080
しまった。昨日飲み過ぎた。う……。
私はむかつく胸を片手で押さえ、何とか身支度を整えて玄関でブーツを履いた。胃薬は飲んだから効いてくるまで我慢だ。
今日は土曜日。マンションのエントランスに降りて、今にも泣き出しそうな曇り空を見上げ大きく息をついた。いつものように映画を観に行くのだけれど、わざわざ笹本さんがバイトを休んでくれたのだ。何とはなしに緊張してつい念入りに化粧をしてしまった。天気がもってくれれば、と思った矢先に、ぽつりと雨が降り出した。
ざああああ。
すぐに本降りになった冷たい雨に、私はむっと口を尖らせる。片手で傘を広げ、いざ。
「やっぱり降りましたね」
「はい。しかもどしゃ降りですね」
駅前で笹本さんと落ち合い、映画館のある場所へと向かう為、電車に乗り込んだ。
「なんか前にもこういうのありましたよね」
「え?」
笹本さんの言葉に、私は首を傾けた。私より少し背の高い笹本さんを見上げる。笹本さんは黒ぶち眼鏡の奥の瞳を柔らかに細めて笑い、肩をすくめた。コートの襟を少し立てて着こなしている笹本さんは、ちょっぴり格好良い気がして、私は変に意識しないようにひっそりと何度か深呼吸をした。……決して興奮して鼻息が荒いわけではない、はず。
「その日もずっと雨が降ってて、何故か俺達が電車とか建物の中にいる時にだけ、やむんです」
ほら、と言って笹本さんが前を指差した。私はそれにつられるように視線を車窓へ向ける。
「ほんとだ……」
さっきまであんなにざあざあ降っていた雨がやんでいる。少しだけ日も出ているようで、雨に濡れたビルの窓がきらきらと輝いていた。ああそうだ。覚えている。あれは、笹本さんと初めて映画を観に出かけた日の事だ……。あの日──。
どく、と心臓が鳴って、突然視界が歪んだ。目の前が一瞬で闇に染まる。
「唯音さんっ。大丈夫ですか?」
その声に景色が戻った。笹本さんが咄嗟に私を支えてくれていた。貧血を起こしたようだ。
「あ、す、すみません。大丈夫です」
「そのまま、俺にもたれててください。具合悪いんですか?」
心配そうな声に申し訳ない気持ちになりながら、かぶりを振って答えた。
「違うんです。全然大丈夫なんです。あの、昨日飲み過ぎちゃって」
えへへと笑うと、笹本さんも眉を下げて笑ってくれた。
「でも……無理しないでくださいね?」
「はい。ありがとうございます。吐きそうになったらちゃんと言います」
そう言って笑った。だけど私の心は落ち着かないまま、そわそわとして仕方がなかった。
何だろう。急に何とも言えない違和感を感じるようになった。
電車が駅に滑り込み、乗っていた人達がぞろぞろと降りていく。その波に従って改札を出た。外はやっぱり雨が降っていて、色とりどりの傘が町を埋めつくす。私の目の前を笹本さんが歩いている。振り返って私に何かを語りかけ、私はそれに返事をする。
急に全てが実感のないものに思えてきた。何かがおかしい。
何かが、足りない。
この世界には、何かが……。
その感覚は、絶対だと思っていた地面が足元からがらがらと崩れていくような、現実だと思っていたものが夢の中の出来事だったと気付いた時のような、言い知れない恐怖が伴うものだった。
映画を観ている間中、私は鞄の中に手を入れてお守りに触れていた。映画の内容さえちっとも頭に入って来なかった。
何かがおかしい。私は何かを忘れている。……そうだ、忘れている。
大事な何かを。大切な何かを。忘れちゃいけない何かを、すっぽりと忘れている。だから、足りない。そう感じるのだ。ああ……そっか。
それなら私は、なんでそれを忘れちゃったんだろう。自分にとって大切な事だと思っているのに……。
「やっぱり体調良くなさそうですね。少し休みますか」
はっとして顔を上げて、慌てて両手を振った。
「す、すみません。あ、朝ごはんあんまり食べてなかったから。そろそろお昼にしませんか?」
「……本当に大丈夫ですか? 食べれます?」
うたぐるように笹本さんがじとっと私を睨みつけた。私は一つ、大きく頷く。
「も、びっくりするくらい食べます。ばりばりむしゃむしゃと」
あはは、と爽やかに笑った笹本さんを見てほっとする。せっかくこうして一緒にいるのだから、あんまり心配かけちゃいけない。楽しく過ごさないと。私は無理矢理にこの「違和感」を頭の片隅に追いやった。
それからパスタ屋さんで遅めのお昼を済ませ、おしゃれな町をぶらついたりして時間が過ぎていった。相変わらず雨は本降りのままだったので、なるべく屋根のある場所を選んで過ごした。
「実はね、俺、今月でコンビニのバイト辞めるんです」
様々なお店が並んでいて賑やかな地下街を歩いている時だった。私は驚いて笹本さんを見やる。
「そうなんですか!? じゃあ……」
「はい。資格、とれたんです。ちなみに職場も見つかって、すぐに働ける事になったんです」
嬉しそうにはにかむ笹本さん。笹本さんはコンビニのアルバイトをしながらずっと専門学校に通っていた。一旦は企業に就職して会社員として働いていたけれど昔からの夢を捨て切れず、保育士になる為にずっと仕事と勉強を両立して生活していたのだ。
「うわぁすごい! おめでとうございます」
「何だか照れくさいな……ありがとうございます」
「じゃあお祝いしないといけませんね。就職祝いです!」
「そんな。今日は唯音さんのお祝いですよ」
「いいえ! 私のなんて良いんですっ」
「はは。じゃあ一緒にお祝いする事にしましょう」
「はいっ」
私は自分の事のように嬉しくなった。だって夢だった仕事に就けるんだから。それは自分の力で切り開いて、手に入れたものだ。笹本さんが頑張っていた事を知っているので、ここはきちんとお祝いしないと。
そこでまた、例の違和感に襲われた。
あれ。私……どうして笹本さんが保育士を目指しているって知ってたんだろう。
前まではコンビニで挨拶を交わす程度の仲だったはずだ。そしてそこから関係が発展するなんて、人見知りの私には到底無理な事……。あれ。なんで……。
地上へと続く階段がとても長く、永遠に続いているかのように感じる。笹本さんが先を歩き、その階段を昇っていく。私も後に続いて階段を昇る。少しだけ、膝が震えた。
「……唯音さんとはコンビニで会えなくなるけど、これからもこうやって会って欲しいんです」
笹本さんの声が遠くに聞こえる。形のないおぼろげな影のような不安が、私の肩にのしかかる。
「そ、それはもちろん……私の方こそ」
「……俺、ずっと……保育士の資格が取れて職場が見つかったら、あの、唯音さんに言おうと思ってた事があって……」
地上に出ると雨はあがっていた。アスファルトはまだ濡れていて黒く光っている。
「……雨、あがったみたいですね」
私はぼんやりとしたまま呟いた。
「うわぁ。唯音さん、ほら見てください。綺麗ですよ」
笹本さんは空を見上げていた。周囲にいる人達もちらほら上を見上げたり指を差したりしている。それにつられるようにして私は空を仰いだ。
「あ……」
冬の水色の空に、濃くはっきりと鮮やかな色彩が浮かぶ。柔らかな曲線を描く……虹。七色の虹。
この世界を包み彩る、鮮明な色。
「綺麗な虹ですね。そういえば前にも一度、こんなに見事な虹を一緒に見ましたね」
ああ……。なんで。
「不思議だなあ。でもきっと空も祝福してくれてるんですね。俺、先越されちゃったな」
なんで忘れていたんだろう。
「唯音さん。誕生日おめでとうございます」
なんで……。
「なんで……」
息が震えた。どんどん鮮やかな虹がぼやけて空の水色と混ざっていく。
「唯音さん?」
「さ、笹本さん……ごめんなさい」
「え……」
「ごめんなさい。……私、私……」
涙が頬を伝った。両手で顔を覆って、泣いた。
「好きな人が、いるんです……」
あんなものが嬉しいのか、と不思議そうな表情を浮かべてその人は言った。それで私は、どんなものよりもずっと嬉しい、と答えた。そうしたら整いすぎる程の美しい顔をくしゃっとさせて、可愛らしい笑顔になった。それは私の、大好きな笑顔……。
覚えていてくれた。
私の誕生日に、と言ったその言葉を、その人は覚えていてくれた……。
「──さん」
思い出した。大切で大事な、私の記憶を。