076
どうしたの。一体何があったの。台風のように胸の中がざわざわと騒ぐ。
私は何かに急かされるようにしてナースステーションを見つけてその前を通り過ぎ、「笹本紘一」の名札のかかるドアをノックした。返事を待たずにノブを回す。
「あれっ。唯音さん!?」
白いベッドに上半身を起した状態の笹本さんがいた。左の額にガーゼ。左手首に包帯。身体は薄青色の検査着に包まれている。
「笹本さん! 大丈夫ですかっ」
勢い込んで傍まで行くと、笹本さんは目を大きくして驚いた。
「怪我はっ!」
「あ、あの、大丈夫です。おでこにかすり傷と手首をひねっただけで……」
「あぁ……そうですか……。良かった」
大きく息を吐き出しながら、ベッドの脇に両手をついて脱力した。テル君の言ったとおりだ。……じゃあこの不安はどこから来るんだろう。
「……すみません。びっくりさせちゃったみたいですね」
笹本さんの穏やかな声が聞こえて、私は顔を上げて笑った。
「いえ。私も大げさですよね……すみません。テル君に聞いて来たんです」
「ああ。そうだったんですね。今日一日は念のため病院で過ごす事になりました。何でも病室が空いてないそうで、急遽ここに押し込まれたんです。あ、そこの椅子に座って下さい」
それでようやく周囲を見渡して、なるほどと思った。がらんとした空間に、運び入れたらしいベッド。脇には背の低いキャスターつきの戸棚があり、その上に眼鏡とペットボトルが置かれている。笹本さんの黒ぶち眼鏡は、片方のレンズにひびが入っていた。部屋の隅の方にホワイトボードがある。元々病室としては使われていない部屋のようだ。
「本当に大丈夫ですか?」
くどいと思いながら、やっぱり聞かずにはいられなかった。笹本さんは大きく頷いて笑う。
トレードマークである黒ぶち眼鏡をかけていない笹本さんは、少し年上の雰囲気がする。やっぱり疲れているようで、よれっとした笑顔を浮かべている。あまり長居しない方が良いだろう。
「はい。それが、びっくりするくらいぴんぴんしてるんです。一応レントゲンとか頭の方も検査してもらったんですけどね。先生の話だとまったくもって健康体だって」
事故にあったのは数時間前。バイト先のコンビニへ行こうと横断歩道を渡っていた時、左側からやって来た車にはねられたのだ。
「俺、絶対死んだと思いましたよ。だってぶつかったワゴン車、かなりへこんでたらしいんです。運転してた方も完全に轢いちゃったって思ったらしいですから」
ざわっ、と悪寒が全身を貫く。怖い。何でだろう。どうして……。
「全身痛いっていうか、熱いって感覚で。眼鏡もふっとんじゃって、周りも良く見えなくなって。大丈夫ですかって声が遠くに聞こえて……。誰かが駆け寄って来て、太郎さんのあの整った顔が見えた瞬間に、気を失っちゃったんです。偶然太郎さんとテル君があの場に居合わせたみたいなんですよね。起きたらテル君がいて、ずっと付き添ってくれていたらしいんです。色々迷惑かけちゃってすみません」
「そんな、良いんです。とにかく無事で良かった……」
私は無意識に胸のあたりを片手で押さえていた。あ、そういえば、と笹本さんが言った。
「さっき先生や警察の人にね、驚かれたんです。あんな事故にあってこの程度の怪我で済むなんて、普通だったらあり得ないって。本当に奇跡だって言われましたよ」
奇跡。
その言葉に愕然とした。
たまたまや偶然が、そんなに簡単に起こるのだろうか。
どうしてテル君はわざわざ私の職場まで迎えに来たんだろう。笹本さんが事故にあって、だけど怪我がかすり傷程度だったならそんなに慌てる必要もなかったんじゃないだろうか。テル君が来なければ、私はそのまま帰宅していた。
どうしてテル君の様子がおかしかったんだろう。どうして手を、ずっと繋いでいたんだろう。
ぞわ、と鳥肌が立った。思い至った答えに、血の気が引いていく。
使ったんだ。守り人の異能の力を。笹本さんを助ける為に────。
きっと本当に、ひどい事故だったんだ。かすり傷で済むのが奇跡だと言われる程の事故だ。どれだけの力がいっただろう。どれだけの力を使っただろう。その守り人の力だって、今は完全じゃないのに。痛い思いをしたんじゃないんだろうか……。
テル君は、私とタロさんが会わないように職場まで迎えに来たんだ。だって家に帰ってタロさん達がいなかったら、私が不思議に思う。いたとしてもタロさんがぐったりしていたら、私が驚く。
そんな……。
テル君のあの涙は、一体誰の……。
気が付いたら街の通りを全速力で駆けていた。人にぶつかりそうになってよろけ、信号で立ち止まり、鞄を手に鷲掴みに持ってぜいぜいと荒い息をついた。不審げに私を見下ろすいくつかの視線を感じる。
テル君は先に帰ってるって言った。だから、いてくれるはずだ。いてくれるなら良い。
でも不安で仕方ない。心がちっとも落ち着かない。タロさんの姿を見ないと、気を届けないと安心出来ない。だっていくら考えてもしっくりこない。
どうして力を使って笹本さんを助けた事を、私に隠そうとするの。
信号が青に変わった。もつれそうになる足を無理矢理前へ押し出して、走った。
心臓が破裂しそうなくらいに走りに走り、マンションのエレベーターにのって壁に寄りかかった。喉がひゅーひゅーいって苦しくてたまらない。止まった途端に汗が噴き出して、手の甲で額の汗を拭った。扉が開いたと同時にまた駆けて、乱暴にドアを開く。タロさん、と声を上げたかったけれど、それも無理だった。ようやくリビングに辿り着いて、崩れるようにしてうつ伏せに倒れ込む。
「騒々しいな。何事だ」
不機嫌そうな低い声。咄嗟に肘をついて顔を上げると、カーキ色のカーゴパンツが見えた。がくっと首を折って見上げると、腕を組んで仁王立ちしているタロさんがそこにいた。黒のTシャツに肩までの黒髪。良かった……いてくれた。
「タ、タロ……タロさん……」
「なんだ」
ごほごほと咳き込んで、その場に座り込む。両手を胸に当てて呼吸を整えながら声を絞り出した。
「だいじょぶなんですか……ち、力……使ったでしょう、たくさん。き……気を、」
すっと目の前に影が出来た。タロさんが私のすぐ傍に両膝をついていた。
「……全くお前は。本当に、呆れる程のお人好しだ。……これから先が思いやられる」
長い指が、私の前髪をそっと梳いた。その指先が頬を伝う。私は驚いて硬直した。
「おかしな顔だな」
「う、生まれつきです」
硬直しながらも反論すると、タロさんが笑った。ぎくりとする。
タロさんのその笑顔はいつもの可愛らしいものじゃなく、今にも消えてなくなりそうな、寂しいほほえみだった。
「タロさ」
突然、引き寄せられて強い力で抱き締められた。私の頬に、つややかな黒髪が当たる。ほんのりと花の香り。逞しい身体はひやりと冷たくて、私はあのお守りを思い出した。冷たい。冷え切ってる……。
「ユイネ……お前の気はあたたかいな。お前の魂は、美しい」
ぎゅっとタロさんのシャツを掴んだ。苦しいくらい身体が密着しているせいで顔が見えない。ざわざわして落ち着かない。どうして。嫌な予感がする。怖い。なんで……。
「俺はずっとお前に生かされていた。はじめからヨーコではなかったのだ。俺はお前に、救われていた」
低い声が身体を伝って、心の中心で響く。
「唯音。俺は……お前が、好きだ」