なかよし世界の民需
春の風がやわらかく街をなでていた。
まだ朝の冷気が残るが、陽の光は確かに冬にはなかった温度を帯びている。
青年・三村稔は、駅前の歩道橋の上に立ち、ゆっくりと街を見下ろした。
遠くで汽笛が響いた。
蒸気機関車だ。黒々とした煙が空へと伸び、プラットホームの向こうに春霞のような影を落とす。
駅前には人が集まり、家族を迎える者、出張へ向かう者、荷物を受け取る商人――さまざまな思いが行き交っている。
その喧噪の中に、ひときわ目立つ音が混ざっていた。
パララララッ――
バイクだ。まだ珍しいはずのそれを軽やかに操り、紺色の制服を着た若い女性が駅前に滑り込んだ。
彼女の背中から伸びた革製の工具鞄が揺れ、太陽の光を反射する。
「またあの子だ。最近よく見るな」
稔の隣にいた老店主がつぶやく。
「軍が技術協力を始めてから、工場の機械技士が増えておってな。あの娘さんも整備工らしい」
確かに。
陸海軍が互いの技術を融通し合うようになってから、民間工場にも高性能の工作機械が回され始めたと新聞で読んだ。
それまで航空機の整備工といえば男ばかりだったが、いまでは若い女性の姿も珍しくない。
バイクの女性は、ちょうど列車から降りてきた男を見つけて手を振った。
その男は作業服姿で、肩には新型ラジオの箱を抱えている。
「昨日注文したやつだろ? 本当に手に入れたんだな!」
女性の声が弾む。
男は照れくさそうに笑い、ラジオの箱を掲げて見せた。
「軍需工場からの払い下げ部品が使われてるそうだ。音もかなりいいらしい」
稔はその会話に自然と耳を傾けていた。
ラジオ――まだ高価だが、少しずつ家庭にも入ってきている。
新聞によれば、陸軍の通信研究所と海軍の電測部が協力した結果、回路の規格を簡略化できたらしい。
(陸海軍が仲良くしただけで、こんなにも早く……)
青年は胸の奥で静かに驚いていた。
ふと駅前通りの方を見ると、道路工事の音が響いていた。
大型トラックが砂利を運び、蒸気ローラーが地面をならし、その脇をさらに別のトラックが軽快にすり抜けていく。
稔は目を見張った。
つい最近まで、ここは馬車がやっと通れる幅しかなかったのだ。
だが陸海軍の共同開発で余剰に生まれた自動車用エンジンが民需へ回され、同時に道路の改修計画も加速したと聞く。
工事の指揮を取っている男が、近くの農家の青年に声をかけていた。
「こいつは軍の九五式トラックのエンジンを民生用に直したやつだ。前より馬力があるから、坂道でも止まらんぞ!」
「そりゃすげえや! 畑の運搬にも使いたいくらいだ」
青年たちが笑い合い、砂利の匂いが風に舞う。
トラックは唸りを上げて再び走り出し、道路の先に白い砂埃がゆっくりと残った。
稔は、その光景を眺めながら胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(鉄道だけだった町が、だんだん“繋がっていく”んだな)
そう感じたのは初めてだった。
駅のホームから再び汽笛が上がった。
貨物車には新品の電柱が積まれている。これから町の外れに新しい電線を張り、ラジオの受信状況を改良するらしい。
街が変わっていく。
軍人ではない自分たちの生活が、軍の争いではなく、軍の協力によって豊かになっていく――そんな空気があった。
昼下がりの陽光の中、バイクの女性がラジオ箱を荷台に結びつけ、迎えに来た青年を後ろへ乗せる。
エンジンが軽やかに鳴き、二人を乗せたバイクは春の風のように走り去っていく。
稔は自然と笑みを浮かべた。
「……いい時代になっていくのかもしれないな」
そうつぶやき、歩道橋を降りる。
工事音、トラックのエンジン音、遠くのラジオ屋から流れる試験放送の声が、町に新しいリズムを刻んでいる。
昭和十二年の春は、静かだが確かな“変化の息吹”に満ちていた。




