第3話
その時、雨はまた大降りになっていた。他人の人生に初めて深く関わったその時に、俺は初め
てこの世に生を受けたのかも知れない。それまでの俺は、いわば死人と同様だったのだ。
美しい横顔は涙に濡れて一層美しさを増している。悲しみとはこれほどまでに人の心を打つものなのか。地面を叩く雨の音が激しさを増すほど、この薄暗いクーペの中にいる俺と彼女の存在は、周りの世界から隔離されたようにぼやけてしまう。俺はもう当ても無く夜道を車で走っている。
「・・・どこへ行くの?」
赤くなった目を少し俺のほうに向けて彼女はそう尋ねた。
「わからない。」
前を見るのすら億劫なほど、俺はその時憂鬱に襲われていた。
「止めて。」
彼女は静かに、だが強くそう言い放った。俺の耳にはその言葉が届いているようで、届いていない。
「止めて!!」
不意に彼女が怒鳴る。今まで出したことの無いような大声で。俺は言われるままに車を止めた。辺りの人通りはまばらだ。この雨も手伝って、誰もが足を速めている。
「降りるわ。」
「こんな所で降りてどうする。」
「言ったでしょう。私はもう何も考えていないの。」
彼女は深刻な顔付きで、ドアを開け豪雨の中へ飛び出していった。
何故この時彼女を止めなかった?
俺は再び車を闇雲に走らせた。憂鬱がこれほどまでに強く心に働きかけることをその時まで俺は知らなかったのだ。今まで感じていたのは憂鬱ではなかったのだろう。長い間死人のような生活をしていれば、自然と心など羽の重さほどもないような軽い存在に成る。精神、心、究極的に観念に縛られたこれらの概念は、まるで実態があるかのように振る舞い人に付きまとう。俺は長いことそれから解放されていた。それが良いか悪いかもわからずに。
古びたアパートに帰ってきたときにはもう朝日が顔を覗かせていた。雨はどこに去ったのか。気まぐれで何にも縛られない、ただ地面に落ちる水滴は、どこか俺に似ていた。深くソファに腰掛けると、軽く目を瞑る。聞き慣れた機械音が、この狭い部屋に木霊した。ハウゼンからのようだ。
「ああ、俺だ。」
『涼か?いまさっき知らない女が来て、俺に銃を突きつけて脅しやがった。えらい美人なんだが、お前の名前を出して、あの政治家殺しの依頼人を教えろ。ときたんだよ。』
ハウゼンは矢継ぎ早に言葉を俺に投げかけた。
「何・・?」
『目が本気だったからそいつに依頼人の名前を教えてやった。まあ場所なんか教えなくてもわかるだろうから言わなかったが・・』
俺はハウゼンの言葉を聞き終える前に、走り出していた。
昨夜とは全く違う。フルスロットで俺はこの街を駆け抜けた。
やつらは女だろうが子供だろうが容赦しない。人の皮を被った悪魔どころか、悪魔そのものだ。権力を振り回し、弱いものを落としいれ、強いものには決して抗わない。金はやつらにとって命であり、それより下の存在には決してなりえない。だから金こそが全てだ。どんな社会的通念も常識も、ひとかけらの良心ですらあいつらの心には存在しない。悪魔の巣窟はもう眼前にそびえている。俺は車を止め、ゆっくりとドアを開け、寂れた地面に足を付いた。