073
ヒロ少年はぎょっと驚いてからむっとして、急いで服を脱ごうとするが。
「それ脱いだらゲンコツだよッ!!」
お母さんの言葉にはたと手が止まる。お母さんのゲンコツは本当に痛い。泣きたくないのに涙が出るのだ。痛くて痛くてじんじんして、それはそれは鬼の所業のように怖い。これからはそのゲンコツのかわりにスカートをはかされるという事か。だったらまあ良いや。痛くないし。こっちの方が全然楽ちんだ。
ヒロ少年はふん、と鼻を鳴らして大声で答えた。
「女のかっこなんて平気だもんねー!」
スカートをひるがえし、野山を元気に駆け回った。しかし友達にこんな姿を見せるわけにはいかず、そんな時は知り合いの目から隠れるようにして遊んでいた。見知らぬ大人や馴染みのない人達の前では女の子を装ったりもした。やっぱり恥ずかしかったから、本名の「洋」と言わず、「洋子」と名乗ったりもした。
どういうわけかヒロ少年の女の子姿は家族に評判が良く、特にお母さんは良く似合うと言って喜んだ。悪乗りしてかつらまで買ってきて、「ようこちゃん」と呼ばれる事もしばしばあった。
だけれどもヒロ少年も子供とはいえ、いっぱしの男である。
懲りずに忘れ物やらつまみ食いやらを繰り返し、そのたびにスカートをはかされるようになり、だんだんと本気で嫌になってきたのだ。
こんな事ならゲンコツの方が良いかもしれない。いや、やっぱりあれは嫌だ。ではどうすれば良いのだろう。それは自分が宿題をやらずに学校に行ったり、授業中に騒いだりするのを止めれば良いのだ。
何故だかそれでもやってしまう。そんな自分にも腹が立つし、嬉々として自分を女の子にしようとするお母さんにも少しずつ不信感を抱くようになった。もしかしたらお母さんは本当に、男じゃなくて女の子が欲しかったんじゃないだろうか? こんなに聞きわけのない悪ガキの「ひろし」よりも、お人形さんのようなかわいい「ようこ」が良いのだろうか……? ヒロ少年の心に、暗い影が落ちた。
スカートをはかされて「ようこ」になる日は、誰にも見られないようにひっそりすごそうと思うようになった。
何せ「ようこ」にならなければいけない時は、自分が屈辱を感じる時だからだ。駄目だと言われている事をしたりするのは自業自得で、そんな自分が情けない。だったらそんな服脱いでしまえば良いとも思うのだけれど、見つかってゲンコツされたら嫌だ。その上お母さんが嬉しそうにしているからそれがまたがっくりくる。心が成長しつつあるヒロ少年にしてみれば、それは言葉では表現し尽くせない程の敗北を感じさせるものだったのだ。
それからは裏山の神社で一人、時間を潰すようになった。
その頃だった。古ぼけた鳥居のある人外様の神社で、一人ぽっちで遊んでいる小さな女の子を見つけたのは。
私はヒロさんが一生懸命説明してくれた話を聞いて、ヒロさんの両隣に座っているタロさんとテル君にちらりと視線を向けた。二人はうっとりとヒロさん(=ヨーコさん)を眺めて幸せそうにしている。
って……おい。それで良いんですか。
と、決して口には出せない突っ込みを入れてから口を開く。
「あの……二人とも。気付かなかったの? ヨーコさんが本当は男の子だって」
おかしいでしょう。世界を統べるかみさまともあろう者が。
しかし平然と、さも当然のようにタロさんがさらりと答えた。
「あの頃はひどく弱っていた。直前に大量の『負』を昇華させていたから余計にな。そんな気配すら見分けられん程だった」
「だってヨーコ、すっごく可愛かったもん。ね?」
「だ、だから、もうヨーコって呼ぶなってば」
ああそうですか。もう……。がっくりとうなだれてしまう。
あの当時、ヨーコさんが抱えていた何らかの闇の正体は、こういう事だったのか……。
お母さんは怒鳴ってもゲンコツしてもちっとも懲りないヒロさんをどうしたものかと考えあぐね、ちょっとした悪戯心で始めただけなのだと思う。悪気はなかった。だけどヒロさんにとってはそれがとても深刻で重大な問題になってしまったのだ。現に当時の出来事がちょっとしたトラウマになり、中学に上がってすぐに空手部に入部したくらいだ。
今ではあの美少女の面影は欠片もないくらいに大きな身体をしている。
「でも、どうしてわざわざ紗枝さんに頼んでまで……嘘を? 私、小さかった頃によく遊んでもらってたお姉さんがヒロさんだったって聞いても、変に思ったりなんかしませんよ。何だか妙に納得しちゃったくらいです」
あのヨーコさんの明るさと優しさは、ヒロさんが持っているものと同じだ。言われてみれば分かる事で、容姿は変われどその本質は変わっていなかった。
ヒロさんはうう、と唸ってお茶を飲んで、また私に頭を下げた。
「だからね、もうごめんとしか言いようないんだ。……男の意地ってやつだよ」
私を見るヒロさんは、歯痛を起こしているような何とも言えない表情で続けた。
「どーしても、唯ちゃんには知られたくなかったんだ。俺が女の子のかっこして、それがあの時のお姉さんだってさ。分かってるよ。唯ちゃんがそんな事で人を変な目で見たりしない事くらい。だけど、どーしてもさ」
それから腕を組んで、ぶんぶんと首を振った。
「いやっ! 俺のそんな薄っぺらいプライドのせいでみんなに迷惑かけちゃったんだもんな! 紗枝がこっちで唯ちゃんと会った後、すぐ連絡くれてさ。その電話を奥さんに聞かれちゃって、ものすっごく怒られたんだ」
私はふと、ヒロさんの奥さんを思い浮かべた。笑うと鼻に小じわが寄って、子リスみたいに可愛らしい奥さん。
「あんなに唯ちゃんが真剣に探してたのに、どうして黙ってたんだって。そのうえ嘘ついたなんて許せないってね。あ、俺、奥さんにも今まで言ってなかったから、余計に怒っててさ。ケツひっぱたかれて、謝ってこいって店追い出されたんだ。……ごめん」
いかつい身体をしおしおとしおれさせるヒロさんに思わず、同情してしまう。
「もう、謝らないでください。良いんです。私の分まで奥さんが怒ってくれたみたいだし……」
するとほっとした表情を浮かべ、ぽつりと呟いた。
「なんていうか、初恋の相手には情けないこと知られたくないだろ?」
私は驚いてヒロさんを見つめた。ヒロさんはへへへと笑って、頭をかく。
「なーんかさ、唯ちゃんすっごく可愛いかったんだよ。いっつもお母さんの事心配してて健気でね。俺ガキだったけど、守ってあげたいなって多分、初めて思ったんだ」
そう言ってヒロさんが穏やかに笑った。じっと目元を見つめていると少しだけ、ヨーコさんの面影が重なった気がした。
「唯ちゃんは俺の初恋の人なんだ」
ヨーコさんの朗らかで元気な笑顔。
神社の裏でいつも遊んでくれた。お姉さんはもの知りで、色んな事を教えてくれた。色んな遊びも教えてくれた。おやつを一緒に食べたりもした。その光景を思い出す。
ああ……私は一人じゃなかった……。
爽やかな風が心に吹いた気がした。それがうんと優しくて、胸がじんわりとあたたかくなった。
「それはそうと、おっどろいたなあ! お前ら一体何なの!?」
ヒロさんが大きな声を上げてタロさんとテル君を交互に見やる。
「言ったでしょ? こいつ人外様だって。僕だって人間じゃない。だから、年をとってないでしょう」
テル君の言葉に、ぱかっと口と目を大きく開いて固まるヒロさん。
「結婚の約束したんだよ? ヨーコが大人になったら迎えに来てねって言ったから、だから、来たんだ」
硬直しているヒロさんに構わず、テル君がにこにこと説明を続ける。タロさんは難しい顔をして腕を組み、うんうんと大きく頷いている。私はそれをひやひやしながら見守っている。
「う……そ、だろ?」
ああどうか、ヒロさんが倒れてしまいませんように……。
「ほんとうだよ。ヨーコがあの珠をユイネに渡したから、僕達ずっとユイネといたんだ」
ぎぎぎ、とヒロさんが首を動かして、驚愕の表情で私を見る。私はごくりと唾を飲み込んで、一つ、頷いた。
「ひ、ひいえぇえっ」
がたた、と椅子を大きく鳴らしてヒロさんがよたつきながら立ち上がった。そのまま後ずさって背後の壁にぴたっと張り付く。
「あり得ないっ! そんなのあり得ないだろッ!!」
「あり得ないもくそもあるか。ヨーコ、忘れたとは言わせないぞ。俺との約束を違えるつもりか」
ドスのきいた低い声に、ヒロさんがぎょっと目をむいた。
「そ、そんなの本気にするかよっ!? 俺は子供だったんだぞっ! もうそんなに覚えてないしっ。む、無理に決まってんだろっ」
「……ほう。神に向かって言い訳しようというのか」
タロさんは椅子に座って腕を組んだまま、じろりとヒロさんを睨みつけた。するとヒロさんはぶんぶんと首を振って、あり得ないっ、とまた叫んだ。
「ま、待て待てッ。そもそも俺、男だぞ!?」
「そんなものはどうとでもなる。異能の力があればな。……ヨーコ」
凶悪な笑みを浮かべたタロさんがゆっくりと立ち上がる。ま、まずい。ヒロさんが危ない気がする。まさか、拉致……。
私も慌てて席を立った。
「タ、タロさん待ってくださいっ。お、おお、落ち着いてっ」
がしっとタロさんの腕を掴んだ。するとタロさんは片眉を上げて私を見下ろす。
「なんだ。俺は落ち着いているぞ」
「まっ、まずは話し合いましょう!」
壁にぴったりと背をつけたままのヒロさんが叫んだ。
「そ、そうだっ! 俺にはもう家族がいる!」
ぎゅっ、と私の心臓が縮まった。ぴたりとタロさんの歩みが止まる。
「愛する奥さんと子供がいるんだぁッ! だから無理なんだよっ。悪かった! 悪かったよ!」
私は咄嗟に両腕でタロさんの大きな身体にしがみついた。
「タロさんっ」
ああ……。せっかく出会えたのに。ずっとずっと、それだけを心の拠り所にしてあの暗く冷たい孤独の中を、じっと耐え続けていたのに。気の遠くなるような永い時をたった一人で……。
ヨーコさんは、ヨーコさんとのあの思い出は、タロさんの全てだったのに。