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穏やかな暮らし

 

 

 ウネンにとっては、母と別れることの悲しみよりも、これからどうなるのかという不安のほうが大きかった。だが、三食きちんと与えられる食事が、ほどなく不安の大半を打ち消した。宿屋の寝台は小屋の寝床よりもずっと快適だったし、野宿の時ですら柔らかな毛布がウネンを包み込んでくれた。


 男の人――ヘレーは、とても優しかった。ご飯を食べさせてくれるだけでなく、色んなことをウネンに教えてくれた。道端に生えている草のこと、森や土や川のこと、自分達が今いる場所のこと、道ゆく人々のこと。空っぽのお腹に食べ物が入るようになって体力がついてきたように、沢山のことを知れば知るほど、思考が鮮明になっていくのが自分でも分かった。


 知識が増えれば増えた分だけ、解らないことも増えていった。「なぜ?」「どうして?」とのウネンの問いに、ヘレーは根気よく答えてくれた。時には、ヘレーも解らないことに行き当たることもあったが、彼がウネンの質問を無下(むげ)にするようなことは一度たりともなかった。


 だが、ウネンには、ヘレーにどうしても()けないでいることがあった。

 何故ヘレーはウネンを引き取ってくれたのか。あの時、ヘレーはウネンの母とどのような話をしたのか。

 どんな答えが返ってくるのかを想像しようとするだけで、得体のしれない不安感がウネンの胸を締め上げた。


 はっきりしていることが、一つだけある。それは、ウネンが母にとって、あの髪飾り以下の価値しかなかった、ということだ。

 (まぶた)の裏に刻み込まれた、幾つも輝石を()め込んだ銀の髪飾り。ウネンは、思いっきり強く目をつむったのち、そうっと(まぶた)を開いた。


「さて、そろそろ行こうか、ウネン」


 荷物をまとめたヘレーが、ウネンに手を差し伸べる。また次の町へ出発する時が来たのだ。

 ウネンは、「うん」と大きく(うなず)いた。たとえヘレーにどんな思惑があるにせよ、彼が望むことなら、それに従おう。ウネンはきつく唇を引き結ぶと、ヘレーの大きくて温かい手をとった。


 


 


 およそ一年間の放浪を経て、ヘレーはとある森の中で打ち捨てられていた小屋を見つけた。近くの町をまわり、その小屋が既に誰のものでもないことを確認したヘレーは、小屋を改修し、荒地と化していた小さな畑を(よみがえ)らせ、そこでウネンとともに暮らし始めた。


 定住するにあたって、ヘレーは医業を表に出さなかった。二人が当面暮らしていくに足る蓄えがあったからだろう、彼は薬屋を名乗って、自分が作った薬を一番近い町の医者に売って生活することにした。

 幸い、ヘレーが商売相手に選んだ医者は、腕の良い、話の分かる男だった。彼がヘレーの薬を高く評価してくれたおかげで、ヘレーは蓄えを(ほとん)ど切り崩すことなく、ウネンと二人、森の奥で(つつ)ましく、だが不自由はなく、生活していくことができた。


 


 


「王手」


 そう言ってウネンは、少しだけ申し訳ない気分で、駒を盤上に置いた。

 途端に、対戦相手がテーブルに勢いよく手をついて咆哮(ほうこう)する。


「ちょっと待てよ! まだ僕は考えてる途中だったんだぞ!」

「見苦しいぞ、シモン。お前はウネンよりもお兄ちゃんだろう?」


 ミロシュが、豪快に笑って、息子の髪をわしわしと乱した。


「小さかったら、ズルしてもいいのかよ!」

「ズルって、お前、今ウネンに、もういいか、って()かれて、『いいよ』って言ってただろが」

「そのあとで『やっぱナシ』って言ったんだよ!」

「そんなこと、全然聞こえなかったぞ」

「……ちょっとだけ小さな声だったから、聞こえにくかったかもしれないけど」


 唇を(とが)らせるシモンの手元に、ヘレーが湯気の立つカップをそっと置いた。


「ウネンと遊んでくれてありがとう。お茶でも飲んで、いっぷくしようか。ほら、ウネン、シモン君達が持ってきてくれたお菓子だよ。ゾラさんが焼いてくださったんだそうだ。皆でいただこう」

「うわあ、ありがとう、シモン!」


 ウネンは、大慌てでテーブルの上を片付け始めた。たまにご馳走(ちそう)になるゾラの手料理は、頬っぺたが幾つあっても足りないほど、美味しかったからだ。


「感謝しろよな」

「お前が作ったんじゃないのに偉そうに言うな」


 ぺしんと頭をミロシュにはたかれ、シモンがふてくされた顔になる。

 ヘレーが籠の覆いを外した途端、香ばしい木の実の匂いが辺りにふわりと広がった。あっという間に口の中に唾が(あふ)れてきて、人数分のお皿を並べる間すらもどかしく思える。

 いただきます、と四人の声が綺麗(きれい)(そろ)ったあとは、菓子を頬張る音以外何も聞こえなくなった。


「なあ、ヘレー、いいかげん町へ出てこないか」


 一息ついたところで、ミロシュがヘレーを見やった。「お前、本当は医者なんだろ? イェゼロに来れば、もっと楽な暮らしができるぞ」


「自分から商売(がたき)を作ろうとしてどうするんだ」


 ヘレーが悪戯(いたずら)っぽく口角を上げるが、ミロシュのほうも負けてはいない。にやりと不敵な笑みを浮かべて、「商売(がたき)が一人増えたところで、どうってことないさ」と言い返す。


「それに、ウネンだって、もうすぐ八つだ。いつまでもこんな森の中に閉じ込めておくわけにはいかないだろう」


 ヘレーはムッとした表情を浮かべたものの、小さく()め息をついてから、すぐに眉間を緩めた。


「……君が、こうやって時々ここにシモン君を連れて来てくれる理由は、よく解っているつもりだ。とても感謝しているよ」

「なら、さっさと町に来ればいい。大人のお前が好きで引き籠もるのは構わんが、それを子供にまで強要するのはどうなんだ」


 ミロシュが、テーブルに肘をつき、少し前屈みになってヘレーを(にら)みつける。

 ウネンはもぞもぞと椅子の上で身じろぎをした。ウネン自身は、今の森での生活に全く不満がなかったからだ。家事や畑仕事は勿論(もちろん)のこと、薬作りを手伝うのも、とてもやり甲斐(がい)があって楽しかったし、空いた時間にはヘレーが勉強を教えてくれる。常々ミロシュが必要性を主張している「同年代の子供との交流」に()く暇など、逆さに振っても出てきそうにない。


「君が言いたいことは、よく解る。だが、私は……私達は、ここを出るわけにはいかないんだ」

「何故だ」


 ミロシュが(いら)立たしげに問う横で、シモンが涼しい顔で「ごちそうさま」と立ち上がった。

 ミロシュもヘレーも気まずそうな表情を浮かべて、互いに互いから視線を()らせる。


「ウネン、今度は木登りで勝負だ。どの木に登るかは、特別にウネンに選ばせてやるよ」

「……あ、うん」


 大人達の話の行方が気になったが、ウネンはシモンの心(づか)いを受けることにした。「行ってきます」と言い置いて、シモンのあとを追ってテーブルを離れる。

 ウネンが扉を閉める直前、ヘレーが苦渋の声を()らすのが聞こえた。


「頼む、ミロシュ。今はまだ何も()かないでくれ」


 ミロシュの返事を待つことなく、ウネンは静かに扉を閉めた。


 


 


 結局、それからもヘレーとウネンの生活は大きく変わることなく、月日は坦々と過ぎていった。

 そして、今から三年前。ウネンが十二歳の誕生日を迎える直前の、陽光うららかな晩春の午後、イェゼロの町のあるバボラーク領一帯は、突然の激しい地震に襲われた。


 その時、ウネンとヘレーは、小屋よりも更に森を奥に行った、薬を作るための蒸留炉の前にいた。

 地響きとともに、いきなり誰かに足払いを()らったかのような衝撃を受け、ウネンはあえなく地面に尻もちをついた。続いて、腹の底を直接揺さぶる、容赦のない横揺れ。森中の木々がおののき、野鳥が一斉に空に飛び立つ。煉瓦(れんが)を積んで作った、ヘレーの背丈ほどの蒸留炉が、歯ぎしりのような音をたてて崩れ、ガラス瓶が砕ける音が何度も辺りに響き渡った。


「大丈夫か、ウネン!」


 (そば)の立ち木に(すが)りつくようにして、ヘレーが叫ぶ。ウネンは、返事の代わりに何度も大きく首を縦に振った。


「ヘレーさん、炉が……」

「そんなことよりも、町だ」


 ヘレーが、険しい眼差しを木々の向こうへ投げた。「これは、大変なことになっているぞ……」

 ウネンは、ごくりと唾を()み込んだ。(わず)か二メートルにも満たない高さの蒸留炉が、無残にも崩れ落ちてしまったのだ。それ以上の高さを持つ家屋がどうなるか、想像に(かた)くない。


「……行こう。ウネン」

「うん」


 幾度となく揺り返しが訪れる中、二人は小屋へと取って返した。ヘレーは、戸棚の奥に大切に仕舞ってあった診療(かばん)をウネンに持たせ、自分は消毒薬をはじめとする陶器瓶が詰まった(かばん)を背負うと、西へ、イェゼロの町へと急ぐ。


「ウネン」


 進行方向をじっと見据えたまま、ヘレーがウネンの名を呼んだ。


「何?」

「私は、かつて、我が身にふりかかった苦難から、逃げてしまった」


 ウネンは、小走りでヘレーを追いかけながら、黙って話の続きを待った。


「だが、この災厄からは、逃げてはいけない、と思う。たとえ、この、穏やかな暮らしを失うことになろうとも」


 すまない、ウネン。そう(つぶや)いたヘレーの声は、ウネンが今まで聞いたことがないほど、硬かった。


「ちから持てる者には、それ相応の義務が生じる。私は、医師としての私の務めを果たそう。手伝ってくれるか、ウネン」


 不安に押しつぶされそうになりながらも、ウネンは、力強く「はい」と(うなず)いた。


 


 イェゼロの町は、惨憺(さんたん)たる有様だった。

 ケヌ川にかかる橋はことごとく落ち、堤が崩れているところまである。水車小屋は川の中へと傾き、流されてきた橋の残骸を引っかけて(せき)のようになっていた。二階建て以上の建物はほぼ例外なく傾き、中でも石積みの塀や壁は、単なる瓦礫(がれき)の山と化していた。木造平屋の家ですら、屋根が落ちてしまっているものも少なくない。


 ヘレーは、真っ先にミロシュの診療所へと向かった。

 川の両岸で揺れのほどが違っていたのだろう、診療所のある一角は、比較的無事な建物が多かった。ミロシュの家も、二階建てにもかかわらず(ほとん)ど無傷であるようだった。奮発して備えつけた診療室のガラス窓は、全て割れてしまっていたが。


「ヘレー、来てくれたのか!」


 ヘレー達の姿を見るなり、ミロシュが安堵(あんど)の表情を浮かべた。

 ヘレーとウネンは、既に診療所の中には入りきらなくなってしまっている大勢の怪我人の隙間をぬって、ミロシュの(そば)ヘ行き、薬の詰まった(かばん)を手渡した。


「奥の部屋は、重傷の患者用に空けておくんだ。それから、ゾラさんやシモン君にも手伝ってもらって、怪我の程度で患者を分ける。猶予の無い怪我人から先に処置をする。そして、何よりも大切なのは、この治療方針を、()ず皆に周知させること。住民の信頼(あつ)い君にしかできないことだ。怪我人の治療ならば、私もいくらでも手伝うから」


 わかった、と(うなず)くや、ミロシュがゾラとシモンの名を呼ぶ。ほどなく、ゾラが息せき切って駆けつけてきた。青ざめた顔で。


「ねえ、ミロシュ、シモンが、シモンがまだ帰ってこないのよ!」

「なんだって?」

「公会堂にお使いに出してたでしょう? あんなに揺れたのだから、慌てて戻ってくると思ったのに、まだ」


 表で治療を待つ誰かが、「公会堂は崩れちまったよ!」と声をあげた。

 ゾラが、短い悲鳴を上げて、膝から地面に崩れ落ちる。

 ウネンは、居ても立っても居られなくなって診療所を飛び出した。飛び出したものの、公会堂とやらがどこにあるのか、そもそも自分に何ができるのかも分からず、焦る気持ちを両手で握り締めて、ただその場に立ち尽くす。


「ウネン、こっちだ!」


 (おく)れて飛び出してきたヘレーが、川のほうへと駆け出していった。

 ウネンは唇を引き結ぶと、ヘレーのあとを追った。


 


 公会堂だったものの下からシモンが助け出されたのは、それから二時間後のことだった。

 救出が短時間で済んだのは、小柄なウネンが瓦礫(がれき)の隙間に入り込んで、シモンが埋もれている場所を特定することができたからだった。(もっと)も、崩れてきた瓦礫(がれき)によって、すんでのことでウネンも生き埋めになってしまうところだったのだが。


 瓦礫(がれき)崩落によって受けた怪我の痛みをじっと我慢して、ウネンはシモンの処置が終わるのを待っていた。シモンのために、そして、シモンの両親のために、この世の全ての神に祈りながら。


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