079
今日も雨。
ここのところ、ずっと雨だ。夏頃には安定した天気を持ち直していたのに、涼しくなってきた頃にはすっかり雨の多い毎日に逆戻りしていた。
片手で傘を開いて大粒の雨が落ちる世界へ足を踏み出す。
ぼつ、ぼつぼつぼつ……。
雨が傘を叩く音を聞きながら通い慣れた道を歩く。
最近ではすっかり木々の葉が落ちて、通りは枯葉のじゅうたんのようだ。晴れた日は良いけれど、雨の日はすべって危なかったりする。白い息を吐いて慎重に足を運んだ。もうすぐ冬がやって来る。
途中で、あ、と思い、立ち止まり、鞄の中身を確かめた。
お守りを鞄の中へ入れたっけ。
ソフトボール大のまん丸の球体。真っ黒で艶やかで、ひやりつるりと肌触りの心地いい、素敵な石。
ああ良かった。持って来てる、ちゃんと。
軽やかな重みのある、これは私の大事なお守り。
どこに出かけるにも必ず持ち歩いて、帰宅しても常に手に届く場所に置いている。一日中、肌身離さず傍に置いて、雨の日なんかは特に胸に抱いてうんとお祈りをする。
どこかで見守ってくれている誰かに、私の力が届くように、と。
いつからだろう。そんな習慣が身についたのは。子供の頃はお祈りをするような事はなかったと思う。だけど昔から落ち込んだりした時も嬉しい事があった時も、いつもこれに触れてこれを抱き締めた。それは今でも変わらない。何故だかこれが傍にあるだけで心の底から安心して、自分の居場所がそこにあるような気になって、落ち着いた気分になれるのだ。このお守りがあったお陰で、今まで何とかやってこれた。そしてこれからも、このお守りがあるのなら、私は何でも乗り越えていけるような気がしている。
とっても不思議な黒くてまん丸の石。
落としても割れず、ひびや傷一つつかない。汚れてもタオルでさっと拭くだけで元通りのつやつやになる。
私の大事な大事な、お守り。
「おはようございます」
定時刻に出社。
*
金曜の夜。駅前近くの居酒屋は今夜も盛況で、人の話し声がざわざわと賑やかに飛び交っている。BGMにゆるやかな音楽が流れているはずなのだけど、気付かない人も多いんじゃないだろうか。
「だからさ、お見合いなんてやめときなって言ったでしょぉ!?」
「だけど親戚の勧めで断れなかったんですってば」
四人席を陣取り、この店の売りである地鳥の焼き鳥を片手に男前な美女二人。私は目の前に座る二人の話を聞きながらジョッキを傾けた。
「紗枝さんってぇ、もう結婚諦めてる派ですか? マンション購入考えちゃってたり?」
躊躇なく爆弾を投下した矢崎さんに対し、紗枝さんが据わった目で睨みつけ、
「こらっ。私はねえ、今は仕事してる方が楽しいし結婚も急いでないの! そういうものは縁が大事なの! 矢崎ちゃんみたいに焦っておじさんとお見合いなんかしないのっ」
とまくしたて、満足したようにふん、と笑った。矢崎さんは大げさにひえ~と声を上げてビールを一口。二人のやりとりが面白くて、私は笑いながら焼き鳥を頬張った。
「で、唯音ちゃんの方はどうなのよ」
「そうよ倉田さん。コンビニの彼とは進展あったの!?」
ごふ、と焼き鳥を喉に詰まらせ、慌ててビールで流し込む。
「な、何ですかそれ。笹本さんは友達ですよ」
「あ。そうそう笹本! あの爽やか店員! 友達なんて今時あり得ないしっ。倉田さん狙われてんの分かってる!?」
矢崎さんが意地悪な笑顔で私を指差した。私がいくらぶんぶんと両手を振って違います、と主張をしても右から左で楽しそうに笑っている。あの、聞いてますか。
「はぁ~! 唯音ちゃんが心配だわ。変な事されそうになったら私に電話しなさいねっ」
紗枝さんが身体を乗り出すようにして、ね、と念を押してくる。
「あの、だから」
「あっ。すいませ~ん! 生中三つ!」
「で? 相変わらず健全デートなの? 手ぐらい繋ぐでしょ?」
色々な事を諦めて私は苦笑した。こういう話は盛り上がって面白い。私だって二人の話を笑って聞くのだ。同僚の矢崎さんは茶色のストレートの髪をかき上げて豪快にジョッキを傾けている。アイライン完璧の瞳は少しだけとろんとしていて色っぽい。その隣にいるのはショートボブの髪からすらりとした首筋を見せる、薄化粧の紗枝さん。ひょんな事から知り合いになったお姉さんだ。串に刺さった焼き鳥をそのままがぶりと食べているのに何故だかスマートでさまになっている。
私は不思議な心持ちで二人を眺めた。以前の私なら、きっとこんな風に一緒の席で一緒にお酒を飲む機会なんてないような人達だと思う。
紗枝さんは、故郷にある母の墓参りに行った時に偶然に出会った人だ。あの土地にある唯一の喫茶店「ヒロ」に立ち寄った時、ヒロさんの学生時代の友人である紗枝さんがいて、そこで知り合いになった。紗枝さんは気さくな性格で話が盛り上がり、その時に初めて私は幼い頃に遊んでもらっていたお姉さんが、女装をしたヒロさんだったという事実を知った。紗枝さんは大都会の外資系会社で働くキャリアウーマンで、それからはこうしてたまに仕事帰りに飲みに行く間柄になった。何度目かの時、同じお店で飲んでいた矢崎さんにばったり会って、意気投合して現在に至る。
「それにしても倉田さん、やっぱお酒強いね~。強すぎ! そうだろうなって思ってたけどさ」
「思ってたんですか」
「うん。ほんとはね、一緒に飲みに行く機会をずっとうかがってたんだから。そういえば倉田さん、彼が出来て変わったよね」
……彼じゃないですけどね、と心の中で突っ込みを入れつつ、店員さんが運んで来てくれたジョッキ三つを受け取ってそれぞれの前に置いた。
「そうなの?」
「ええ。どこがって言われたら分かんないんですけどね、何となく雰囲気が。前はちょっとおどおどした感じで声かけたら悪いかなあって遠慮してたけど。今はど~ん、としてるって感じ? 貫禄? あ、でもどっか抜けててぼやぁっとした雰囲気は変わってないですよ?」
「あー分かる! それ唯音ちゃんって感じ! 見てると眠くなるのよ! なんか知らないけど!」
「そうそう! 癒されますよね~。ゆるきゃら的で」
「あの、それ褒めてます?」
「何言ってんの、もちろんっ」
「けなしてんの!」
ぷっと吹き出してみんなで笑った。楽しい会話のさなか、私は鞄の中にあるお守りをふと思い出す。最近よくこういう時がある。記憶が曖昧な個所があったり、本当にこうだったかな、と首をひねりたくなるような時が。
たとえば私の部屋にある最新のゲーム機の事。買った覚えなんてないなあと思った直後に、その経緯を思い出して多分そうだった、と思ったり。(これは妹の麗奈が持ち込んだもので、一度ゲームをしてみたら私がすごく下手だったので麗奈が呆れていた)
その後で、決まってあのお守りを思い浮かべる。一人の時だったら手にしてじっと見つめる。するといつもは安心出来るのに、その時ばかりは胸が押し潰されるような気持ちに襲われるのだ。真っ黒のまん丸のこの石が大好きなのに、寂しいような悲しいような、苦しい想いに胸がつまって泣きたくなる。本当に涙を流してしまう事もある。
大切な何かが、大事な何かが、ぽっかりとそれだけ抜け落ちてしまったような感覚。
私の大事な大事なお守り。
漆黒の……。