第2話
「有り得ないわ。」
女は窓のほうを向いてこちらを見もせず、そう呟いた。外の雨はもう止んでいて、残ったのは抗えない不快感。そして何よりコンクリートから立ち上る湿気である。
「今煙草を吸ってないんだ、まだましだろう。」
車内には煙草の臭いが残っているが、言うなればこれは忘れがたい記憶だ。記憶は現実を求める。紫煙の煙が恋しかった。
「この臭いだけで不快なの。」
女の横顔は厳しい。だがそれは同時にこの上ないほど美しくもあった。栗色の艶やかな髪は肩にかかり、ふわりと甘い花の香りを放つ。吸い込まれるような、黒い瞳。通った鼻の下にある、形のはっきりとした口。すべてが絶妙なバランスでまとまっている。人の作りえない美だ。
「珍しいな。海外で街頭演説・・」
女は少ししかめ面をした。しかしその美の調和は少しも崩れない。
「あなたそれ本気で言ってるの?世相を全く知らないのね。」
「意識的に新聞やテレビの情報には触れないようにしている。」
それは本当だ。しかし彼女の父が何故この国に来ているか、そしてそれがどのような意味を持つかは知っていた。目は塞いでも耳までは塞いでいない。
「不幸な仕事だわ。」
窓の外を眺めながら、軽蔑したような声で彼女は言った。
「どういうことだ?お前がそれを聞いてどうする。」
トマス・ハウゼンは俺を睨みながら言った。オフィス、といっても狭いビルの一室が静かになった。
「興味を持った。」
ハウゼンは苛立った様子で煙草に火を点けた。重苦しい煙を吐き出すと、俺をもう一度睨んだ。
「俺はお前を信頼している。だからいつもだったら依頼人のことなんかなんだって言ってやるさ。本来はそうあるべきだろうからな。だがお前はいつもそれを意図的に避けてきた。だったら今回もそれは同じはずだ。」
「いつも同じとは限らない。」
三回目の紫煙を吐き出すと、落ち着いたのか、顔つきが緩んだ。
「何が裏にある。女か?」
俺はポケットから煙草を取り出して、それを吸った。久しぶりの呼吸だ。肺が本物の空気を取り込んだ。
「お前が女?世も末だ。感情に流されないのがお前だったのにな。」
「そろそろ潮時かもしれない。」
俺は斜め下を見ながら、そう言った。
「言えないほどの存在、か。」
俺は踵を返した。狭いオフィスだ。二歩歩けば、この狭苦しい空間から開放される。
「聞かせてくれ。何があった?」
ハウゼンは名残惜しそうに、そう尋ねた。
「考えないことほど罪なことはない。それに気付いただけだ。」
もう振り返る必要はなかった。無言が、背中に投げかけられた。
「何かわかったの?」
車に戻ると、彼女はその強い瞳を向けて、俺に答えを強制した。
「ああ。大体はな。」
「これからどうするの?」
その声には、さっきまでは感じられなかった満足が少し入り混じっていた。
「俺が聞きたい。仮にあんたの父親を殺せと命令したやつに会えたとする。そしたらどうするつもりだ?」
「殺すのよ。」
全く不釣合いだ。彼女は殺気をぎらつかせていた。先刻のあのナイフのように。
「無理だ。あきらめろ。」
「何故よ!」
火を見るより明らか。とはこのことだ。
「女が一人で入って出られるところじゃない。この国で一番危険なところの一つだ。」
「かまわないわ。後のことは何も考えてないの。」
「あんたが仇を殺す前に死ぬ。」
はっ、と彼女が息を呑んだ。いくら気丈に振舞っていても、それは見掛けだけだ。少し見た目が他に勝っているというだけで、人を殺せるような人間ではない。自ら人を殺めることを望むのは、そう。狂人だけだ。
雨がまた降り始めた。いつのまにか通りは暗くなっていたようだ。薄暗いクーペの中で、彼女は一筋の涙をこぼした。