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傷を舐めあうソクラテス

作者: よーへい

世界が好きじゃないけど嫌いにもなれない人へ

                       

  一

 入学式を抜け出し、屋上に来ると、もり なつは桜の花びらが床に貼りついているのを見つけた。

 成関高校の校舎は四階建だ。桜の木は二階の高さまでしかない。彼はどこかにいるはずの先客を探してきょろきょろする。『喫煙禁止』と角ばった字で書かれた張り紙が目に付くだけで、誰も居ないように思える。

「きみは新入生か。入学式は、もう終わったのかい?」

「まだでしょう。5分前に校長先生の話が終わって、在校生代表の祝辞が始まったところです」

「は? 冗談はよせ。校長の話はプログラムの一番目だぞ。入学式が九時開始で、いまが十時ちょうどだから、いや、まてまてまてまて!」

 夏は肩をすくめた。声の主は屋上より一段高い貯水タンクの横に立っていた。驚いた顔をしている。

「……マジか」「はい」

 あのひとはしょうがないな、といって彼女は夏のいる場所に下りてきた。

 背丈は彼女のほうが一回り大きい。黒のパンツに淡い紫のTシャツを着て、黒のジャケットを羽織っている。髪は明るい茶色で、まつげが長く突き出している。歳は三十前後だろう。それから、タバコをくわえて煙をふかしていた。

「あの張り紙は、何の為に貼ってあるんでしょうか?」

「あれを描いた生徒の自尊心を満足させるためだよ」

「……納得しました」

「するんかい」

「少なくとも喫煙を禁じるためのものでないことは、あなたが証明しています」

 女性が興味深そうな目で、彼を見た。前かがみになるので、胸の谷間が見えそうになり、彼は横を向いた。無防備な姿勢のまま、彼女が聞く。

「君は新入生だったな」「はい」「入学早々、サボりか」「そうです」

「おいおい、正直者だな……きみの心臓は鋼鉄製か?」

「タンパク質です」

「実際的だね!」

 というと、彼女は笑った。おなかを片手で抱えて声を出す、明るい笑い方だ。笑うと、タバコの煙が舞って、メンソールらしいスーッとする香りが、屋上に漂った。笑い終わるとまた彼を見つめた。

 また夏は肩をすくめる。入学早々、興味をもたれるのは有りがたくない。できれば、三年間、誰からも興味をもたれたくないんだ。

「ああおかしい」といって、女性が目を擦った。

「何もおかしくありません」

 夏は横を向いたまま言った。そのとき、チャイムが鳴って、入学式の終わりを告げた。

「やっとおわったか。今年の新入生は災難だな」

「来年から、入学式と校長先生の独演会をわけたほうが効率的ですね」

 そりゃいい、とまた女性がおなかを抱えた。ふと気がついたように、聞いてくる。

「そうだ、君の名前は?」「その前に、あなたは?」

「そうだね。私は、野々ののはら 結縁ゆえというんだ。ここの教師だよ」

「杜 夏です」

 なに、よしよしそりゃいい、と彼女がわざとらしくバンザイをする。タバコの灰が、彼女のクセ毛のうえをはずんで、床に落ちる。子供みたいな仕草だけど、彼女の飾らない雰囲気のおかげで自然に見えた。

「何です?」「よろこべ、名簿に名前があるから、君は私の担当するクラスだ」

「よろこびませんよ。なぜなら、僕はあなたに担当される利点を知りません」

「おお! そりゃそうだな。なら訂正しよう、私は君の担任になってうれしい! なぜなら、こんな面白い生徒は久しぶりだ!」

「それは、どうも」

「ああいや、その」彼女はバンザイした手をおろした、「迷惑かい?」

「……なにも」

 夏は無感動に答えた。わざと無感動に、すべてに無関心に振舞うことを、彼は自分自身に課している。それを見て困ったような顔をする女性を見ると、胸がチリチリ痛んだ。それでも止めるわけにはいかない。

「じゃ、帰ります」「おいおい、今からホームルームだぞ」「知ってます」「出ればいいじゃないか」「出なくてもいいでしょう」

「出たほうがいい。ホームルームに出たら、私の胸を揉む権利をやろう」

「……マジで?」「いやうそ」

 彼は自分の膝を自分の拳でたたいた。まったく、何だっていうんだろう、これは。

「おい、大丈夫か? 痛かったろ」

 結縁先生が心配して、膝をさすってきた。彼女の頭が目の前にきて、フワフワゆれる髪の毛から、さわやかな香りがする。やわらかい手だった。

 彼は驚いて、後ろにさがった。こんなもの、痛いうちにはいるはずもないのに。

「なにも、問題ありません。じゃあ、帰ります」

 あらためて、夏は宣言した。人と人が関われば、必ず互いに傷つけあう。自分も傷つかず、誰も傷つけないように。彼は自分に課していることを思い出す。先生に背中をむけた。

「明日、待ってるぞ。一番に来たら、私の尻を撫でる権利をやろう」

 夏は一瞬たちどまり、振りかえらずに、屋上から校舎に戻った。そのまま教室に戻らず、下駄箱に向かう。

 靴を履きかえたところで、彼は振りかえった。手帳を開いて、名前を書きつける。

『野々原 結縁』

 それでもう、夏は彼女を考えないことにした。後は、必要に応じて、手帳を開けばいいだろう。校門を出るころには、入学式をサボったことさえ、忘れていた。

  二

 翌日の夕方、夏は古ぼけた教会を訪ねた。入り口の扉は開いていて、だまってなかに入ると、静かなので、ローファーが固い床をこする音が内部に反響する。

 大きな十字架の前で、天木あまき 海理かいりがうつむいて立っていた。物音でこちらに気づくと、ゆっくり振り返って夏を見た。彼は片手を挙げて声をかける。

「こんばんは、精が出るね、シスター」

「……」彼女は黙って、彼に近づき、こちらをじっと見つめる。

「挨拶といっしょに皮肉を言うのは、良い趣味じゃありませんね、夏さん」

「ううん、さすがシスター。いや、でも、まったくの皮肉じゃないんだよ」

「でも、六十パーセントは皮肉、でしょう?」

 それが図星だったので、夏は両手を頭のうえに挙げてお手上げのポーズをした。思わず苦笑いしてしまう。

 それを見て、シスターがうなずき、ようやく彼から視線を逸らした。

「かなわないね」といって夏は肩をすくめた。

 天木海理は、夏は宗派を知らないが、教会の修道士だ。本人いわく『おばあちゃん』とのことだが、笑うと口元にしわができるくらいで、見た目も態度も若々しく、三十代後半に見える。元々は医者で、結婚して家族も居たそうだが、子供が独立したのを機に、ぜんぶを捨ててこの道に入ったらしい。黒い修道服の隙間から、真っすぐな視線を夏にむける。

「今日、来てもらったのは、お仕事が入ったからです」

「他の用事なんてないだろうに」

「また、そうやって、皮肉を……他人が戸惑うのがおもしろいのですか?」

「いや、シスターだけ」

「……」また、海理が夏を、じいっと見つめる。

「私以外にも、皮肉のわかる友達を作ったほうがいいですよ」

「まったくだ」

 夏はまた図星を言われ、おかしくて吹きだした。

 シスターは、人を観察するのが、異常に得意だった。相手の人間を観察して、感じることで、言葉を正確に理解するんだそうだ。気持ちを隠そうとしてもムダなので、夏にとっては、気を遣わなくて良いのがかえってありがたかった。面倒なので、敬語もほとんど使わない。「言葉はあまり役に立ちませんから」と初対面で言われたことを、彼はまだ覚えている。

「さて、あなたの通っている高校に、悪霊がいます」

「古典的だね。どんな?」

「それが、まだはっきりとわからないので、あなたが調べて、対処してもらいたいんです」

「ふうん。シスターが悪霊を見つけたの? それとも、裏のほうから依頼が来たのか、どっち?」

「最初は、私のところに懺悔に来た人から、気配を感じたのです。その時は成関高校と関係あるとは考えませんでした。でもいまでは裏のほうも承知していますので、この仕事は裏からの正式なものです」

 シスターは落ちついた声で説明した。教会に懺悔に来た人間から、悪霊の気配がしたそうだ。悪霊が居る場所をこの町で調べると、彼女は成関高校にその気配を強く感じた。どうしようか考えていたところ、裏から依頼が来たそうだ。

 裏、というのは隠語だった。正式には『能命役』という。能力をもって生命に役する、という意味だ。実体は、霊能力を持つものたちの集まりだ。

 この世のなかにはまれに霊能力者や妖怪が居るのだが、公には伏せられている。昔は、彼らは差別にあったり、虐殺されたりしていたらしい。

 その連中が次第に団結するようになり、ざっと五百年前、自分たちの組織を作って、『能命役』を名乗り、朝廷や幕府と交渉を始めた。私たち役に立ちますよ、これからはギブアンドテイクでいきませんか、というわけだ。これがうまくいき、彼らは社会の裏に居場所を確保した。その活動は、五百年後のいまも続いている。

 夏もまた、霊能力者で、仕事は悪霊退治だ。彼の能力は世襲性なので、職業選択の自由はない。秘密保持のため、『能命役』の会員は死ぬまで会員でありつづけなければならない。

「了解だ、やるよ、金が要るからね。いまわかってることを教えて」

「はいはい、あなた、何か世のなかに不満があるのですか?」

「別になにも」

「……まあいいでしょう。成関高校で、七年前に自殺者が出たのは知ってますか?」

「いや、ぜんぜん知らない」

「けっこう、有名な話だそうですが、まあそうでしょうね。その生徒、屋上から飛び降りたんですが、視聴覚室に心残りがあるようです」

「ふむ、それから?」

「その心残りが、悪霊になって、現在、人の心を狂わせているそうです」

「それが誰だかは、まだわからない?」

「残念ですが、すでに悪霊が被害者の心に憑いて、同化してしまったようで、気配が途絶えてしまいました。あなたが調べてください」

 とシスターがいった。夏はちょっと顎をかいて考え、質問する。

「シスター、悪霊の気配を感じたときの、懺悔しに来た人のことは覚えてる?」

「いいえ。残念ながら、ちょうど立て続けになってしまって、告解する相手を見ていません。でも内容は覚えてますよ」

 海理が胸元のペンダントから垂れている十字架を握った。

「『私が私を消すことをお許しください』、というようなことを言ってました。声が何かに怯えてる様子でした」

 シスターにお礼を言って、夏は教会を出た。この教会は駅から少し離れた住宅地のはじっこに、ひっそりと建っている。入り口に立った彼の前を、三組のママさんたちが、ベビーカーを押して通りすぎた。

 夏はママさんたちに道をゆずると、背中を丸めて家路についた。

 

 成関高校から徒歩で二十分ほど離れた、住宅地の一角に、夏の家が建っている。そこは川のそばにあり、駅の周りとちがい、古ぼけた一軒屋が並んでいる。畑を所有してる家もあって、のどかな雰囲気が漂っている区画だ。

 そのなかでも、ひときわ大きな日本家屋が、杜家の屋敷だった。塀で囲われ、なかには巨大な蔵と庭もあり、そんなものを支えるために金が要るのかと思うと、いつ見ても夏を息苦しくさせる。

 夏は門をくぐり、玄関で靴を脱ぐと、長い廊下を歩いて父親の書斎にむかった。ノックするとすぐに、「入っていいぞ」という返事があった。

「ただいま、お父さん」

「ああ、おかえり。どうしたんだ?」

「仕事が入ったので、報告に来ました」

「そうか……よし、助かった」

 父親は胸をなでおろす仕草をした。夏の父は四十九歳で、市役所の経理課に勤めていた。若いころマラソンをやっていたおかげで、細身で背も低いけど体格はがっしりしている。顔のわりに大きな両目で夏を見つめた。

「ええ、幸運でした。シスターがまわしてくれたんです」

「そうかそうか。会ったら、また礼を言わないとなあ」

 父親が腕を組んでうなずいた。公務員の月給では、彼らの馬鹿でかい屋敷を維持するのに充分じゃない。夏の仕事は重要だった。

 それから、父親は夏の右腕を見た。心配そうな声で聞く。

「お前、腕はだいじょうぶか? 前に食事させてから、半月くらい経っただろう」

「そうですね。ここ、二、三日、痛むので、何か食わせてあげようと思ってます」

「今晩か?」「いえ」「明日か」「はい」

「今日は調べたいことがあるから、家に居ます」

 と彼は答えた。シスターから聞いた話について、調べるつもりだった。

「そうか、そうか」「はい、それじゃあ、またあとで」「おお、お前、無理はするなよ」

「はい」と夏は書斎のふすまを閉め、また長い廊下を通って、彼の部屋に帰った。

 独りになった彼は、シャツを脱ぎ、右腕を露出させる。

 右前腕に、かつて彼の姉であったものが、貼りついていた。縦十センチ、幅八センチ程度の、あどけない少女の寝顔が、彼の腕に浮きあがっている。

 人面創(じんめんそう)という名前の怪異だ。それが彼の持っている霊能力だった。彼女はいつも腹を空かせていて他の霊を食べる。おかげで彼は、厄介な悪霊を食わせて退治できる。

 また、彼女は激しい恨みをかかえている。夏は彼女の恨みを敵にむけて解き放ち、悪霊や人間と戦うことが出来た。

 夏は部屋の机の引き出しから小瓶を取り出し、ふたを開けて中身の白い軟膏を人面ソに塗った。こうすると、彼女の飢えをやわらげ、眠らせておける。杜家の者が薬草を調合し、苦労して作った特性の薬だ。

 塗りおわると彼はパーカーを羽織って机に向かった。椅子に座って両腕をあげ、大きく伸びをする。

 夏は両親と話をするのが苦手だ。二人の視線が怖いし、痛かった。

『殺すはずだった家畜に、反対に養われるのは、どんな気分なんだろう?』

 手帳を開くと、最初のページにそう書きつけてある。夏の両親に対する気持ちだ。

 ――僕は死んでるはずだった。

 両親と姉の予定では、彼が死んで人面創になり、姉が生き残る予定だった。

 夏はページを操る。赤いボールペンで書いてある字を探す。

『何もかも売り払って、すべてを残さず、自分の代で終わりにする』

 それは目下のところ、夏のいちばんの希望だった。彼はこの家をなくしたくて、自分も消してしまいたくて、人と関わるのを避けている。

 夏は苦しいときも、辛いときも、だれにも相談ができなくて、彼の心情を手帳に書きつけ、忘れないようそれを見た。それは独りで生きることを選んだ少年の、寂しさへの対処の仕方だった。誰とも分かち合えない気持ちを、独りで何度も反芻する為に。

『独りで生きてる僕には、痛みさえないから』

 人面創は――姉は――何もいわない。死人だから、当たり前だ。でも、彼女は飢えのために、月に二度くらい、痛む。

 そんなとき、彼は、小さな霊を探して、見つけて、姉に食わせる。父親はそれを心配してくれていた。飢えがひどくなると、持ち主の意思に関係なく、霊を食うために動くことがあるそうだ。今夜はまだ、大丈夫。

 母親が夕飯の支度をして、呼びに来るまで、彼はパソコンで成関高校の過去について調べていった。

  三

 次の日、水曜日の夜、夏は日付が変わったころ、彼の馬鹿でかい家を出た。まだ寒さの残る春の夜道を、だらだら歩いていくと、三十分ほどで目的の団地が見えてくる。駅の近くにある、真新しい十階建てのマンションで、『アトリウム』という名前を彫ったモニュメントが入り口のわきに飾られていた。

 三年前、そこで飛び降り自殺があった。当時のここは古い団地で、事件のせいで付近の住民に悪い印象を与えたので、建てかえとイメージアップを兼ね、不動産屋はマンションを建てたんだろう。

 建物は変わっても、自殺者の霊がまだ残っている。夏は数日前、『アトリウム』の前を通ったとき、その霊を見つけた。

 夏はマンションの駐車場につくと、周りに人がいないのを確認してから、黒いパーカーの右袖をまくって前腕を露出させた。それから、小さな花壇のはじっこの、白いレンガに腰かけている、紺色のスーツを着た男性に歩いて近づいた。

「こんばんは」「……あ?」「まだ、冷えますね」「ああ? あー」

 霊が呻いて、夏の方をむいた。五十前後のおじさんだけど、禿げかけた頭の右半分が潰れて欠け、乾いた血液が顔から肩、腰にかけて付着している。ひしゃげた眼鏡をかけ、そのレンズ越しに、鋭い視線をこっちにむけていた。悲しみと憎悪がまじった、青白い目だ。

 夏は悲しみを感じて、顔をしかめた。

「悪いですね」

 といって、夏が右腕を霊のほうへ伸ばす。すると、彼の前腕にある少女が、目と口をあけ、にたあ、と笑う。少女の耳のつけ根から、白くて細い腕がニュッっと突きでて、霊の頭をつかみ、彼女の口元に持っていこうと引っ張った。

「あー、あー!」おじさんが拳を握って、夏の右腕を打った。彼は顔をしかめて、痛みに耐える。そのあいだに、彼女が口をあけ、霊の頭にかじりついた。カキ氷をほお張るみたいに、おじさんの頭がさくさく食べられてゆく。

 おじさんは叩いてもらちが明かないと思ったのか、夏の首に手をかけて締めつてきた。夏はおじさんの手首をつかんで、引き剥がそうとする。細い腕だけど、見た目よりずっと力強い。気が遠くなりかけたけど、そのうちにすっと相手の力が抜けて、夏は息苦しさから解放された。

 夏が隣を見ると、白いレンガのうえにはもう誰も座っていない。右腕を見ると、少女が目を閉じて、口をもぐもぐやっている。喉が上下に動いたあと、赤い舌を出して唇を舐め、それきり彼女は眠りについた。彼はそれを確認して、袖を下ろす。霊を食べおわったんだ。

 でも、おじさんに締められた喉がまだ痛くて、夏は片手で首をさすって咳きこんだ。

「ごほ、ごほっ」「あのう」「ごほっ、ごほごほっ」「あ、あの、あの」

 急に声を掛けられ、涙をこすりながら顔をあげると、高校の制服姿の、眼鏡をかけた少女が夏を心配そうに見ていた。

「だいじょうぶですか? ……すごい痕ですよ」

 少女は夏の斜め前に立ち、彼の首を覗きこむように、顔を近くに近づけている。そんなにひどい痕が出来てるのだろうか。それに、もしかして、人面創を見られていないだろうか。

 ――見られてたら、僕が殺すか、裏に頼んで殺してもらうしかない……けど。

 夏は咳をこらえ、反対に少女の様子を観察した。彼女が気にしているのは、本当に首だけのようだ。彼の右腕を見たり、怯える様子は見られない。いまのところはだいじょうぶ、と彼はちょっと甘く判断した。裏に頼めば、事故に見せかけて消してくれるだろうが、当分、最悪な気分を味わうことになる。

「僕は最低だな」

「ええ? もしかして、好きになってくれた女の人を怒らせて泣かせたりしたんですか?」

「いやもっと、最低なことを考えてた」

「ももももっと? どうしてですか? 友達に売り飛ばしたりしたんですかっ?」

 夏は困って頭を掻いた。少女の反応は予想外だ。首の痕と彼の様子から、そういうふうに見えるらしい。

「ちがうよ。でも、そんなにすごい傷なのかな?」

「そうですよ」、といって少女が鏡を取り出して見せてくれた。首の左右両側に赤く痕がついて、爪を突きたてた掻き傷もついている。

「たしかにひどいね」、といいながら、夏はあらためて少女の全身を見た。紫の眼鏡を掛け、真面目そうな雰囲気の小柄な人だ。腰の少し上まで伸ばした黒髪を首の後ろで結んでいる。スカートは膝より十センチは下げていて、紺の靴下を履いて、紺のスクールバッグを肩にかけていた。両目が大きくて、垂れ気味だった。

 夏は彼女の顔と声に覚えがあると思った。

「……在校生代表の祝辞のひと?」

「うっそ、お、同じ高校だったの? 新入生? はああ……最近の新入生は、進んでるねー」

 少女が大きな目をぱちぱちさせて彼を見た。興味深そうな顔をしている。

 夏は今度は気まずくて頭を掻いた。彼は周りの人に関わりたくないし、関わって欲しくもない。

「はい。僕も成関高校で、新入生です。初対面で、失礼かと思うんですが、僕からも質問させてもらっていいですか?」

 ――関わりたくないのに、なんでこの人は、こんなに怪しいんだ?

 少女と目を合わせて、夏は聞いた。

「先輩は、なぜこんな時間に出歩いてるんですか?」

「え? ええっと」といって、少女が首をかしげる。

 夏は時計を見て、さらに追及した。

「午前一時十五分をまわったところです。なにか用事があったんでしょう? それはなんですか?」

「え……ええー? もうそんなになるの? ど、どうしよう、お母さんに殺されるよ……」

「は?」「どうしよう、死んじゃうよう、どうしよう」

 少女が本当に困ったという風で、泣きそうな顔をして、あわてだした。さっきまで夏を心配していた姿とは、まるでちがう。それが演技に見えなくって、夏も混乱した。

 この少女は、時間がわからなくなるほど、何かをしてたんだろうか。在校生代表に選ばれるくらいだから、学業優秀なんだろう。そのせいで、勉強しすぎて夢遊病、というのはありえなくもないけど、話が出来すぎている。

 うろたえる少女に、夏は口調を和らげて聞いた。

「ご両親から、メールは送られてきてないんですか?」

「いま確認したら、来てるの。来てるけど、開くのがこわいんだよ……」

「知りませんよ」「うう、怖いなあ」「そうですか」「うう、うう……えいっ」

 少女が掛け声をだして、ディスプレイを覗いた。なぜか明るい表情に変わり、両手をあげる。

「今日は、お母さんとお父さん、二人で友達の家でお酒を飲んで、泊まってくるんだって! あたし生き残ったー!」

「どんな親ですか、それ」

 夏の皮肉も聞こえず、少女は天に祈りを捧げている。

「神様、ありがとうございます……」

「日本人の悪い癖ですよ。都合のいいときだけ神に感謝する」

「いいの! 神様、仏様、ありがとうございます、小夜実こよみは生き残りました……」

「お祈りはその辺でやめて、質問に答えてください。先輩はなぜ、午前一時十五分にここにいたんですか?」

「えっ、だって、友達とゲームしてたら、遅くなっちゃったんだもん」

「はあ、それで?」「え? それだけだよ?」「はあ、本当ですか?」「う、うん、本当だよ」

 はずかしいなあ、といって少女は顔の前で片手を振った。

 夏は腕を組んで考え、それ以上は追及しないことに決めた。彼としては、少女が言うことは信じられないが、裏が取れない以上、水掛け論になってしまう。

「わかりました。じゃ、僕は帰ります。先輩の家はここから近いですか?」

「え、うん、十分ぐらいで着くよ」

「わかりました。じゃ、大丈夫でしょうから、僕はもう帰ります」

「ま、待って、名前」「はあ」「あたしは田中 小夜実だよ。きみの名前、教えて」「杜 夏です。それじゃ帰ります」

 小夜実先輩がにっこり笑い、気をつけてね、といって手を大きく振り、街頭で照らされた歩道を歩いていく。駅に近づいていく方角だ。明るい道ばかりだから、心配ないだろうと言い聞かせ、夏も歩きだした。

 いちおう、記録しておくことにして、夏は手帳を開いた。

『田中 小夜実』

 いい加減な字で書きつけると、彼は手帳を閉じて、ポケットに手を突っこんで、来た道をもどっていった。

  四

 入学式の翌週の月曜日、ホームルームで転校生が告知された。結縁先生が丁寧に大きさをそろえた字で、黒板に名前を書いていく。

「突然だけど、今日から転校生がいるので、みんなうまくやってくれ」

 夏はアクビをして、手帳に目を落とし、一日の予定を確認していた。転入生は、彼にとってなんの興味もそそらなかった。それより、悪霊の手がかりがないことで、先週から困っている。

 インターネットではろくな情報が拾えなかった。現在わかってることを箇条書きしたページを、夏はにらむ。

・七年前、成関高校で飛び降り自殺があった。

・その生徒はイジメにあっていた? 

・その生徒は素行不良だった? 

・教師に相談したが、対応が悪く、問題が悪化した? 

・事件は昼間に起こった? 

・教師が説得したが、目の前で飛び降りた?

『?』が多いのは、正式の記事が見つからず、掲示板の記録を参照しただけだからだ。これ以上は、聞き込みをして、裏を取る必要があるだろう。しかし、誰に聞きにいけばいいのか、夏にはまだ見当がつけられなかった。手帳をめくって、予定を見る。

『視聴覚室を調べる』『七年前の事件を知っている人間に話を聞く』『シスターに電話で報告する』

 夏が手帳とにらめっこしていると、声が掛かった。

「よう、杜夏、ひさしぶりだな、元気にしてたか?」

 夏の席の前に、クラスメイトらしい青年が立って、右手を上げ、ほほ笑んでいる。夏もほほ笑んで挨拶した。

「や、おはよう。……すまないが、きみは誰だ?」

 青年がぽかんと口を開けた。後ろの黒板を指差す。『転入生 狩野 剣治 かりの けんじ』と書いてある。夏は眉を上げた。

「もしかして、君がそうなのか?」

「そうだ、俺だよ俺、狩野 剣治だよ、狩野 剣治っ」

「そうか転入生だったのか、真ん中の列の最後尾が空いてるから、席はそこにするといい」

「あ、ああ、そう言われたよ」 

「そうか。それから、教科書はあるな? 無かったら職員室か、図書室に行けば、解決するだろう。授業は一コマ四十五分で、休憩は十分間だ。ちなみに月曜の一時限目は数学だ。昼休みは五十分もあるから、好きなことをしたらいい。校庭の隅に、体育倉庫があって、そこにサッカーボールもあるから、自由に使ってくれ。それから、学食は無い。購買はあるが、昼食前は競争が激しいから、パンか弁当を家から持ってきたほうが無難だろう。それから……」

「あああありがとよ、ありがたいけど、ちょっと待て!」

 といって、転校生の青年が、夏の話をさえぎった。眉間にしわをよせ、体を落ちつきなく揺らしている。夏は理由を推察した。

「ああそうか」「おもいだしたか」「は? いや僕は忘れていない」「え、なにを?」

「トイレなら、廊下をまっすぐ行って、突当りの手前の左側にある」

「知ってるよ! ホームルーム前に行ったよ! そうじゃなくって、お前は俺を覚えてないのか?」

「僕がきみを?」と夏はいい、青年をながめた。夏より背はひとまわり高く、スポーツマンなんだろう、胸板も厚くがっちりした体格をしている。短い黒髪を斜め後ろに撫でつけ、ジェルか何かで固めていて、てかてか光っている。ネクタイをきっちり締めて、ブレザーが新しいのも手伝い、垢抜けた雰囲気があった。

 しかし、まったく見覚えがない。だれだこいつは。

「思い出せない。なぜなら、情報が少なすぎる。きみは僕にとって、名前を聞いただけで思い出すような仲なのか?」

「お、おおおおまえ! ぜんぜんおぼえてないの? ぜんっぜん?」

「僕は何も知らない」「……オー、マイ、ゴッド」

 転入生は下をむき、首を振った。少なからず残念がっているようだ。夏としても、残念な気持がなくはないが、知らないものはどうしようもない。彼は転入生を励ました。

「まあ元気を出せ、人の名前など、たかが識別記号にすぎないじゃないか」

「は、しきべつ……? いやいやいや、そういう問題じゃねえから!」

 と青年がいったところで、ホームルームの終了を告げるチャイムが鳴った。

「またあとでな」といって、転入生が自分の席に向かっていった。夏は念のため、もう一度、黒板に書かれた文字を見たが、狩野 剣治という名前に覚えはない。女教師が教卓に肘をのせ、体をよじって笑ってるのが見えた。

 いまのところ、転入生の名前を覚える必要はなさそうだと、夏は判断した。狩野 剣治と書きこむことなく、彼は手帳を閉じてポケットにしまう。そして、ひき出しから数学の教科書をだして、一時限目の準備を始めた。


 放課後になって、夏がシスターに電話すると、教会に来てほしいとのことだった。気が進まないが、正直になんの収穫もないと答えるつもりで、彼は教会に向かった。

 教会の扉をくぐると、シスターの隣に、見覚えのある先客がいた。名前は覚えていないが、今日やって来た転入生だ。夏を見つけると、転入生とシスターは話を中断して、こちらを向いた。

「いらっしゃい」とシスター、「よお、夏」と転入生がいう。

「こんにちは、シスター。それと……すまないが、君の名前は?」

「まったく、お前は健忘症かよ。俺は狩野 剣治だ、今度は覚えてくれ」

「大丈夫だ。今度は記録する」

 剣治が首を傾げるので、夏はうなずいてみせた。シスターとつながりがあるということは、夏にも関係が有る可能性が高いので、覚えたほうが効率的だ。

 転入生は首をかしげたまま、じっと夏の顔を見つめ、質問を投げかけた。

「おまえ、成関小学校だったろう?」

 夏は手帳を取りだして見た。間違いない、自分は成関小学校を卒業している。

「そうだ。成関小学校六年三組卒業だ」

「おまっ、おまえ、小学校の名前も覚えてねえのか? 記憶喪失か?」

「いや、記憶喪失じゃない。ただ、すまないが、ぼくはなるべく物事に興味を持ちたくない。人は関係が増えるほど、他人を傷つける可能性が高まる」

「……おまえ、十五歳じゃねえだろ、ぜったい」

「どうだか」といって、夏は肩をすくめた。

 このやり取りを聞いて、シスターが横を向き、片手で口元をおさえながら声を出さずに笑った。やがて笑いがおさまると、二人のほうを向き、夏に剣治を紹介してくれた。

「夏さん、剣治は私が預かることになった子なのです。五年間、ヨーロッパにいて、おととい帰国したばかりなので、学校などで不慣れな部分をあなたに助けてやってほしいのです。剣治はあなたを覚えてるようですから、よろしくおねがいします」

 といって、シスターが夏をじっと見つめた。

 寝耳に水の話だし、夏としては遠慮したいが、シスターに頼まれて断るのは、上司のお願いを無視するようなものだから、ことわれない。助けるといっても大したことはできないが、夏は引き受けることに決めた。

「剣治、あらためて、よろしく」と夏がいうと、剣治が手を出してきたので、二人は握手した。ごつごつした厚い手のひらだ。

 よろしくな、と剣治がいったが、彼は昔のことをまだ気にして、再度、夏に聞いてきた。

「十一歳のときなんだがな、覚えてねえか?」

「僕は覚えていない。何があったのか、教えてもらえないか?」

 夏が頼むと、彼は思い出を語りだした。

「まあ、ガキのケンカなんだけどよ」

「それはつまり、君とぼくはケンカしたことがあるのか?」

「あるんだよ」と剣治はため息をついた。

「小学五年の五月だ。うん。間違いねえ。俺はガキのとき、親がいなくて施設にいてよ。ケンカは好きだし、慣れてたんだ。結果、学校ではガキ大将みたいな扱いだった。ガキだったからよ、夏があまり静かなやつだったから、ちょっかい出したくなった」

「小学五年生ならありえる話だろう。それで?」

「金曜日の昼休みに、教室で、俺はお前にケンカを吹っかけた。普通、吹っかけられたやつは、びびるんだよ。ところが、お前はぜんぜんびびらず、本気で掛かってきた。だから、俺は逆にびびっちまった」

「そうなのか。きっと僕は機嫌が悪かったんだろう」

 剣治は苦笑した。まっしろい健康的な歯がのぞく。

「しょうがねえ、明日、勝負するぞ、って勝手に決めて、その場はうやむやにしたよ。次の日、土曜日の夕方、あらためてケンカしたが、勝てなかった。しかも手加減されてると、子供でもわかったよ」

「十一歳のときか。君には気の毒だけど、そうだっただろう」

 もうその時には、腕に人面創がいたから、夏は大人にも負けなかっただろう。夏も苦笑した。

「どうにか一泡ふかせられねえか、と思ったが、その次の週、俺は急に日本を離れることになっちまった。……いま話してみると、日本を出る直前だったから、余計に記憶してるんだな」

「そうだったのか」「ここまで聞いても思い出さねえか?」「悪いが記憶にない。気が済んだか?」

「気は済まねえ。だけど、お前が忘れたならかまわねえ」

 ありがたい、と夏は礼を言い、剣治が小さく頷いた。

 二人の話が落ち着いたとみて、シスターが口を開いた。 

「さて。……あなた方に、会ってもらった理由がもうひとつあるので、お話します」

「はい」夏はシスターと目を合わせた。

「狩野 剣治も裏に所属している霊能力者です。専門は悪魔関係です」

「そうですか。了解です」「お、おまえ、それだけかよ……」

 夏は剣治のほうを向き、顎をなでながら、質問した。

「ほかに何か、知る必要があれば教えてもらえるか? 情報は一つにまとめた方が、記憶効率がいい」

 剣治が首を振って、困ったような顔で夏を見る。

「おい、お前、怒ってんのか? 俺、なんか悪いこといったかな?」

「いや……何も」といって夏は微笑を浮かべてみせた。胸が痛んだ。なんで人は傷つけあうと知ってるのに、ぼくはやっぱり関わりあって、胸を痛めてるのにそれを隠してわらうんだろう。自分の心の不安定さに、自嘲する。

 シスターが静かな声で割りこんだ。

「というわけで、剣治はあなたの同業者です。あなたと仕事がかぶらないように、裏が私に二人の仕事を調整させる目的で、剣治を私にあずけたのです」

 夏はうなずいた。合点のいく話だ。

「意味もなく僕を彼に会わせるのは、非効率的だ」

「さしあたり、夏さんの能力について、剣治に説明して置いてください」

「いつか必要があれば、話す」「いま必要です」「そうかい」「……じーっ」「わ、わかりましたよ」

「素晴らしい。では、私は用事があるので、出かけます。夏さんも私がいないほうが話しやすいでしょう」

 というと、シスターは笑顔を浮かべ、二人を教会の外に出して、すたすた歩いて行ってしまった。


 夏は剣治を誘い、玄関扉の前から教会の裏手に移動した。人目がないほうが、説明がしやすい。庭木にさえぎられた場所まで来て、杜夏は右腕を肘までまくった。

「見てもらったほうが早いんだ。こいつさ」

 白い包帯を取りのけると、剣治が神妙な顔で、夏の前腕に浮かんだ顔を見つめた。

「おまえ、悪魔憑きか? 五年前もそうだったのか?」夏が頷くと、ゴッド、と剣治が呟いた。「おいおい、それじゃ、勝てなくて当然ってわけかよ」

「きみは、これを悪魔憑きと呼ぶのか」といって夏は顔をしかめた。姉を見殺しにして生き残った自分もまた、悪魔ではないかと思う。彼は剣治に聞いてみた。

「ほかの呼び方を知らないか? これはもともと僕の姉なんだ」

「あ、姉貴かよ……?」剣治が絶句したあと、声の調子をおさえて答えた。

「悪魔憑きのほかの呼び方? いや、俺は知らねえ。だいたいおまえ、名前なんて識別記号、っていってたじゃないか?」

「人名と固有名詞は、意味的にも文法的にもちがっている」

「ま、まあ、そうか。おまえ、ものすごく理屈っぽいな」

「効率的だからね」「そうかい」

「怒ってるのではないから、僕に気遣いは不要だよ」

 オーケーオーケー、といって剣治が教会の壁にもたれかかった。夏も横に並んで背中を壁にあずけると、空に赤紫の夕焼けが出ていた。

 夏は空を仰いだまま話しだした。


「あんたはあたしを殺す気なのね」、と姉がポツリ、とこぼした。夏は答えられずに、固まった。そして、振りあげた包丁を、姉の体めがけて下ろした。

 ちょうど六年前のことだ。夏は小学校四年生だった。夏と姉は双子の兄妹で、姉のほうがずっと優秀だった。

 みんなが、夏に優しかった。その理由を知るまでは、彼は幸せだった。彼は母親が好きだった、温和な父親が好きだった。かっこよくてやさしい姉が大好きだった。

 だけど、あの日よりまえ――九歳の誕生日の前日より以前――夏は自分が生きてたといっていいのか、疑問だ。あれより前にあったことは、ぜんぶ嘘だ。

 夏が姉を見殺しにしてしまうより前のことは。

 夏が姉を殺した理由は、自分が生き残るためだ。細かい事情は、ちょっと込み入っている。

「僕らの家は、戦国時代から続く、霊能力者の家系なんだ。笑わないで、聞いてくれよ」

「笑いやしねえさ。それで?」

「僕らの祖先は、霊を体に封じ込めて使役する方法を生み出した。それは初め、双子の兄妹が生き残るために考えたことだ」

 土地の領主にうとまれ、二人揃って殺されそうになった彼らは、九歳になったとき、戦って勝った兄が負けた妹を殺して体に埋め込み、使役させることにした。

 人面創という呪わしいものだ。おかげで兄の霊の力は増幅されて、領主を撃退することができた。すると、領主のほうが彼に協力を請うたので、彼は承諾し、その力を領主のために使うようになった。

 そのうちに兄にも妻ができ、彼女が子供を身ごもった。すると、人面創が消え、ぱったりと彼は力が使えなくなった。

 ある夜、兄の妻の夢枕に少女が現れ、おそろしい話をした。

「私はあなたの夫の妹です。あなたの夫は私を殺して、家来のように使ってきました」

「まあ、あたし知りませんでした、お許しくださいまし」

「大丈夫です。べつにあなたもあなたの夫も、恨んではいません。もしかしたら、私と兄の立場は逆になっていたかもしれないのですから」

「ああ、なんておそろしいことでしょう」

「大丈夫です。だれも悪くはないのです。ただ、あたし、疲れてしまったのです。死んだあともただ使われつづけることに疲れました。この力を持ってる以上、兄はまだまだ長生きすることでしょう。でもあたしはそろそろ成仏したいのです」

「ああ、ごもっともです、どうしたらよいのでしょう?」

「あなたには、双子の子供を生んでもらいます」

「双子……? そうなのでございますか?」

「それから、あなたの子供たちは九歳になったら、そのうち一人は、他の一人を殺さなければなりません」

「なんて、なんていうことでしょうか」

「私の呪われた力を、子供たちのなかに宿します。九歳になったとき、体に人面創が現れますから、誰に宿ったかわかります。人面創を使うには、恨まれなければならないのです。ですから、子供たち同士で殺しあって、勝ったものが負けたものに恨まれる代わり、力を得るのです」

「なんてことでしょう。他にやりようはないのですか」

「ありません。あなたも、十年も十五年も人を恨みつづければ、わかります。恨まれるほうもつらいでしょうが、恨むほうもつらいのです。あたしの代わりに、あなたの子供たちが恨みあってください」

「ほかに方法は、ないのでしょうか」

「あなたたちが子供をみんな殺してしまえば、助かるかもしれません。でもそれでは、力を持ったものも一族にいなくなりますから、むずかしいでしょう」

 そこまで聞いて、「うーん」と剣治がうなった。

「それでお前らの代では、姉貴が負けたってわけだ」

「厳密にいえばちがうが、そうだ。ぼくは幸運で、姉は不運だった」 

 なにもかも偶然だったのだ。あの夜、本当のことを聞いた日、夏は家にいないはずだった。親戚のおばさんに呼ばれたので、急いでいかなければならなかった。金曜日だった。

 夏はその日、伯母のうちに泊まることになっていた。ところが季節はずれのはげしい通り雨が降り、雷が落ちたおかげで、彼の運命が変わった。電車が止まり、駅で足止めを食った彼は、親戚の家に携帯電話で断りをいれた。

 すると親戚のおばさんが強い口調でいった。

「今日は帰ってはダメです。私たちが迎えに行くからそこにいなさい」

 それがあんまり怖い声だったので、夏は叱られはしないかと怯えた。彼は怖いという理由だけで、勝手にタクシーを拾って家に戻った。

 そこで、みんなが彼に優しい理由を知った。

 大雨のおかげで、彼の帰宅に誰も気づかなかったことも、幸いだった。

 屋敷のなかは人気がなく、夏が自分の部屋の前に着くと、やっと彼の部屋のドアの向こうから話し声が聞こえた。

 夏はドアの前に立って聞き耳を立てた。異様な状況だった。彼が出発したとき、食堂にいたはずの両親と姉がみな、部屋のなかにいる様子だった。

「最後の誕生日なんだから」

 という父の言葉が、最初に聞きとれた。

「そうねえ。夏は明日死んじゃうんだものねえ」

 と母親がいい、姉がつづく。

「うん。うまく殺すからね、あたし」

「しょうがないわね。夏は弱いから、生きてたってロクなことはしないでしょう」

「だいじょうぶよ。夏が寝てるあいだに頭を撃つだけだもん。簡単よ」

「くれぐれも、しっかり殺すのよ。あなたが自分の手で殺さなかったら、力は手に入らないわ。夏が相手でも、油断しちゃダメ」

「おまえたち、死んだあとも、感謝の気持を忘れてはダメだよ」

「そうね、夏に感謝して……せめて明日は、いい誕生日にしてあげましょうね」

 彼らは笑った。ほがらかだった。

 夏は後じさり、物音を立てないよう注意して、逃げ出した。時間として、五分かそこらだったんじゃないだろうか。

 というのも、雨足は強いままで、そのおかげで、さらに強運にもタクシーが屋敷の脇で停車したままだったんだ。

 夜だ。夜道をタクシーにのせてもらいながら。夏は必死になって考えた。

 ――まさか、あのおとぎ話が、本当だったなんて……。

 双子と人面創の伝説なら夏も知っていた。屋敷の蔵にあった古い本に書いてあるのを読んだ。

 ――でもあれは、戦国時代の話じゃないか。

 九歳になったら殺しあわなければならない双子と、呪われた一族のお話。あれが事実で、夏の部屋の前で聞いたこともほんとうだったら、彼は明日の夜、姉に拳銃で撃たれて殺され、人面創という怪物にされる。

 ひとつだけ、逃れる方法がある。暗い町の景色をながめながら、彼は思いつく。今夜十二時をまわってしまえば、夏も九歳になる。今夜のうちに、姉を殺せば、夏は助かるんだろうか? 決断するための時間はすくなく、その機会が目の前にあった。

 夏は運転手に声をかけ、提案した。

「運転手さん、今日の夜中、もういちど迎えに来てもらうこと、できますか?」

 若い運転手はおどろいた顔をしたが、夏の様子に真剣なものを感じたのか、うなずいてくれた。午前一時に伯母の家の前にきてもらえるよう、夏はおねがいした。

 相手は拳銃を持っているらしい。どうしたらいいんだろう、どうしたら、どうすれば。両親はそれを知ってる。なにもかもが姉が有利に仕組まれている。

 と、夏は親戚のおばさんの家の布団のなかで考え、結論を出した。

 夜中の一時半、タクシーを降りても、まだ雨は強く降っていた。運転手がぶっきらぼうに聞いた。

「おい、ボーズ、またここで待ってるか?」

 夏ははっとして運転手の顔を見た。真剣な表情でまっすぐ夏の目を見ている。夏は首をふった。

「いえ。大丈夫です」「警察、呼ぶか?」「……大丈夫です」

「そうか。無茶、すんなよ」

 夏はうなずいて、親切なタクシー運転手を見送った。それから屋敷の門をくぐり、玄関の鍵をあけ、台所にあった出刃包丁でいちばん扱いやすいものを掴み、姉の部屋にしのび込んだ。

 姉はベッドに横になって、眠っているように見えた。夏はしのび足で枕元に近寄り、出刃包丁を振りあげる。

 すると、「あんたはあたしを殺す気なのね」といい、姉が目を開けて夏を見た。

「夏、あんた!」「わー! わーっ!」

 二人は包丁をつかんで、取っ組みあいになった。だけど、不意をついたぶん、夏のほうが有利だった。

 もみ合ううちに、出刃包丁の切っ先が姉の太ももを深く貫いた。姉がのけぞり、体が横に倒れる。夏はおそろしくなって、庭に転がり出た。

 雨に打たれながら夏がふりかえると、姉の太ももが膨れあがり、そこから白い腕がにょっきりつき出ている。少年の刺し傷をきっかけに、姉の体は人面創に犯されつつあり、そのせいでうまく走れないのが彼には幸いした。

 悲鳴が聞こえて、夏がもう一度ふりかえると、姉が庭の地べたを這いずって、彼女の体と同じくらいに膨れあがった人面創に、どこからか取り出した銃をむけて、自分で自分自身を撃っていた。

 発狂していたみたいだ。彼は、立ち止まってそれを見ていた。二、三、四、発つづけて銃声が鳴って、姉は絶命した。人面創が彼女の死体をぜんぶ侵していった。彼が恐るおそる近寄ると、触手みたいな細い肉が伸びてきた。そいつは彼に絡みつくと、彼の体に吸収されていった。

 彼は気を失った。

 二人を探しに来た両親は、惨状を見て、何が起きたのか理解したみたいだった。

 夏は生き残り、姉が死に、彼に力が宿った。

「というわけさ」「ほう」「驚かないのか?」「驚いて欲しいのか?」「いらない」

「そうだろ。だからおどろかねえ」

 といって剣治が頬をかく。こいつは昔も頬をかいてたな、とそれを見て夏は思い出した。

「しかし、わからねえのは、なんでおまえの姉貴がおまえを殺すって決まってたのか、だ。逆でもいいはずだろ」

「ああ、それは代々、順番なんだ。杜の家では必ず双子――男女の――が生まれて、一代ごとに、男、女、男、女と順番に生き残るようにした。うちは平等主義で、民主的なんだ」

「民主的な家にはピストルなんてねえ」

「場合によっては必要だ。アメリカの家にもあるじゃないか?」

 へっ、と剣治が毒づいた。それだけで、杜家の事情について、肯定も否定もせず、無関心なのが、いまは逆にありがたい。

 教会の裏手で、彼らは赤レンガの壁に寄りかかっていたが、寒くなってきて、二人の肩がぶるぶる震えた。事情を話し終えると、夏は質問した。

「僕の事情は理解できたかい?」

「ああ。お前が悪魔憑きって呼びたくない理由もわかった。いっそ、便宜的に名前をつけちまえよ。効率的だろ?」

「一理ある」「冗談だぜ?」「だが、効率的だ」「そうかい」

 ふん、と鼻を鳴らし、剣治が夏をおいて急に歩きだした。別れの挨拶もないのか、と思ったので、背中ごしに声をかける。

「名前が思いついたら、教えてくれよ。それじゃ、また」

「おまえ、姉貴の名前は?」「……千春だ」

「じゃあ、『千春』で決まりだな。考えるまでもねえ」

 夏はきょとんとしたが、その名前はしっくり来るように思われた。

「きみ、ありがとう」

 と夏は呼びかけたが、剣治に聞こえたかどうかわからない。暗くなってきた繁華街に、がっしりした後姿が溶けていく。早足で歩いていく同業者を見送って、夏は手帳を開いた。

『狩野 剣治』

 夏も家に向かって歩きだした。両親が彼の帰りを待っている。


 その日の夜、成関高校の男子生徒が、『アトリウム』の最上階から飛び降りた。

  五

「即死は免れたが、意識不明の重態とのことだ」

 ホームルームで、結縁先生の代理で来た学年主任が、話しづらそうに説明した。

「急病だってよ、結縁先生。ちくしょう、残念だよなあ」

「そうらしいな。君に一つ頼みがあるんだが、いいか?」

 剣治が首をかしげ、「なんだ?」と聞いた。

「僕も急病になった。そう伝えてくれ」

「……嘘だろ?」「うん。嘘だ」「不良だな」「うん」

「『アトリウム』を見に行ってくる。飛び降りという符合が、気になる」

 仕事熱心だな、とからかう調子でいって、剣治が笑った。夏は肩をそびやかして、椅子に掛けていたブレザーを羽織って、教室を後にした。


 成関高校から、『アトリウム』まで、駅前の大通りを通って、徒歩で約四十分かかった。夏が着いたとき、もう警察は引き上げていて、建物の周りは静かで、野次馬も居なかった。

 夏は『アトリウム』の横手に移動し、腕組みをして、巨大なマンションを見あげた。すると、おなじように通りに立って、建物を見ている女性が目についた。黒の細いデニムを履いて、白いブラウスの上に、水色のパーカーを羽織っている。

 急病のはずの、結縁先生だった。何してるんだ、このひとは。

「こんにちは、奇遇ですね」

 夏が声を掛けると、彼女は驚いた顔をして、こっちを向いた。

「や、君か、こんにちは。……どうも変わった場所で会うね。学校はどうしたんだい?」

「僕はサボりました。しかし先生、急病は、もう良いんですか?」

 むむ、と結縁先生は言葉をにごした。

「それはまあ、なんだ、うん、話すと長くなるからな。……そうだ、立ち話もなんだから、店に入ろう。そうそう、思い出したぞ、この辺にコーヒーのうまい喫茶店があるんだ」

「しかし先生、この辺に喫茶店はありません」

「うっ、マジで?」「嘘です」「ず、頭脳的だな」「なんですぐバレる嘘をつくんですか?」

 夏はため息をついて女教師を見たけど、彼女はもうひらきなおってニヤニヤしている。

「つまり先生もサボったんですね」

「私はサボりじゃない。有給だ」「汚い大人のやり口です」「それはちがう! 有給は社会人の正当な権利なんだ!」

 女教師が拳を握って力説するのを無視して、夏は彼女の先に立ち、道の先を指差した。

「先生、あそこの角を曲がると、コーヒーの美味しい喫茶店があるので、そこで話しませんか?」

「えっ、マジなの?」「マジです」

 夏はすたすた歩きだした。おいおい、といって結縁先生がついてくる。五分も経たず、『カラス』という名の真新しい喫茶店の前に二人は並んだ。ここは先週開店したばかりだから、先生も知らなかったんだろう。

 店に入ると、夏は窓際の机について、ホットコーヒーを二つ頼んだ。結縁先生が満足そうにうなずいて、「良い店じゃないか」とかつぶやいている。

「それで、先生はあそこに何の用事だったんですか?」

 夏があらためて聞くと、彼女はテーブルの上で指を遊ばせ、様子をうかがうように彼を見た。 

「昨夜なにがあったか、きみは知ってるかい?」

「三年の男子生徒が『アトリウム』から落ちた。意識不明の重態。僕はそれしか知りません」

「私もだ。警察に話を聞こうとしたんだが、野次馬とまちがわれて、怒られてしまった。この歳で叱られるのはこたえたなあ」

 といって女教師が頬をふくらませた。守秘義務を尊首する警官だったんだろう。ご愁傷様だが、その場に居合わせたら、ちょっとした見ものだったろうと思うと、残念な気もする。

「そんなことよりですね」「そんなことじゃないぞ。市民の知る権利の侵害だ」「市民権なんて幻想です」「むむむ」

「市民権の議論は哲学者に任せて、実際的な話、飛び降りたのは、どんな生徒だったんですか?」

 夏が質問したところで、口ひげを生やしたお店の主人がテーブルに来て、コーヒーを置いていった。二人ともブラックのまま、一口ずつすすった。

「若いのにブラックか。君はいろいろ大人だな」

「単に好みです。僕はブラックの胃が痛む感じが好きなんです」

 夏がこたえると、教師は窓の方を向いて、悲しそうな顔をした。

「変なこと、言いましたか?」「いや」「特に意味はないですから」「いや、ありがとう」

「ちょっと、やなことを思い出しただけさ。……きみは、かなり他人に気を遣うんだな」

「別に」といって、夏は黙り、女教師の言葉を待った。

「飛び降りた生徒だったな。彼は、ちょっと不良だった。悪ぶるのが好きな子で、私は一緒にタバコを吸ったこともある。でも、飛び降り自殺する風には見えなかった。考えすぎる子じゃないし、経済的に苦しかったとも聞いてない。」

「そうなんですか? 特に変った様子もなく、突然、飛び降りたんですか」

「いや、それが、ここ一ヶ月、週に二回位、休んでた。事情を聞いたんだが、素直に話すタイプじゃなくて、教えてもらえなかった。居眠りも多くて、寝不足だったようだから、夜遊びだろうとは思ってたけど……」

「もともと、あまり休まない人ですか?」

「いや、月に五日位はサボるよ。でも、週に二回は多すぎると思ってたんだ」

「不自然ですね」と夏はいい、顎を掻きながら、考えた。夜遊びをしていた、という要素が胸にひっかかった。真夜中に、『アトリウム』の前で会った少女のことが、夏の頭をよぎる。

 考えごとをはじめた彼に、女教師が咳払いして、質問した。

「さて、私にも聞かせてくれないか? きみはどうして、あそこに来たんだ?」

「たまたま、通りかかりました」

「それは嘘だ。学校をサボって、たまたま通りがかりに担任教師に出くわしたら、こっそりいなくなるのが普通だろう」

 夏はコーヒーカップを置いた。

「興味本位です。新学期早々の自殺未遂は、理由が推測しにくい。彼の家庭環境を知りたくなりました」

「それも嘘、だろう?」先生が時計で時刻を確認した、「まだ十時半だ。放課後ならまだしも、入学したばかりの一年生が、学校をサボって、三年生の自殺未遂の現場に急行するなんてさ。興味本位じゃ不自然だ。きみの行動は意志的だよ」

 女教師が手をのばして、ブレザーの衿を掴んだ。彼女は顔を近づけ、夏の目をのぞきこもうとする。

「知ってることがあるなら、話すんだ。あの子に、なにがあった?」

 夏は黙って、彼女の目を反対に見つめた。吊り上った目から熱意と痛みが伝わってきて、場違いにどきどきしながら、彼は息を止めた。二人は一分くらいのあいだ、間近で見つめ合った。夏は隠し事があるために、胸が苦しかった。でも知らないものは知らない。

「僕は、なにも知りませんよ」

「そうか。本当に知らないのか。参ったな。もう、いいよ」

 女教師が首を振って、かすれた声でいった。掴んでいた手を放し、椅子の背もたれに寄りかかる。

「すまなかったな。嫌な気分だろう?」

「いえ……僕は、なにも。お役に立てなくて、すみません」

「君は徹底してるんだな。私は人に気を使うのが下手だから、ありがたいよ」

 結縁先生はそういって、タバコを取り出し、火をつけた。長くなりそうなので、夏は立ち上がった。半分以上残っているコーヒーに息を吹きかけて冷ましながら、ぐいぐい飲み干す。

「なんだ、急がなくていいじゃないか。なんなら一本どうだ?」

 先生が拗ねた顔をした。夏はあわてて目を逸らし、カップを皿にのせて、彼女に背中を向けた。

「僕は人と話すのが下手なんです。だから帰ります」

 カウンターを横切る途中で髭のマスターと目が合ったので、夏は頭を軽く下げ、店を出た。今度は視聴覚室を調べるため、高校に向かう道を、腕組みしながら辿っていった。

  六

 間の悪いことに、学校に戻ると顔見知りの教師に見つかってしまったので、夏は三時間目から授業に復帰し、放課後を待って視聴覚室を訪ねた。

 視聴覚室は、校舎の四階の北角にある。

 部屋に入れば、夏は悪霊がいるかどうかわかるのだが、あいにくドアに鍵がかかっている。昨日も一昨日もそうだった。授業で使うときを待っていたら、いつ入れるかわからない。

 どうにか開けられないかと、夏が鍵穴を覗き込んでいると、後ろから声を掛けられた。

「きみきみ、なにしてるの」

「見てのとおりです。僕は視聴覚室に入りたいんです」

「視聴覚室は、関係者以外立ち入り禁止なの」

「知ってます。張り紙を読みました」

 視聴覚室の扉には、『関係者以外立ち入り禁止』と赤字で印刷した紙が貼ってある。自殺者が出たための措置だろう。夏は振向いた。見覚えのある女子生徒がこちらを見ている。

「在校生代表の力で開けられませんか、先輩?」

 小夜実先輩は驚いた顔をした。今日は髪の毛を束ねずに下ろしていて、先日より大人びて見えた。

「きみ、たしか、新入生の……杜、夏くんだよね」

「はい」「視聴覚室に用事?」「はい。個人的な用事です」「そっか、ちょっと待ってよ」「開けられますか?」

 夏が聞くと、彼女が腕組みをして、夏の顔をじっと見た。値踏みされてるような感じだ。しばらくして、彼女は首をたてに振った。

「あたしは去年、放送委員会だったからね」

 といって先輩が歩いていき、待つこと四分、彼女は鍵を持って戻ってきた。

「いいんですか?」

「いいの! 関係者の関係者は、関係者なのだ」

 独善的な理屈を言って、小夜実先輩が鍵を開けてくれた。二人して部屋に入る。

 放送機器保護のため、昼でもカーテンを閉めているので室内は薄暗い。勝手を知っている先輩が蛍光灯をつける。夏は部屋を見回した。他の教室と同じ配置で、机と椅子と教卓が並んでいる。教卓のうえに白いスクリーンが吊られていて、それだけが他の部屋と違っていた。

「放送委員って、視聴覚室と関係あるんですか?」

「へ? あるよ。だって、ビデオとかCDとか、ここにたくさん仕舞ってあるんだよ」

 わかりました、といって夏はカーテンで閉められている窓に近寄った。カーテンを引くと、生徒に飛び降りられないよう、鉄格子が設置されていた。

 まだ新しい鉄格子を右手で叩きながら、夏は霊の気配に心を集中させる。

 しかし夏には、悪霊の気配は微塵も感じられなかった。気配の残りカスさえ消えているということは、もうかなり前から、悪霊はだれかにとり憑いているんだろう。

「厳重ですね」「きみ、知ってるんだね」「はい。七年前の自殺ですね」「……うん」

 先輩が静かにいった。

「悪趣味、だね」

 意外な反応だったので、夏は黙って小夜実先輩の顔を見つめた。彼女は格子のはまった窓のほうを向いて、目線だけを夏に向けている。見てるうちに、唇が悲しそうにゆがんだ。なにか知ってるのか?

「なぜですか?」「え、えっ?」「悪趣味な理由は何です?」「だ、だって、うー、えーっと」

 先輩が彼のほうに体をむけ、片手を腰にやって、天井を向いた。演技には見えない。今になって、理由を考えてる様子だ。

「理由って言われても。だって、そんなの、気持ち悪くない?」

「そうですね」といって夏は頷いた。理由を聞いたのに、気分を答えられては、質問の意味が無い。追求する気も起こらなかったので、彼はすぐに話を逸らした。

「ところで、昨日、『アトリウム』から飛び降りた先輩のこと、知ってますか?」

「え……え?」と少女は急に話題が変わったせいで、目をぱちくりさせた。

「あ、土井君のこと……うん」

「知ってるんですね、よかった。辛いかもしれませんが……どんな方だったか、聞かせていただけませんか? あまり素行は良くなかったと聞いてますが」

「えええ? 良くなくないよ! そりゃ、ちょっとだけ不良だったかもしれないけど、でも悪い人じゃないと思う」

「そうですか」と夏はいい、先輩を見つめた。

「きみ、たぶん、『理由は?』って、聞くんだよね?」

「はい」「うー、面倒くさいな」「ありますか?」「あるよ!」

「やさしいとこも、あったもん。あの人、なんで、あんなことになっちゃったんだろう」

 と答えると、彼女の両目から、涙があふれてブレザーにこぼれ落ちた。夏は驚いてそれを見つめた。涙はすぐに止まったが、彼女自身、驚いたようだった。

 夏は頭を下げた。

「ごめんなさい。あの……もしかして、先輩は彼と親しかったんですか?」

「ちがうよ! だって、君の聞き方が、変だよ? 人が飛び降りたばっかりなのに、どうして、変なこと、聞くの?」

 そういって、小夜実先輩が首を横に振り、ポケットから水色のハンカチを取りだして、顔を拭いた。

 夏は下をむいて、彼女の言葉の意味を考えた。自分が変なことを聞いたとは思えない。でも少女にとっては予想外でショックが大きかったので、彼の質問は『変』で片付けられたのだろう。先輩は感情を言葉にするのがうまくないように、彼は感じた。

 夏が顔をあげると、先輩はもう立ち直りかけていて、ぎこちなく彼に笑いかけて、もう出なきゃダメだよ、といった。

 夏はその理由を聞かず、さっさと視聴覚室の外に出た。

「また変なこと言ったら、もうこの部屋も開けてあげないんだからね」

 先輩が年上ぶった口調でそういった。

「注意します。 それじゃ、帰ります。……ありがとうございました」

 夏が深々と頭を下げると、少女はあわてた風に手を振りながら歩き出し、廊下の角を曲がって見えなくなった。

 後に残された夏は顎に手をあて、しばらく考え事をした。飛び降りた男子生徒と小夜実先輩は、どんな接点があったんだろうか。もう一度、話を聞く必要がありそうだ。彼は手帳を取り出し、先ほど耳にした苗字を書き込んだ。

『土井』

 下校する前に、職員室に立ちよって、「土井先輩が入院している病院がわかりますか?」と聞くと、応対した若い男性教師があっさり教えてくれた。ただし、重傷だからすぐには会えないだろうと、同情した声でつけ加えた。その通りだろう。後日、訪ねてみるとしよう。

 それにしても、どうして、先輩は泣いたんだろう。気になったので、明日は彼女を捕まえて話を聞こうと考えながら、夏は家路に着いた。


 水曜日の放課後、小夜実先輩が校門から出たのを確認し、夏は後をつけた。幸いなことに、彼女は独りだった。ポケットから暗記用の英語のプリントを取り出して読みはじめる。信号待ちをして立ちどまったところで、偶然を装って、夏は彼女に声をかけた。

「こんにちは、先輩、えらく勉強熱心ですね」

「うわ、びっくりした」といって、先輩が顔を上げ、恥ずかしそうにプリントを仕舞った。

「あはは、きみか。あたしは熱心じゃないよ。だって、春の学力測定があるんだよ。変な点を取ったら、ご飯抜きにされるかもしれないんだよ。高校三年生は、地獄の手前を生きてるんだよ……おそろしや、おそろしや」

 夏はぎこちなく笑って、彼女を見た。昨日の件で、怒ってやいないかと心配したが、問題ないようだ。

 昨日の夕方、夏はシスターに電話をかけて、飛び降りの件を相談した。視聴覚室では悪霊の気配を感じなかったことも話した。彼女は考えた末に答えた。慎重に言葉を選んでる気配が、電話越しにも夏に伝わってきた。

「きっと悪霊は、彼と波長が合う人間に取り憑いています。ちなみに『アトリウム』で、あなたは悪霊の気配を感じましたか?」

「感じなかった。飛び降りは偶然かな?」

「あなたバカですね。人にとり憑いてる以上、気配は残りません」

「だったら、聞かなくてよかったじゃないか」

「……悪霊が『アトリウム』に移動している可能性もありました。しかしその線は消えましたね。学校関係者の誰かにとりついているのでしょう。飛び降りも関係あると考えてください。関係者の関係者は関係者です」

 小夜実先輩と同じセリフを言うと、シスターは一方的に電話を切った。午後六時半ごろのことだ。

 小夜実先輩に声をかけたのは、土井という生徒について、何か知っていると思ったからだ。彼と同じクラスになったこともあるかもしれない。

「先輩、もしかして、今からちょっとだけ、時間あったりしませんか?」

「えええ? えーと、うん。……塾があるから、六時までなら。でも、なんで?」

 夏が時計を見ると、午後四時を少しすぎたところだ。

「新入生として、先輩に、成関高校について教えてもらえたらありがたいんですが……」

「あ、そういうことか。うんうん。新入生のために、おねえさんが一肌脱いであげよう」

 先輩は腕を組んでうなずいた。信号が青になったので、二人ならんで歩きだす。

「塾は駅前ですか?」「うん」「マックでも、よかったりしませんか?」「いいよ。ただ……」

 先輩がこっちを向いて聞いた。

「ねえ、昨日みたいな話もするの?」

 夏は空を仰いだ。うすく広がっている雲を見ながら、返事を考える。彼女に答える気がないなら時間のムダなので、正直に言うことにする。

「はい、それも聞きます。聞きますけど、今日はおごりますから」

「うー、しょうがない。フルーリーでいいよ」

 了解です、といって、夏は先に立って歩いた。高校から駅前のマックまで、十五分ほどかけて大通りを歩く。

 店に入って、ポテトとフルーリーと二人ぶんの飲み物を乗せたトレーをボックス席に届け、ソファに腰かける。一通り成関高校について世間話をしたあとで、先輩が声音を変えて夏に聞いた。

「……ねえねえ、夏くん。きみ、彼女、いるの?」

「はい? いや、居ません」

 恋人の有無を聞かれるとは思ってなかったので、夏は面食らった。違和感も感じた。暗記用のメモを読んでいた姿と結びつかなかった。社交辞令として、彼も聞いておく。

「先輩は、居るんですか?」「え、えへへ」「どっちです?」「あたしもいませんよう」

 夏は恋愛のことはわからないので、気まずくなって、黙ってコーヒーをすすった。熱さと苦味で、心を落ちつける。先輩の顔色をうかがうと、夏をじっと見ていた。彼は頭を掻いた。

 気を紛らすために時計を見ると、すでに五時を回っていた。時間を考慮すると、そろそろ土井先輩について聞いたほうがよさそうだ。いまから聞く内容のせいで、相手の気分を害するのが、いたたまれない。夏は片手を頭にやったまま、質問した。

「先輩、話題を変えてしまって、たいへん申し訳ないんですが、土井先輩について、教えてください」

「うっ」と、小夜実先輩が嫌そうな顔をした。あたしは大したこと知らないよ、と前置きをした。

「土井君は、いわゆるちょっと不良って感じで、髪は金髪でねえ、背は百七十五センチくらいかなあ。でも、ぜんぜん怖いひとじゃないんだよ。去年、同じクラスだったから、話したけど、優しい感じだったよ。文化祭とか、体育祭とか、ちゃんと手伝ってくれたし、いい人だよ、うん」

 感情的な文句に、夏は内心でがっかりしたが、気持を出さないようにつづけて聞いた。

「そうですか。意外ですね。いい人なんですね。……先輩と土井先輩は、個人的な関係はあったんですか?」

「個人的な、って。ええ、ない、ないよー」

 先輩は恥ずかしそうに横を向いて、手を顔の前でひらひらさせた。白くてやわらかそうな指だ。たぶん、彼女の前では、大部分の男子生徒は、いい人になるだろう。その意味で、彼女の話は参考にならない、と夏は思った。 

 夏が考えごとをすると、小夜実先輩がフルーリーを一口食べて飲み込み、彼のほうに向き直って聞いた。

「ねえ、きみさ……彼女、募集してないの?」

「してません」

 彼はきっぱりと否定した。夏のなかで、先輩に感じた違和感が大きくなる。彼は、ブラックコーヒーに写る自分の顔を見た。いたって平凡な男子高校生が写っている。彼はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干し、小さく首を振って、立ちあがった。

「あっ、ねえっ」「はい?」「ううん、ごちそうさま。ありがとう!」

 夏もお礼をいって、席から離れた。先輩が笑顔で、フルーリーのスプーンを持っている右手を振った。

 店を出ると、彼はマックのガラス窓に映る自分を見たが、やはり冴えない顔の小柄な少年が居るだけだ。小夜実先輩の反応が幼すぎるように感じられる。

 ――いや、ぼくの自意識過剰だろう。

 彼は頭をがりがりやりながら、暗くなってきた街を歩いて行く。

 先輩と別れたあと、夏は家に電話して帰りが遅くなることを伝え、上り電車に乗った。一駅で降りて、昨日教えてもらった、土井先輩が入院している病院を地図で探し、歩いていって、駅からかかる時間を確認した。

 案の定、病院では家族以外は面会できないと、看護婦に告げられた。また明日にでも訪ねることにして、夏は手帳に病院までの所要時間を書き込み、疲れた顔で、また下り電車に乗って家へ帰った。

  七

 進学塾を出て、小夜実は二人の塾のクラスメイトとならんで駅まで歩いた。

「月末、学力測定だねー」「あー」「ああー」

 三人そろって肩を落とす。右隣の子の、栗色で透きとおるような色の髪の毛が、肩に触れた。

 彼女らと別れて電車に乗り、最寄の駅から家に向かう途中、小夜実は白くて丸い月をながめた。

 すると、テストのことで不安がこみあげてくる。また、カンニング、やっちゃおうかなと彼女は迷う。

 小夜実の両親は、子供たちの勉強に関してすっごく熱心だ。小学生の頃から、小夜実と二つ年上の姉は、両親の期待を受けてきた。

 だけどおねえちゃんは、中学校にあがるとすぐに白旗をあげ、「あたしはもう勉強しない」と宣言した。小夜実はそこそこ成績がいいせいもあって、それが出来なかった。

 ――バカだなあ、あたし。

 いつの間にか身についた『優等生』って肩書きを手放すのがこわくて、小夜実は勉強してテストで良い点をとってきた。

 でも去年のはじめごろから、つじつまを合わせるのに疲れてしまって、それでも周りや両親のイメージと自分とを無理やり合わせるため、カンニングまでして、優等生をつづけている。

 ――あたし、世間を舐めてるのかもしれないなあ。

 またお母さんに叩かれるのは怖いけど、なにもかもどうでもいいや、という自分を捨てる気持ちに負けてしまいそうだ。

 小夜実は月から目を逸らした。やがて見えてきた家の窓に、やさしい色の灯りがともっている。彼女はそれを見て立ちどまり、胸を押さえ、また歩きだした。

「小夜実、あんたこれ、なに?」

 去年の二学期、期末テストの答案が帰ってきた日の二日後、夕ご飯のあと、母親が部屋に来て、聞いた。

「なにいってんの、お母さん」

 小夜実は机に向かって座っていたけど、イヤホンを外して振り向いた。母親の手に、紙切れが握られている。どこかに捨てられてたのを拾ったようで、シワだらけの紙だ。小夜実には見覚えが、あった。

「ねえこれ、なに?」と母がまた聞く。小夜実は答えられず、空ろな顔になった。母親が握っている紙は、小夜実が期末テストでカンニングに使ったものだ。急に息苦しさを感じた。

 不意に、小夜実の側頭部を衝撃がおそった。母親に頭を殴られて、座っている椅子ごと、彼女の体がかたむく。そこにもう一発、もっと強く同じ場所を叩かれた。ガタン、と音をたて、小夜実と椅子が床に倒れる。

「あんたっ、なんてこと、やってんのよっ」

 母親が大声を出した。壁に立てかけてあったほうきをもち、おそろしい顔をして、床に転がった小夜実をにらむ。

「正直に、言ってね」

「う、うっ、う」

「あんた、いつもこんなことやってるの? それとも、たまに? 初めて?」

「は、はじめて……ごめんなさい」

 小夜実はふるえながら、首を振る。本当は初めてじゃなくて、たまにだけど、怖くってそんなこといえるはずもない。

「はじめて、やったのね?」「……うっ、うんっ」「あんた、本当のこといってよ?」「ほんとう」

「しょうがないわね」

 怒りの少しやわらいだ様子で、母親がいう。

「あんたね、こんなことしなきゃ良い点とれないなんて、あたしは恥ずかしいよ。こんなことして百点とって、あんたそれでうれしいの?」

 なんでだか、ぶたれたときより、そういわれたときのほうが痛くて、小夜実は涙が出た。それを見て、母親がまた怒鳴った。

「あんたが泣いてどうすんの、泣きたいのは、こっちのほうよっ」

 母親が手にした箒で、小夜実のお尻をぶった。痛みと衝撃で、目のまえが火花が散る。

「はちっ……きゅうっ……じゅうっ」「っう、ううううううう……」

 声に出して叩きながら、十発叩きおえると、母親は小夜実が使った紙を置いて出て行った。

 一人、部屋に残った小夜実は、床に寝そべったまま、あたしが悪いんだろうか、でもどうしたらいいんだろう、と考えた。答えは出なかった。

「ただいま」「おかえりー」

 母親がやさしい顔をして、小夜実を出迎えてくれる。小夜実は駆け足で階段をのぼり、自分の部屋に入る。机と椅子とベッドが置かれてるだけの、飾り気のない部屋で、制服からブルーの部屋着に着替える。黄色とオレンジで描かれた女の子の絵が、部屋のすみっこで彼女を見ている。彼女はその絵を泣きそうな顔で見てから、夕ご飯を食べるため、階下に降りていった。

 半年が経ったいまも、答えはまだ出ていない。


 翌日の放課後、夏が手帳を見ながら歩いていると、急に声をかけられた。

「夏くんっ、こんにちは!」

「こんにちは、先輩。元気そうですね」

 うん、と答えると、先輩がニコニコした顔で隣を歩きはじめる。

 夏は首をひねった。美人の先輩から唐突に仲良くされるのは、現実感がなくって、居心地が悪い。先輩は何かがずれてるんじゃないだろうか。

 ――それになぜ、今日も昨日も一人なんだ?

「失礼でしたらすみません。もしかして、友達、いないんですか?」

「ぐうっ」と先輩が顔に合わないうめき声を出した、「わ、わ、わ、わるい?」

「いいえ」と夏は首をふる。「他人を傷つけずに、隣にいるのは難しいことです」

「そ、そう? 変じゃない? 頭オカシクない?」

「べつにおかしくありません」

「わっ、よかった! いいひとだね、きみ!」

 といって先輩がガッツポーズを決めた。予想外によろこばれたのが怖かったので、夏はわざと無感動に予定を伝える。

「先に伝えておきます。すみませんが、今日は寄る場所があるので、フルーリーはおごれません」

「そ、そう、なんだ……」

 急に元気をなくして、先輩が下をむく。

「ごめんなさい。お腹、空いてたんですか?」「ちがうよ! もう!」「冗談です」「え? あー、あははっ」

「きみ、冗談とかいう人なんだねーっ、うん、そっかそっか」

 夏は皮肉を言ったのだが、小夜実先輩は何もなかった顔で、うれしそうにまた彼の隣を歩く。バスが車体をゴウゴウきしませて、二人の横を通っていく。

「僕は嘘をつくのが好きなんです」

 と夏は嘘をつきながら、泣きたい気分になった。なぜなら、先輩の笑顔に共感したいけど、共感しちゃったらテレビのなかの男子高校生みたいで、境遇のちがう彼としては吐き気がする。でも涙は出ない。それでもせめて、僕はうれしくないから、よろこばないぞ、と自分に言い聞かせた。

「えええ? それも嘘でしょー、おっかしいっ」

「いえ、本気です」「うそだーっ、あははは」

 笑い声を聞きながら、夏は空をあおいで、ため息をのみ込んで、てくてく歩く。

 駅前で、今日も塾に行くという先輩と別れ、夏は上り電車のホームに降りた。ムダ足かもしれないが、病院へむかう。どっちみちろくな手がかりはないし、彼の成果に家計が掛かっている以上、やれるだけのことをやったほうが気がまぎれる。

 昨日と同じ道を通って高崎病院に着くと、彼は案内板を見て、院内を歩きはじめた。集中治療室があるなら、土井先輩はそこに居るか、手術が終わって、近くの病室にひょっこり寝かされているかもしれない。

 高崎病院は、成関高校と同じくらいの広さだった。こちらは五階建てで、部屋数も多い。夏は看護師の目を気にしながら、あてずっぽうで土井先輩を探し、一時間くらいかけて病院ぜんぶをまわったけど見つからなかった。もちろん、夏が見たのは、自由に出入りできる場所だけだから、他の病室にいるんだろう。

 そろそろ帰ろう、と思って夏が五階から下りエレベーターに乗ると、深刻そうな顔つきのおばさんと乗り合わせた。四十前後くらいの、ショートカットで痩せ気味のおばさんで、眼が腫れていて、右手に花柄のハンカチを持っている。もしかして、土井君の母親じゃないだろうか、と期待して、夏は声をかけた。

「あの、こんばんは。……すみませんが、もしかして、土井先輩のお母さんじゃないでしょうか?」

「え? その」とおばさんが赤い両目で、怪訝そうに夏を見つめた。そこでエレベーターが一階についてしまい、おばさんは、「失礼します」と気まずそうにいって、すたすた行ってしまった。

 夏もエレベーターを降り、背中を丸めて出口にむかった。古くても掃除の行き届いた廊下を歩きながら、庭のすみに設けられた喫煙所に目をやると、見覚えのある女性が立っていた。結縁先生がタバコをふかしながら、誰かと話している。

 興味を覚えた夏は、廊下から様子をうかがった。喫煙所は板張りの小さな小屋で、三方が壁で囲われ、一方を開け放して出入り口にしてあった。彼は見つからないよう、入り口の反対方向から、中庭を横切って近づいていき、板張りにもたれかかって、なかの話し声を聞いた。

「……土井君は命に別状はないそうだが、校長としては、とても頭が痛い問題だ」

「校長、あなた個人としてでなく、学校全体の問題だよ」

 結縁先生が話している相手は、校長先生のようだ。それでいて、二人は敬語を使っていなかった。単に仲がよいのか、あるいは個人的な関わりがあるんだろう。ふたりとも落ちついた口ぶりに、夏には聞こえた。

「学校としてはね、もう処置なし。先月は自主退学、今月は自殺未遂ときた。来月、銃乱射事件が起きないよう、ボクは心配してるよ」

「日本には銃刀法があるから、その心配は杞憂だろう」

「結縁ちゃん、法律より生徒の倫理観に期待したいなァ、ボクは」「倫理なんて幻想に逃げるなよ」「厳しいなあ」「なにが?」

「校長っていう立場が、だ。組織の長は、みんなに目的をもって仕事してもらうために、一つの理想をかかげなきゃいけない。だから、倫理が幻想だって理解してるけど……僕は校長として、倫理観を持とうって言い張る。そうじゃないか、結縁ちゃん?」

「自分で教えりゃあいいのに」

「いやいやいやいや、だってボク、もう校長だから。教育しないから。ハンコを押すのが仕事だから。教えるのは優秀な教員諸君に任せますよ」

「最低」と結縁先生がいって、煙草を灰皿で擦るガシガシという音が聞こえた。

「で?」「なんだ」「だって君のほうから『煙草行きませんか?』、なんて珍しいでしょ。どうしたの?」「……参ったな」

 そこでちょっと、息をのむような沈黙をはさんでから、結縁先生が喋った。

「土井君と、先月の木村君、関係あると思いますか?」

「えっ、あの二人、関係あるの?」といって、口笛を吹く音がした。

「あ、やっぱいいです。知らなさそうなんで」「いやいや」「聞かなかったことに」「まあまあまあ」

 校長が威厳なく、すがりつく調子でいう。

「何か知ってるかもしれないし、おじさんにちょっと話してみてよ。ね、結縁ちゃん。ボクと君との仲じゃないの。ね、ね? お願い? お願いお願い。お願いしますよ」

「別に、根拠のある話じゃない」と女教師が前置きして言う。

「ただ、私は思ったんだ……二人とも、まったく、そういう生徒じゃなかった」

「ちょっと、抽象的じゃないの。代名詞使わないで説明してよ」

「わかってるさ。つまり、私が言いたいのは、問題を起こす予兆が無かった点が、二人に共通してるってことだ」

「そうだっけ? 土井君はもともと休みがちで、木村君は経済的に苦しかったでしょ」

「そうだ。でも、その条件は二人が一年生だった頃から変わってない。私が話した範囲では、性格も極端じゃなかった。だから、学校内か、この付近で、問題が起きていて、我々は何かを見落としていて、二人はそれに巻き込まれたと思うのは、考えすぎだろうか」

「うーん……それは君、考えすぎでしょ」

「やっぱり、そうだろうか」「……」「なにか? 人の顔をジーっと見て」「いやァ、いいねえ、結縁ちゃん」

「熱いなあ、と思って。学生時代から、結縁ちゃんはずっと同じさ。ボクは、君のそういうとこを、買ってるんだよ。だからさァ、七年前みたいに、深入りしちゃダメだよ?」

 七年前、という単語に、夏の耳が反応する。何があったっていうんだろう。

「それは、嫌だ。お断りだね。時と場合によって、私は何度でも関わる。なぜなら、私は頭も良くないし、生徒との関わり方なんてわからないから、ひとまず入ってみるしかないんだ」

「かっこいいねえ、鉄の心臓かい、結縁ちゃん?」

「タンパク質だよ」「うまいこと言おうとしなくていいよ! 寒いよ!」

 校長の声の調子が、怒ってるみたいに、変わった。

「君は関わらなくってもいい他人の問題を引き受けようとしてるんだよ? 優秀な教員の一人が潰れやしないか、おじさんは心配しちゃうよ」

「ありがとう。でも、大丈夫さ。他人と関わるときはいつでも、逃げだせる準備をしておくってことを、私だって学んだんだ。……三十年も掛かったがね」

 また沈黙と、灰皿をする音と、校長の低く抑えた笑い声が聞こえた。 

「結縁ちゃんも、大人になったって事だね」

「不純になったともいえる」

「不純でけっこうだよ。みんなが子供みたいに純粋で敏感なままじゃ、この世は自殺者だらけになっちゃう。人は傷つくことにも、傷つけることにも、鈍感になるにつれて、大人になるんだ」

 何がおかしいのか夏にはわからないが、校長がまた低い声で笑いながら言う。

「だから、図々しいおじさんだって、必要なんだよ」

「すみません」「なにが?」「何がおもしろいかわからない」「うっ、それ、嫁にも言われるんだよなァ」

 もう良い時間ですね、と結縁先生が相手にしない様子で言った。

「何か気づいたら、教えてください。それと、話を聞いてもらって、ありがとう」

 人が出て行く物音が聞こえて、夏が息をひそめ、壁のわきから顔をだして覗くと、結縁先生が中庭を歩いて遠ざかっていく後姿が見えた。校長はまだなかにいるようだが、夏もそうっと喫煙所を離れた。廊下に戻ってきて、壁にもたれかかり、手帳を開く。

『先月・自主退学――木村』

 ボールペンを走らせながら、夏は自分が舞い上がっているのを抑えようとつとめた。校長と結縁先生の話は興味深かった。七年前の生徒自殺に、あの二人はどの程度関わったんだろうか。

 ――関わることは、教師にとっては当たり前だけど。

 二人の口ぶりを聞くと、結縁先生が個人的に『深入り』したと予測される。夏は考え込み、頭をガシガシ掻いた。ひとまず明日は、木村という生徒について調べよう。

 それだけ決心すると、夏は手帳を閉じ、大きなアクビを一つしてから、病院の廊下を出口にむかって歩きだした。

 帰宅して夕飯を食べ、風呂上りに部屋で右腕の『小春』に軟膏を塗っていると、午後九時過ぎにシスターから電話があった。

「進捗はいかがです?」「だめ。助けて、シスター」

 シスターは気にしない調子で続けた。

「『千春』さんは、探し物には向きませんからね。気長にやることです」

「その呼び方は、ええと……剣治から聞いたのかい?」

 夏は手帳をめくって剣治の名前を思い出し、苦笑いして、『千春』という名前を呼ばれる罪悪感と、探し物に向かないという図星を付かれた切なさをごまかした。

「はい。『人面創』と呼ぶより、その顔には似合ってますよ」

「ありがと、シスター。僕も同感だ」

 彼は片目をつぶって、右腕にある顔を見た。静かに眼を閉じて眠っている。いい気なもんだ。

「待たせて悪いね。悪霊が誰のなかにあるかわかれば、すぐに片付けるよ」

「悪霊がいつ現れるかも、重要でしょう。事後処理に手間取りますし、憑かれた人間の霊ごと食わせてはいけません」

「はいはい」と夏は電話口で頷く。人面創あらため『千春』は、霊を食べる。悪霊でなく生きた人間の霊を食えば、食われた人は植物状態になるので、もしも夏が加害者とみなされれば、裁判沙汰になるかもしれない。霊能者が事後処理に組織の手を借りた場合、報酬から手数料が差し引かれるので、夏としては揉め事の少ない方法で解決したかった。

「ところであなた、剣治とケンカしてませんか?」

「しないよ。なぜ?」夏は聞き返した。ケンカどころか、この電話がなければ、彼は剣治の名前さえ思い出さなかっただろう。

「私は彼の保護者ですから、親心です。それにあの子、あなたほど他人に気を遣わないので、あなたを疲れさせるかもしれません」

「なにも、問題ないよ」「『千春』さんの件も?」

「うん。悪くないよ。『人面創』か『悪魔憑き』よりは、『千春』と呼ぶほうが人道的だ」

 本心から、彼はそう答えた。名前を呼ぶと、殺した姉を思い出すので、罪悪感に襲われるが、忘れてしまうよりずっといいと彼は思っている。

「……信じてよさそうですね。安心しました」

 といって、シスターが電話を切った。

 夏は独りの部屋で、『千春』に包帯を巻いていった。

  八

 金曜日、夏は木村先輩の情報が欲しくて、放課後にまた小夜実先輩を待ち伏せた。彼女はやっぱり暗記用のメモを熱心に読みながら、バス通りを独りで歩いていた。信号のない横断歩道の手前で、車通りが途切れるのを待っているところに、声をかける。

「こんにちは、先輩。今日も勉強熱心ですね」

「え? あっ、夏くん。熱心じゃないよー、あははっ」

 先輩はメモをしまって、うれしそうに笑う。夏も彼女に合わせて笑顔を浮かべながら、聞いた。

「あの、迷惑でなければ、駅まで一緒に行ってもいいですか?」

「うん、もちろんっ」彼女は頷きながら夏の顔を見た、「……いちいち断らなくっていいのに、君って真面目だねえ」

 夏が照れ笑いを浮かべたとき、車の通りが途切れたので、二人は早足で道路をわたった。ならんで歩道を歩き出したところで、夏はへりくだって質問した。また泣き出されないかと、内心ひやひやした。

「先輩、たいへん恐縮なんですけど……先月退学された木村先輩について、なにかご存じないですか?」

「えええ? きみ、シャーロック・ホームズなの? 事件が好きだねえ」

「そうです。僕がシャーロック・ホームズです。どうか、捜査に協力してください」

 夏はやけくそな調子で言った。

「えー。うーん、うーん」

 先輩がうんうん唸りながら、周囲を見回し、何かを探しはじめる。やがて、目当てのものを見つけて、要求を言った。

「あたし、いまね、ちょっと肉まんが食べたいんだあ」

「はあ」と夏は気のない返事をした。

「とおもったら、コンビニがあるじゃないの、ほら」

 彼女は通りの先を指差した。オレンジ色の看板が回っている。

「つまり、金を取るんですね」「ち、ちがうよ! 肉まんだよ!」

「そういって、あなたは新入生から税込み百五円を巻き上げようとしてるんです」

「うー、うー、うー……うん。肉まん食べたい」

「了解です。肉まんで、いいんですね」と答えて、夏は財布を出して中身をあらため、余裕があることに安堵する。

「じゃ、買ってきますから、先輩はここに居てください」

 小夜実先輩を道端に待たせて、夏はコンビニに寄った。肉まん一個と、気をつかわせないよう、自分用の缶コーヒーも買って戻る。

「やったーっ、肉まん、肉まん」

「それで、木村先輩の件で、知ってることがあったら、教えていただけませんか?」

「きみ、容赦ないね」「金、取られてますから」「うー、うー」「食べながらでけっこうですよ」

 先輩は時どき黙って、考え込みながら、木村先輩について話してくれた。

「去年、木村君とは、同じクラスだったんだよ。えーと、えっとね。静かで、イカつい雰囲気の人だったなあ。うーん……話し方も、『なにお前?』って感じで、ぶっきらぼうなんだ。でも、慣れちゃえば、どうってことないんだけどね。誤解する人はするかなあ。うー……男の子同士だと、冗談も言ってて、明るい感じだしねえ」

 夏は話に耳をかたむけ、ブラックコーヒーをすすりながら、小夜実先輩を観察する。今日は泣き出しそうな様子は見られない。しかし、考え込む回数が多いと感じる。まだ一月しか経ってない筈だろう。

「もしかして、退学の経緯なんて、聞いてませんよね?」

「うー、詳しく知らないけど、家の事情なんだって。経済的に苦しかったみたい」

「木村先輩の経済状況は、皆が知ってることだったんですか?」

「え、えーと、えーと、うん」「他に、知ってることありますか?」「うーん、うーん……わかんない。ごめんね」

 夏は片手を振った。先輩は黙って、残っている肉まんにかぶりついた。食べながら、彼女は彼の手元をじっと見ていて、肉まんがなくなると質問した。

「夏くん、コーヒー、好きなの?」「はい」「じゃあ、今度は、あたしがコーヒーおごるよっ」「……ブラックでお願いします」

 そこで駅前に着いたので、大人だねえ、と驚いた顔をする先輩と別れ、夏はまた病院に向かった。


 高崎病院につくと、夏は昨日見かけたおばさんを探す目的で、五階に上がった。

 廊下の左右に並んだ病室のネームプレートをもう一度確認しながら、ゆっくり歩く。しかし、土井という名前はなく、おばさんの姿もみあたらなかった。肩を落として、エレベーターに乗り、1階の売店に寄ると、レジの前で夏は目当てのおばさんを見つけた。

「こんにちは」と彼は思い切って近づき、頭を下げた。

 女性はおどろいた顔でこっちを見た。昨日と違って、開いた目は赤くなっていなかった。彼女は力のない声で、「こんにちは」というと、疑問を口にした。

「あなた、どちらさまですか?」「僕は成関高校の一年生で、杜夏と言います」「一年生?」「はい」

 夏が頷くと、おばさんは首をかしげた。それはそうだ。入学式から一週間しか経っていないのに、新入生と何の関係かと疑うのは当然だろう。

「ええと、よかったら、少し座りませんか?」

 売店の脇の背もたれのないベンチを夏が示すと、おばさんはためらいがちに腰かけた。

「どう、っていうこともないんですけど。土井先輩が、心配なんです」

「あなた、息子のなんなんですか?」

 まったくもって、その通りだった。夏は失礼を承知で、胸を痛めながら、用意してきた返事を言った。

「中学のときに、話したことがありました。でも特別、仲がよかったわけじゃないです。同じ高校だってことは知ってまして、どうしてるかなと思ったら、飛び降りたって聞いたんです。……すごく、びっくりして、心配になって来てしまいました。その、ご迷惑でしょうか?」

「……それは、迷惑ですよ。迷惑だけど、そう、わかったわ」

 おばさんはそういって、ベンチに座ったままうなだれた。やはり土井先輩のお母さんに違いなかった。近くで見ると、痩せていて背が低いせいか、最初の印象より若く感じる。彼女はうなだれたままで言った

「おばさんも、びっくりしたわよ」「……はい」「どうしてこうなっちゃったかなあ。なんて、あなたに言ってもしょうがないわよね」「いえ……たぶん誰も」

 わかりません、と言うかわりに夏は首を振った。

 土井先輩の母親は、うなだれたまま黙っている。彼女が顔をあげるまで、胸を締めつける痛みを感じながら、夏も黙って待った。やがて鼻をすする音をたてておばさんが顔をあげたので、彼はちらっと横目で見てから、宙に向かって謝罪した。おばさんの目に涙が光っていて、まっすぐ見られなかったからだ。

「すみませんでした。ほとんど面識もないのに来て、勝手に話しかけて。嫌な思いさせてしまって、」

「いいの。気がまぎれたから、ありがと。……あの子、命は助かるんですって」

 夏はおばさんの顔を見て、声を出さずに微笑した。それから立ち上がって、深く礼をすると、ベンチから歩いて離れていった。傷ついてる人に声をかけた自分の軽率さが悔やまれる。

 今日は帰ると決め、夏がため息をついて、廊下を出入り口のほうへ歩いていると、後ろから声をかけられた。突然のことで、はじめ彼は、自分が呼ばれていると気づかなかった。

「よう」「……」「こらこら、成関高校一年×組、杜夏」

「それは個人情報の漏洩です」

「うん。しかし、誰に?」

 夏が振り返ると、結縁先生が廊下のまんなかに立っていた。周囲に人影はなく、蛍光灯の明りが磨かれた床に反射して、まぶしいくらいに光っている。

「前言撤回します。すみません」

「素直だな。君のそういう態度が、好ましく思うよ」

「ありがとうございます。じゃ、帰ります」

「なに? 待ってくれ。……もしかして、きみは私のことが嫌いかい?」

 そういうと、担任教師は夏に一歩近寄って、顔色をうかがうように前傾した。黒のカットソーで覆われた胸元が強調される。彼は目を逸らした。土井先輩の母親と話したショックが尾を引き、冷たい態度をとっていたことに気がつき、反省する。

「別に、好きでも嫌いでもありません。落ち込んでたせいで、余裕がなくなってて。すみません」

「ああ」と結縁先生が納得した声を出した。

「さっきのやつか。君はさすがに繊細だね」

「見てたんですか?」「見えちゃったんだ」「話も聞こえましたか?」「うん。興味深く聞いたよ」

「そういうことです。じゃあ、帰りますね」

 夏が背を向けようとすると、引き止められた

「待て待て。珍しいところで会ったんだから、すこし、話をしてもいいかい?」

「何について?」「か、会議じゃないんだから、話題を限定しなくていいじゃないか」

 結縁先生は廊下の先を指差した。

「彼女が来るかもしれないし、角に喫茶店があるから、そこで話そう」

 といって、夏にほほ笑みかけ、女教師が自分で示したほうへ歩きだす。夏は迷ったが、彼女が独りで店に入ったら困るだろうと思い、香水の大人っぽい香りにドキドキしながら、担任教師の背中をあわてて追いかけた。

 喫茶店はセルフサービスだったので、ショーウィンドーを凝視している結縁先生を追い抜かし、夏は先にブラックコーヒーを買って、隅っこの肘掛け椅子に腰かけた。二、三分遅れて、先生がデニッシュとカフェオレの載ったトレーをテーブルに置き、向かいに座った。

「悩みました?」「うん。あげないぞ」「僕は結構です。甘いもの好きなんですか?」「うん。ま、煙草の代わりさ」

 結縁先生はデニッシュをちぎって口に放り込み、カフェオレをすすると、話し辛そうにいった。

「さっき、君が土井の母親に言ってた事、あれは嘘だな。土井君は、成関中学校の卒業生じゃない」

 夏は驚いて、担任の顔を見つめた。彼女にとがめる様子はなく、微笑を浮かべて、彼を見ていた。彼は観念して頷いた。

「……はい、そうです。お母さんにも、バレてますかね?」

「いや。あの様子なら、気づいちゃいない」

「では問題ありません」「ず、図々しいな」

「嘘はバレなければ誰も傷つけません」

「結果論だな」

 といって、結縁先生がカフェオレをぐいとあおる。ほっそりした指でデニッシュをちぎり、またひと欠片、口に運び、「うまいじゃないか」とか呟いている。追求する気はなさそうだ。彼女の思惑がつかめず、夏は聞いた。

「僕と土井君のおばさんの会話について聞くために、誘ったんですか?」

「いや、ちがう。言ったろ。私は話題を絞る気はない。強いていうなら、君がどんな生徒か、興味を持った」

「仕事熱心ですね」「皮肉だろう、それ」「一般的な褒め言葉です」「嘘つけ」

 くっくっ、と笑って、担任が肩をふるわせる。

「私は仕事じゃなく、個人的な興味で、君と話がしたい。なぜなら、君は発言に遠慮がなくて、興味深いからね」

 夏は横を向いて、コーヒーを一口すすった。うれしかったけど、その気持を抑えるため、左手で右前腕をシャツの上からさわる。人は個人的な感情を満たすより、自分に課した役割を果たすことに集中するべきだ。他人を傷つけないために。彼は首を振り、担任と距離をとるために、へりくだって質問した。

「もし可能であれば……七年前の自殺の件で、お話をうかがっても構いませんか?」

 今度は女教師がおどろく番だった。彼女は天井を仰ぎ、腕組みをしていった。

「参ったな。君はエルキュール・ポアロかい? 事件が好きだね」

「そうです。僕がエルキュール・ポアロです。どうか、捜査に協力してください」

 天井をにらんでいる女教師に、夏は確認した。

「先生は、十年以上、成関高校に勤めていらっしゃいますね」

「……そうだ。出戻りだけど、十三年さ。おっと、年は聞くなよ?」

「先生の年齢に興味はありません。七年前の事について、聞いてるんです」

「ちょっとぐらい興味を持ってくれよ。……しかし、参ったな。どう話したものか」

 彼女は眉間にしわを寄せて、腕組みを解かずに、今度は下を向いた。夏はカップを持ったが、中身を飲まず、すぐテーブルに戻した。

「うー、参ったなあ」と結縁先生が震えた声でいい、体を揺らす。鼻をすする音が聞こえる。夏は立ちあがり、下唇を噛みながら、震えている背中を右手でそっとさすった。「大丈夫だ」と、ぜんぜん大丈夫でない調子で担任がつぶやき、体を起こして、ゆっくりと立った。

「だけど、すまん。ごめん。今日はダメだ。だけど、また今度、話すから。ちくしょう、きみ、必ず話すよ。本当にごめん」

 そういうと、結縁先生はうつむきのまま立ち上がり、早歩きで行ってしまった。あとに残された少年は、トレーに載っている食べかけのデニッシュをながめて、立ちつくす。深いため息をつきながら、肘掛け椅子に座ると、背もたれに体をあずけて天をあおいだ。

  

 土曜日の昼過ぎも、大崎建設の現場は作業を進めていた。夏の住んでいる町の、隣の駅から歩いて十分ほど離れた住宅地だ。夏は手帳にメモしてきた番地と、印刷した地図を照らし合わせ、目当ての場所に違いないことを確認すると、そっと現場に入っていき、そこで働いているという木村先輩を探しはじめた。

 午前中、夏は成関高校の職員室を訪ねた。木村先輩がどこにいるか、ダメで元々、聞くだけ聞いておこうという気でいたのだが、以外にも職員室で眠そうな顔をしていた若い男性教師が、『大崎建設』という勤め先を教えてくれた。

 大人に混じって、目つきの鋭い少年が木材を担いで運んでいる。元は白かったTシャツが汗と砂埃でどろどろに汚れている。

 近くの道端の石に腰かけ、夏は作業が一段落するのを、辛抱強く待った。一時間ほどで、休憩時間になったらしく、職人たちが工具を置いて建物の影に入っていく。目当ての少年のほうへ歩いていって、声をかける。そこは喫煙所らしく、灰皿のまわりにパイプ椅子が並んでいた。

「失礼します、こんにちは。ぼく、成関高校の杜夏といいます。木村さん、ですか?」

「……はあ? 木村は俺だけど、お前……ええと、覚えてねえな。誰だっけ?」

 木村先輩が煙草を灰皿にのせ、日焼けした体格のいいおじさんの顔を見た。棟梁らしいその男性が頷くのを見て、先輩は立ちあがり、喫煙所からはなれた木陰に夏を連れて行った。色あせたベンチに腰をかけ、夏の顔を見あげる。

 夏は頭を下げて、隣に座り、緊張しながら、スポーツドリンクの入っている袋を渡した。差し入れのつもりだ。

「忙しいところ、ありがとうございます。よかったら、これ、どうぞ」

「え? あー、ありがとよ、へへ」

 木村先輩がビニール袋を受け取り、小さく笑った。夏は胸をなでおろした。突然の訪問なので迷惑がられるだろうと、心配していたのだが、先輩は気にしていない様子に見える。

「でも俺、ほんとに覚えてねえんだけど。……ごめん、お前、だれ?」

「実は初対面です」「はあ? なんだそりゃ」「木村先輩に聞きたいことがありまして」「あ、そうなの? まあいいけど」

 先輩はやはり棘のない調子で言って、不思議そうな顔をした。相手が腹を立てていないのを確認して、夏は思い切って聞いた。

「木村先輩、今週の月曜日に、土井先輩が飛び降りたの、知ってますか?」

「あー、聞いた聞いた。ダチからメールが来ててよ、びっくりしたぜ」

「ぼく、一年生なんですけど、中学で土井先輩と知り合いだったんです。それで、なんで先輩は飛び降りたんだろうって思って」

「ふーん。で、おまえさん、なんでおれのところに来たの?」

 木村先輩は、渡されたアクエリアスのキャップをあけ、一口飲んで、夏に聞いた。

「木村先輩は、土井先輩と仲良かったですか?」

 夏が聞くと、彼は口をぽかんと開け、もとから細い目をさらに細くして首を振った。

「おれが土井と? ぜんぜん。ただのクラスメイトだよ、クラスメイト!」

 先輩が夏の背中をばんばん叩く。悪気はないのだろうが、日に焼けた腕にこもっている力は、かなり強かった。

「そんなこと聞くために、わざわざ差し入れまで持って来たのかよ。おまえ、おもしれえやつだなあ」

「何か関係あるかと思ったんですけど、残念です」

 夏は下をむき、気を取りなおして質問をつづける。

「実はもう一つ聞きたいことがありまして、確認させてもらえますか? 先輩は、家計の都合で、学校を辞められたと聞いたんですが、合ってますか」

「おまえ、よく知ってるな」「すみません」「いいよ。みんな知ってんだ」

「うちは親父がいなくって、お袋だけだからよ」というと、木村先輩は、ちょっと考える素振りをしてから声をひそめた。

「おまえさ、口、堅いか?」「はい」「ばらしたら、殺すぞ」「ばらしません」

 夏が先輩の顔を真っすぐ見て答えると、彼は右手の小指を立ててみせた。

「それもあるんだけど、おれ、ちょっとコレとうまくいかなくって、面倒くさくなっちゃったんだよな」

「彼女さんと?」「おう。いろいろ、あってよ」「具体的には?」「おいおい」

 夏が見ると、木村先輩は苦笑していた。彼はあわてて頭を掻き、謝罪した。

「すみません。ぼく、失礼ですよね。個人的な問題に興味があるわけじゃないんです。でも、関係があれば、聞きたいと思って」

 夏は声をひそめて質問した。

「どなたなんですか?」「バカ、いえねえよ」「なにか問題が?」「おまえな」

「しょうがねえなあ」といって、木村先輩は腕時計を見てから、話しだした。

「でも、女の名前はいえねえぜ。いい話じゃねえからよ」

「かまいません」

「怖くなったんだよ、おれ、あの女がよ」

 先輩はそこで言葉を切り、アクエリアスをがぶがぶ飲んだ。

「付き合ってみて、初めてわかったんだけど、要求が強すぎてよ」

「金銭的にですか?」「バカ。うーん、愛情だよ、それと、あー、性欲?」

 意外な単語が出てきたので、夏は目を見開いた。木村先輩が気まずさを隠すみたいに笑ってみせた。

「正直、あいつ……あいつは俺が思ってたような女じゃなかったんだ。お勉強はできるのに、頭のなかはピンク色で、こう、お花が咲いちゃってるんだよな」

 木村先輩が遠い目をして語っていく。夏は聞き役に徹した。

「いっしょにいるときは、隣にくっついてはなれねえ。俺に会えないと、『死んじゃう』とか言って、わんわん泣くし。それだって、一日か二日、間が空いただけだぜ?」

「かなり、極端ですね」

「おう。おれには手に余ったよ。反対に、俺のほうが、精神的に参ってきて、このまま一緒にいたらあの女に殺されちまうって思ったから、別れたんだ。情けねえけど顔を合わせるのも怖くてよ、高校も辞めちまった」

 秘密にしろよ、といって木村先輩が夏の頭を小突く。それから、棟梁らしき男性に声をかけられ、「じゃあな」といって先輩は小走りで喫煙所のほうへ戻っていった。


 日曜日の夜、就寝する前に、夏は彼の部屋の古ぼけた肘掛椅子にもたれかかり、手帳を見かえして一週間ぶんの情報を整理していた。日曜日に新しく記入したところで視線を止め、ボールペンを口にくわえる。

『土井 母親……小夜実先輩と土井先輩が付き合っていた?』

 どう考えるべきだろう。土井先輩のおばさんのさびしそうな顔を思いうかべ、考えをめぐらせる。

 その日の午後三時ごろ、特にあてもなく夏は成関病院に向かい、喫茶コーナーの隅で、うつむいて黙々とコーヒーをすすっているおばさんを見かけた。向かいの席が空いていて、荷物も置かれていなかったので、彼は断りを入れながら椅子を引いた。

「どうも、こんにちは。ここ、よろしいでしょうか?」

 おばさんが顔をあげ、きょとんとした表情で夏を見た。彼は椅子の脇に立ち、許可がもらえるのを待った。

「あ……どうぞ。いいのよ、座って」「ありがとうございます」「あなた、しっかりしてるわねえ」「いえ。すみません」

「お邪魔します」と会釈をして、夏はテーブルにコーヒーを置いて椅子に座る。こちらが嘘をついて話を聞かせてもらっている人から褒められて、心苦しかった。

「立たせてて、ごめんなさいね。おばちゃん、すごい人見知りなのよ」

 おばさんはコーヒーカップを置くと、そういってほほ笑んだ。出会ってから初めて聞く、明るい声だった。夏もほほ笑みかえして、話題をさぐった。

「とんでもないです。毎日、来てらっしゃるんですか? たいへんですよね」

「いえ、ちがうわよ。やっぱり疲れちゃうから、昨日は旦那さんに代わりに来てもらったの。おばちゃん、もう年だからねえ」

 女性はコーヒーを一口すすった。昨日、一昨日より声の調子がしっかりしている。

「昭吾は、どうにか大丈夫みたい。無事じゃあないけど、ともかく命はたすかったって。手術が成功したってお医者さんが言ってたわ」

「ひと安心ですね」と夏は気休めを言ったが、おばさんはうなずいて、遠くをみるような目つきをした。

「どうして、こうなっちゃったのかねえ」

 おばさんとは異なった意味で、夏も彼女の言葉に同意した。どうして土井先輩は飛び降りたのか? 誰かにとり憑いている悪霊が関係してるのだが、それが誰で何のためなのかわからない。

「あなたにも心配かけちゃって、ごめんなさいね。昭吾が起きたら、すぐ伝えるからね」

「僕はかまわないんです。ヒマですから」

「ありがとうね」とおばさんは遠くを見たままでお礼をいった。でも、ふと思い出した表情で夏を見た。

「もしかしてあなた、お見舞いに来て、ここで昭吾の彼女に会ったこと、ない?」

「……ありません。彼女がいたことも初耳です」

「そうなんだ。おばちゃんも、一度、街で見かけただけで、確かじゃないんだけどね。お見舞いに来てもらってたら、悪いもの」

「お母さんにとって彼女かどうかまだ確かじゃないということは、先輩に彼女ができたのは、最近なんでしょうか?」

「え……?」とおばさんが顎に片手をやって考える、「そういわれれば、そうね。きっと、ここ一ヶ月ぐらいじゃないかしら?」

「一ヶ月……三月からですか?」

「はっきりとはわからないわ。おばちゃんは、先々週の春休みに見たの。駅前で手をつないで歩いてて、昭吾、最近休みが多かったから、それが原因なのかと思ったわよ」

「はあ、意外でした」

「私もよ。眼鏡かけてて、真面目そうに見えたし、こう言っちゃあの子に悪いけど、昭吾とは釣り合わないように見えたわ」

「髪の色も黒いですか?」「そうよ。あなたも見た?」「いいえ。残念ながら」「そう、ざんねん」

「おばちゃんも言うけど、もしもあなたが、お見舞いに来て彼女を見かけたら、昭吾が助かりそうだって伝えてあげてちょうだい。ね?」

 と土井先輩の母親は、熱のこもった声で言った。それが今日の午後二時すぎのことだ。

 夏はかじっていたボールペンを口から離し、来週の予定を手帳に書きこむ。

『小夜実先輩と土井先輩の交際について――三年生に確認?』

 気が進まないことだ。それから、ペンを走らせて、また一つ気の進まない予定を書き加える。

『七年前の事件について、結縁先生に質問』

 担任教師の肩をふるわす姿を思いだして、夏はため息をつく。

 月曜日に自殺未遂が起き、火曜日は小夜実先輩が泣き、金曜日には土井先輩の母親と結縁先生が泣いてしまった。

 夏は疲れてきたので、気晴らしのため、思っていることを手帳の余白に書き出す。

『被害者と加害者を比較した場合、通常、被害者のほうが罪悪感は薄い』

 予定の確認は済んだので、夏はボールペンを置くと、右腕の『千春』を包帯の上から撫でた。彼の殺した姉はいつでもそばにいて、彼の心に罪悪感を呼びおこす。

『加害者は許されない』

 最後に短くつけ加え、夏は手帳を閉じて再度ボールペンをくわえた。

 土井先輩と付き合っていたのは小夜実先輩で、悪霊がいるのは、おそらく彼女のなかだ。しかし、それを確認する過程では、彼女を傷つけることになるだろう。なぜなら、彼女は一人の男子生徒をマンションから飛び降りさせているのだから。

 夏は椅子から立ち上がって、眠りにつくために部屋の電気を消した。胸がきしんでいて痛い。今晩は、なかなか寝つけないような予感がした。

  九

 週があけて、月曜日の放課後、夏は自動販売機でカフェオレとブラックコーヒーを買って、屋上に向かった。先に職員室で担任の女教師がどこにいるか聞いたら、眠そうな顔つきの校長が、屋上だろうといっていた。

 階段を上りきって、ドアを開けると、夏はほのかなメンソールの匂いをかいだ。顔をあげると、給水タンクの横で、担任教師が壁に寄りかかって煙草をくわえていたので、彼も飲み物を鞄にしまい、梯子をのぼった。努めて明るい声で、挨拶する。

「こんにちは」「やあ、杜くん」

 結縁先生がほほ笑んで、煙草をふかした。白い煙が、水色の空に吸いこまれていった。夏も笑顔を作って、彼女をじっと観察した。

「警戒してるのか? 私はだいじょうぶ、今日は泣いたりしないさ」

 彼は苦笑いして、通学鞄に手を入れると、担任教師にカフェオレを差しだした。

「きみ、ぜったいに十五歳じゃないだろう」

 結縁先生がそういって、白い細い指で缶を受けとった。

「いえ。十五歳ですよ。僕はアスリートじゃないから、年齢詐称しません」

「そうか。天才的だな」「他人に気を遣う天才ですか?」「うん」

 肯定すると、担任は体を折り曲げて、くっくっと笑った。

「末は教師にでもなったらどうだ? 私よりうまくやれるさ」

 夏は笑いに同調できず、気持ちを落ちつけるために、屋上から見える景色に目をやった。

「あの、金曜日の件ですけど、話したくなければ何も言わないでください」

「どうして?」「人が苦しむのを見るのは嫌ですから」

「ふむ。君は、何の目的で、他人の自殺動機を調べてるんだい?」

 夏が考えていると、結縁先生がつづけた。

「もしかして……きみも、死にたいのか?」

 意外な質問を受けて、夏はたじろいだ。担任の教師が手をのばし、夏の手首をつかむ。冗談でなく、担任が本気で聞いている証拠に、彼女のやわらかい指が絡んではなれない。

 ――ぼくは死にたいのか? 

 答えはすぐに出た。

「まさか。非経済的です。現代日本の葬儀は高価ですから」

「現実的だな」「人の死は現実です。空想じゃない」「ああ」

「きみがそういうなら心配要らないだろうが、念のため、話しておきたいことがある。いいかい? 聞きたくなかったら、止めてくれよ」

 前置きをして、担任の女教師は七年前の自殺について語りはじめた。

 

「ごめんね、先生。僕はやっぱりダメだった」

 自殺をした当日、視聴覚室の窓にもたれかかって、男子生徒は言った。二年生で、結縁が担任するクラスの生徒で、成績はまんなかより上で、友達は少なかったが、素行は良かった。小柄で、髪は黒で短くて、地味な眼鏡を掛けていた。

 七年前のその日は、二人がある約束をしていた日だった。

 結縁はその半年前、屋上から飛び降りようとしていた男子生徒を見つけ、彼を止めた。次の日も彼は屋上にやってきたので、結縁はまた止めた。二人はしばらく話し合った。

 自殺の動機は金やイジメじゃなくて、彼の心に根ざしていた。彼の話は結縁には理解も共感も難しかったけど、「参ったな」と連発しながら、必死で彼を理解しようとした。

「僕は死ぬんです」と彼はいった。「死にたい」じゃなく「死ぬ」といいきり、すでに死んだ人間みたいに死を受けいれていた。結縁にはそう見えた。そのうえ本当にこの世にいないみたいに、話に捉えどころがなかった。

「僕、決心してから一ヶ月待ったんです、一ヶ月経って、死ぬ気がなくなったり、怖くなったら、止めようと思ったんです」

「だけど、参ったな。……そんな気分みたいなもので、きみは死ぬのかい?」

「はい」と男子生徒は頷いた。普段着で、気負いがなくて、だけどたしかな発言に聞こえた。

 小一時間ほど、二人で話をしたけど、彼の決意は揺るぎそうになかった。いま私が止めても、この生徒は他の場所で、他の方法で、自殺するだろう、という予感がした。そんなのは悲しいし、嫌だ。

 だから結縁はダメで元々、彼に提案した。

「わかった」「え?」

「君が死ぬ気なのはわかった。でもさ、もうちょっと待ってみたらどうだ?」

「……どれぐらい?」と聞き、男子生徒は、初めて結縁に興味を持ったように、彼女をじっと見た。

「半年」と結縁は根拠もなくいった。

「半年待っても、決意が変わらなかったら、私は君を止めない。……いや、いや、変わるさ。うん、きっと、変わるよ」

 結縁が明るい声を出して、祈るような気持で呼びかけると、男子生徒は時間をかけて返答した。

「わかりました。十二月まで待ってみます」

 表情も声の調子も変えず、そう彼は宣言した。そして鞄から手帳を取り出して何か書きつけると「じゃ、失礼します」、といって、さっさと帰ってしまった。結縁は屋上に立ちつくし、震える指に煙草をはさんでふかした。味がしなかった。

 半年がまたたく間に過ぎた。


「やっぱり、ダメだった」という言葉に結縁が答えられずにいると、

「ほんとに、ごめんなさい」と彼はまた謝罪した。でも結縁にはそれが、悲しそうな声には聞こえなかった。彼は人生を悲観しないで、諦観していた。人生をあきらめてしまう自分を責めていた。

「どうしても……?」結縁は現実感がわかなくて、かすれた声を出した、「いいじゃないか、べつに、そんな、急いで、死ななくたって」

 彼女は窓側の最後尾の席に後ろむきに座って、両腕を垂らし、男子生徒を横目で見ていた。真っ赤な西日が差して、死にたがりやの男子生徒のかすかにほほ笑んだ顔を照らしている。

「急いでないよ。僕としては長いこと待ったんだ。五年か、それ以上。周りにある世界や人間の価値観と、ぼくの個人的な価値観を揃えられたらと思って、他人と関わりあいながら、自分を試しながら待った」

 結縁は食い下がった。

「きみ、もう少しじゃないか? それに、みんなと同じじゃなくってもいいよ。なんだっていいじゃないか」

 説得力がなくって、感情的な言葉を吐き、結縁はくやしくて悲しくて涙ぐんだ。ちくしょう、なんでまともな言葉が一つも出てこないんだろ。そんな彼女の言葉をきいて、自殺志願者はやさしい目をして頷く。

「うん。どっちだって、なんだって、いいのかもしれないけど。でも、耐えられない人もいるよ。どっちだっていいって感情を隠して、人の間で笑ってるのがさ。そんな人間が一人、減ったって減らなくたって無意味だけど……」

 男子生徒は低い声で結縁に聞いた。

「ねえ先生、人はどうして、他人と仲良くするんだろ」

 結縁また不意をつかれたように声を出した。

「え」「人はどうして、関わりあうのかな」

 涙声で、彼女は答える。

「だって、そうしたいと思うもの」

 他に何があるっていうの。何かなきゃいけないの?

「もし思わない人がいたら?」「それは、だって」

 結縁は、「そんなのおかしいよ」って否定したかったけど、声が出なかった。なぜなら、なぜなら、なぜだろう。理由なんているんだろうか。

「僕の心は不自然なんだと思う。もう生きてるのが充分になったんだ。この世界は僕がいないほうが、より良くなる」

「だって、なんで?」

 と聞いたら、目から涙があふれてきた。

「生きてくのが苦手な人は、どうしたら、いいのかな。どうなってくんだろうね」

「あたしだって、生きてるの、得意じゃないさ」

「じゃあ、何で、生きてるの?」

「なんで、って。だって、だって」

 そういわれれば、あたしは、何で生きてるんだろ。この子より長く生きてるぶん、きっと、ひどい思いもいっぱいしてるのに。

 あたしは生きてる。だって、死にたいなんて、思わない。

 あたしは生きてる。なぜなら、なぜなら? なんにもない。結縁は心のなかを一生懸命さがしたけど、理由なんて、なかった。

 なくっても、いいよね? だめかなあ。人生に理由なんてない。だけど、だけど。

 理由も目的もないし、大事な人もいない。約束もないし、夢だってない。そんなもの、あたしのどこにもないよ。

「じゃあ、先生、さよなら」彼は窓を開けた、「あのさ、べつに悪くなかったよ、僕の人生」

 何もいえない結縁の前で、彼はベランダに出て、ひょいっとフェンスを越えた。地面が揺れて、肉と骨がつぶれる音が聞こえた。

 目から涙があふれ、全身を悪寒が貫いたあと、結縁はすーっと意識を失った。

 校長に揺り起こされるまで、彼女は視聴覚室の床に倒れていた。

 その日から一ヶ月間、結縁は休職した。

「あと一ヶ月くらい休んでも、給料は払えるよ?」

「いえ、もう休んでるほうが辛いんです。明日からまた、ここで、働かせてください」

 復帰する前日の午前、結縁は校長室で、あらためて彼女の気持ちを伝えた。

「ふうん」と校長がうなり、結縁の顔を見て、天井をあおいで、また結縁を見た。

「ぼくは反対しないよ。優秀な教員を失わずにすんで、ほっとしてるところさ。でも、理由を聞かせてくれないか? 結縁ちゃんが、この学校で、まだ教員を続ける理由を、ぼくは知りたい」

「理由ですか」といって結縁は息を深く吸いこみ、ゆっくり答えていった。

「正直いって、うまく説明できません。でも休んでいる間、何をするか考えて、結局のところ、また教師がやりたいと思ったんです。うまくやれるかどうかはわかりません。そんな決意じゃなくて、でも、まだ、もうちょっと教師がやりたいんです。だから決めました。もちろん、意味も理由もなくて、気に入って、あたしの意志でやると決めただけです。やっぱり使えないと判断したら、遠慮なく首にしてください」

「理由はなくても……意志はある、か。了解したよ、結縁ちゃん。きみを首にするわけない。また来週からよろしくね」


「だから、きみは死ぬなよ」

 といって、結縁先生がやっと手を放した。夏は左の手首を右手の指でさすりながら、吹きだした。

「あの。もしかして、本気で僕が自殺するんじゃないかと心配したんですか?」

「……ほんとうに、違うのか?」

「あー、あー。そのために、いまの話を?」

「参考になればと思ったんだが……ちがったか」

「僕は自殺は考えてません。でもカフェオレの代価として興味深い話でした」

「おいおい、今の話はカフェオレじゃ安すぎる。ツケとくぞ」

 女教師が苦笑いした。夏はまた遠くの景色を見た。夕日がビルに隠れようとしている。

「貴重なお話、ありがとうございました。他言しません」

「心配していない。君というひとは私に気を遣うせいで、軽はずみで他人に話すことは出来ないからね」

 先生はそういってから、引き締まった声で、「ほんとうに、死ぬなよ」とつけたした。

「生きろよ、って言わないのは、先生の優しさですか?」

「なに? ……いや。『生きろ』なんて口にするのが怖いだけさ。『死ぬなよ』だったら私にだっていえるだろ」

 その言葉に夏は胸が痛んだので、作り笑いを浮かべて頷いた。結縁先生もほほ笑んでいた。

「じゃ、帰ります」「おう。また明日な」「はい。ありがとうございました」

 もういちど礼を言って頭を下げ、屋上から校舎に戻り、夏は昇降口に向かった。

 帰りがけ、下駄箱を開けると、一通の茶封筒が入っていた。


 夏が校門を出て、すでに薄暗くなった通りを歩いていると、小夜実先輩が片手で目を擦りながら先を歩いていた。夏は追いかけて挨拶し、緊張した気持ちで、どうして帰りが遅くなったのか聞いた。

「えー。図書室にいたんだけど。眠くなっちゃって、ついさっき、起きたんだあ」

「そうだったんですか。なにを読んでたんです?」

「えー、本は読んでないよ。あたし、英語の問題集を解いてたんだけど、すっごく眠くなってきちゃったんだよ。でも寝ちゃダメだーって思って、顔をあげて時計を見たの。そしたら、いつの間にか六時になってたんだよう。……おーいおいおいおい」

 といって、先輩が古くさい泣きまねをする。

「神様、仏様、お許しください」

 夏は同調せずに、小夜実の態度を注意ぶかく観察した。彼女が普段どおりの様子に見えるので、彼は心の隅のほうでひと息ついた。

「神と仏を同一視するのは、双方に対して侮辱的ですよ」

「大丈夫! どっちもあんまり信じてないもん」

「身も蓋もないですね」「うん。いいの、いいの」

 先輩がイタズラっぽく笑って、片手をこちらにむけてひらひら振る。その笑顔を壊すことに罪悪感を覚えながら、夏は口を開く。

「あのですね、また変なことを聞いてもいいですか?」

「やだ!」と先輩が即答した。

「なんできみは、変なことばっかり聞くの?」

「なぜなら、僕は情報が必要です」

 先輩が頬をふくらませて夏のほうを向いた。夏は眉間をよせて肩をすくめる。彼が困っているのを見てとった様子で、先輩が胸を張った。

「しょーがないなあ、お姉さんが聞いてあげよう。いってごらん?」

「いいんですか?」「うん。今から十秒間だけ良いよ。じゅう、きゅう、はち、なな……」

 小夜実先輩が唐突にカウントダウンを始めたので、夏はあわてて聞いた。

「その、もしかして先輩、木村先輩と付き合ってませんでしたか?」

「ええ? あたしが木村君と? 付き合ってないよ。きみ、シャーロック・ホームズにしては冴えてないね」

「あれは嘘です」「知ってるよ! 身も蓋もないなー」「僕も同感です」「あたしも。あははーっ」

 やはり先輩の態度に陰は感じられなかった。その明るさに混乱して、夏は首をかしげる。

 土井先輩の件について質問したとき、小夜実先輩は泣いた。でも木村先輩については、質問しても何の反応もない。泣かないのはいいが、収穫もゼロだ。

 しかし土井先輩の母親は、息子の彼女として小夜実先輩の特徴を挙げていた。ということは?

「その、またすごい失礼な質問だと思うんですが……先輩は土井先輩とは付き合ってたんですか?」

「どういうこと? なんでそんなこと、君に聞かれなくちゃいけないの? ちがうよ。あたしと土井君はそんなんじゃないんだよ。あたしたちはさ……うう、やだっ!」

 先輩が声を張りあげ、目をつむってはげしく首を振った。長い黒髪が夏の目の前で、左右に振りまわされる。

 夏はおどろき、先輩がまた泣き出しやしないかと心配して、右手を出して彼女の背中にふれた。ところが、パシン、と音をたてて先輩は彼の手を払いのけた。

「ごめん! ごめんね」先輩は低く抑えて声で言った、「なんでもない、なんでもないよ。自分でしらべてよ。シャーロック・ホームズなんでしょ?」

 夏は一呼吸置いて、うなずいた。

「はい。わかりました。ご協力ありがとうございました」

 敬語でお礼をいい、深くお辞儀をして一歩さがり、彼は気持ちでも距離でも先輩と間をあける。先輩が顔をあげて彼を見る。ひらいた両目のなかに、怒りのような光を感じた。

「不快にさせて、申し訳ありません」

「なに、それーっ。もうもう、もーっ!」

 といって、先輩は手に持っていた鞄を杜夏の方へ振ったけど、届かなくて空を切った。

「知らないよっ。きみはずるいんだ。部外者みたいに敬語を使って、悪いことした人みたいに謝ってさ。ずるっこだよ!」

 小夜実先輩が強い口調でいって、駆けだした。のこされた夏は頭を掻き、ため息をはいた。人通りはあったのに、彼女のかけて行く足音がはっきり聞こえた。

 夏は先輩に聞きたいことがもう一つあったのだが、今日のところはそれをあきらめた。先輩に怒られたのが気まずくて、周りを見まわし、誰も注目していないことに安心して、彼は疲れた顔で家路をたどった。

  十

 夕飯のあと、夏は苦い顔をして、下駄箱に入っていた封筒の中身をあらためていた。疲れのせいか、肘掛け椅子にしずんでいた背すじをまっすぐにたて、考えごとに集中する。 

 机のうえには、二枚の紙が置かれ、そのうえにUSBメモリーが一個のっている。

『田中 小夜実は二年の三学期末テストでカンニングをした』

 一枚目の紙の上部に、太字で印刷された文字が並んでいる。その下に、詳細なカンニングの方法、初めてでなく、これまでに何度も行っている等、告発文がA4の用紙にびっしりと記されている。

 もう一枚の紙は、実際にカンニングに使用された用紙みたいだ。メモ用紙に、歴史の年号がゴマ粒ほどの大きさの字で書いてある。一度破り捨てたものを誰かが拾ったようで、細切れの紙片を白い台紙に糊ではり、復元されていた。

 二枚の紙を見ていると、夏の両目がゆがんだ。簡単には信じられないが、イタズラにしては手が込んでいると感じる。

 夏は深呼吸してUSBを手に取り、パソコンを起動した。ファイルは一つしか保存されておらず、『カンニング』というタイトルがついていた。彼はそれを開く。

「あなたには田中 小夜実がカンニングをした証拠をご覧になって頂きたいと思います」

 ボイスチェンジャーで加工した声が耳に入ってきた。

「あなたは最近、彼女とよく下校していますね? でもあの女はあなたが考えているような人間ではありません」

 夏は首をかしげた。彼らの姿を見ている人間が、どこかにいるのだろうか? ピエロのような声で、そいつは語りかけてくる。

 ピエロが黙り、暗かった画面が切り替わった。成関高校の教室が写っている。カメラは床に固定されている様子で、小夜実先輩の席をななめ下のアングルから撮影しており、黒い髪と下半身しか見えないが、このところいっしょにいるおかげで、夏にはそれが小夜実先輩だとわかった。生徒たちは着席していて、テストの答案が配られていく。

「昨年の三学期の期末テストです。科目は日本史です。彼女は日本史のテストでしか、カンニングはやりません。先生のチェックがゆるいので、安全なのです。……そろそろ、始めますよ?」

 小夜実先輩の左手が机の下でうごいた。手首をさすっている。と思ったら、手首とブラウスの袖の隙間から、薄いメモ紙が姿を現した。彼女はメモを手のひらに納め、手首を天井に向ける。五分ばかり、メモを上向きにしたあと、また彼女は手首をさするフリをしてメモをブラウスの袖のなかに戻した。動きにぎこちなさがなくて、手馴れている、と夏は感じた。

「いかがでしょうか?」

 と感情のない誰かが疑問を発し、動画はそのあと先輩が何度かメモをのぞく仕草をながして、約二十分で終わった。

 夏は腕組みを解き、マウスを操作して、何度か動画を見返した。納得のいくまで見ると、彼は手帳をひらいてボールペンを持つ。

『田中 小夜実のカンニング動画――本物と思われる』

『誰が撮ったのか?』

『どうして私に届けたのか?』

 疑問を書きつけて、ふたたび腕を組む。

 カンニングの動画の出来が良く、現場を捉えていて説得力があること。木村先輩が小夜実先輩の名前を出すのをしぶったこと。土井先輩が母親に小夜実先輩との交際をおしえていなかったこと。小夜実先輩が土井先輩について聞かれるのを嫌悪していること。

 情報を総合して得た推測を、夏は手帳に書きはじめた。

『小夜実先輩は自分で自分を――』

 そのとき着信音が鳴ったので、夏は携帯電話を手にとった。シスターからだ。

「こんばんは。調子はどうです?」

 夏も挨拶して、状況を報告した。

「ついさっき情報がそろったから、明日か明後日に片付くと思う」

「順調ですね。その割に声が沈んでるのは、なぜですか?」

 シスターの疑問に、夏はどきりとした。シスターの洞察力は確かだから、自覚しないうちに、気持ちが沈んでいたんだろう。彼は冷静になるために、じぶんの感情をみとめた。

「ショックなんだ。彼女は悪霊に憑かれたことに無自覚だし、やったことを知ったら、どうなるかと思うとさ」

「すると、あなたは無自覚な人間に事実を伝える役目ですね」

「うん」「あなたには辛いでしょうね」「シスターは辛くないんだ?」

「はい。人は事実という罪を知らなければ、罪を償うことが出来ませんから」

「……はあ。ご高説、ありがとうございます」

「うふふ、皮肉がいえるならだいじょうぶですね」

 シスターは笑い声をたてて、そういった。それから、

「事実はいずれ知れわたりますから、あなたの苦悩に意味はありませんよ」

 と最後にやさしい声で無慈悲なことをいって、シスターが電話を切った。神も仏もありゃしない。

『小夜実先輩は自分で自分を、告発している』

 夏は書きかけのメモを最後まで記入し終えた。事実を伝えたら、小夜実先輩は混乱するだろう。それから、悪霊が自己防衛のために顔を出すだろうと、夏には予測が出来た。そしたら『小春』に悪霊を食わせて、彼の仕事は終わりだ。

 だけど――。

 夏は下をむいて歯ぎしりした。やがて手帳を閉じ、歯磨きするため、彼は肘掛け椅子から立ちあがった。

 

 入学式の翌週の月曜日、小夜実はいつものように、パンツをはかず、青白い首に犬用の赤い首輪を着け、その上にストールを巻いて隠して、俺のうちに来た。彼女は彼の親が何時に帰ってくるか、知っている。母親が何曜日にアルバイトに出て、父親が毎朝何時に出勤するかも知ってる。

 だからいま、小夜実は週にかならず四回、土井の住むマンション『アトリウム』を訪ねてくる。

「また、来ちゃった。えへへー」

 恥ずかしそうにほほ笑みながら、彼女は後ろ手に玄関のドアを閉める。

 今さら何いってんだとか、断ったら泣くだろとか、でかかった言葉を飲みこみ、土井はフラフラ歩いて近寄る。小夜実の細く柔らかい体をだきよせ、くちびるを吸うと、下半身に欲望がわきあがるのを彼は感じた。

 セックスのあと、二人はベッドで横向きに寝そべり、土井は背を向けている小夜実に手をのばした。

「ごめんなさい」「は? なんで?」「あたし、エッチさせてばっかりだよね」「あー……おたがいさまだろ」

「ありがとう、昭吾。……ね、ね、首輪引っ張って?」

 小夜実が寝返りを打って、土井を見た。両目が妖しくきらきら光っていた。彼はつばを飲んで、首輪につながっているピンク色の紐を引っぱった。彼女の要求に応じて一ヶ月たっているが、まだ緊張してしまう。

 小夜実が土井の前で土下座をし、ベッドシーツに額をすりつける。

「おねがいしますおねがいします。小夜実のお尻を思い切り打ってください。たくさんたくさん、叩いてください」

「わかったよ」と土井はいった。

「ケツあげろ」「はいっ」「早くしろよ、ヘンタイ」「は、はいっ、ごめんなさいっ」

 小夜実がまっしろい尻を土井に向け、膝を伸ばして高くかかげる。

「やってやるよ」と土井は言った。

 彼は右手をあげ、赤く腫れあがるまで、彼女のお尻を平手打ちにした。

「ううー、う、うれしいよう……ううっ、うう。あたし、おしり打ってもらえて、うれしいのっ」

 小夜実がうめき声をあげてよろこぶ。土井は疲れてきて、打つのを止めた。こんなはずじゃなかったのに、という空しさと自己嫌悪がこみあげる。

 三学期の終わりごろから、土井は小夜実と仲良くなった。特別なきっかけはなく、小夜実がなんとなく彼に話しかけてくるようになったんだ。

 ある日、土井の下駄箱に、一通の封筒が届いた。なかには小夜実のカンニングを告発する手紙とデータが入っていた。その日の放課後、彼は彼女をさそって帰り、質問した。

「おまえ、さ。……カンニング、してたんだって?」

 土井の言葉を聞くと、小夜実は整った顔をゆがめて彼にすがりつき、誰にも言わないでほしいとお願いした。土井は、女の泣き顔を見ながら、体を要求した。してしまった。

 もしあの封筒が届かなければ、土井と小夜実の関係は違っていたかもしれない。でも、二人は体と罪悪感でつながって、二人の関係が糸だとしたら、ごちゃごちゃに絡まってしまっている。

「あたしは悪いことをしたんだから、虐められなきゃダメなんだよ。ぶってもらわなきゃいけないんだよ」

 はじめて虐められることを求めたとき、小夜実は泣きそうな声でそういった。土井は笑って、軽い気持ちでうなずいた。その日から、会うたびに彼女は土井に、じぶんを虐めてほしいと要求した。

「あたしは罰されたいんだよ。あたしの体を痛めつけて、心をえぐって、ボロボロにして欲しいの」

「おまえ、死んじまうじゃんか」と土井が聞くと、

「うん。あたし、死にたいの」と彼女はいつもの明るい声でいう。 

 小夜実といっしょにいることが、自分自身、荷が重いと土井は気がつきはじめていた。だから、その日、射精をすませたあとで何もかも聞こう、と彼は決めていた。

 いままで聞かずに済ませていたこと。どうして罰して欲しいのか、何が小夜実の罪なのか。カンニングだけとは思えない。彼はそれをわかりたいと思った。

「だけど、何を罰して欲しいんだ? おれ、ちゃんと聞いたことなかったよな、ごめんな」

「いえない」「なんでだよ」「だって、たくさん、あるんだよ?」「いいぜ」

「ほんとうに、いいんだね」

 少年の意志を確かめるように、少女が顔を近づけ、彼の顔を覗きこむ。

「土井君にはなにもかも打ち明けちゃうから……あたしをぜんぶ、支えてよ」

 小夜実の黒目がせわしなく左右に振れてから急にぴたりと止まり、猫みたいに瞳孔をひろげるのを土井は見た。

「テストで良い点がとりたいからって、おかあさんもお父さんもだましてるの。あたしはもっと良い子でいなきゃいけなかったのに。そしたらお母さんを怒らせることもないの。もっとちゃんと勉強してたら、お友達だって、うちのお父さんに『勉強の邪魔しないでほしい』って言われて嫌な思いしなくって済んだのに。それに、木村君とも、あたしは付き合ってたの、知ってた? 退学させちゃったの、あたし。せっかくお母さんががんばって高校に行かせてくれてたのにねー。あはは。あたしが居なかったら良かったのに。あたしがもっと強かったら、土井君だって普通の女の子と居るみたいに、好きなこのお尻叩いたりしなくって良かったのにね。あ、叩きたい人もいるか、あははは」

 乾いた笑いを部屋にひびかせて、小夜実は罪だと感じていることを告白した。口調は不自然に明るく、はげしくて、しだいに熱と湿っぽさをふくんでいった。

 もうずいぶん前から、成績をあげ、スリルを味わうために、カンニングを繰り返している罪悪感。両親に期待されるほど成績が残せない苦しみ。それなのに、両親に何もいえない不甲斐なさと自己嫌悪。父親が友達に苦情を言って、彼女を遊ばせないようにさせた恨み。それを自分のせいとしか思えない空しさ。苦しみのはけ口に土井に自分を虐めさせてよろこぶ自分の欲望に吐き気がする。

「ねえねえ、土井君? ……あたしね、いまから、いっしょに死にたいな。だめかなあ?」

 小夜実はおしまいにそういって、泣き笑いを浮かべて、目の前の少年を見た。彼は首を横に振ることが出来なかった。彼女の罪悪感と空しさは、彼女自身の心を破壊したように、十七歳の少年の心も捉えてのみこんだ。

 土井は同情して泣き出してしまい、小夜実の胸に抱かれた。

「いいんだよ。つらいね、もうやめにしようね。あたしたち、もういいんだよ」

 小夜実が子供をあやすような調子でそういって、土井の体を支えて立たせる。彼女は彼の腕にしがみつき、ベッドから降りて、オープンキッチンを通って、居間の窓のほうへ彼の体を引っぱっていく。

「なあ」「うん。なーに?」「やめないか?」「どうして?」「だって、こわいよ」「あたしもこわいよ。あはは」

「だから二人でいっしょなんだよ。だいじょうぶだよ」

 小夜実がベランダに続く窓を開けた。冷たい空気が部屋に入ってくる。

 外にでる直前、土井はオープンキッチンの入り口のほうを振りかえって、母親がひょっこり顔を出して二人を止めてくれないかと期待したけど、キッチンはがらんとしていた。

 ベランダに出ると、土井は腕をつかまれたままで靴を脱ぎ、手すりに足をかけた。アルミ製の手すりが足の裏に触れたとき、すごく冷たかった。両足で手すりをまたいでしまうと、あとは彼女の重さに引かれて、空中に身を投げ出すだけだった。

  十一

 小夜実は彼女の教室の黒板いっぱいに書かれた色とりどりの文字を、黒板消しを片手に持って泣きながら、時どき背伸びをして、隅からすみまできれいにしていった。でも半分も消さないうちに、黒板消しは真っ白になってしまって、ベランダに出て叩いて、また教室に戻って、その往復を彼女は三回もくり返した。小夜実の制服も両手も、チョークの粉まみれになった。

 小夜実は登校したときも、今と同じように黒板をきれいにした。でも昼休みが終わって、教室に戻ると、落書きが新しくなってたんだ。

『カンニング・田中 小夜実』という文字をぜんぶ消し終えると、彼女は床にへたり込んで失神した。

 その日、いつもと同じ午前七時五十分に小夜実が登校し、教室の後ろのドアを開けると、なぜか部屋のなかが静かになった。彼女は首をかしげた。なんだろ、なんでみんなあたしのほうを見るんだろ、と思ったとき、冷たい言葉を浴びせられた。

「サイアク」「……え?」「うん。サイッテー」「え、え?」

 小夜実は戸惑った顔でクラスメイトを見た。みんな、目が合いそうになると、そっぽを向いてしまう。

 そのとき、ようやく小夜実は黒板に書いてある文字に気がついた。彼女のカンニングを告発し、非難する言葉。それに、大量の悪口が、全面を隙間なく埋めている。

『詐欺師・ペテン師は刑務所に行っけ! 出てくんな!』『最低人間』『私はカンニングで最高点を取りました! 田中 小夜実』『勉強してるフリ』『タダのネクラ(笑)』『おまえも飛び降りて死ね』『クズ』『大ウソツキ』『友達0人』『殺すぞ』『粗大ゴミ』

 黒板のほうへフラフラ近寄って、小夜実は書かれている文字を読んでいった。文字だけじゃなかった。彼女がメモをブラウスの裾から取りだす場面が、A4サイズの紙でカラープリントされ、マグネットで黒板の四角にはられている。

『決定的瞬間!』とプリントのうえに、説明書きもしてあった。

「うそだよ。こんなのうそだよ、あはは……」

 小夜実はつぶやいて、黒板消しを持ち、のろのろした動作でラクガキを消していった。

「うそだもん、ちがうもん」

 魂の抜けたような声で否定する。両目から涙があふれてきた。半分も消しきらないうちに、教室の前のドアが開いて、担任の男性教師がホームルームのために入ってきた。小夜実は彼をぼんやり見た。

「おいおい、すごいイタズラだな、なんだこれは?」

 最初、担任はおどけた調子でそういったけど、黒板を消して貼り付けられたカラープリントを見てるうちに、態度を変えた。小夜実が黒板消しを置いて席に着いたとき、先生はこっちをじっと見ていた。

「あたし、知りません。知りません」

 小夜実はか細い声でいって、首を振った。先生は視線を逸らさず、じっと彼女を観察したあとで、急に何事もなかった顔をしてホームルームの号令をかけた。

「おまえ等、もう三年生だからな。くだらないイタズラに時間を割いて後悔しても、俺は知らんぞー」

 先生はホームルームの最後にそういって出ていった。小夜実はうわのそらだった。

 一時限目は変わりなかったけど、二限目は自習になって、小夜実は担任の男性教師に呼び出され、職員室に行った。校長先生も同席してた。彼女は隅っこの椅子に座って、向かいの席の担任教師から質問を受ける。

 校長先生はほとんどしゃべらないで、小夜実と担任教師の顔と机のうえを、何事もないような顔をして見比べていた。さっき貼りだされていたプリントが、机のうえにひろげられている。

「正直に答えてほしい。田中、おまえ、こういうことされる心当たりはあるのか?」

「しりません、あたし」と小夜実は否定も弁護も出来なくって、あいまいな返事をした。「わかりません、あたし」

「心あたりもないのか、ぜんぜん?」

 先生が首をかしげて聞いたけど、彼女はうわのそらでほとんど耳に入ってこなくて、独りごとみたいに答える。

「だって、なんで? 誰が、こんなことしたんだろう」

 すると、止まっていた涙がまた出てきて、よせばいいのに「うう、ううー」、と声をあげながら職員室で泣いてしまった。かっこ悪くて悲しかったけど、おかげで担任の先生は追及を止めてくれた。

 小夜実はひとまず開放され、三限目と四限目の授業は普通に受けられた。でも、昼休みが終わって図書室からもどってくると、誰もいない教室の黒板が、朝と同じようなラクガキで埋めつくされていた。

「なんで、なんで、なんで?」とつぶやいて、彼女はひとりで黒板を消した。チョークの粉をうっすらと制服につけて、ラクガキを全部消し終わったとき、意識がふーっと遠のいた。

 気がつくと小夜実はベッドに寝かされていて、カーテンの向こうから聞こえてくる話し声で目が覚めた。知らない女子生徒同士が、小夜実について話している。保健委員会の生徒とその友達の三年生だろうと、話の内容から、彼女は推測した。

「ね、奥の人まだ起きないの? お昼から、ずーっと寝てるんでしょ?」

「うん。……よっぽどショックだったんじゃないの。まあ自分がやったことのせいだけどね」

「カンニングだっけ? あれ、マジなの? あたしちょっとビックリしたんだけど」

「ホントだと思うよ。証拠写真みたいなのが黒板に貼られてたし、先生にも呼び出されてたもん」

「マジか。……バッカだよねー。そんなことしたらヤバイに決まってるじゃんね」

「ほんと、ほんと。普通に考えたらヤバイってわかるのにね。あれじゃない? 勉強しすぎて頭がおかしくなったんじゃない?」

「うわっ、こえーっ、あたしも気をつけようっと」「いや、あんたの場合は心配要らないでしょ」「なによう」

 興味本位の会話を聞いて、小夜実は胸がじくじく痛み、また涙が込みあげてきた。こんな風な会話の種にされるってことは、彼女のカンニングは、事実として認められたんだろう。そりゃそうだよね、ほんとなんだもん。

「ううー……」小夜実はうめきながら両目を擦った。女子生徒たちの声がやんで、白いカーテンの向こう側で、荷物を片付ける物音がした。

「あの、田中さん」

 保健委員らしい女子生徒が、カーテンの端を引っ張り、顔だけ出して小夜実に呼びかける。

「あたし、保健の先生に、あなたの目が覚めるまでここにいろって言われてたから、待ってたんだけど……もう起きたから帰るね。じゃあね」

 早口でそういうと、女子生徒は顔をひっこめ、すぐにドアを開閉する音が聞こえて、人の気配を感じなくなった。丸顔で茶髪の、明るそうな印象の女の子だった。

 誰もいなくなったことに安心して、小夜実はのろのろ体を起こしてベッドから降りた。服は気を失ったときそのままで、チョークの粉もスカートにくっついている。それを手で払って、彼女はカーテンを引いた。

 保健室のなかはしずかで、ほのかにアルコールのにおいがした。校庭に面した窓から西日が差し、それが白い床に反射してぴかぴか光っている。小夜実は石膏の壁に手をついて、扉のほうへ歩いていく。人に会うのが怖いので、学校から出たい。ともかく鞄を持ち帰るため、彼女は教室に向かった。

 ――でもあたし、学校を出てからどこへ行こうかな。


 放課後、夏が緊張した気持ちで、三年生の教室に入ると、西日の差す教室には誰もいなかった。まず、小夜実先輩の席に荷物が残っているのを確認し、胸をなでおろす。

 それから夏は、黒板にひろがっている落書きを見つけると、頭を掻いて、黒板消しを片手にそれを消しはじめた。

「こんにちは、先輩。お邪魔しています。……いや、こんばんは、ですかね?」

 教室のドアが開く音が聞こえたので、夏は振りかえらずに挨拶した。返事がない。

 振り返ると、小夜実先輩がぼう然と口をあけ、赤くなった目で黒板を見ていた。

「なんで、なんで、また? ……あのね、ちがうんだよ。これ、うそだからね?」

 先輩は力が抜けた様子で、教室の床にへなへな座りこんだ。夏は極彩色の落書きをぜんぶ消してから、小夜実先輩の席に歩いていき、脇に掛かっている鞄を肘にひっかけると、今度はへたり込んでいる彼女のところへ歩いてそれを届けた。

「どうぞ、先輩。あなたはこれを取りに戻ってきたんじゃないですか?」

「……うん。あはは、さすがシャーロック・ホームズだね。きみは名探偵になれるね」

「残念ですが、僕は公務員志望です」「夢がないなあ」「公務員こそ夢の職業です」「そういう意味じゃないよ! あはは……」

 先輩は下を向いて、声を震わせて笑った。涙のしずくが床にポタポタ落ちるのが見えて、夏は尻ポケットから空色のハンカチを出し、きれいなのを確認してから、彼女に無言で差しだした。

「ありがと。いいよ。よごれちゃうから。あたしなんかに渡しちゃダメだよ」

 先輩は顔をあげないで、そういった。

 夏は手をひっこめて、自問自答した。たったいま、目の前で泣いている少女に、さらに傷つける事実を告げるのか? 

 当たり前だ。なぜなら、人はいつでも、目の前の誰かとおたがいを傷つけあう。傷つけるのは苦しくて、傷つくことも痛いけれど、不幸じゃない。

「お役に立てず、ざんねんです。ところで……」といって夏は深呼吸した「ここにあった落書きを誰が書いたのか、知りたいと思いませんか?」

 小夜実先輩が顔をあげて、夏を見た。どれだけ泣いたかわからないけど、濡れた両目のまわりが赤くなっていた。

「きみ、まさか知ってるの?」「はい」「教えて。誰がこんなひどいことするの?」

「それはあなたですよ、田中 小夜実先輩」

 と夏は裁かれるような気持ちで告げた。相手の反応が不安なので、小夜実先輩の様子を見守っていると、彼女は笑いだした。陰気で皮肉がこもった笑い声に聞こえた。

「バッッカじゃないの、きみ? あたしが自分で自分の悪口を書いたって? そんなことする人いないよ! わらわせないでよ!」

 そういわれても夏はひるまなかった。もちろん知らないほうが楽なのは知ってる。でも、知らないせいで誰かを殺したり、傷つけたりするよりはいいんだ。

「昨日、この封筒を僕のポストに入れたのも先輩ですね」といって夏はポケットから折りたたんだ茶封筒をとり出した。

「なかにあなたのカンニングを告発する手紙と、動画の保存されたUSBメモリーが入っていました」

「なにそれ、しらない。だって、きみはなんで、それをあたしがやったって決めつけるの?」

「なぜなら、手元を撮影する精度が高すぎて、本人が関わったとしか考えられないからです」

「は、は、は。あ、そう。なんのために」

「誰かに自分を裁かせるためです」

 これは想像ですが、と前置きして夏は聞いた。

「先輩は同じものを、木村先輩と土井先輩にも送っていたんじゃないですか?」

 小夜実先輩が返事をしないで、目を見開いた。夏は疲れてきたので、近くの椅子を引いて腰かけ、つづきを話した。

「あなたは僕にしたのと同じように、二人と仲良くなってから、下駄箱に封筒を入れた。優等生のカンニングを知って、二人がどうしたか?  彼らはきっと、先輩に真偽を問いただした。それを待ってましたとばかりに、先輩は二人にすがりつき、彼らは先輩との交際とセックスを要求した。弱みを握られた先輩は断れません。……という方法で、先輩は自分の罪を知っている人と、関係をスタートさせていきました」

 夏は言葉を切って、少女の表情を観察する。なぜなら、彼女がどこまで自分の行動を覚えていないのか、知りたかった。

 先輩はくちびるを横にむすんで、夏を見ている。彼はたじろいで聞いた。

「続けて、いいですか?」「うん。聞かせてよ、名探偵くん」「そりゃどうも」

「……小夜実先輩と木村先輩、土井先輩との関係は、うまくいきませんでした。そうなったとき、木村先輩は家庭事情も手伝って大人になっていたので、先輩と距離をとれたし、いざというときに別れることもできた。でも土井先輩は、まだ人との距離を充分に測れない程度に幼かったんだと思います。だから土井先輩は小夜実先輩と離れられなかった」

「きみは失礼だね。あたしと付き合った人は、うまく離れなきゃいけないみたいじゃない」

「人は誰と付きあっても、うまく距離をとるべきです。問題はそこではなく、二人が離れなかった結果、なにが起きたかです」

「結果」と先輩は苦しそうにいった。

「あなたと付き合っていた土井先輩は、先週の月曜日にマンションから飛び降りました」

 小夜実先輩の体がビクッとふるえた。夏はさらに追及する。

「あなたは彼らに脅されたのだから、彼らを憎んでもいいはずなのに、べったりくっついて、愛を求めたんでしょう。土井先輩はそれに応じ切れなかった」

 夏は推論を終わりまで告げた。

「そして、土井先輩とあなたの関係は行きづまって、彼は自分を殺すしかなくなった」

  先輩はまた笑いだした。ひび割れた声に夏には聞こえた。

「あ、は、は、は、はずれだね、あたしと昭吾君はそんなんじゃないよ、あたしたち、最後までいっしょだった。そんなんじゃなかったよ!」

 歪んだ笑いのあと、先輩は強い口調でそういった。それからまた、壊れた笑い声をだした。

「えへへ、それに、まだ、半分だよ。ねえ、どうしてあたしは自分で自分のカンニングをみんなにばらしたりするの?」

「僕が先輩の手紙を無視したからです」夏はきっぱりいった。「先輩の予定では、昨日の放課後、僕は手紙を読み、あなたにカンニングの事実を確認するはずでした。でも僕は先輩に会ったのに、なんの反応もしませんでした」

「だからって、なんで? なんでなの!」

「先輩が罪悪感に耐えられなくなったんでしょう」

 夏は背もたれに体をあずける。

「おそらく、僕に手紙を出した時点で、罪悪感は限界で、だれかに罰されたいという気持ちが、無意識の行動になったんでしょう。だから、あなたは、僕があなたの罪を暴かないと、もう一日たりとも待てなかった」

「むずかしくって、わかんない」

「あなたは、誰にも罰せられないのが苦しかったんですよ」

 といった次の瞬間、夏の体は三メートルばかり水平にはね飛ばされて、教室の奥側の壁に激突した。先輩が腕を振って彼をぶったからだ。衝撃で教室が揺れる。彼女は焦点の合っていない目を、夏の方向に向けていた。ついさっきまで夏が座っていた椅子が、彼女の机の脇にころがっている。

「あいてて……暴力はコミュニケーションの拒絶ですよ」

「拒絶? あたりまえだよ! だって……きみが拒絶したいことばっかりいうんだもん」

 小夜実先輩が立って両手を腰にあて、夏の方をにらんでいる。黒く長い髪が、逆立ちをして波うっている。

 その後ろで成関高校の制服を着た小柄な青年が、すまなさそうに目を伏せてたたずんでいる。彼は半透明で宙に浮いていて、腰から下は見えない。

 夏は床に手をついて立ちあがり、よろよろ歩きで小夜実先輩に近寄っていく。彼女の背後の青年に声をかける。

「やあ」「……どうも」「やっと出てきてくれましたね」

 夏はほっとした気分でいった。ここまでひどく追及したのは、先輩本人の霊を刺激して、彼女に憑いている悪霊に出てきてもらうためだ。悪霊の居場所がわかった以上、『千春』に食べてもらえば、彼の仕事は終わる。

「僕が見えるということは、きみは霊能者か。面倒なことをしてくれる。僕を消しに来たんだね」

 青年はおだやかにそういった。夏はうなずいて、首をかしげている小夜実先輩を横目に見た。

「あなたが憑いた影響で、小夜実先輩の学校生活が破綻しそうです」

「そうだね。いやあ、死んでまで誰かに迷惑を掛けるとは思わなかった」

「現世に関わりたくないなら、成仏するべきですよ」

「自殺者は成仏に時間が掛かることが多いんだ。霊能者なのに、知らないのかい?」

「知ってます」「なんだ、じゃあ皮肉か」「はい」「ぷっ、あっさり認めるのか。きみは面白いな」

 夏は気遣ってまた先輩を見た。宙に向かってしゃべりだした夏を、うさんくさそうな目で見ている。そりゃそうだよな、と納得して、彼は仕事を終わらせるため、シャツの右袖をまくった。

「面白がってるところすみませんが、先輩の生活と、僕の仕事のためにも、あなたには消えてもらいます」

「若いのに大変だね。でも、僕にはもう止められないんだ……だってこれは彼女の願望なんだから」

 夏が包帯をほどいている間に、悪霊が手をのばして小夜実先輩の通学鞄を引っぱり、机のうえから落下させた。

「おたがい、終わりまで見届けよう」

 先輩の鞄が落ちて留め金がはずれ、ばさばさ音をたてて、なかから二、三枚のA4サイズのプリントが出てきた。カンニングのためのメモを仕込んだ小夜実先輩の手のひらが大写しになっている。目の前に証拠写真をひろがったせいで、先輩が険しい態度をとりもどした。

「なに、これ。なんで、なんで、なんで? なんであたしの鞄から、いんちき写真が出てくるの? あ、きみが入れたんだよね、あはは、こんなことまでするなんて、おかしいね。きみはもういいからどいてよ、どっかいってよ、どっかいけっ!」

 せっかく近寄ったのに、夏はまた三メートル吹きとんで、教室の壁に打ちつけられた。床に落下し、足を投げ出して座って、右腕を左手でさすりながら、鞄も持たずに教室から出ていく先輩の背中を見おくる。『千春』に受けてもらわなかったら、骨が何本か折れてただろう。

 夏は床に手をついた。体じゅうの痛みをこらえて立ちながら、「おかしいんだよな」と彼は独り言をいった。

 ――傷つくのも、傷つけられるのも、僕はもうこりごりなのに。

 でも彼は、ふらふらした足どりで小夜実先輩の鞄を拾い、あとを追った。


 学校を出て、鞄を忘れたことにも気づかないで、小夜実は家にたどり着いた。

 玄関で靴を脱いで、キッチンでお鍋の番をしてるお母さんにただいまを言ったら、そのことを指摘されたのではじめて気がついた。

「鞄を忘れて帰ってくるなんて、あんた、しょうがないね。なにやってるの?」

「あー、忘れてきちゃった。あはは」

「それに今日、火曜日でしょ? 塾は休みなの?」

 塾なんて、そういえばそんなこともあったっけ、と小夜実は思い出した。お母さんが心配そうな顔で聞いてきた。

「あんた、今日はどうしたの? 具合でも悪いの?」

「えーっと、えーっとね、えっとね。実はね……あたし、またやっちゃった」

 期待半分、あきらめ半分で、小夜実は母親にそれまでの出来事を告白してみた。

 でもお母さんは、やっぱりお母さんで、小夜実が話しおえて「ごめんなさい」っていうと、両目の吊りあがった真っ赤な顔をして、小夜実をにらんだ。あたりまえだよね。

「あんた、あたしがあれだけ言ったのに、まだカンニングなんてしてたの! どうしようもないね!」

 怒鳴り声が聞こえると、小夜実は怖くて体が動かなくなった。目の前にお母さんの平手が飛んでくるのが見えた。気がつくと彼女の体はキッチンの床に倒れていて、赤くなった頬を片手でさすりながら、「ごめんなさい」と小夜実は謝っていた。

 お母さんは庭から竹箒を持ってきて、うずくまった小夜実の体を打ちはじめた。

「ごめんなさい」をいう小夜実の背中やお尻に竹箒がふりおろされ、一発ごとに、ビーン、という衝撃が全身に伝わって、目の前にしろっぽい火花が見えた。一発や二発じゃ済まなくって、お母さんが何度も何度も打つので、気が遠くなり、呼吸もおぼつかなくなりかけた。

 小夜実は恐ろしくなった。殺されちゃうんじゃないか、と思った。痛くて痛くて、我慢して謝っているうちに、むかむかしてきた。

「……して」「なに?」「どうしてなの?」「あたりまえでしょ!」

「ちがうもん。そうじゃないもん」と小夜実は低く抑えた声を出した。「どうして、あたしばっかり、叩かれないといけないの?」

 小夜実に質問されると、お母さんは動揺したようで、叩くのを止めた。

 このチャンスを逃しちゃダメだ、と小夜実は思った。ここで反撃しなかったら、あたしはお母さんに殺されちゃう。やぶれかぶれで、顔の前にあった椅子の足をつかんで立つと、彼女はその椅子を振りあげて母親を見た。

「もう、イヤなんだもんっ!」

 と叫びながら、小夜実は怒りにまかせて、椅子をお母さんの頭めがけて振り下ろす。ゴツッ、とひかえめな音を立て、お母さんの体が後ろに倒れてく。ついさっきまでと反対に、お母さんが床にうずくまって頭を押さえ、小夜実は立って椅子を持ってお母さんを見下ろしている。すこしだけ胸が軽くなったように感じた。

「ううー、痛いっ! ああ、痛いいたいっ!」

 とお母さんが情けない声で繰りかえす。小夜実はもう一度、椅子を振りあげて両腕に力をこめる。お母さんはまだ「イタイイタイ」と続けていて、とっても格好悪かったし、見ているのが悲しかった。

 ――やっぱり、だめ。

 母親に幻滅した小夜実は、振り上げた腕を思い切り下ろして、椅子をキッチンのテーブルにたたきつけた。椅子の背もたれがバキバキ折れて、座る部分と分かれてしまう。白いプラスチックのテーブルクロスのふちに穴が開く。ちぎれた椅子の背もたれがお母さんの足もとに転がる。

「こ、ころされるうっ!」

 先の尖った椅子の足の切れはしを見て、お母さんが床をもぞもぞ這った。小夜実が両腕をわきに垂らし、寂しい気持ちでそれを見ていたら、お母さんが顔を向けてこっちを見た。

「ああ、おっかない! あんたはあたしの子じゃなかったね!」

 というと、怯えたようにお母さんは机の下に潜った。ばかばかしい仕草に見えた。小夜実は別の椅子を片手でつかみ、水平に持ち上げて、聞いた。

「ねえ、バカなの?」「だめ、暴力反対っ」「そんなの、隠れてるうちにはいんないよ? なに、やってんの?」「ひいっ、おっかないっ」

 お母さんは質問に答えず、テーブルの足にしがみついて小夜実を見あげる。小夜実はまたイライラして、もう一発殴ってやろうかと迷った。でも一度目に殴ったときの鈍い手ごたえとお母さんの痛がりかたと、それを見たじぶんの空しさを思いだした。

「うー、もう、やだ」

 小夜実はつぶやいて、つかんでいた椅子を床に投げ出した。キッチンに大きな物音が響く。

「ひゃっ」、とお母さんの間の抜けた悲鳴が聞こえた。

「おかあさん?」「わっ、おたすけえ」

 彼女は母親に別れの言葉を投げた。

「あのね……もうしょうがないね、ごめんね。ばいばい」

 小夜実はまた玄関のほうへ向かった。しょうがないという言葉は、もうどうしようもないという気持ちが口をついて出たせいで、脱いだばっかりの靴をまたはいていたら目に涙がにじんだ。

 ばいばい、と言ったのは、今度こそ、何もかも辞めようという気持ちになったからだ。

 ――土井君とはうまくできなかったけど、今度こそ。

 小夜実は夕闇の掛かりだした薄暗い道を歩きだした。


 女教師は煙草の箱をふって、残り少ない本数を確認した。朝から三年の教室で起きたカンニング騒ぎのせいで、今日は煙草を吸いすぎた。薄暗くなってきて、そろそろ帰るつもりで、最後の一本と決めて火をつけたとき、屋上のドアの開く音が聞こえた。

「やあ。そろそろ、こんばんは、かな。きみが来るのは、意外だったな」

「こんばんは……野々原先生」

 女教師は後ろを向いて、屋上のフェンスにもたれて、女子生徒の顔を見ながら白い煙を吐いた。長い黒髪の少女が、目を大きく開いておどろき、こっちを見ていた。

「うー、屋上は喫煙禁止ですよ?」 

「まったくだ」といって教師は指に挟んだ煙草をまじまじみつめた、「そういえば、そこのポスターを書いたのはきみだったか。参ったな」

 女教師は名残惜しい気持ちで、煙草を灰皿に押しつけて火を消し、小夜実に聞いた。

「まさかとは思うけど、きみは私の喫煙を取り締まりに来たんじゃ、ないね?」

「えええ? ぜんぜんちがいます。だって、野々原先生が煙草を吸ってるなんて、あたし初めて知りました」

「そ、そうか? 私の喫煙は、かなり有名な話だと思うが」

 今度は女教師がおどろき、小夜実をまじまじ見た。心のなかで、少女に対する認識を改める。カンニングの件は置いておいて、生活態度から内向的だと見てはいたが、見かけ以上にまわりに関心が薄いのかもしれない。少女が教師の視線にたじろいで、目をぱちぱちさせる。

 女教師は咳払いして、本題の質問をする。

「それで……きみはどうして、こんな時間に屋上に来たんだい?」

「え、あ、その」「うん」「あの、それは」「うん」

「先生、今日のあたしのこと、知らないんですか?」

「カンニングの件なら知ってるよ」

 といって、女教師は苦しさを隠してほほ笑んだ。少女がビクッと肩を震わせて下を向く。その姿が結縁に、彼女の知っている青年と重なって見えたので、彼女は聞いた。

「もしかして、きみはそれで、屋上から飛び降りたいのかい?」

 小夜実が顔をあげて、困ったように、悲しいそうに、うるんだ目で教師を見る。

「はい」

「そうか」

 結縁は小夜実の方へ歩いて近寄り、屋上の扉のわきにしゃがみこみ、背中を壁にあずけた。小夜実を見あげるような格好になる。すると、少女も彼女をまねて扉の前にしゃがみこんだ。隣り合った少女に結縁はいった。

「参ったな。きみはこの学校をを自殺の名所にしたいのかい」

「ええ? しりません。そんなの」

 少女がぶっきらぼうに否定したあと、しずかに宣言する。

「死にます。学校も、家も、もういや。あたし、なにもかも止めにするんです」

「そう、か。……まいったな」

「この世界に、あたしの居ていい場所なんて、ありません。……無くなっちゃったから」

『この世界は、僕がいないほうがきれいですから』

 少女の言葉を聞くと、結縁の胸に悲しみが甦ってきたので、彼女は負けないように唇をかんだ。落ちつけ、七年前とはちがうやり方をするんだ、と自分に言い聞かせて、ゆっくり口を開いた。

「そうか。世界は君が考えてるより、もう少しひろいんだが」

「知ってます。バカにしないでください。そりゃ、あたしはバカですけど」

 小夜実がむっとした声を出した。

「『世界は広い!』『未来がある!』そんなこと知ってますよ。でも、今のあたしの世界は狭いし、未来だって真っ暗なんです」

「そう、だな……きみにとっては今の目の前にある世界が現実だな」

「はい。わかってるじゃないですか」「うん」「止めませんね?」「……いや」

「止めるさ。きみには悪いが、ぜったいに止める」

 といって、女教師は右手で少女の手首をつかんだ。それがいいとか悪いとか、事情があるとか無いとか、気にしないわけじゃない。心底から死にたいのに死なせない、というのが申し訳ないとも思う。

「でもさ、わたしは助けたいんだ。目の前に自殺しようとしてる人がいたら、それを止めたくなるんだよ。理由はないし、死にたい人間にとっては迷惑かもしれないけど」

「はい。はっきりいって、迷惑です。この手を放してください」

「いやだ」女教師は逆に指に力をこめた、「生きてるのが辛いだけだって君がいうんなら、うん、金曜が給料日だから、晩飯ぐらいおごろうじゃないか」

「お断りします」

 と小夜実が冷たく言い、つかまれた手を横にふった。その力の強さに結縁がおどろき、声をあげる。

「お、おいおいおいおい!」

 女教師の足が屋上の床からはなれ、体が宙に浮いてしまう。右に、左に、小夜実が腕を振るのにあわせて教師の体が宙を振られる。遠心力で体が、屋上の床と水平に伸びる。肩と腕がきしんで、教師は耐え切れずに右手を放す。彼女の体は五メートルくらい床すれすれに吹き飛びんでから落下し、太ももと脇腹を擦りながら転がってゆき、屋上のフェンスに頭からぶつかってようやく止まった。

「おいおいおいおい。……ここはずいぶん物騒な学校ですね」

 いれかわりのタイミングで、屋上のドアが開き、疲れた顔をした男子生徒が少女の鞄を抱えて姿を見せた。彼は少女の方をむいて挨拶する。

「どうも、先輩。忘れ物を届けに家に行ったんですが、もう居なかったので、ここだと思いました」

「さすが名探偵くん」「ふむ。先輩」「なになに?」

「皮肉がうまくなりましたね」

 というと夏は鞄をおいて駆け出し、屋上のフェンスに寄りかかって立とうとしている女教師に手を貸した。脇腹に傷が出来てるらしく、黒のカットソーに血がにじんでいて、体を支えると夏の腕に血がついた。

「大丈夫ですか? なにがありました?」

「参ったな、説明して信じてもらえるかどうかわからないが、彼女に放り投げられた」

「信じます。僕は三メートル吹き飛ばされました」

「勝ったな。わたしは五メートルだ」

 といって結縁先生が苦しまぎれに笑い、荒く息を吐きながら、フェンスに掴まって体を起こす。

「く、くだらない」

「まったくだ。そんなことより彼女は、どうなってるんだろう。妙なクスリでもやってないといいんだが。なあ、きみは何か知らないか?」

「あの馬鹿力はクスリじゃありません。しかし、先生、あなたは……」

 女教師の背中を片手で支えながら、夏は目をみはった。にじんでいる血の量と、いまにも倒れそうな仕草からして、夏の見立てでは彼女は肋骨が数本折れている。小夜実先輩に投げ飛ばされて骨折したばかりで、投げ飛ばしたほうの体を心配するとは、やさしいにも程がある。

 小夜実先輩と背中に見える青年をにらんで、夏は女教師に提案する。

「先生、ぼくはグロテスクな方法でこの件を解決しますので、今から三分間だけ、目をつぶっててもらえますか?」

「条件がある」「なんです?」

 結縁先生は真剣な顔で要求した。

「彼女は自殺する気だ。止めてくれよ。頼む」

「だと思いました。……はい」

 といって夏は先生が目をつむるのを確認すると、彼女を守るように前に出て、小夜実先輩の方へ歩く。少女と青年の姿を視界にとらえ、右腕の包帯をほどいていく。

 他人の自殺を止める権利はだれにもないけど、僕はぼくの仕事をする、と彼は自分に言い聞かせる。『千春』が悪霊を食えば、悪霊によって増幅された自殺衝動は、小夜実先輩の心から消えるだろう。

「なんの話、してたの?」

「先輩が自殺する気なので、止めて欲しいと頼まれました」

「は、は、は。なんなの、君も先生も、ほんとは優しくなんかないのに、人が死ぬっていったとたんに助けるなんて、おかしいよ。バッカじゃないの!」

 夏は頭をかいて、先輩の言葉の正当性を認めながら、彼女に近づく。

「おっしゃるとおりです。独善的で申し訳ない。でも僕はともかく、先生はちがいますよ」

「うそだよ。おなじだもん。二人とも。ううん、みんな、どっちだっていいんだもん。あたしが生きてたって死んでたって、ぜんぶおなじだよ。だから死ぬね。じゃあね」

 夏がじりじり距離をつめる。手をのばせば、先輩の肩から顔を出している青年に、『千春』が届きそうだ。

「それは先輩の理由じゃありません。違いますか?」

 夏は立ちどまって背後にいる青年に問いかけた。青年ははっとおどろいた顔をした。彼が答えないので、夏は続けた。

「確実ではありませんが、あなたが悪霊になっている理由がわかりました」

 青年が夏を見るのを、夏も見た。

「あなたが憑いた為に、先輩は死を選ぼうとしています。しかし、あなたにその自覚はない。だから、人間にとってあなたは危険なんです」

「順番が逆だよ。僕は彼女が死にたいと感じたから、彼女にとり憑いたんだ。だから、僕と彼女は同じはずだよ」

「だったら、なぜあなたは、土井先輩が飛び降りたとき、小夜実先輩だけを助けたんです?」

 夏は青年に聞いた。

「ちがう、だってあれは。……僕に二人を助ける力はなかった」

「やっぱり、そうだったんですね」夏は苦い息を吐いた、「土井先輩と小夜実先輩は、いっしょに飛び降りたんですね。そしてあなたは彼女だけを助け、その記憶を思い出せないようにしている」

「きみ、カマをかけたのか?」「はい」

「……なんてことだ」青年が腕を組んで空をあおぐ、「ぼくはただ、彼女にはあんなふうに死んでほしくなかったんだ。彼女は僕と同じだから、同じような死に方をしたほうがいいと、思った」

「死にかたに優劣もふさわしいもないし、あなたには、先輩にあなたの望む死にかたを選ばせる権利もありません」

 夏は悲しみのこもった声で否定する。彼にとって、青年は昔の自分のように、無邪気に見えた。自覚の無いせいで加害者になった彼も、被害者になった先輩も、どちらも悲しく感じる。

「先輩はあなたとちがって、加害を自覚していますよ。彼女は自覚しすぎです。彼女の場合、あなたに憑かれてからのことにまで、罪悪感を覚えてるくらいです……だから、やり方は下手くそでも、生活をぜんぶ終わらせようとしました」

「そうだよ。同じじゃないか?」

「そうでしょうか?」夏は死人に問いかけた、「推測で申し訳ないんですが、あなたの目的は恐らく死ぬことだったんでしょう。でも、先輩は死ぬとか生きるとかよりも、いま自分が辛いことをどうにかすることに精いっぱいなんだと思います。やり方はものすごく下手くそかもしれませんけど。あなたと先輩は、おなじでしょうか?」

 先輩が黙って夏を見て、首をかしげている。彼は右腕をゆっくりあげた。

「もしも、あなたが消えても、最終的に先輩が死を選ぶなら、他人に止める資格はありません。でもあなたが彼女を殺す理由になってはいけない。なぜなら、もう死んだんですから」

 夏はそういって、死んだ青年に向かって、包帯をほどいて『千春』のあらわになっている右腕を伸ばす。

「なんだい、そいつは?」「『千春』といいます」「僕を、食うのか」「はい。それじゃ」「待てっ」

 青年が声を上げ、先輩の背中に隠れる。それを追って踏みこむ夏を小夜実先輩が見る。二人の目が合う。

「ダメ。あたしは死ぬんだから、邪魔しちゃダメなんだよ」

 先輩が拳を握り、夏の顎に向かってすごい速さでそれを突き出す。彼は左手を顔の前にかざして、先輩のパンチを受けとめる。でも受けとめた手のひらごと、拳が顎を突きあげて、彼の体は斜めうえに三メートル浮きあがり、屋上の床に右肩から落下する。

「最後まで見届けたいんだ」

 殴られた瞬間、夏は青年の泣きそうな声を聞いた。

 夏はめまいをこらえ、立ち上がって両膝に手をついた。左手がすごく痛く、顎は吹きとばされたように感覚がない。目の前は暗く、かろうじて足もとの床だけが見える。

「もう止めようよ、夏くん、血が出てるよ。すごいんだよ」

「あー……しょうれしゅね」とろれつの回らない口で答え、夏は口の中に血の味がすることに気がつく。赤黒い塊を唾液といっしょに吐きだして、彼は一歩だけ前に歩く。

「わっ、きみ、むちゃだよ」

「むちゃは、しぇんぱいもれしゅよ」といって彼はあらい息を吐く。

「あー、うー、そうだよね」

「しょうゆうことでしゅ」と夏がまた一歩ふみだす。

「あ……あはは……」と掠れた声だ聞こえたけど、顔が上がらないので表情はわからない。

 夏はもう一歩、前に出た。不意を突かれて失敗したけど、次は相打ちでいいから、あの悪霊を食わせる。

 ――ぼくは結縁先生と約束したし――生活費もかかっている。

 それに、もう一度、夏は先輩と話がしたかった。帰り道に繰り返したようなどうでもいい話を。肉まんとフルーリーくらいなら、またおごらせてもらうから。

「いきましゅよ」

 夏が右腕をあげて、小夜実先輩の方へ歩き出しながら、体を前へ倒す。薄暗い視界でも、先輩の白い膝こぞうが、夏の左の脇腹にむかって飛んでくるのが見える。彼は左肘を下げて身を守りながら、右手を伸ばす。せいいっぱい手をのばして、先輩の右肩を捕まえたと同時に、脇腹と肘がいっしょに蹴りとばされる。

 夏は先輩の肩から手を放さなかったので、遠心力で胴体が床と水平に浮きあがった。空中を半回転して、彼の体は先輩の背後に着地する。左のあばらのあたりを押さえ、気力をふりしぼって立ちあがると、夏の目のまえに怯えた顔の青年が立っている。

 青年が何かいうより先に、『千春』が大きな口を開けて、青年の頭にかじりつく。彼は手足をばたつかせながら、『千春』に呑みこまれていく。

 空腹だったのか、十秒もかけずに『千春』は青年の細い足まで口のなかに収めると、また夏の腕に戻り、やさしそうな顔をして眠りについた。

 小夜実先輩の体が、糸が切れたみたいに崩れ落ち、屋上の床に倒れこむ。青年に操られていたあいだ、体力を消耗したせいだろう。それは夏も同じことで、姉の食事を見とどけると、全身をはげしい疲労と痛みに襲われ、彼は大の字に寝ころがった。

 遠くの空で、地平線に沈んでいく夕日が見えた。

「よいしょ、よいしょ……っと」

 先輩の荒い息づかいと、懸命な声が聞こえて、夏は閉じていた目を開いた。あたりは薄暗いが、まだかろうじて西の空が明るいので、気を失っていたのは数分だろう。

 声がした方に顔を向けると、先輩が屋上の扉によりかかって立ち上がり、フェンスの方へ歩き出すところだ。

 ――おいおいおい、まさか。

「まりゃ、死ぬ気れしゅか……しぇんぱい?」

 夏はそうつぶやいて、右手を床につき、顎と左腕とあばら骨の折れた体をむりやり起こした。一度、スイッチの切れた体を起こすのは、骨が折れる。

「よおっし」「よくありましぇん」「いいの」「よくなひ」

 先輩の背中が、半身を起こした夏から、一歩ずつはなれていく。彼は膝を曲げ、右手に体重をかけて、どうにか立ち上がる。すると、フェンスの向こうで先回りして手を広げている女教師が見えたので、焦る気持ちを押さえ、彼は先輩をゆっくり追った。

 二人の会話が聞こえてくる。

「えー! な、なんで先生、すでにフェンスの外にいるんですか?」

「ふっふっふ。なぜなら、わたしはここに住んでるのだ。知らなかっただろう」

「わっ、ぜったい、うそ! うそつきだよ、この先生っ」

「うそじゃない。うそつきは泥棒のはじまりだからな。それとも、私がフェンスの外で寝泊りしてると、君にとって、何か都合の悪いことがあるかい?」

「そ、それは、ないですけど……えいっ」

 小夜実先輩がフェンスに手をかけて、よじ登りだした。

 夏は歩きながら、パンツが見えたら困ると思って、目を逸らそうとしたけど、やっぱりできなかった。暗くって、はっきり見えなかった。二重にざんねんだ。

「よっ、とっとっ……たあっ」と声を出しながら、フェンスを乗り越えた少女を、女教師が後ろから抱きかかえる。夏もやっとフェンスに辿りつき、2メートルぐらいの高さの鉄の網に手をかけてのぼっていく。

 足もとで、女教師が先輩の手首をつかむところと、少女がそれを振りほどこうとするところが見えた。二人が会話をはじめる。

「ぜんぶ終わっちゃって……明日から、どうしていいか、わかんないもん」

「ねえきみ、だけど、死ななくってもいいじゃないか」

「いやです。あたしの世界はやっぱり真っ暗で、死んだほうがまだましです」

「まいったな」といって先生は途方にくれたようにいう、「正直にいって、私はきみにあげられるような言葉を持ちあわせてない」

「……だって人生はいいものじゃないって、私も十分に知ってるんだ。いいことなんて、ほとんどないし、自分がどうしてこんな風になってしまったのかって、後悔することも毎日のようにある。でもね、きみ。私は、いま、ここでこうやって、きみと過ごしてるような時間が、嫌いじゃないよ。これっきりで、もうきみと話す機会はないかもしれないし、今日、私に起こったことは痛いし辛いけど」

 夏はフェンスをよじのぼり、てっぺんをまたぎながら先生の声を聞いた。祈るような願うような言葉だと彼は思った。

「ねえ、きみ。生きてればいいことがあるなんていえない。もしかしたら、これからの人生、ずっと辛いことばっかりかもしれない。だけど。だけど。死なないでくれよ」

 先生がさみしそうに話すのを、少女が黙って聞く。だんだんと、少女は手を振りほどこうとするのを止めた。

「もしも、きみが死なずにいられたら。もしかしたら、むりかもしれないけど、もしそれができたらさ。ここで、煙草でもいっしょに吸おうじゃないか。あした、ここでまた会って話でもしながら、ぷかぷかふかしてさ。別に怒られたってかまいやしないさ。もしもの話だし、それこそ、死にやあしない。煙草なんかできみの気は変わらずに、けっきょくは死んじゃうとしたら……なにも思いつかないな、ちくしょう、そういう人もいるけどさ」

「うー、先生、他にもいたんですか? って居たんだよね、七年前に」

「ああ。そのほかにも、知ってるよ」うなずき、返事をするそのあいだも、結縁先生の手は小夜実先輩の手首をつかんだまま、一度も放さない。

 夏はフェンスから降りて、外側のアスファルトに着地し、衝撃が体に伝わったので、うずくまって痛みに耐えた。

 先輩が「だいじょうぶ?」と不安そうに横をむいて夏を見た。

「あのね、夏くん、あたし、ひどいよね。きみ、ボロボロだよね、ごめんなさい」

 と小夜実先輩が消えてしまいそうな声でいう。

「いえ。大したことありません。慣れてますから」夏は片手を振った。じっさい、彼の体は『千春』を宿しているおかげで、人並み以上の体力と回復力がある。顎の傷は治りかけていた。まだ脇腹がずきずき痛むが、彼は奥歯を噛んでうめき声が洩れないようにこらえた。

「あのですね、先輩」と夏も先生を真似て、祈るような気持ちでいった。

「たとえば、いま先輩が死んだら、僕はコーヒーをおごってもらえなくなります」

「へ?」と先輩がきょとんとした顔をする。

「ああ、忘れました?」

「おぼえてるようっ」という返事を聞いて夏はうなずく「よかった」

「そ、それが、なんなの?」

「別に何の意味もありません。でも、そういうことができなくなるんです。死ぬっていうのはそういうことです」

 夏が横を見ると、少女は目をパチパチさせていた。

「ぼくも、生きてたって死んだって意味はありませんから、だったら人を傷つけず、迷惑もかけないぶん、死んだ方がマシかもしれません」といって夏は少しだけ笑う。「でも、もしもぼくが死んだら、先輩とぼくのあいだにある、いまこの瞬間の関係も消えるんです」

 夏の目の前で、少女が涙をこらえるように唇をむすんで、視線をゆっくり夜空にうつした。三人が一度にだまりこむ。風が校舎の壁をなでる音がざわざわ鳴った。

 やがて小夜実先輩が、控えめな声で沈黙をやぶった。

「あのう、先生の傷は?」

「大したことはない。包帯とコルセットで固定して、痛み止めを飲めば、家まで辿りつけるだろう」

 先輩が今度は先生の顔色をうかがう。 

「そ、それって、大したことありますよね?」

「大丈夫だ。せいぜいアバラが折れたくらいだろう」

 先生はそういって空をあおぐ。夏も顔をあげると、暗くなった空に星が光りだしていた。

「……わーっ、あたしのせいだよっ、やっぱり、死ぬ!」

「いまはダメだ。明日にしてくれ」

「やだ! だって、いまなら勢いで死ねそうな気がするんだもん! 明日になったら、やっぱり怖くて、あたしはここまでこれなくなっちゃうもん。明日はやだよう」

「好都合だ。君が校門から出るまで、私はこの手を放す気はない。たとえ君がトイレに行きたくなっても、校門を出るまでは一心同体だ」

「うー、うー」と先輩はうなったけど、やがてあきらめたように、フェンスに背中をつけて座りこんだ。

 先生が小夜実先輩の左側に立っているので、夏は右側に並んで腰を下ろした。先輩は明日になると困るだろう。今日あれだけのことが起きたんだから、そりゃそうだ。すると、彼の頭に思いつきが浮かんだ。

「あのですね先輩」、と夏はちょっと咳払いして提案した、「明日の朝、駅から学校までいっしょに行きますか?」

「え、ええーっ!」「嫌ですか?」「い、イヤじゃないよ、いいよ! じゃなくて、い、いいの?」「はい。問題ありません」

 といって、夏は尻ポケットから手帳を取り出し、予定を確認する。明朝、時間をつくれない理由はない。彼は起床時間を修正した。

 結縁先生が冷やかすように声をかける。

「なんだ。小学生みたいだな」

「はい。しかも一年生ですね」

「くっくっく、えらく古典的だな?」

「うー、あ、あたしが先輩なのにぃ」と小夜実先輩が小声で抗議する。

 先生は笑い出したが、アバラを痛めているせいで、すぐに「ぐええ」とうめき声をあげた。

 それを見て夏も笑ったが、彼も蹴られたわき腹を押さえ、「ぐええ」と同じようにうめいた。

 二人の様子を見て、小夜実先輩が困った顔をしたが、夏も先生も気にせず腹を押さえて、くすくす笑った。

 笑いがおさまってから、時計を見て、女教師がおどろいた風に「もう七時じゃないか」とつぶやく。

「さて、もう帰るぞ。トイレに行きたくなったら、困るだろう?」

「あの、あの!」と先輩がさえぎる。

「なんで二人とも、ボロボロなのに、あたしのせいなのに、あたしに死んでほしくないの?」

 小夜実先輩は神妙な顔つきをして、二人を見上げている。目じりに涙が光っているのが、夏には見えた。

「なんで、死んでほしくないの……か。まいったな」といって女教師がほほ笑んだ、「申し訳ないが、考えたこともない」

「きみには信じられないかもしれないけど、私にとって、きみは――生徒ってやつは――大事な人なんだ。わたしは、大事なものがあって、やるべきだと感じたら、理屈抜きで守ることに決めてる。他人にとっては迷惑な話だがね」

 先生の話を聞いて、夏は頭をかいて弱った。彼のほうが、先生よりもっと理由がない。ちょっと考えてから、確かだと思うことを口にした。

「ぼくはただ……たぶんぼくは先輩よりも痛みに慣れていて、また明日も先輩となにか話したいんです」

 素直に言いすぎたので、恥ずかしくなった夏は、立ち上がって空を見ながらお尻をはたいた。

「くっくっく」「なんです、先生?」「面白いやつだな、きみ」「なぜですか?」

「だって、思ってたより、ずっと普通の生徒だからさ」

 すると、小夜実先輩がひかえめに否定した。

「えっ……先生、失礼ですよ。夏くんはいつも普通で、面白いんです。ねー?」

 女教師がびっくりした顔をした。「なるほど」といって、彼女が顎をさわりながら、夏と先輩を交互に見る。そして、納得したようにうなずいた。

「きみたち、うまくいくといいな」

 面倒くさいので、夏は抗議しないですませる。

「じゃ、帰りましょう」といって彼は怪我をまぬがれた右手を先輩に差しだした、「先輩、立てますか?」

  十二

 ウェイターに注文を済ませると、夏がすぐ立って、飲み物はなにを持ってきますか、と小夜実と先生に聞いた。

「カフェオレはなかったかな」「カプチーノがありますよ」「じゃあそれ」「はい。先輩は?」

「あ、えっとね、オレンジジュース!」

「はい」と答えて、夏が背中をかきながらすたすた歩いていく。

「やっぱり、彼は変わってるなあ」

「えー、変わってないよ。いいひとなんだよ!」

「……そうだな。いいやつだ」と先生がうなずいてくすくす笑った。つられて小夜実も笑った。隣のテーブルにも、向かい側のテーブルにも、やっぱり笑ってる人たちがいて、それを見ると小夜実は胸がぽかぽかした。

 金曜日の夕方なので、ファミレスの店内はにぎわっていた。先生が三日前の約束を守って、ご飯をおごってくれることになったんだ。

「なんでも好きなのを頼んでいいぞ。ただし、一品だけな」

「せんせー! デザートは別ですか?」

「う。ファミレスのデザートって、高いんじゃなかったか?」

「うう……ダメですか?」

「先輩、大丈夫です。好きなものを頼んでください」

「なんで君が答えるんだ!」

「やったっ、あははー」

 けっきょく、先生がスパゲッティを、夏が煮魚定食を、小夜実は目玉焼きハンバーグとストロベリーパフェを頼んで、みんなで待ってる最中だ。


 火曜日の夜は、こっそり家に帰って部屋で寝て、水曜日の朝、小夜実が暗い気分で登校すると、夏がほんとうに駅前で待っててくれた。小夜実はびっくりして、挨拶するとすぐにすたすた歩きだした彼の後ろを、あわててついていった。

「カレーに生卵? えーっ、それはもうカレーじゃないよ!」

「れっきとしたエッグカレーです。それに、胃にも喉にも良くなります」

 通学路を歩きながら、二人はカレーライスやラーメンの好みや、コカコーラとペプシコーラの違いや、誕生日や名前とかの、どうでもいい話をした。それで充分だった。

 昇降口で夏と別れて、教室に入って、席について、ホームルームがいつもの通りに始まった。

 ただ、配られたプリントをまわすとき、クラスメイトがみんな、小夜実にさわらないように手を引っ込める仕草に気がついた。胸が痛かったけど、泣かないようにガマンできた。

 ――もともと友達がいないっていうのも、悪いことばっかりじゃないね、えへへ。

 先生も小夜実を指すこと、小夜実の名前を呼ぶことをためらう態度が目についた。そのうちこの痛みにも慣れるって言い聞かせて、彼女はガマンしつづけた。

 この二つの出来事のほか、学校では、ありがたいことに特別なにも起こらなかった。

 だけど、水曜日の放課後、小夜実は家に帰ってお母さんに会うのが怖かった。塾に寄ってから帰宅すると、もうご飯が出来ていて、目玉焼きハンバーグがお皿に乗っていて、あたしはそれが大好きなのを思いだして、作ってもらえたのがうれしかったし、すごくおいしくて、食べながら泣いてしまった。

 お母さんも、なぜか、ご飯の途中で、いっしょに泣き出してしまって、お姉ちゃんとお父さんは、顔を見合わせてしまっていた。

 夕飯のあと、夜の九時ごろ、お母さんがあたしの部屋に来て、話をした。

「えっとね……晩ごはん、おいしかった?」

 小夜実は机に向かってたけど、すぐにふり向いて答えた。

「あ、うっ、うん、うんっ、あのね、あのね、すっっごく、おいしかった!」

 彼女はお母さんの顔がうまく見られなくって、下を向いてうつむいたままで、お礼をいって、それからあやまった。

「あのね、ありがとう、おかあさん」途中から涙声が混じった、「えっと……ほんとに、ほんとにっ、ごめんなさい」

 お母さんはすぐにはなにも答えてくれなかった。

 小夜実は怖くて顔をあげられなかった。じっとしてると、お母さんが泣く気配を感じて、床にへたりこむ姿が見えた。彼女は椅子から立ちあがって、お母さんのほうへ近寄った。

 それから、息をのんで、自分に出来ることはこれだけだという気持ちで、お母さんの肩をぎゅうっと抱きしめた。

 お母さんは、泣いていた。

 小夜実は出来るだけ泣くのを我慢して、母親を抱いた腕に力をこめる。そのとき、少年と女教師の顔が頭に浮かんだ。二日前、屋上で、二人が笑ってくれたことを思いだす。

「あのね、ごめんね、おかあさん。あたしのこと、ゆるしてもらえない、かな?」

 答えを待たずに、彼女はつづける。

「すっごく、すっごくえらそうな言いかたかもしれないけど、あたし、お母さんのこと、許せるよ。っていうかね、もうね、ゆるしちゃってた。……あはは」

 ――あたしをゆるしてくれたひとたち。

「だって、すごく、優しい人たちがいたから、あたしも許せるっておもったんだよ」

「ああ……あの男の子?」

 おかあさんが涙声でそう聞いたので、小夜実はうなずいた。

「なんだかわかんないけど、あんたが出てったあとで、背の低い男の子が血相変えてうちに来てさ、あたしの介抱してくれたんだよ。あたし、『もう帰ってこないような気がする』っていっちゃったのよ。そしたらその子は、『先輩は、遅くなりますけど、かならず帰ってきますから、おいしいご飯を作ってあげてください』っていっててさ、昨日はもうパニックで、なにも出来なかったけど、きょう、その子が言ってたこと思い出して、ハンバーグにしたのよ」

「うわあ……夏くんだよ。そんなに、そんなことまで、してくれちゃってたんだ」

 ――そんなに、人が優しくしてくれることって、あるのかな?

 あたしは泣きそうになるのを、何度もガマンして、お母さんをぎゅってしてた。たぶん、あの人たちだったら、そうすると思ったから。やってみたんだ。

 お母さんの肩の震えが止むのを待って、小夜実はせいいっぱいの笑顔で母親を見て、「ごめんね」といった。

 木村君や土井君といて、辛いときでも、笑って抱きしめてあげられたら、それだけで良かったのかな? わかんないけど。わかんないけど、次はそうしてみようと、彼女は思う。

 

 木曜日と金曜日は、前の週と同じように授業がすぎた。そして放課後、小夜実は先生と夏にファミレスへ連れてきてもらっている。

「いただきます。……よし、くうぞー」「いただきます」「もぐ、もぐ……いただひまひゅ」

「おいっ!」と先生がフライングで目玉焼きを食べていた小夜実にツッコミを入れる。

「ばれちゃったー」といって彼女が舌を出すと、先生がスパゲッティを飲みこんであきれた顔をした、「きみ、自己申告しただろ」

「えへへ」と小夜実は笑って肯定し、ハンバーグをがつがつ食べた。

 結縁先生がいちばんに食べ終わって、フォークを置いて紙ナプキンで口を拭いてから、携帯電話を持って、「うわっ」と不意をつかれた感じの声を出した。

「どうしました?」

 そう夏がたずねて、先生が首を真横にふる。

「いや、なに、だいしたことじゃないんだが……すまないが、私はいまから東京まで行かなければならない」と先生が深刻そうな声で切りだす、「好きなバンドのCDが出るんだ」

 小夜実は少年と顔を見合わせた。

「すまん、いま出発すれば、まだ閉店に間にあうんだ!」

 と結縁先生は理由みたいないい訳みたいなことを言うと、領収書を握りしめて立ち上がる。「じゃあ、また月曜日にな!」と挨拶をして行ってしまった。

 二人になった少年と小夜実は、三杯目のオレンジジュースと二杯目のアイスコーヒーをそれぞれ飲みながら、とりとめなく会話を交わす。

「先輩、ハンバーグが好きなんですか?」と少年がぼそぼそ声で聞いた。

「……え、う、うん! あとねえ、カレーライス! こどもっぽいかな?」

「いえ別に」と答える少年に、夏もたずねた、「むー、きみは?」

「蕎麦です」とちょっと考えてから少年がいう。

「うわ! 何から何まで大人だね!」

「いや、安いからです。あと旨いし」

「え? もしかして、手作り?」

 小夜実は、彼が蕎麦のめんを打ってるところを想像して聞く。

「いや、まさか。インスタントを茹でるだけです」といって夏が考えこむように腕組みした。

「もしよければですけど……今度いっしょに食べますか?」

「え……うん。うん!」と小夜実は何度もうなずく。声がうらがえってしまった。

「断っておきますけど、べつに普通の蕎麦ですよ」

「ぜんぜんいいよ。やったー!」

「飲み物はジュースでいいですか?」

「え? うん。いいよ。やったー! 夏くんはやっぱりコーヒーなの?」

「まさか。蕎麦には水かお茶です」

「あはは、やっぱり、おとなだねえ」

「いや、経済的事情ですってば」

 返事をしながら、不意に夏が顔をゆがめて、脇腹に手をやった。「いつつ」と聞こえないぐらいの声でつぶやく。小夜実は慌ててあやまる。

「あ、あ、ごめんなさい。あたし、ばかだね。はしゃぎすぎだよね、イヤな感じだよね」

「いえ。僕はなにも」

「人が誰かといれば、痛みがあるのは当たり前ですから」と彼は顔から苦痛の表情を消して言う、「痛みに耐える気がないなら、誰かと居る資格もありません」

「あー……」小夜実は首をかしげた、「ごめん、ぜんぜんわかんないや。どういうこと?」

「ぼくは痛いのは慣れてますから、大丈夫です」

 というと、彼がからかうような口調で聞いた。

「先輩も……今回ので、すこしだけ慣れたんじゃないですか?」

「え? あー、うーん、そうなのかな。えー、そんなのやだな、なんか」

 小夜実は予想外のことを聞かれ、返事に迷う。

「慣れるかなあ、うーん、でもでも」

「はい」と夏がコーヒーのはいったグラスを持つ。

「うーん、いや、なんでもない」

「そうですか」といって彼はアイスコーヒーを苦そうに飲んだ。それを見ながら小夜実は思う。

 今はイヤだけど、いつかあたしも、この人やあの先生みたいに、煙草を吸ったりブラックコーヒーを飲むみたいに、慣れてるから平気だよっていって、誰かのために、痛みをこらえて笑えるようになれるのかな。それが、大人になるってことなのかな。

「で、先輩?」「え、え? まだ無理だよ?」「今週は無理ですか。来週は?」「え、なにが?」

「週末、時間ありますか? 蕎麦はどうってことないですけど、母が漬物とダシに凝ってるので、それはたぶん美味いです」

「あっ、今週、今週でいいよ! えっと、土曜日がいいっ。って明日だよ! だ、だいじょうぶかな?」

「僕は問題ありません。十二時では?」

「十二時、うん、いいよ。やったー!」

 夏が頷いて、手帳にペンを走らせた。すごく不思議な感じがする。なんでだろ、って考えたら、友達のうちでご飯を食べるのが初めてだってことに気がついた。

「じゃ、また明日」

「う、うん、また明日ね。あははー。はは、は」

 ファミレスの階段を下りながら、小夜実はすごく不思議な気がした。ほんの三日前、何もかもぜんぶ失くして、世界が終わった気でいたのに。『また明日ね』っていって、誰かと手を振りあって帰るなんて、夢みたいなことが起こっている。

 もしかしたら、ぜんぶが夢で、明日、夏の家の玄関のチャイムを押したら、誰も出てこなくて、すっごく恥ずかしい思いをするかもしれないけど。

 ――なんでこんなすごいことが起きてるんだろう。

 訳がわからないけど、涙が出てきたから、彼女は何度も夏を振りかえって、小さな右手をせいいっぱい振った。


 火曜日の放課後、教会に着いた時刻は午後九時を過ぎていたけど、幸い、ミサのあとだったので、シスターが礼拝堂に並べられた椅子の最前列に座ってアクビをしていた。夏は彼女の斜め前に立って、「こんばんは、シスター」と声をかけた。

「こんばんは、お疲れさまでした」

 シスターがすべてお見通しのような顔をして、夏をねぎらう。彼は制服の内ポケットから折りたたんだ紙切れを取りだし、ひろげていった。夏が小夜実先輩を追いかけるために乗ったタクシーの領収書だ。

「この領収書が経費で落ちるかどうか、わかる?」

「いえ、落ちません」とシスターは一度、首を振った。

「せめて、紙を見てから答えてよ……」

 と夏が頭を掻いて食いさがると、シスターがイタズラっぽく笑って、彼の手から領収書をぬきとった。こんなとき、夏にはとても彼女が四十過ぎには見えない。

「今回は落ちるでしょう。清算しておきます。他に物的被害はありますか?」

 夏は笑顔をみせて脇腹を押さえた。予想より回復が遅いので、粉砕骨折でもしていたのかもしれない。シスターに治療費の話をされたくないので、彼は片手を振ってつよがった。

「いや、特になにもない。……ねえ、シスター?」

 彼は疑問を口にした。

「あなたは本当に、悪霊が誰に憑いてるか、知らなかったの?」

 質問に答える代わり、シスターが夏の顔をだまって見た。たっぷり五秒は見つめてから、彼女は抑揚のない声で答える。

「もちろん、私は知りませんでした」

「うん。ありがとう、シスター」

 夏はあきらめた顔をした。シスターは彼の考えを読めても、彼にシスターの思考は読めない。

「寂しそうな顔させてごめんなさい」

 シスターは彼女の隣の空いている椅子をひいて夏にすすめる。彼が音をたてずにパイプ椅子に座りこむのを待って、彼女が質問した。

「どうして、そんなことを聞いたんです? たとえ、私が知っていても答えるはずはないと、あなたは予測できたはずです」

 夏は上をむいて、天井のステンドグラスの鈍いあい色をながめた。時間をかけて返事をする。

「万が一だけど、もっと早く事実を知っていれば、ほかにも僕の取れる行動があった気がした」

「興味深いですね。たとえば、なにかありますか?」

「いや、それは……いまは無い」

「いまじゃなくても、なかったでしょうね。今回の件に対し、あなたはいつもよりも思い入れが深いんですか?」

「うん」と、シスターの指摘に夏はうなずいた。いつもなら、済んだ仕事のことは考えなおさないのに、今日の自分はまだ引きずっている。

 彼はわだかまっている感情を見つけだして、神のしもべに吐きだしてみた。

「ねえシスター、ある人がいて、彼は他人を傷つけたくないのに、また他人を傷つけたんだ」

 夏が小夜実先輩の心をえぐって、小夜実先輩が夏を殴ったけど、彼はまた明日も彼女に会って、つまらない話をして、笑いたい。

「それでも、その人は誰かのそばにいられるかな?」

「その質問は矛盾していますよ」とシスターはしずかに指摘する、「誰かを傷つけているなら、彼はすでにその人のそばにいます」

「それは、そうだ」と夏はあわてて矛盾を認めた、「ほんとうにそうだ。当然だね。なんで、こんなこと聞いてるんだか。……ごめん」

 シスターが興味深そうに、彼に顔を近づけてきて、前置きしてから聞いた。

「間違っていたらすみません。……もしかしてあなたは、よほど傷つけたくない人と知りあったんですか?」

 夏はすぐに答えられなかったので、黙って考えた。少女と女教師の顔が頭に浮かぶ。すでに心は傷だらけで、これ以上傷つかなくてもいいのに、他人と関わろうとする人たち。そして彼はシスターのほうを向いてうなずいた。

「うん」彼はパイプ椅子から立ちあがった、「明日の朝、僕はそのひとを駅まで迎えに行く」

「小学生の登校みたいですね」

「うん。恥ずかしいかな?」

「はい、すごく。でも行くんですか?」

「必ず行く。ぼくが言いだしたことだ」

 シスターも立って、ぐっと背伸びをして、目を細めて杜夏を見た。「じゃあ、今夜は早く寝た方がいいですね」といって、彼女は並んでいるパイプ椅子を片づけはじめた。

 片づけを最後まで手伝い、教会の門をくぐると、午後九時半だった。見あげるときれいな半月が出ていたけど、住宅街の狭い歩道を、夏は空を見ないで家まで歩いた。今夜はすこしだけ早く寝なきゃいけない。


 木曜日の放課後、夏は屋上のドアを開け、結縁先生の姿をみつけて片手をあげた。フェンス際にいた女教師に近寄ると、急に風が吹いてきたので、二人で給水タンクのかげに移動して、灰色の壁にもたれた。先生はいつものメンソールを右手の指に挟み、黒のパンツとレモン色で薄手のセーターを着て、タバコの匂いを漂わせている。

「怪我の具合、どうです?」

 挨拶を交わしたあとで、夏は担任の体を気づかった。

「良くはない。痛み止めが効いてくれてるよ」

「骨折してましたから、入院すると思っていました」

「入りたかったんだが、私には金も有給もない」

 結縁先生が笑うと、指のあいだから灰がひとかけらこぼれ、風に吹かれて飛んでいく。女教師はポケットから携帯用灰皿をとりだし、灰を一度落としてから、夏に聞いた。

「きみの傷はどうだい? きみのほうが、ずっと重傷だっただろう」

「治りました」「うそつけ!」「本当です。当たり所が良かった」「ふーん……」

 先生が煙草を灰皿に押しつけて消し、夏に近づいて白いシャツの左裾をつかむと、掛け声をかけて勢いよくめくりあげた。

「ほうーれ!」「はい」「ほれ、ほれ」「……」

「うっ、ノーリアクションか、きみはさすがだな」先生は夏の脇腹をしげしげと見た、「なるほど、ほとんど治ってる。疑ってすまない」

 夏の傷あとは、うっすらと黄色い内出血が残っている程度まで回復していた。痛みは残っているが、それも二、三日で消えるだろう。結縁先生がほっとした顔になって、ちょっと名残惜しそうな手つきでシャツの裾をおろす。

 急に気まずくなったので、夏は話題を変えた。

「ともかく、だれも死なずに済みました」

 先生がうなずき、新しい煙草をくわえて火をつける。

「お手柄だな。正直、きみが何をしたのか、私にははっきりわからないが、我々も田中くんも助かった」

 夏は首を振って否定する。自分は悪霊を消したが、小夜実先輩を止めたのは結縁先生だったと思う。彼一人だったら、おそらく墜死体ができていただろう。

「あなたが助けたんです。僕はなにもしてません」

「私が? まさか! 私は君に言われたとおりに目をつむって、念仏を唱えてただけなんだが。……まあ、きみは譲りたくなさそうだな」といって女教師が煙くさい息を吐く、「君がそういうのなら、貸しにしておいてもいいかな?」

「あなたの好きにしてください」

 というと、夏は壁にもたれかかったまま、膝を折って床に腰をついた。頭を壁につけると、冷たくて心地が良かった。

「土井君も予後は良いそうだ。半年で退院できるらしい」

「小夜実先輩は、複雑でしょうね」

「そりゃそうだが、土井君のほうがもっと複雑だろう」

「彼女が謝りに行くと思います」

「君と一緒にか?」と楽しそうに先生がいう、「あるいは、彼のほうから、謝罪を要求するかもな」

「ありえますね」と夏はポツリと答える。

「でも、彼女ならだいじょうぶじゃないかな?」

「楽観的ですね。根拠はありますか?」夏の疑問に、女教師が一言で答えた、「君がいることさ」

「訂正します。論理的な根拠は?」

 夏がもう一度聞いても、女教師は同じ返事をした。

「君がいる」

 冗談だと思い、笑おうとしたけど、夏は途中でこわばった。結縁先生は肩をいからせ、真剣な顔つきで夏を見すえていた。

「冗談じゃないぞ、きみ」先生が右手の人差し指を立てて夏の顔を指差す、「あれだけ他人の人生に踏み込んでおいて、まさか、今日から部外者に戻るつもりか?」

「いいえ」と少年は否定して、女教師の指をそっとつかまえて立ちあがった、「うまくなんてできませんが……ぼくは先輩のそばにいます。きっとそのうち、嫌われるまで、関わりますよ」

 夏がそういって指を放すと、先生は腕を下ろしてかすかにうなずいた。彼は先生に疑問を投げかける。

「それは先生、あなたも同じじゃないですか? あなただって、急に他人に戻ったりしないでしょう」

「もちろんだとも。……ほうほう、つまりこうか? きみは私にどんどん関わってほしいのか? なんだなんだ、そういうことか、いいぞ、ウェルカム!」

「いえ、お断りします。自分で言っといて申し訳ないんですけど、面倒くさそうなので」

 夏は手を振ってことわると、回れ右をした。「なにー!」と背後で抗議の声が上がったけど、気にしないことにする。

「きみ、それに、なんていうか。私にとってのきみだって同じなんだぞ」

「おなじ、ですか?」彼は立ちどまり、肩越しに聞きかえす。

「そうだよ。たまには屋上に来てくれよ。用がなくっても。きみと話すのは楽しい」

 夏は屋上から校舎に戻り、階段を降りながら胸に手をあて、女教師の態度と言葉を思いかえした。僕もあんなふうに、感情を自然に口に出来るようになるだろうか。

 いまは無理でも――いつか。

 昇降口を出たところで、夏は校舎を振りかえった。白っぽい建物、ほとんど全部がうす汚れている、屋上では女教師がいまも煙草をふかしているんだろう。まぶしいものでも見るように、彼は目をほそめる。

「あー! 夏くんだ。なにしてたの? あたしはねえ、勉強してたんだよー。えらい? えらくない?」

 もしかして待っていてくれたのか、小夜実先輩が校舎のなかから出てきて明るい声でそう聞いた。

「この場合、えらくもえらくなくもありません」

「うわ、質問に答えてないよ! ロンリテキじゃないなあ、あはは」

 校門のほうに向きなおり、夏は歩きだす。となりを歩いてくれる少女に、彼は精いっぱいほほ笑んだ。

                          (終)


こんばんは。


読んでくれてありがとうございます。

これは、世界なんてクソッタレだって、友だちといつも言ってる僕が、そんな友だちや自分自身に向かって、言いたいことを書いた小説です。


不快にさせてしまったら、ごめんなさい。

でも、あなたに読んでもらえて、僕はとてもうれしいです。

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