070
ほっそりとした手足の、見えるところに擦り傷が出来ている。気を失っているユイネを抱えたままソファに座り、血の滲む皮膚にそっと手を押し当てた。目を閉じて念じると小さなとげがちくりと刺さるような感覚が手の平から伝わる。守り人は相手の痛みを引き受けることにより、その傷を癒す。
華奢な肩を抱き寄せて大きく息を吐く。情けない事に、まだ指先が震えていた。
あの巨大な『負』がユイネを貫いた瞬間、我を失いそうになった。ユイネにもしもの事があったらどうにかなってしまうだろう。それこそ世界を潰しかねない。俺にとったらユイネ以外の全てのものが、二の次だからだ。ユイネがいなければ何の意味もない。大事な命だ。確かに呼吸をしている柔らかな身体を抱き締めて頬を寄せる。その温もりにやっと心が落ち着いていく。
何故こんな無茶をさせたのか、サーシャの意図が全く不明だ。
それからしばらくして目覚めたユイネは案の定、熱を出していた。おそらくは昇華した『負』の残骸が体内に残っている為だ。そして予想通り、ユイネは俺の手を借りず自力で治すと言い張った。
「大丈夫です。熱っていってもびっくりするような高熱じゃないし」
ベッドの上に上体を起こし、肩にカーディガンを羽織っている。焦茶の柔らかな髪を横に流してふにゃりと笑うユイネは、脆く壊れやすそうに見えるのだ。それだけで俺の心はまたしても不安に駆られる。
俺はお前が心配なんだ。お前に何かあったら、俺はどうすれば良い。くそ……。
ため息を吐いてベッドの脇に腰を下ろした。
「お前はマゾか」
「ち、違いますっ。……その、あの、この熱もふーちゃんを昇華したなごりだと思うと何だか……」
少し俯き頬を赤く染めて、(それは熱のせいかもしれないが)何故だか嬉しそうに微笑んでいる。俺は呆れて相手を見やった。やはり、マゾだ。
「それに、タロさんが痛い思いをするのは嫌なんです……」
小さな呟きにはっとする。手元に視線を落としているユイネの穏やかな表情。一瞬で心を奪われ、その美しい表情に見入った。可憐な睫毛。照れたように微笑む口元。ふっくらとした曲線を描く唇。
「……ユイネ」
にじり寄って腕に触れると、心地良くあたたかな気が流れ込んできた。
「は、はい?」
顔を上げたユイネは目をまるくした。俺は構わず距離を詰めていく。全てが、俺の欲しているものだ。手に入れたい。今すぐに。
お前の全ては何故そんなに穏やかであたたかで、優しいのか。その魂の奏でる美しい旋律も、闇を知る光に満ちた気も、気が弱くお人好しのくせに頑固で、真の強さを持つ性格も。
「ユイネ」
どうした事か、こいつの地味な顔つきさえ愛おしい。俺の目はおかしくなった。もう駄目だ。もう我慢出来ん。
「タ、タロさん? どうしたんです? なに……」
「ユイネ!」
「わっ」
ばごっ。
奇妙な音とともに後頭部に強烈な痛みが走った。たまらず両手で頭を抱える。背後を振り返ると片手にお玉を持ったテルが仏頂面で突っ立っていた。
「ユイネは熱を出してるの! 野蛮人だなぁもう」
「テル、きさまっ! っつう……」
「だ、大丈夫ですか」
「もうちょっとで晩御飯出来るよ。ユイネ、食べれる?」
「あ、うん。食べるっ。テル君ありがとう」
「……テル」
俺は片手で後頭部を押さえて立ち上がりテルを見下ろした。ありったけの怒りを込めて睨みつけてやるが美しい子供は平然として、つと顎を上向ける。何というふてぶてしい態度だ。
「元はといえば、お前がふがいないばかりにユイネが巻き込まれたんだぞ! 何の為にお前がいたと思っている!? まんまとサーシャにやられおって」
「そんな事言ったって分かるわけないでしょ。サーシャは守り人の半身だもの。本気になれば僕が分かるはずないよ。それよりタロちゃんこそ、なんで分からなかったのさ。ちょっと鈍りすぎじゃない?」
「なにぃっ」
「僕に八つ当たりしないでよね」
「んなっ」
「ちょ、ちょっと待った! 二人ともっ」
ユイネの声に、俺とテルは睨み合いながらも押し黙った。
「あの……テル君もタロさんも悪くないですよね? それから……あの、私、サーシャさんにはとっても感謝してるんです」
真っ直ぐなユイネの視線は、誠実な心をそのまま映し出しているかのようだった。
「ふーちゃんは本当は、すぐにでも昇華させなくちゃいけなかったんです。だけどあの時、私もふーちゃんもそれを望んでなかった。私は嫌だったんです。ふーちゃんと離れたくなかったから……」
すっと声を落とし、目を伏せて続ける。
「サーシャさんは私の願いを尊重してくれたんです。だからこそ、私にふーちゃんを昇華させる力を授けてくれたんだと思うんです。私が自分の選んだ結果に、私自身で責任が持てるように。ふーちゃんが『負』に戻ってしまった時に、私がちゃんと責任を持って対処できるように」
もしサーシャさんのくれた力がなかったら、『負』に戻ってしまったふーちゃんに何もしてあげられなかったら……。そうなってしまったらそれこそ辛くて悲しくて、私はずっと後悔し続けたと思うんです。
「サーシャさんは私に、ふーちゃんをお願いねって言ってくれたんです。それはこういう意味だったんだって、分かったんです」
もう一度顔を上げたユイネは、そう言ってほにょっと笑った。その笑顔は常と変わらずどことなく気の抜けたものだったが、心なしか晴れ晴れとして立派に見えた。
「……おい。そのお人好しっぷりは何とかならんのか」
「あ、はい。すみません」
ユイネの返答に思わず笑った。
なあユイネ。お前の心は神よりも深い。お前はすんなりとやってのけるが、「受け入れる」という行為には勇気と聡明さと、何より強い心がなければならないのだ。そうやってお前は俺をも受け入れ、許すのだろう。
だが俺は、俺を許す事は出来ない。あってはならない。
お前に何かあったらどうする。お前を危険にさらしたのはこの俺だ。守り人という存在が、お前の日常をおびやかしている。
「その、あの、それで、ヨーコさんとは?」
ああ……全く。そっちの問題もあったな。これも許せん。ユイネの純粋な思いを踏みにじった奴がいるのだ。
「その様子じゃ、ちっとも気付いていないようだな」
俺はあらためてユイネを見下ろし腕を組んだ。
「え?」
「うーん。僕も心配になってきちゃった。ユイネってば、少し人を疑うって事を覚えなきゃ」
言いながら、テルも俺の横に並んで肩を落とす。
「な、なに?」
僅かに怯えた表情を見せるが、ためらいなく告げた。
「あの女はヨーコではないぞ。お前は騙されているんだ」
ユイネはぽかんと口を開き、目も大きく見開いて分かりやすいくらいに驚き絶句した。