痛むほどこころを奪って
店を追われるにちょうどいいようなけぶる雨の日に、わたしが最後に切ったのは勤め始めてからずっと通ってくれていたおばあさんだった。 貼り紙の下で、彼女は鏡越しにわたしを見て、短くしてちょうだい、どうせもう誰にも見せないから、と言っていた。 いつもの長さに整えて、襟足を剃って、ケープを外す。内側に細かい白髪がびっしり付いていた。それを払う手が、自分でも驚くほど迷わなかった。
「ありがとうね。これで安心して死ねるわ」
冗談のつもりだったのだろうか、それを測りかねながらわたしは笑ってレジを閉めた。
その引き出しの軽さだけを、いまでもよく覚えている。
通知が鳴ったのは、トイレ掃除の最中だった。
普段から通知は出来るだけ切っていたけれど、すぐ返さないと面倒くさいものだけオンにしておいたのだった。そんなことさえもとうに忘れていた。幸い周りに人がいなかったのでよかったけれど、あの口うるさい先輩に聞かれていたらと思うとぞっとする。
ぞわぞわとした気持ちのままスマホを開くと通知を報せるバッジがついていたのは半年前に登録したきり、なんの音沙汰もなかった派遣カットのアプリだった。画面には部屋の番号と、クスノキという名前だけが出ていた。
清掃員になってからのわたしの指先はモップの柄の太さばかりを覚えていた。ミリ単位で毛先を揃えていた感覚は、安い洗剤と雑巾の湿り気のなかで、すっかり摩耗していた。
時代は変わった。本当なら派遣での施術は、それなりの美容室に登録しなければならなかったはずだ。それがいまは、そっけない質問にいくつか答えるだけで済んでしまう。自分が歳を取ったのか、世の中の潮流が速くなったのか、時々わからなくなる。
登録して以来なんの成果もない人間にこの文面を送る、相当やばいんだろうな、などと勝手に想像し断る理由はいくらでも探せたのに、わたしの荒れた指先は迷わず、はい、と打っていた。
「部屋の番号は前送ったでしょう?鍵なら開けてあるから入って」
その文を読んでノブを回すと、カチャリとやや軽い心地の音がした。振り返るとドアに付いた白い箱型の、わたしには見慣れない電子鍵が短い警告音を上げ、鍵の回る重い金属質の音が静かな空間に落ちた。まるで、後ろで世界が固く閉じられたような音がした。
「はじめまして。ふふ、少し驚かせてしまった?」
部屋の奥からかかった声は、水底から響いてくるように低く、平らだった。
その人は、リクライニングチェアに車椅子の車輪を無理矢理溶接したような歪な椅子に腰掛けていた。部屋の中には生活感がほとんどなかった。あるのは壁を覆う背表紙の削れた古本と、畳まれた段ボールの山、そして彼女の膝の上に鎮座する、あまりにも大きなおなかだけだった。
はじめまして。この度はたくさんの中から選んでいただきありがとうございます。
述べるはずだった言葉たちがするすると喉の奥に逆流していく。舌の上が少し乾いた気がした。
「お名前は」
「……円科といいます」
頭を下げると、小さく、乾燥した粘膜の擦れる音がした。息を吸い込むかすかな音。
「まどか、まどか……うん、いい名前ね。円、科」
2度目の声は少し小さい声だった。そうしてこちらに目を向けた人は、よろしくね、と笑いかけた。
理容師の職を失い、空虚に日々掃除をしているうちに半年が過ぎようとしていた。そんな空っぽのわたしの視線を奪ったのは、308号室の女の人の抱えるおなかだった。
それは妊婦のやわらかな幸福感とは程遠く、毛細血管の青く浮き出た皮膚が、天井の蛍光灯の光を反射するほどピンと張っていた。まるで内部からパンパンに水と空気を詰め込まれた巨大な風船か、あるいは冷たい石の塊のようだった。
その下腹部、ウエストがゴムの地味なスラックスへ隠れるギリギリの位置には、友達にふざけて見せられた海外の青紫のムカデに似た、引きつった帝王切開の痕が続いていた。
わたしがあまりにまじまじと見てしまっていたのだろう。彼女は腹部に添えた細い指先をすこし動かし、くすりと笑った。
「気になるでしょう、これ」
不器用に視線をずらして、声を出せずにいるわたしに彼女は再び笑った。
「いいの、気にしなくて。これはね、恋人に逃げられたの」
感情の失せた、事実だけを述べる声だった。
「最後にしたのが正常位だったから、できちゃったんだと思う」
真正面から抱きあってうそでも愛しあったから。臆病な猿みたいに後ろからじゃなかったから……そう言いながら、彼女は細い首を少し傾けた。
首筋に浮く骨の継ぎ目が、ビー玉を押し付けたようにまるくへこんでいる。皮膚が極限まで薄いのか、頬にも細い紫色の血管が浮かんでいた。その管のうちのひとつがまっすぐと首筋へ伸びており、それは一度入ったら二度と出られない迷路のようだった。
「髪を切ってほしいの。長さはどうでもいいわ。切ってもらったっていう事実がほしいだけ」
わたしは湿った空気の中で深く息を吐き、道具箱からケープを取り出した。
椅子の背にタオルを回すとき、指先が彼女の首筋のまるいへこみに触れた。
ひやり、としたそれは生きている人間の体温ではなく、濡れた川底から拾い上げてきた石の冷たさだった。洗剤で荒れて熱を持っていたわたしの指先が、その冷たさに触れた瞬間、すっと痛みが引いていくような錯覚を覚えた。
「ハサミ、持ってきたのね」
「あ……はい。一式、持っています」
「そう。刃物を持った人が部屋に入るのなんてひさしぶり」
クスノキさんは嬉しそうに目を細めた。
霧吹きを取り出し、彼女の短い黒髪に細かな水滴を吹きかける。水を含んだ髪は、湿り気を帯びてもなお、綿毛のように軽かった。
櫛を通すたび、頭皮から立つ淡いにおいと、それから少し刺すような澄んだかおりが鼻腔をくすぐった。雨のあとの、土と葉が混ざり合ったあのにおい。あるいは、古い樟脳の匂い。
ちゃき、と小さな金属音が静寂を切り裂いた。
久しぶりの音だった。清掃員になってから、わたしの手は掃除用具を詰めたバケツの手に食い込む重さばかりを覚えていたから、細い鋏のあまりの軽さに指のほうが戸惑っていた。
「上手ね」
「……まだ、なにもしてません」
「手がね、ためらわないの。なにかを切り落とすことに」
鏡の中で合わせたクスノキさんの目は、光を一切反射しない茫漠とした湖のようだった。やがて視線に気づいたのか、両のそれをそっと隠すように長い睫毛を伏せた。
切り落とした黒い毛筋が、彼女の白い肩を滑って床へ散っていく。
一刺し、また一刺しと鋏を入れるたびに、彼女の輪郭がほんの少しずつ削ぎ落とされ、同時にわたし自身の境界線もぼやけていく気がした。
この四角い部屋……陽の光が入らず、外の音が届かないこの暗がりは、まるで最初から用意されていた棺桶のようだった。そしてわたしは今、その箱の蓋を内側から閉めるための作業を始めているのだとどこか予感していた。クスノキさんは最後までじっと目を閉じていた。
帰り際にアプリを開くと、次の依頼が2週間後にもう来ていた。ビルの前で段ボールを抱えた男の人とすれ違った。 外には古いスクーターが停まっていて、排気音がまだ、ぽ、ぽ、と余韻のように残っている。上の階の人?と 急に聞かれて、わたしは頷いてしまった。男は荷台から二箱目を下ろしながら、独り言みたいに放った。
「あの部屋、去年まで本の倉庫だったんだけどね。住んでる人がいるとは、知らなかったな」
どういう意味ですか、と聞くより先に、スクーターは湿ったアスファルトの上を走りだしていた。 エレベーターの中で、段ボールの角が濡れているのに気づいた。雨は降っていなかった。
道の途中に、小さな古い橋があった。
濁った川の水が、街の灯りをぐにゃりと歪めて呑み込んでいくのを、わたしは手すりに寄っかかってしばらく眺めてみた。
爪の間に、切ったばかりの黒い毛筋が一本、挟まっていた。指先でそれを摘まみ上げると、夜風に煽られてあっけなく暗闇へ消えた。
理容師だったころ、お客の髪はただの素材だった。けれどクスノキさんの髪は違った。切り落とされた瞬間に、彼女の身体の肉の一部がわたしの手元に零れ落ちてきたような、奇妙な生々しさがあった。
ポケットの中でスマホがまた震えた気がして手を伸ばしたが、なにも届いてはいなかった。ただ、古い柄を握りしめて擦り切れていた掌が、あの冷たい首筋の感触だけをくっきりと覚えている。
軽くすいただけでも髪は思っていたよりたくさん落ちた。
床に散ったそれを箒で集めていると、クスノキさんが鏡越しにこちらを見ていた。
「髪って、死んでも残るのね」
発言の意図を探っている間にまた言葉が紡がれた。
「死んだあとも、しばらく伸びるでしょう」
「それ、多分ちがいますよ。皮膚が乾いて縮むからそう見えるだけで」
「そうなの」
興味を失ったように、彼女は目を伏せた。
わたしは集めた髪をちりとりに入れた。
黒い毛が、そこだけ生きものの群れみたいに蠢いて見えた。
「捨てるの?」
「はい」
「かわいそう」
冗談なのか本気なのか解らなかった。けれど、そのときわたしは初めて、自分が何年も人の髪を切ってきたことを思い出した。
切ったものはいつも、捨てていた。それが当たり前だった。
なのに、その日だけは、捨てるということが少しだけ残酷なことに思えた。
「ねえ、切ってもらってる間退屈なんだけど本を読んでくれない?全部じゃないわ、私が言うのを繰り返してくれたらいい」
おずおずと頷けば鏡の中でクスノキさんは片頬だけで笑った。
「アーサー・ケストラーは知ってる?機械の中の幽霊の一節なんだけど」
そういえばこの部屋の空気は、冷たく湿っている。
風の通らない四方をコンクリートに囲まれた空間は、わたしに夜遅くの地下鉄を思い起こさせた。わたしはそれを棺だと初めて乗り込んだ時からずっと思っている。この棺にいる時、わたしはいつもよりいくらかましに呼吸が出来ている気がした。採光性を無視した長方形の部屋の作りはまるで棺桶のようだったけれど、太陽光は本を傷ませるので、むしろ好ましい環境らしい。クスノキさんの言うことを信じるなら。
「知ってる?楠は暗いところにいるほうが長生きで、葉っぱはちぎると刺すような鋭い、カンフル剤の匂いがするの」
肘が一番目立つような細い腕がわたしの顔に巻きついてそのまま胸元に引き寄せられる。降りやんだあとの雨のような淡いにおいに惑わされそうになる。
「あなたが今まで覚えてる本はなにかある?」
「……カポーティの夜の樹と冷血と、それか安部公房です。印象的な文が多くて……」
鏡に浮かぶわたしはなんとかその内容を思い出そうと苦笑いを浮かべていた。
水曜日はなんとなく死にたい。思えばいつもそうだったような気がする。
未来があって過去があってだから今わたしたちはここにいる……そう考えると水曜日はなんというか、どこにも安寧がないような気がしてならなかった。そう考えはじめると、もうなんでも、誰でもいいから死んでくれないかなと思うようになる。別にほんとに死ねと思っているわけではもちろんないけれど。なんて言うんだろ……鬱屈とした中学生がノートの片隅に死ねって落書きするのと似ているような気がする。これは、他の人には伝わるのだろうか?今度クスノキさんに聞いてみようかな……って、いやいや。
最後のところでようやくわたしはトイレの個室の中で首を振った。聞けるはずがなかった。雇われているだけの人間が、雇い主にそんなことを訊くのは、いくら彼女がだからといって駄目だ。けれど水曜日の昼になると、いつも、胸の奥がすこしだけ軽くなった。
クスノキさんの髪を切るのはいつも月に2回、それも決まって水曜日だった。
鋏を入れるたび、切り落とされた髪が床に散って、それが彼女からこぼれた時間のように見えた。
手術の痕は何ヶ月通っても同じ青紫のままだった。治る途中の色をわたしはまだ一度も見ていない。そこだけがまるで時間の経過を素知らぬ顔でやり過ごしているようにも映った。
髪を切り終わってから伸びる早さを聞くと、クスノキさんは、さあ、と首を振った。
「陽当りのいいとこだと、あまり伸びないの」
暗いところのほうがよく伸びるのだと、彼女は笑って、紅茶を振る舞われる傍ら本を差し出された。今日はヴェイユの重力と恩寵だった。
「ああ、そこ、もう一回読んで」
「ここですか」
「うん」
わたしはクスノキさんが持ち上げたページに視線を落とし、同じ文章をもう一度読んだ。途中の句点で少し息が詰まり、途中で噛んだ。
「違う」
「すみません」
「そうじゃなくて。円科の声で読んで」
意味が解らなかった。
本に書かれているのは当たり前だがわたしの言葉ではない。
わたしは静かに息を吸い込み、もう一度読み直した。今度は速度を落とし、ひとつひとつの音を胸の奥から手探りで引き出すように、ゆっくりと声に乗せた。
コンクリートに囲まれた部屋の冷えた空気が、わたしの声帯をなぞり震わせながら奥へと落ちていく。クスノキさんはいつものゆったりした車椅子に深く体を預け、長い睫毛を伏せてそれを聞いていた。
一節を読み終えて息を吐くと、クスノキさんはまぶたを開けずに薄い唇をほころばせた。
「ほら。今の、私が言ったみたいだったでしょう」
「……そうですか?」
「うん」
わたしは本を閉じた。自分の声のはずなのに、喉から離れた瞬間にそれは自分のものではなくなっていた。まるで、最初からクスノキさんの頭の中にあった言葉を、わたしの喉という管を借りて再生させられただけのような、奇妙な感覚が残る。
鏡に映る自分を見ると、輪郭が少しだけぼやけて見えた。自分が喋っているのか、それともクスノキさんの思考に口の動きを奪われているだけなのか、境目がわからなくなる。わたしの声は、わたしの体を離れて、この冷たく湿った部屋の暗がりに沈殿していくようだった。
「心はぼんやりしているから、身体っていう容れ物に閉じ込めないといけないの」
クスノキさんは閉じた目蓋のまま、小声で歌うように言葉を紡ぐ。その声のトーンは、さっきわたしが読んだ文章の抑揚と、恐ろしいほど正確に一致していた。
「それでもまだぼんやりしているから、ことばとおこないで縛る。どこにもいかないように……だから人は、ずっと辛いのね」
彼女がゆっくりと目を開け、わたしを見つめた。その瞳は濁った水面のように光を吸い込み、なにひとつ映し出さない。わたしはただ、言われるがままにぬるくなった紅茶のおかわりを注ぐことしかできなかった。
紅茶のカップを下げる手先を、じっと見つめられていた。
「あなたの爪、ずいぶんと傷んでるのね」
「あ……はい。強い洗剤を仕事で使ってるので」
「見せて」
逆らえるはずもなく差し出した右手。その指先を、クスノキさんは点検するように、値踏みするように両手で包み込んだ。やっぱり、冷たい。けれどその冷たさが、洗剤で火照った指先の痛みをじわじわと和らげていく。
彼女はわたしの親指の腹を、自分の滑らかな爪で軽く圧した。
「理容師だったころは、もっと綺麗な手をしていたの?」
「どうでしょう……水仕事ですから、昔から荒れてはいましたけど。でも、刃物を握る手ではありました」
「そう。道具を握る手」
クスノキさんはわたしの手を自分の膝の上……あの、まるく張ったおなかの真上に置いた。布越しに伝わる、恐ろしいほどの張り。指先で突けば、ぽんと乾いた音がしそうなほどピンと張り詰めた皮膚。
「いまも握っているじゃない。私の声を吐き出すための喉という道具」
彼女の言葉に、喉の奥がキュッと収縮した。拒絶の言葉を口にしようとしたのに、声帯はただ、はい、という浅い吐息しか吐き出せなかった。
クスノキさんは天井の隅を指さした。 本棚の影に隠れて、天窓があった。ずっと気づかなかった。
「あれは開けないの。本が傷むでしょう」
そう言いながら、彼女は足元の紙束をつま先でつついた。畳まれた段ボールが、壁際に何枚も重ねてあった。
「折ってくれる? 暇なときでいいから」
「引っ越しですか」
「ううん」
彼女は少し考えて、おなかに手を添えた。
「産まれたら、要るでしょう。ゆりかごにするの」
冗談にしてはあまりに平らな声で、わたしは黙って一枚目の角を折った。ガムテープの粘着が、指の腹に貼りついては剥がれた。 折り終えた箱を、クスノキさんは満足そうに、ひとつずつ撫でた。
掃除用のモップの柄を握っている掌には、常に安っぽい洗剤の匂いと固いタコがこびりついていた。けれど水曜日のあの部屋に足を踏み入れ、鋏を握り直すときだけ、その皮膚がずるりと脱ぎ捨てられるような感覚があった。現実のざらついた手触りが消え、代わりに湿った石と、刺すようなカンフルの匂いが肺を満たしていく。
わたしは、ここにいるあいだだけは、なにもなくしていないような気がしていた。それがいちばんの罪なのだと、まだ知らなかった。
白い鍵の装置が鳴って、後戻り出来ない空間へとわたしは足を踏み出していく。最初よりずっと気安く、なによりこの時間が喜ばしいとさえいつの間にか感じていた。クスノキさんが、手の甲でそっとおなかを撫でた。
「このおなかの中にはね、なにもいないの」
ずっとあたため隠していた秘密を打ち明けるようにクスノキさんはその日はじめて話した。
「お名前は、考えていたんですか」
そう口を開いてしまってから、舌を噛みたくなった。髪を切る手が止まる。 鏡の中のクスノキさんは、いつものように目を閉じていた。 「どうして?」
「その、……準備とか、あるのかなって」
「準備」
彼女は、その二文字をひどく珍しい食べ物みたいに口の中で転がした。
「ねえ円科。わたし、おなかの中にこどもがいるって、一度でも言った?」
言っていなかった。わたしがそう見ただけだった。 返事ができずにいると、彼女はまぶたを開けて、鏡越しにわたしを見た。その目はもう、笑っていなかった。
「このこはね、まどかっていうの、そう呼ぶつもりだった」
でももういいわよね、あなたがいるもの。
覗き込む勇気なんてありはしなかった。鏡の中にいるクスノキさんは温度のない顔をしていた。
全く無表情の身体の中で鬱滞したものが膨れ上がり、しかし決してそれを他人に触らせようとはしない頑なさをもってクスノキさんはなにかに対して激しているように見えた。
言葉の弱さはその裏返しだろうか、青白い皮膚の下に閉じ込められた強い意志の流れが、行き場をなくした紫電のように、ただの六面体のしじまを震わせる。静かに、内側から眩く光っているような、清廉とした純度の高い怒り。
俯いているとパタパタ、と弾ける音がして最初は雨が降ったのかと顔をあげてここが室内なことを思い出した。それはクスノキさんがこぼしている涙だった。なんの意味も読み取れない涙だった。
それを拭おうと触れる手は拒まれなかった。けれど、こうして触れることが慰めであると思う、それもまた、彼女を打ちのめし侮辱するもののひとつに過ぎないかもしれなかった。そう思いながらもなにもしないではいられず震える背中に手を置いた。彼女はますます小さな石ころのように固く丸くなり、静かに嗚咽しはじめた。それでも決して重みを預けることはしなかった。
髪を撫でても、肩を抱いていても、残酷なほどはっきりと領域は分かたれてなにひとつ交わるものはなかった。例え両腕できつく抱きしめたとしても、きっと変わらない。彼女がはるか遠いところで、ただの独りで泣いている事実には、変わりはない。
そう思うと、酷くはかない気持ちがした。
「読んで」
顔を見られたくないのかこうべを垂れたクスノキさんが縋るように本をわたしの手に押し付けた。
「でも」
「読んで!」
はじめて、この人の荒い声を聞いた。いつも丁寧で、上品で、横柄などとは無縁のクスノキさんが。読み終えて本を閉じても、喉の奥に残った震えが消えなかった。街へ出ても、通行人に声をかけられた時に自分の声の出し方がわからない。わたしの喉はもう、クスノキさんの思考を再生するためだけの冷たい管になってしまっていた。
「円科さん、聞いてる?」
声のした先を横目に辿ると、やはりと言うべきか、先輩の女が腕を組んでわたしの少し前に立っていた。ブラシを持ったまま、わたしは便器の縁を見ていた。
「返事は?」
はい、と言うつもりだった。唇が動いた。出てきたのは昨日読まされた、静かな映画の告白の一行だった。女の濃すぎる眉が、ぴくりと動いた。
「……なに、それ」
「すみません」
今度はちゃんと、わたしの声だった。けれど、さっきの一行のほうが、ずっとわたしのもののような気がした。
帰りのエレベーターで、わたしは自分の名前を言ってみようとした。
ま、どか。
声は出た。出たけれど、それは壁に当たって、そのまま床へ落ちた。
駅前のコンビニで、レジの店員に、温めますかと聞かれ、わたしは、はいと答えるはずだった。口を開くと、喉の奥から、「兵隊さんの靴さ」と出かかった。慌てて飲み込んで、首だけで頷いた。たしかあれは、小川洋子の本だ。
部屋に帰って、湯を沸かして、風呂に入って、寝た。その間ずっと、自分がなにも喋っていないことに、あとから気づいた。
万年床に横たわりながら、自分の喉を指先でなぞった。
ひときわゴツゴツと手応えのある喉仏のあたりを強く押すと、小さな苦しさと共にけほけほと咳が漏れる。
ここには、もう自分の言葉がない。
明日になればまたビルのトイレを磨き、名もない清掃員として雑巾を絞る。
けれど、その間わたしの喉は休眠しているだけだ。水曜日にあの冷たいコンクリートの部屋へ行き、彼女の指し示す本を開くまで、わたしの声帯はただの冷めた器官としてここにぶら下がっている。
自分が理容師として客の髪を整えていたころ、何を話していたのか思い出せない。世間話の仕方も、相手に合わせて笑う方法も、すべて失ってしまった。
わたしという器のなかで、なにかが着実に腐食し、空洞化していく音が聞こえるようだった。
次の水曜日、スマホは鳴らなかった。
昼になっても、夕方になっても、アプリには何も来なかった。更新しても、画面は同じ白さのままだった。わたしは清掃の仕事を終え、制服のまま、駅のホームに立っていた。電車が二本、わたしの前を通り過ぎた。
嫌われたのかもしれない、と思った。あの日、泣いている背中に触れたこと。読み終えても、なにも言えなかったこと。慰めようとしたこと、そのすべてが、彼女を侮辱するもののひとつだったのかもしれない。
改札を出たとき、雨が降り出していた。
傘、なんて最初から持っていなかったのかもしれない。
どこかコンビニの店先の傘立てに忘れてきたのか、あるいは、自分には雨を避ける資格すらないと思い込んで棄ててしまったのだったか。
土砂降りの雨の中を、わたしはただ歩いていた。
濡れた服が肌にへばりつき、体温を容赦なく奪っていくのも構わず、あてもなくさまよい続ける。歌舞伎町のネオンは、こんなひどい雨の夜でも憎らしいくらい眩しく明滅していた。
頭上から降り注ぐ赤や青の人工的な光が、濡れて光るアスファルトの上で滲み、色とりどりのいびつな水溜まりの花を咲かせている。街の隙間から這い出してきた仔うさぎほどの大きさのドブネズミが、アスファルトの隅をすばしっこく駆け抜けていく。濡れた長い尻尾が動きに合わせてビチビチと跳ね、ネオンの光を反射して嫌に目立った。
鬱向く今の身には、その醜い蠢きすらどこか神聖でとても綺麗に見えた。生きているものはみんな、あんな風に必死で何かを求めて蠢いている。それなのに、わたしの中にはもう、何も残っていなかった。
冷たい雨が顔を叩くたび、感覚が麻痺していく。
自分はなにもほしくないと思って、すぐに、そうだよなあと納得した。
だって、わたしはずっとなくし続け、奪われ続けてきたじゃないか。理容師という仕事も、爪先に力を入れて立っていた日常も、誰かに渡したかったはずの温もりも。
何をいまさら、と心の中で付け加えると、身体の中から消えたはずの涙が、雨と混ざり合ってこみ上げてきた。渡したかったものなんて、もうどこにも残っていないのに。どうしてこんなにも胸の奥の、手で触れないところが痛むのだろう。
十分、不幸になったら。摩耗しすぎて、もうどこも擦り切れることさえできなくなったら。足がもげて、どこへも行けなくなったら——わたしは、あの冷たくて湿った棺桶のような部屋へ帰れるのだろうか。
ビルの隙間から吹き抜ける湿った風の中に、ふっと、あの楠の葉をちぎった時のような、刺すような澄んだ匂いが混ざった気がした。
わたしは濡れた前髪を払うことも忘れて、吸い寄せられるように、クスノキさんが住むビルのある、水曜日の方向へと足を進めた。
雑居ビルの前で、わたしは濡れた前髪をようやく払った。
肩にかけた道具箱のストラップが、水を吸って肩に食い込んでいる。鋏は錆びないだろうか、と少しどうでもいいことを思った。
旧いエレベーターは、わたしの足元から水が落ちるのをひとつずつ数えるみたいにガタガタと昇っていった。扉が開く。緑の葉が濡れもしないで光っている。爪先に僅かに力が入る。
部屋の前で、手が止まった。
呼ばれていない。今日は、なんの通知もなかった。ノックをする理由も、鍵を開けてもらう理由も、わたしにはひとつもなかった。引き返す理由なら、いくらでもあった。
ノブに触れるより先に、ドアの白い箱が短く鳴いた。
鍵の回る金属質の音が、静かな廊下に落ちた。
「入って」
中からの声は、いつもと同じ高さだった。
部屋は変わらず冷たく湿っていた。クスノキさんはリクライニングチェアに身を預け、膝に本を伏せたまま、濡れそぼったわたしを見て、少しだけ目を細めた。
「今日は、呼んでないわ」
「……はい」
「でも、来たのね」
責める声ではなかった。それが、かえってわたしの喉を詰まらせた。タオルを取ろうとする手が、細かく震えているのが自分でも解った。髪から落ちた水が、床のコンクリートに黒い染みを作っていく。
「ずぶ濡れじゃない。風邪をひくわ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない人の顔をしているのに」
返す言葉がなかった。わたしはその場に膝をつき、そのまま、クスノキさんの膝の前に額を落とした。まるいお腹の曲線が、すぐそこにあった。
蛍光灯の光を弾く、張りつめた皮膚。その下にあるはずの、なにか。
なにもほしくない、とさっき思った。それなのにひとつだけ、ほしいものがあることに、いま気づいてしまった。
わたしは、まるいもののなかに入りたい。
まるいもののなかに入りたい。そうしてあたたかく狭い場所で丸くなって、ゆっくり揺られ押しつぶされながらずっと眠っていたい。ああ、こころの底にきづいて、しまった。
「わたし、は、クスノキさんのおなか……に、入りたい、です」
吐き出した端から感情が澱のように止まらなかった。胸の奥で渦巻いていた靄のような悲しみが、細い管を通って強固な煙になり、視界を歪ませていく。
「もういやなんです、とどかないところが痛いのもつらいのもしんどいしんどいって喚いてまた辛いことを繰り返すのも、そういう全部を複製していくのが」
声が震え、涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠すこともできなかった。
クスノキさんは、静かにわたしを見つめていた。その曇り空を映す湖面のような瞳には、同情も哀れみもなく、ただしんとした暗がりだけが広がっている。
「だいじょうぶ、わかるから」
淡々とした、けれど不思議に鼓膜へ染み込む声だった。
「クスノキさん……」
「じゃあ、入ってみましょうか」
「は、?」
拍子抜けするほど軽いトーンだった。クスノキさんはなんでもないことのように、わたしの道具箱に視線を落とした。
「鋏は円科のがここにあるし、台所に行けば包丁もあるわ。髪を切る鋏と料理鋏、どっちが深く刺さるのかしらね」
淡々と、おなかを割く手段を口にする彼女の言葉に、全身の血が凍りつくのが解った。手足の先から急速に温度が失われていく。
「まって、待ってください」
「なんで? あなたはここに入りたいんでしょう?」
「そう、ですけど……それは、その……ただの願望の表れというか、比喩で」
比喩、という言葉は自分の口から出た瞬間にひどく安っぽく響いた。現実の刃物を前にして怯むわたしを、彼女の目は見透かしていた。ぎゅうと狭まったように圧迫感のある空間から伝わるのは、逃げ場を一切与えない絶対的な冷たさ。
「……そうやって逃げるのね、いつもいつも」
へそのあたりを撫でていたクスノキさんの手が、すっとわたしの掌を掴んだ。
指先から伝わるのは、隙のない、温度のない、そして何より情のない手指の冷たさだった。よく磨かれた石のように硬い圧力が、わたしの皮膚を押し潰す。
「逃げる理由をひとつひとつじっくりと探して、出来ないって嘆くの。まるで、自分で壊したおもちゃに怒って泣いてるちいさな子どもね」
ふっと顔に熱がせり上がるのが解った。屈辱なのか、それとも暴かれた歓喜なのか、特に皮膚の薄い頬や耳の裏が痛いくらいに熱い。
クスノキさんは荒れていないけれど艶のない唇に人差し指を添え、わたしの怯えきった顔を見つめた。なにかがおかしいのか、あるいはわたしの赤くなった顔がおかしかったのか、彼女はくすりと小さく笑った。
「でも……いいの、それで」
その笑みは、ぞっとするほど神聖で、残酷だった。
「だって、円科は私のこどもなんだから」
その言葉が落ちた瞬間、頭の中の何かがぶつりと切れた。
こども、その響きが、わたしの全身の細胞に溶けていく。
わたしを縛っていた大人という衣服が、理容師であった過去が、清掃員としての惨めな日常が、すべて剥がれ落ちていく感覚がした。
クスノキさんは掴んでいたわたしの手を放すと、愛おしそうに自分の大きなおなかを撫で直した。縦に走る青紫の百足がひっそりと蠢く。
「母親はね、こどもの我が儘を拒まないの……だから、準備が出来るまで待ちなさい」
あの日から、クスノキさんは鋏や包丁のことを二度と口にしなかった。
けれど、その日からわたしと彼女の間には、血よりも濃いへその緒が確かに繋がってしまった。
それからの日々、わたしはまるで待ち時間を消化するかのように生きた。
職場での会話は完全に途絶えた。誰かがわたしに話しかけても、わたしの喉からは掠れた息しか出ず、相手は気味悪そうに立ち去っていった。それでよかった。わたしという人間はすでに半分、あの雑居ビルのコンクリートの中に埋まっていたから。
部屋に帰ると、押入れから古い荷物を少しずつ取り出してはゴミ袋に詰めた。理容師時代の専門書、かつて持っていた服、昔の恋人からもらった絵葉書。
ひとつ捨て、ふたつ捨て、わたしに関するものはほとんど失くなっていってしまった。
自分が削ぎ落とされていく感覚は、恐怖ではなく圧倒的な快楽だった。わたしはわたしをやめていく。クスノキさんのまるいものになるために、急ぐように角を落としていった。
雑居ビルの群れでもとりわけヒビが目立つ濃灰は雨に打たれた後のようにくすんでいる。文化財のような旧式のエレベーターから降りて……両側を取り囲む観葉植物はよく見なくてもそれと解るツルツルしたフェイクグリーンの並ぶ廊下で、爪先が硬い音を立てた。初めて来た日と同じ音なのに、もうわたしは、それを数えていなかった。
約束はないのに、水曜日になるとスマホは鳴った。本文はいつも同じで、部屋の番号だけが書かれていた。
清掃の仕事は、辞めるつもりもないのにいつのまにか休みがちになった。同僚に理由を訊かれて、うまく答えられなかった。答えるための言葉が、あの部屋に置いてきたままだった。
部屋は変わらず冷たく湿っていた。ただ、本の背表紙が少しずつ増えている気がして、それを聞くと、クスノキさんは笑った。
「あなたが来るたびに、ひとつずつ、なにかが減るでしょう。その分、ここに足しているだけ」
減っているのは、本当はわたしの側だった。
最初に預けたのは指輪だった。 母からもらった安い、ブラスの。紅茶を飲むときに外して受け皿に置いたら、クスノキさんは、それ預かってもいい、と言ったのだった。 帰りにそれを返してもらうのを忘れた。次の水曜日にも思い出さなかった。 通帳も、そういえばそうだった。実家の番号を書いたメモも。母の着信が三度続いた夜、わたしはスマホを裏返して、それを本のあいだに挟んだ。
「しおりにするわ」
クスノキさんは楽しそうに言って、ページの角を折った。 どの本に挟まれたのか、わたしはもう聞かなかった。聞かなければ、なくしたことにならない気がした。
気づけば、わたしの持ち物はこの部屋でのほうが多かった。わたしの世界から余計な肉体が削ぎ落とされていく。身軽になればなるほど、あの冷たい部屋の密度が増していく気がした。わたしは減っていたのではない。あのおなかの中という空洞を満たすために、余分な皮を一枚ずつ剥いでいただけだったのだ。
その日は、あの天窓が開いていた。踏み台もないのに、どうやってだろう。そう思ったけれど口にはしなかった。
外の空気が、細く、冷たく、部屋に入ってきていた。ずっと密閉されていた樟脳のにおいが、それに押されるように薄れていく。
「今日はね、風を通したいの」
クスノキさんが言った。
「産まれるときは、閉めきっていちゃいけないでしょう」
わたしは頷いた。折り畳まれた段ボールの山が、窓から入る光に、うっすら白く浮かんで見えた。
その日も、鍵は開いたままだった。それを閉じる音は鳴らず、ただ床いっぱいに畳んだ段ボールが敷かれていた。
「ねぇ円科。今日は、髪はいいの」
椅子から差し出された腕を、わたしは断らなかった。断る、という選択肢が、もうわたしのなかにはどこにも残っていなかった。
膝をつき、抱き寄せられる。まるい額から伝わる頭蓋骨の感触。
抱き寄せられて潰れる胸と胸のあわいで、わたしはクスノキさんの心音を探した。ない。かわりに、遠いところで水の揺れる音がした。空っぽの部屋でだけ聞こえる、残響のような音。
「ねぇ」
髪が一筋、頬に落ちる。払う気にはならなかった。
「きいて、円科」
どこかでちりちりと、紙の縁が焦げる微かな音が聞こえ始めた。
床の端に置かれた段ボールから細い煙が立ち上り、細く開けた窓からの風に煽られて、薄い灰色の筋となって天井へ運ばれていく。
その煙の中に、あの日彼女が教えてくれた、楠の葉をちぎったときの刺すようなあの澄んだカンフルのにおいが混ざっていた。喉の奥を刺すような、薬のような、甘く冷たいにおい。
「あなたを産んだ日のことを思い出したの」
クスノキさんがそう呟いた瞬間、座面が急にあたたかくなった。
破水したのか、彼女の股間から溢れ出た生ぬるい液体が、ウエストの緩いスラックスを濡らし、わたしの膝上へと広がっていく。濡れていく布を撫でた掌に、ぬめりを持った液体がまとわりつく。
ああ、とわたしは思った。
ずっとここにあったんだ。わたしがずっと入りたかった、やわらかくて、狭くて、誰にも触れられない場所。
痛みはなかった。
うまれてから今までなくし続けてきたものの最後に、この命という痛みまで差し出せることが、ただ、自分のことじゃないほどに眩しく、だからうれしかった。
視界の端が、段ボールを舐める橙色の光に染まっていく。
燃え広がる熱に照らされたクスノキさんの横顔は、皮膚の内側から発光しているように見えた。あの日、涙を拭えなかったときのように、綺麗な顔だなあ、とわたしはぽかんと思った。
「よかったですね」
生暖かい液体に手を濡らしながら、じっくりと噛みしめるようにわたしは笑った。笑った、つもりだった。溢れた涙が、熱で乾く前に顎から落ちていく。
「円科」
「はぁい」
甘い声で名前を呼ばれる悦楽が、脳を少しずつ溶かしていく。よいこの返事を返すと、クスノキさんは満足そうに微笑んでくれた。
「おなか、触ってみて」
言われるがまま、大きく張りつめた彼女の皮膚の上に手を置いた。
はち切れそうだったお腹は、もう冷たくなかった。ひどくあたたかく、熱を持っていた。
この中にはなにもいない。そんなものは初めから存在しなかった。そのことを、わたしはもう痛いほど知っていた。
それなのに、お腹に耳を近づけると、熱の向こうから、はっきりと水の音がした。
ざあ、ざあ、と波打つような、深く重い音。
母親の胎内で聞く羊水の音なのかもしれなかった。あるいは、部屋を呑み込んでいく炎の音なのかもしれなかった。
「いるでしょう」
クスノキさんが言った。
「なにがですか」
「あなた」
ああ。
わたしはずっと、この人の中に入りたかったんだ。
狭くて。
暗くて。
あたたかくて。
何も考えなくていい、何も失わなくていい場所。
そこにはなにもなかった。なにもいない、ただの空洞だった。
だからこそ……だからこそ、わたしはここに入れた。空っぽだったから、わたしという存在で満たすことができたんだ。
部屋を充満していく濃い煙が、わたしたちの視界を真っ白に覆っていく。
もしかすると恋人の話も、帝王切開の傷も、アプリの通知さえも、すべては最初から嘘だったのかもしれない。そうとも思ったけれど、もうどうでもよかった。樟脳の鋭いにおいが、鼻腔を、肺を、細胞の隅々まで満たしていく。
わたしはクスノキさんの胸の中に、深く深く顔を埋めた。
心音は、やっぱり聞こえなかった。かわりに、遠くで水が揺れ、その揺らぎの向こう側から、何かがこちらへ、わたしたちを迎えに近づいてくる。
クスノキさんの細い腕が、しっかりとわたしの背中に回った。
子供を抱くように。あるいは、死にゆく子供に抱きすくめられるように。
「大丈夫」
耳元で囁く声が聞こえた。
「今度は、絶対になくさないから」
ちいさな、愛おしそうな声だった。
その声は、クスノキさんのもののようであり、わたしの声のようでもあり、あるいはこのお腹の中でこれからうまれる、なにか新しい命の声のようでもあった。
赤と橙の熱がわたしたちを優しく包み込んでいく向こう側で、またひとつ、ちいさな産声が上がった気がした。




