「いっとき? 今はいないのか」

「三年前から行方不明だ」


 そう言ってシモンは、既に宵闇(よいやみ)に沈みつつある東の方角を指さした。


「あの人は、十年近く前に東の森の奥に移り住んできた。我々の知らない薬を、医者である俺の親父に売りに来る以外は、町の人間とは一切交流せず、親子二人きりでひっそりと暮らしていた。三年前の大地震で子供を亡くして、町に出てくるまでは」

「やはり、子供がいたのか……」


 ()め息とともに、(ひど)(かす)れた声がオーリの口から吐き出される。彼は、寸刻、目を伏せたのち、再びシモンを正面から見据えた。


「子供の歳は? 子供の母親は? 奴は結婚していたのか?」

「詳しい歳は分からないが、亡くなった時は十歳ぐらいだったんじゃないかな。母親がいなかった理由は勿論(もちろん)、そもそも彼が結婚していたかどうかも知らない。あの人が町にやってくる時は大抵一人っきりだったし、用事を終えたらすぐに森へ帰っていってしまってたからな」

「そうか」


 肩を落とすオーリに向かって、シモンは静かに語り続ける。


「地震のあとの大混乱の中、あの人は、ここで親父の手伝いをしてくれていた。けれど、そのうち主客が逆転した。我々は随分あの人に助けられたよ。見たこともなかった薬や治療法は、その『秘伝の書』のおかげというわけだったんだな」

「その知識は、本来彼が持つべきものではない、ということだ」


 オーリが冷ややかに言い放つ。

 途端に、シモンの眼差しが(すご)みを増した。


「俺も、そして彼女も、あの人のおかげで、生きながらえた者の一人なんだがな」


 絞り出すように発せられる、低い声。シモンが(つえ)で軽く右の足を(たた)けば、木で木を打ち鳴らす硬い音が鳴る。


「あの人にその知識とやらが無かったなら、俺達は、今、生きてここにはいない」


 ウネンは、シモンの言葉に胸の内で(うなず)いていた。閉塞した薄暗い世界で緩やかに死に向かっていたウネンを、あの人が救い出してくれたのだ。今こうやって、ウネンが温かい人々に囲まれて暮らしていられるのも、筆写師という仕事ができるのも、全て、ヘレーのお陰なのだ。


 オーリが、心持ち居心地が悪そうに身じろぎをした。表情こそ変わりはないが、ついと視線をシモンから()らせ、地図を持っていない右手で困ったように頭を()く。

 と、何かに思い当たった様子で、オーリは再びシモンに向き直った。


「かのじょ……?」

「ああ。彼女」


 シモンは、今度は視線だけでなく、手で、ウネンを指し示した。


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