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仕切り直し

 

 川に落ちた、と思う間もなく、ウネンの腹に何かがぶつかってきた。衝撃で、口から空気の塊がごぼりと(あふ)れ出す。

 肺に水を入れてはいけない、とのヘレーの教えを思い出し、ウネンはすんでのところで息を詰めた。腹部には、依然として何か横に長いものが強い力で押しつけられている――いや、背後から襲いかかる水流が、ウネンをそれに押しつけている。ウネンは無我夢中で、その何か丸太のようなものにしがみついた。


 息を止め続けるのもそろそろ限界か、閉じた口の奥で、喉が引き()れた動きで何度も呼吸を試みる。口をあけてしまえばおしまいだ、と、ウネンは必死で手足を動かした。上へ、明るいほうへ、じりじりと丸太をよじ登る。

 ほどなく、水面に顔が出た。新鮮な空気が大量に胸の奥へと流れ込み、ウネンは二度三度と()き込んだ。水流に負けじと両腕に力を込め、荒い呼吸を繰り返しながら、周囲に首を巡らせる。


 ウネンがしがみついているのは、丸太で作られた橋脚の一つだった。頭のすぐ上には橋桁、そして、見渡す限りの波がしら、白茶色の濁流。

 とにかく皆に無事を知らせなければ、と、ウネンは声を張り上げてイレナ達の名を順に呼んだ。


「下か!」


 慌ただしく動き回る複数の足音にかぶって、少し遠くからオーリの声が聞こえた。

 ウネンは橋桁の裏を見上げて、状況を報告する。


「なんとか、橋脚にしがみついてる!」

「じっとしてろ。すぐに助けてやる」

「分かっ」


 分かった、と言い切る前に、何か固いものがウネンの肩を思いっきり打った。不意を突かれてウネンの手が(わず)かに緩む。流木がぶつかってきたんだ、と気づいた時には、ウネンは逆巻く水によって橋脚から引き()がされてしまっていた。


 視界一杯に広がった青空が、すぐに白茶色に覆い隠される。間一髪、胸一杯に空気を吸い込むことができたものの、水流に身体をもみくちゃにされて、もう、どちらが上か分からない。(れき)か木切れか、水とは違う塊が、ひっきりなしにウネンの身体のあちこちにぶつかってくる。ほんの一瞬、足先が川底の砂に触れたような気がしたが、そんな感触もすぐに消えてしまった。水をかいた手が岩のようなものに当たっても、(つか)まるどころではなく、指先が(こす)れて痛いだけ。


 ぼくはここで死ぬのだろうか。ウネンが両手を握りしめた、その時、〈(ささや)き〉が胸の奥を震わせた。

 水の流れが次第に勢いを失い、目の前が徐々に明るくなってくる。

 上下感覚が戻ってくるのと同時に、ウネンは膝から川底に着地した。頭髪を波が()でたと思う間もなく、水面はさらに下がって、とうとう頭が水の上に出る。


 (すさ)まじい風音とともに、細かなしぶきがウネンの顔面を幾度となく打った。

 固くつむっていた(まぶた)をおそるおそる開けば、眼前すぐに泥水の壁があった。

 呆然(ぼうぜん)と座り込むウネンの胸が、腰が、水の中から現れる。そうして、ついに藻と砂の川底が空気に(さら)された。


 川の水が、ウネンのいる場所より少し上流で、見えない壁に妨げられたかのように、左右に割れていた。ウネンの身体を避けるようにして、濁流の壁が紡錘(ぼうすい)形の空間を作り出している。

 雨のように降り注ぐ無数のしぶきを吸い込んでしまい、ウネンは何度もむせた。むせながら、ウネンは理解した。ウネンを取り囲む、高さ一メートルはくだらない水の壁。これを作り出しているのが、恐るべきちからを秘めた「風」だということを。


 と、右手の壁が崩れたかと思えば、濁流を蹴散らすようにして、オーリがウネンの目の前に飛び出してきた。押し寄せる水よりも早くウネンを引っ張り起こすと、素早く輪縄をウネンの腰にかけ、左手一つで胸元に抱きかかえる。

 泥の大波がウネンを頭から()み込んだ。ウネンは再び水流に足元をすくわれ、()すすべもなく水に流される。


 だが、今度はすぐに顔が水面の上に出た。脇の下にまわされたオーリの腕が、ウネンを引っ張り上げてくれたのだ。

 オーリは、ウネンをかかえたまま、岸辺へ向かって水をかき始めた。見れば、ウネンに結わえた縄とは別に、オーリの腰にも縄が巻かれていた。波間に、ぴん、と張られた縄の先には、橋のたもとの立ち木と、イレナ。あと、見覚えのない人影も幾つか。


 オーリがついに川岸へと辿(たど)り着いた。水から上がり、ウネンの身体を地面に転がすなり、自分も仰向けに草の上にひっくり返って、荒い呼吸を繰り返す。

 イレナのいる方角から、大歓声が聞こえてきた。

 (せき)が治まるのを待つ間ももどかしく、ウネンは喉の奥から声を絞り出した。


「助けて、くれて、ありが、とう」

「礼は、モウルに、言ってやれ」


 寝そべったまま肩で息をしながら、オーリが橋のほうを指で指し示した。「奴の術がなければ、俺には、手も足も、出なかった」

 モウルの姿を探して、ウネンは目を凝らした。

 木の下では、イレナが見知らぬ男達と手をとり合って喜んでいる。荷物を積んだ馬の引き手を持っているのも、ウネンの知らない男だ。そして、その傍らで、モウルがぐにゃりと地面に倒れ込むのが見えた。


 


 


 橋のたもとの立ち木の脇で、ウネン達は一服することにした。

 イレナと一緒にいた四人の男達も、ともに()き火を囲む。ウネン達の少し後ろを歩いていたという彼らは、命綱を引っ張るのを手伝ってくれたり、馬の引き手を預かってくれたり、と、ウネンの救助に力を貸してくれたのだ。


 イレナにお茶の用意を任せ、ウネンは、()き火から少し離れた木陰に毛布を敷いて寝床をこしらえていた。上体が少し起こせるように、残りの毛布を使って寝床に傾斜をつけ、オーリがその上にモウルを横たえる。


 術でちからを使いきってしまったらしく、モウルは、自分一人ではまともに座ることすらできないようだった。なんでも、ウネンが川に落ちた直後から、水の勢いを抑えようと魔術をふるってくれていたとのことだ。そのあとに続く濁流を割ったわざといい、あれだけの質量の水を操るためには、相当なちからが必要だったのだろう。

 モウルが背もたれの横に転がり落ちてしまわないよう、ウネンはオーリと手分けしてモウルの両脇を荷物で固めた。なんとかモウルの上体を安定させることができたところで、ウネンは毛布の端に膝をつき、あらためてモウルに感謝の言葉を述べる。


「助けてくれて、本当にありがとう」


 蚊の鳴くような弱々しい声が、「いえいえどういたしまして」と(ささや)いた。


「今、君に死なれると、寝覚めが悪いからね」

「なんで?」


 皮肉でも嫌味でもなく、純粋に疑問の言葉がウネンの口をついて出る。

 モウルが、毛布の背もたれに半ば埋もれた状態で、ほんの(かす)か眉をひそめた。


「なんで、って、こんなこと、わざわざ説明が必要とは思えないんだけど」

「ぼくが死んだほうが、モウル達の都合には良かったんじゃないの?」


 ウネンが問うなり、モウルの瞳が一瞬揺れた。やはり図星なのだな、と、ウネンは奥歯を()み締める。

 だが、モウルはウネンの質問には答えずに、「もしもし、オーリくん」と、か細い声で相棒を近くに寄せた。


「君さ、今度こそ、ウネンにきちんと伝える、って言ってなかったっけ?」

「人払いが上手くいかなかった」

「人払い、って、そんな大げさにしなくったって、ちょっと隅っこのほうで、今みたいな小声で話せば問題ないだろ。ていうか、じゃあ、さっきの昼飯ん時に、二人で何を話してたわけ?」


 (わず)かな躊躇(ためら)いののち、オーリがぼそりと(つぶや)いた。


「馬の乗り方を教えてやろうか、と」

「はぁ? なんで馬?」


 モウルが、(かす)れた声とともに両眉を跳ね上げる。

 本当に、なにゆえ突然、馬なのか。ウネンも一緒になってオーリの顔を注視していると、何を(ひらめ)いたか、モウルが唐突に(うめ)き声を()らした。


「まさか、それを口実に、ウネンとさしで話をしよう、と思ってた、とか?」


 想像もしていなかった言葉の内容に驚いて、ウネンは反射的にモウルを振り返った。それから、再度、勢いよくオーリのほうを向く。

 オーリが、若干(じゃっかん)不貞腐れたような表情を浮かべた。


「あー、もう、今ので残ってた気力全部使いきった。もう、寝る。僕はちょっと眠るから。そもそも、こじれちゃったのは君のせいなんだから、最後まで君がなんとかしてよね」


 駄々っ子のごとくそう言い放って、モウルはさっさと目を閉じた。そうして、ぴくりとも動かないまま、静かな寝息をたて始める。

 モウルを起こさないよう、ウネンは慎重に立ち上がった。オーリも、荷物の位置を少し直してから、モウルの向こう側に立つ。


「……こじれた、って、何が? 人払いしてまで、何をぼくに伝えようっていうの?」


 徹底抗戦の覚悟を決めて、ウネンはオーリをねめつけた。

 だが、対するオーリは、どこまでも平常どおりな仏頂面だ。


「二つほど、誤解を解きたい」


 オーリが(おもむろ)に口を開いた。


「三年前の俺達の前任者はともかく、俺達は、ヘレーを糾弾(きゅうだん)するためではなく、どちらかと言えば弁明を聞くために追っている」


 罪を(あがな)えだの、奴の犯した罪がどうだの、物騒な話を(いか)めしい顔で言い放たれたあとで、こんなことを告げられても、すぐには素直に「はいそうですか」と(うなず)けるはずがない。ウネンは両手を腰に当て、精一杯胸を張って大きく息を吸い込んだ。


「抵抗されたら殺すんじゃないの」

「自分の身を守ることを一番に考えろ、とは言われているが、ヘレーはそんなに凶暴な奴か?」


 いつだって物腰柔らかで、手を上げることは勿論(もちろん)、声を(あら)らげることすら(まれ)だったヘレーに、オーリ達の生命を(おびや)かすような真似ができるだろうか。いや、ない。

 自問自答を早々に切り上げてから、ウネンはそっと()め息をついた。(やぐら)塔でオーリが言った「状況によっては殺害もやむなし」という言葉は、確かに間違ってはいないのかもしれないが、ある意味、全然正しくないではないか、と。


 ウネンの眉間の(しわ)に気づいているのかいないのか、オーリは淡々と話を続ける。


「もう一つ。秘伝の知識の拡散を防ぐという任務についてだが、俺達は別にお前を害する気はなく、可能ならば平和()に協力を仰ぎたい」


 馬よりも何よりも、それを早く言ってほしかった、と、心の底から思いつつ、ウネンは()えて険しい顔のまま切り込んだ。


「監視してほしくなければ、協力しろ、と?」

「監視は、する」


 そうきっぱりと断言したものの、オーリはすぐに慌てたように小さく首を振った。


「あ、いや、監視、ではない。お前が何をどこまで知っているのか……」と、オーリはそこでしばし考え込んだのち、訥々(とつとつ)と、言葉を継いでゆく。「……確認したい、いや、……見届けたい、と思っている。出来る範囲で、だが」


 ウネンは、今度こそ、大きな()め息が()れるのを止められなかった。


「誤解って言ったけど、ぼくが意味を取り違えたんじゃなくて、そっちの説明が言葉足らず過ぎたんじゃないか」

「すまなかった」


 一切の言い訳を挟まず、オーリが()びる。

 折よく、イレナが「おーい」と薬缶(やかん)片手にウネン達に手を振った。


「お茶、入ったけど、どうする?」

「ありがとう。今、行くよ」


 イレナに返事をしてから、ウネンは、念のために、と今一度オーリを振り返った。


「話、もう終わり?」

「ああ」


 とりあえず、オーリ達はウネンと敵対するつもりは無いらしい。ヘレーを(ひど)い目に()わせるつもりも、あまり無いようだ。胸の奥の重石が減った分だけ身体も軽くなったような気がして、ウネンはくるりとオーリに背を向ける。

 と、オーリが「あ……」と小さな声を()らしたのが聞こえた。


「……何?」


 この際、懸念は可能な限り全て潰してしまっておこう。そう思って振り向いたウネンを、相変わらずの真顔が出迎える。


「昼に言った、馬の乗り方の件だが、教えてやろうというのは、本心だ」


 ウネンは、脱力するあまりその場にへたり込みそうになるのを必死でこらえて、言葉を返した。


「あ、ありがとう。じゃあ、今度頼むね」


 口元に(かす)かに満足げな笑みを浮かべて、オーリが静かに(うなず)いた。


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