第4話
ここには何度来ても慣れることはないだろう。俺は紫煙をなるべく遠くへと吐き出すと、左手で支えていた花を手向けた。あれから4年の月日が流れ、俺は生まれた国へ帰ってきた。彼女が死んでから、俺は一切殺しをしていない。償い、良心の呵責、背徳感。そういったものが俺に働きかけたわけじゃない。
ちょうど4年前の今日、吸い込まれるほど美しい瞳を見た。ただそれだけのことだ。
素直に正面から入るのは自殺行為を通り越して、もしかしたら潔い、英雄的行為なのかもしれない。しかし残念ながら英雄は虚像だ。英雄なんてありえない。無いものねだりの好きな人々は途方もない妄想に取り付かれて、途方もない虚像を作り出す。虚像は虚像を生む。不毛な連鎖が人々の憧れだ。
誰にも悟られぬよう、一番気付かれにくい裏から建物の中に侵入する。ここは国を挙げた警備会社のようなものなのに、蟻一匹どころか人一人をいとも簡単に通してしまう。小さな窓の僅かな隙間から、俺は自分の身体を押しやって、窮屈な物陰に身を潜めた。
おそらく7階に彼女はいるだろう。止まった足を動かそうと身体に力を入れたその時、俺の心臓が大きな鼓動を一つ打った。それとほぼ同時に乾いた、無機質で、得体の知れない不快感が、音となって俺を襲う。微かに時が止まったかのようだった。
長い一瞬が過ぎた後、あらゆる場所から怒号が響いた。俺はもう何も考えずに、この狭い空間を走り始めた。
幸い、この騒ぎで俺にかまう暇のある奴はいなかった。今ではこの階の一番大きなフロアのドアは半開きになって、中から硝煙と、死の臭いが流れ出している。生が浮遊している感覚が、俺の神経を研ぎ澄ませた。自分でも知らない内にクーガーを手に収め、半開きになったドアから中の重い空間へと身体を滑らせる。デスクの一つに身を屈め、いかなる音も聞き逃さないように耳を酷使した。
何も聞こえない。
生きた気配を感じ取れないまま、俺はもうまるで何事も無かったかのように立ち上がって、この死神に好かれた部屋を見渡した。俺の目に入った風景―きっと一生忘れることのない―は残酷だった。部屋の奥で数発銃弾を受けて、苦しみに顔を歪めるセル・ディジク。恐らく後世にもその名を轟かすであろう悪徳警官が、あろうことかこの狭い空間で死を前にもがき苦しんでいる。そして、あの女の、倒れた姿が、ディジクから少し離れた所でありありとこの目に飛び込んだ。俺はすぐさま彼女に駆け寄った。
「何故撃った。」
彼女ももう虫の息だった。
「一番ここに人がいない時間に、あいつがいて助かったわ。」
「おまえが撃つ必要はなかった。」
生暖かい雫が彼女の頬を伝う。
「母が自殺したのよ。父だけを頼りに生きているような人だったから。」
俺は何も言えず、彼女の身体を半身起こした。
「人を初めて撃ったけど、あなたの心が少しわかったような気がするの。」
「何?」
「仇を討ったはずなのに、こんなにも虚しいから。」
その言葉が俺を、何かから解き放つ鍵だった。俺が発する空虚がこの重苦しい部屋から消えて行くようだ。
「死んだ後私は裁かれる。」
その言葉を言い終えて、彼女はこの時初めて微笑んだ。
「私はもう死ぬわ。助からなくていい。自分のしたことの重みに、生きて耐えられるわけがないから。だけど不思議ね。あなたの傍で死ぬのが嫌じゃない。あなたは何人も人を殺したのかもしれないけど、もう不快感を感じないの。今ならなにもかも許せるわ。あなたのしたことは、もう、終わったの。」
「俺は許される必要がない。」
「もういいの。何もかも間違いなのよ。この世界も、何もかもが。正解なんてどこを探しても見つからないのだから。」
俺は最後にこの美しい顔、そして瞳を見た。彼女がゆっくりと瞳を閉じる。
彼女の傍から立ち上がり、俺は苦しむディジクを上から眺めた。
「は、早く。救急・・うぅ。」
クーガーの引き金は驚くほど柔らかで、指の力に抗うことは無かった。
彼女に人殺しをさせる訳にはいかなかった。だからその瞬間、俺は人生で最後に人を殺めた。
墓に添えられた花はいずれ枯れるが、花がそこに添えられた事はいつまでも事実として残る。人は目に見えて解る変化より、見えない変化に縛られて生きていかなければならない。彼女は俺が死ぬことを望まずに、生きるべきだと感じたのだろう。俺は背負う。目に見えない何かを。それだけは変わらない。
視界に移る、微かな光を放つ星。暗くなった夜空が、俺を隠す。
-4th ZERO-終