075(孤独な魂)
それは何の前触れもなく、突然におとずれた。
ちゃんと理解しているはずだった。分かっているつもりだった。いつまでも一緒にはいられないという事実。
だけどあと少し。あともう少しだけなら……。
この穏やかな時が、あたたかな時が、ずっと先まで続いて欲しいと矛盾する想いを抱いたまま。
いずれ必ずやって来るはずの結末に蓋をして、見ないようにして、背を向けたまま……。
その日は突然に、おとずれた。
*
「あのね、先週彼氏と別れたっていったじゃない?」
「あー浮気されたってやつ? ひどいよねえ!」
「うん……でね、実は……今また彼氏が出来たの」
「え! まじで!? ちょっと何それぇ! 相手誰よ」
「それがね、ずっと元カレの事で相談にのってもらってた男友達なの。別れた後とかも優しく慰めてくれて、それで……」
「あー分かった! 実は前から好きだったんだ、とか言われちゃって?」
「あ……うん。そうなの」
「うわーすごい! 良かったじゃない! 良いな~。もう、今日はおごってよねぇ」
「へへ。良いよおごる。先週はヤケ酒に付き合ってくれたもんね」
「やった。じゃ、早く行こ。お疲れさまでーす」
「お疲れ様です」
仕事終わりの更衣室。私の後ろを良い匂いのする二人組が通り過ぎていった。皆賑やかにおしゃべりをしながら制服から私服へと着替え帰っていく。いけないと思いつつ、つい聞き耳を立ててしまった。
なるほど。失恋して傷心中の相手を優しく慰める。それから、実は、と告白……。
私は一人、勝手に赤面して俯いた。
ロッカーの前、備え付け小さな鏡に映る自分の顔。少し情けない表情をしている。横に流した前髪をちょんと引っ張って扉を閉めた。
でも、どうだろう。そんなの強気で俺様な人物に通用するのだろうか。しかも相手は世界を守るかみさまだ。胸がじわりと締め付けられる。いつも想いは同じところをぐるぐると廻って答えに辿り着かない。
そもそも私に、そんな事を言う資格があるのだろうか。
かみさまの半身になれる資格が、あるのだろうか……。
会社の表玄関の自動ドアが見えるところまでやって来て少し目を細める。夕暮れ時のオレンジ色の太陽の光。先に立っている人達のシルエットがいくつか見える。
「あ! 倉田さん。ちょっと」
その中の一人が私を見て手招きをした。シフォンのふんわりとした涼やかなブラウスに黒のスリムパンツ、ヒールの高いサンダル。ブランドもののバックを肩にかけたおしゃれな出で立ちの矢崎さんだ。
「お疲れ様です。……どうかしたんですか?」
言いながら視線を先に巡らせて、驚いた。
「良かった。今呼びに行こうと思ってたの。あの子、倉田さんを待ってるんだって言うから」
四、五人の華やかなOL達に囲まれて、色白の男の子がいる。細身のおしゃれなシャツにジーンズ。
「……テル君」
「知り合い?」
「あ、はい。親戚の男の子で……」
「そうなんだぁ。すっごい可愛いからびっくりしちゃった」
矢崎さんと言葉を交わしながら自動ドアを通り抜ける。テル君が私を見てぱっと笑顔になった。
あ……か、可愛い。じゃなくって。
「ユイネ。お疲れさま」
「テル君、どうしたの?」
傍まで行くとテル君がそっと私の腕に触れた。
「ごめんね。こんなとこまで来ちゃって」
「ううん。良いんだけど……」
「倉田さんの親戚なんだってね! 可愛いよねー」
「ねえ、モデルとかしてるの?」
「中学生?」
「日本人? ハーフなの?」
「あ。ええと……」
周りにいた同僚や先輩が私とテル君を取り囲んだ。これは、お姉さま方の格好の餌食だ。……ここは一気に突破しないと、いつまでたっても抜け出せない状況に陥ってしまう。テル君がわざわざ職場まで来たのだ。何かあったに違いない。私は鼻から大きく息を吸った。よし。
「そ、そうなんです。親戚でモデルで中学生でハーフなんですっ。じゃあ、お疲れ様でした」
ぺこりとお辞儀をしつつテル君の手を取って、じりりと横へ移動。その時、
「ほぉら! 私達も帰りましょ。目の保養はこれでおしまいです!」
矢崎さんの一声。ああ……さすがです。
私が振り返って会釈をすると、矢崎さんはにやりと笑って片手を振った。
「あーびっくりしたぁ。すごいパワーだね」
爽やかに笑うテル君を見下ろして、そうだね、と苦笑する。
「どうしたの? 何かあったの?」
「うん。あのね、コーイチが交通事故に遭ったんだ」
「えっ!」
驚いて立ち止まった。さ、笹本さんが!? 交通事故。そんな……。
「っていっても怪我はかすり傷程度だから大丈夫だよ」
その言葉に止めていた息を吐き出して、心の底からほっとした。テル君が私の手を取って、大丈夫だよ、ともう一度言った。
「よ、良かった……」
動悸が早まってしまった胸に片手を置いて、何度か深呼吸をした。
「コーイチが横断歩道を渡っててさ、右折してきた車と接触したんだ。たまたまその現場に僕とタロちゃんがいてね、僕が病院まで付き添ったんだよ」
「えっ。そうだったの」
「駅の反対側に総合病院あるでしょ? そこにいるから、これから行こう」
「うん」
通りの街灯が点き始め、ゆっくりと夕闇が世界を包んでいく。目の前の信号が、赤く変わった。
*
空調のきいたフロアには人がまだまばらにいた。足早に通り過ぎていく白衣の人とすれ違う。私は病院が、あまり好きではない。とはいっても病院が好きだという人の方が珍しいだろう。
「三階なんだ」
エレベーターの扉は三つ。分厚くて頑丈そうな扉。テル君は表示板を見上げていた。私はテル君とずっと手を繋いだままだ。テル君が私の手をぎゅっと握っている。
私は会社からここへ来る間中、何か良く分からない、言い知れぬ違和感を感じていた。それが何なのか今やっと分かった。テル君の口数が少ない。
おしゃべりという訳ではない。だけどテル君は聞き上手で話し上手なのだ。今日何があったとか、こんなテレビを見たとか。仕事はどうだったとか、お昼は何を食べたの、とか……。テル君と顔を合わせればそんな他愛ない会話のやりとりをするのが普通だった。なのに今は、必要な事以外口にしない。私から話しかけてもそれに答えるだけ。どうしたんだろう。
「テルく……」
「あ。来たよ」
白い廊下に光が差した。杖をついた老婦人と、見舞いに来たのだろう娘さんがぺこりと会釈をして降りていく。奥ゆきのあるエレベーターへと乗り込んで、テル君が三階のボタンを押した。
「コーイチの病室はエレベーターを出て右。ナースステーション通り過ぎてすぐの部屋だよ。名前出てるから」
「うん……」
何とも言えない不安が、心をよぎった。
チン。
古風な音が鳴って、目の前の重厚な扉がゆっくりと開いていく。私が先に降りた。その時、テル君が繋いでいた手をするりと解いた。すうっとぬくもりが消える。
テル君はエレベーターの中にいた。
「テル君?」
「ごめんユイネ。僕、先に帰ってるから」
「えっ。ど、どうして?」
分厚い扉がゆっくりと閉まり始める。テル君がうっすらと微笑んでいる。息を飲む程に美しく、儚い微笑。ざわりと胸が騒ぐ。
テル君のおおきな黒の瞳。そこから一筋、涙がこぼれ落ちた。
「テル君っ」
しんと静まり返ったフロア。中途半端に片手を上げた私が一人、ぽつんと取り残された。