078
ユイネが好きだ。ユイネが欲しい。ずっと傍に居て欲しい。この寂しい化け物の傍に。
俺の傍にいて欲しい。あたたかな気が、その魂が、お前の全てが俺のものであったなら……。
しかしこの世界を愛するお前の幸福は、この世界の中にこそ存在する。お前の生きた証がここにあり、絆を結んだ人間達がいるこの世界の中にこそ、お前の生きる時が、人生が、確かな重みとともに存在するのだ。ユイネ……。
こんな俺でも過去のあやまちから学ぶという事を、知っているんだぞ。
「ちょっとタロちゃん」
その声にうっすらと目を開いた。フローリングの上に大の字で寝ている俺を見下ろす美しい顔。そのおおきな黒い瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれている。
「少しは我慢してよ。タロちゃんのせいで僕大泣き。カッコ悪いじゃない。必死にこらえてたのにさ。ユイネは心配して、きっと走って帰ってくるよ」
「……やはりそうか。……戻れ」
有無を言わさずテルを内へと収め、やっと一息ついた。両手を広げじっと見下ろす。じわりと四肢に力が戻る感覚があり、ゆっくりと立ち上がった。これなら何とかいけるだろう。もう心は定まった。覚悟はついた。
だが、別れとは悲しいものだ。ぎしぎしと胸を締めつける。往生際の悪い己が、嫌だ嫌だと駄々をこねる。あまりの情けなさに自嘲の笑みが浮かんだ。
目を閉じて呼吸を正す。
がたがたと騒がしく扉が開閉される音が響き、どたばたと足音が聞こえた。心を鎮め、平静を貫けと己に言い聞かす。
「騒々しいな。何事だ」
乱れた髪をそのままに、ユイネは眉根を寄せて肩で息をしながら俺を見上げた。どれだけ走り続けたのか、顔は真っ赤で焦茶の髪は汗で額に張り付いている。
「タ、タロ……タロさん……」
お前の声は控えめで穏やかで、心地良い。その優しい声音を、俺は忘れない。
「なんだ」
ユイネは咳き込んでその場に座り込み、依然呼吸を乱していて苦しそうだ。
「だいじょぶなんですか……ち、力……使ったでしょう、たくさん。き……気を、」
胸をつく衝撃に、いっとき言葉を失った。
お前は、俺の身を案じて走って帰って来たというのか……。こいつはどこまで他人の事ばかり心配すれば気が済むのだ。
全身から力が抜けた。膝をつき、大きく息を吐き出す。
「……全くお前は。本当に、呆れる程のお人好しだ。……これから先が思いやられる」
手を伸ばせば届く場所にいる。愛しい女の髪を梳き、柔らかな頬を撫でた。こんな触れ方をしないように今までずっと気をつけていた。案の定、慣れていないユイネは目を見開いて口を開けた。
「おかしな顔だな」
「う、生まれつきです」
出来る事ならば、お前を慈しみたかった。この手で。
「タロさ」
細い身体を腕の中に抱き締める。その温もりに目頭が熱くなった。
「ユイネ……お前の気はあたたかいな。お前の魂は、美しい」
生きている命の鼓動は、こんなにも愛おしい。
「俺はずっとお前に生かされていた。はじめからヨーコではなかったのだ。俺はお前に、救われていた」
あの漆黒の珠を幼いお前が抱いたその日に、俺の心は救われていた。
「唯音。俺は……お前が、好きだ」
華奢な肩が震え、身じろぐ気配がした。より強く抱き締めて優しい温もりに顔をうずめる。
「……お前の世界を、守ると誓おう。お前の人生を支えてやろう。何があろうとも、必ず守ってやる」
お前の全てを見守り、お前の幸福を支えよう。異世界に生きる神として。
「ふん……。あんな軟弱男のどこが良いのか知らんが、あいつがもしお前を泣かすような事があれば、天罰を下してやるぞ。俺は神だからな。それくらい朝飯前だ」
「タロさんっ……私っ、わたしっ」
「お前はもう一人ではないぞ」
俺がいる。決してお前を一人にはしない。
「もう一人で泣かなくて良い。お前の孤独は、俺があたためて癒してやろう。お前は安心して、自分の生きる道を往け」
細い身体が震えている。ゆっくりと力を注いでいく。心が締め付けられて息が苦しい。
「タロさん待って……なんでっ……うっ……ううっ」
細い腕が俺の背に回り、俺を包み込んだ。抱き締められて我慢出来ずに涙が滲む。
気の遠くなるような長い間、暗く凍えた時を過ごした。
幾度となく己の意義を問い、意味を疑い、恐ろしい化け物だと己に失望し、何の希望も見い出せずに死を願った。
「ユイネ……お前が好きだ。……お前が……」
お前とこうして出会えた事に、俺は世界に感謝をしよう。
「タロさん、タロさん……」
あたたかな鼓動が俺の全てを包み、満たしていく。
もう……十分だ。これで良い。
お前といられた僅かな間の幸福な時間が、俺の全てだ。俺の希望だ。俺の命だ。ユイネ……。
「お前が、たとえ全てを忘れても……」
「……何をっ……や、やめてっ。待って!」
ユイネがシャツを引っ張って暴れ出した。腕に力を込めて封じ、抱き締める。目を固く閉じて歯を食いしばり、力を注ぎ続ける。
「お前が、俺を忘れても……」
「いやっ! タロさんっ」
「俺はお前を、覚えているから」
「タロさっ……」
こわばっていた身体からゆっくりと力が抜けていく。腕がくたりと垂れ下がった。肩で浅く息をしながら身体を離し、愛しい女の顔を見つめた。目を伏せて気を失っているその頬に、涙が流れていた。
視界が歪む。
息が乱れ、涙が溢れた。
*
「お帰りなさいませ。『漆黒』の守り人様。…………タロ様。長らくの旅路、お疲れ様にございます」
魚の腹のように白い石壁。円形の神殿。もうとっくに見飽きている。しかし久方ぶりにみるその風景は、穏やかな色彩で柔らかい。
「……セウンリヒ」
「はっ」
「俺は心を入れ替えたぞ。……『漆黒』の神としてその責務を全うする」
「はっ」
「巫女の選定を再開しろ」
息を飲む気配がした。振り返って見下ろすと、白の法衣を着た男は額を地につけ、ひれ伏したまま押し黙っている。
「どうした。分かったのなら返事をしないか」
「……お、おそれながら!」
ゆっくりと俺を見上げたその男の顔には、苦しげな表情が浮かんでいた。
「なんだ」
「気を得る為の人員が必要となりますればっ……こ、この不肖、セウンリヒめがその役目をば、仰せつかりましょう。無礼を承知で申し上げております。ですが僅かでも、タロ様のお力になれるのであれば、お心穏やかにお暮らしいただけるのであればっ」
驚き、目を剥いてセウンリヒを凝視する。壮年の男は至極真剣に、切羽詰まった目をして訴えていた。
「……おい。気色悪いことを言うな」
「申し訳ございません!」
思わず苦笑がもれる。笑ってしまう。この男は、不器用ながらも俺を慰めようとしているのか。
ああ……。ユイネ。
お前の言ったとおりだ。
「セウンリヒよ」
「はっ」
この生真面目な男はどこまでも己の道を信じ、信念を持ってその責任を果たそうとしている。『漆黒』の守り人に仕え、この神殿を守る大神官として胸を張り生きている。
「俺は偉大な側近を持った。誇りに思う」
精悍な顔立ちとその瞳は青年の頃と変わらない。しかし皺が増え、髪には白いものが目立つようになった。……年をとったな。
「あ……ありがたき幸せにございます! 身に余るの程の、無上なる幸福にございますっ!」
「阿呆。泣く奴があるか」
「も、申し訳ございません……」
目を伏せて笑った。
この世界も悪くはない。お前と僅かでも繋がっているのなら、俺の世界に地獄はない。
唯音。
俺の往く道を照らす、唯一の光────。