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 目の前に迫った若者の背中に手を伸ばす。右手でシャツを掴んだ。


「だめだって……言ってんでしょ!!」


 素早くシャツを両手で鷲掴みにして、勢い良くうしろへ引っ張った。ぐらりと相手の身体が傾く。あり得ないくらいの怪力を発揮して、私は若者と一緒に道路に転がった。


「唯音!」


 身体の色んなところが一気に痛くなる。それでもすぐに立ち上がると、ヨーコさんの腕が私の肩を包んだ。


「大丈夫っ!?」

「に、にげなきゃ」

「うう! ううう……」


 若者がよろりと立ち上がった。その手にもうナイフはない。転んだ時の衝撃で遠くに飛んでいった。


「あっ」


 若者の背後に、恐ろしいものを見た。そこだけ景色がぼやけている。黒いもやがかかっているみたいに。私はその時になって、急に恐怖を感じた。目の前に立つ若者が白目を向いていたからだ。


「ぎ、ぐぐ……」


 若者の表情が苦しげに歪んで、背後の黒いもやがだんだんとはっきりしていく。うねうねと動いている。まるで生き物みたいに。あれはどこかで見た事がある。そんな、馬鹿な。まさかそんな。


「うぐうっ」


 うめき声を上げている若者の身体から力が抜け、地面に崩れ落ちた。黒いぐねぐねが一気に空へと伸びあがる。五メートル以上はあるかと思われるような、大きな『負』だ。


「ユイネ!」


 声に振り返る。暗い道の先から、テル君の走ってくる姿が見えた。その後ろにいるタロさんの姿を見て、また慌てて黒いぐねぐねの方へ振り返った。中空で暴れている黒い闇。激しく伸びあがってぎゅっと縮んで、めちゃくちゃにもがいている。逃げ出そうと必死に暴れ回っている。もう既に、この黒くて気味の悪いぐねぐねはタロさんに捕まっているのだ。ひどい暴れようで、きっとこの『負』を捕らえているタロさんの全身は激痛にさいなまれているはずだ。なんて巨大な『負』なんだろう。


「ユイネっ。危ないよ! そこから離れてっ」


 テル君の叫び声。私はすぐ目の前の大きな『負』をじっと見つめて、そして確信した。


 『負』は集まって世界に歪みを作り出し、そのまま見過ごすと天変地異が起こる。生物の中に入れば病や悪意となる。

 世界に害を及ぼす『負』の存在は決してなくならない。世界がそこに在って、そこに命がある限り『負』は生まれ続ける。いくら消しても知らない間に生まれている。だから守り人達は『負』を昇華する力を持っているのだ。

 世界を守るために、そこで生きる人々のために、『負』は消滅させるべき存在なのだ。


 ああっ……。でも!


「ユイネ! 何をしているっ。さっさと離れろ!」

「待って! タロさん待ってくださいッ!」


 私はこの『負』を知っている。ずっと一緒だった。とっても可愛くて、優しい子だった。生まれてきた事を喜んで、いつだって私の味方をしてくれた。


 ああ……それなのに私は……私はなんて事を。


 震える足を何とか動かして、苦しんで暴れている大きな『負』の目の前に立った。息が上がる。口元がわなないて、涙が流れた。両手を広げる。大きく息を吸ってその名前を叫んだ。


「ふーちゃんっ!!」


 私のせいだ。

 ふーちゃんはただ、生きたかっただけなのに。ふーちゃんは優しい女の子なのに。私のせいで……『負』に戻ってしまった。


「ふーちゃん! もう良いのっ。もうやめて!」


 ぎゅ、と黒いぐねぐねが鋭く尖る。ひゅっ、と風を切るような早さで私の身体を貫いた。その瞬間に、両手両足がもがれるような味わった事のない激痛に襲われる。

 痛い!


「あ、ああっ!」

「ユイネ!」


 駄目っ。

 私は咄嗟に両腕を動かして黒いぐねぐねをぐっと掴んだ。


 ギャアアアアアアアーーー。


 鼓膜が破れそうな程のひどい叫び声が頭の中に反響する。捕まえた。


「ふーちゃん!」


 ぎゅっと目をつぶって、暴れまわる『負』を力づくで、無理矢理抱き込める。


「ふーちゃん、ふーちゃん、ふーちゃんッ」


 内臓が燃え上がるような痛み。頭が割れてしまいそうな激痛。だけど、絶対、手を離さない。

 だってふーちゃんは私のために。


「ごめんっ。ごめんねふーちゃん。もう良いの。もうやめて……」


 ごめんね。ごめんね……。私のせいで。私のために。

 サーシャさんに頼まれていたのに。ふーちゃんをお願いねって言われたのに。

 ふーちゃんはいつだって私の味方をしてくれたのに。ずっと一緒にいたいって言ってくれたのに。


──ゆいね……。なんで? ……どう、して? ゆいね。ゆいねゆいねゆいね……──


 ふーちゃん。


──よーこが、いなければいいんだ。よーこなんて、いなければいい。よーこさえいなかったら、ゆいねはかなしくない。だから、よーこをころそうと思ったの──


 ごめんね……ふーちゃん。

 ふーちゃんをこんな風にしたのは私だ。私の醜い心だ。私はヨーコさんに嫉妬して、妬んだ。


──なんで? なんでゆいね。泣かないで。あたち、わるいことしたの? よくなかったの? ──


 違うよ。ふーちゃんは悪くない。ふーちゃんはうんと優しくて可愛くて、とっても良い子だよ。


──……ほんとう? ──


 うん。ありがとう。ふーちゃん、ありがとうね。私、とっても嬉しい。もう大丈夫だよ。悲しくなんかない。ふーちゃんのおかげで、もう元気になったよ。


──嬉しい。あたち、ゆいねが大好き──


 すっと力が抜けた。全身を貫いていた痛みが引いていく。うっすらと目をあけると、腕の中にふーちゃんがいた。だけどその小さな身体は透けている。まるで幻みたいに。


「ふ、ふーちゃんっ」


 目の前の女の子が、嬉しそうに微笑んだ。


「ね、ねえ。大丈夫? どうしたの? 身体がっ……」

「ゆいね……」

「ま、待って」

「ゆいね。ごめんね」

「いやっ」


 私は慌ててふーちゃんを抱き締めた。小さな身体を抱えて、泣いた。

 消えてしまう。ふーちゃんがいなくなってしまう。


──ゆいね。ゆいねゆいね──


「だ、だめっ。ふーちゃんいかないでっ! だ、だってまだ、動物園に行ってないよっ。こ、この世界にはもっともっと、楽しい事がいっぱいあるんだよ。ふーちゃんに見てもらいたいものがたくさんっ……」


 ふーちゃんが私の胸にぐりぐりと顔を押しつけた。


──もういいの。あたち、しあわせ──


 ふーちゃん!


──ゆいね。ごめんね──


「ふ、ふーちゃん……ふーちゃん。ごめんねっ。ごめんっ」


──ゆいねはわるくない。ゆいねは優しい。だからあたち、ゆいねが大好き──


「ううっ……うあぁあ。ふーちゃんっ!」


 みっともないくらいに、ぼろぼろと泣いた。じわりとふーちゃんの重みがなくなっていく。


──ゆいね、ごめんね。ゆいね、さよなら──


「ふーちゃ……」


──ゆいね、ありがとう──


 両手を地面についた。そこには何も、残っていなかった。

 目の前が真っ暗で、ぼたぼたと涙が落ちていく。そのままそこにうずくまって、泣いた。


 消えてしまった。ふーちゃんが。私のせいで。私は守ってあげれなかった。

 あんなに小さくて必死に生きようとしていた、可愛らしい女の子を。


「……ユイネ」


 低くて落ち着いた声が聞こえた。肩をそっと包む手の温もり。途端にまた涙が溢れて、身体を起こして振り返った。そこにタロさんがいた。じっと私を見つめていた。


「わ、わたしっ……ふーちゃんをっ」


 胸がぐっと苦しくなる。タロさんの温もりが、ぎゅうと私を包み込んだ。


「……『負』は、いずれこうなる運命さだめだ。お前の手で昇華させたあいつは、最期にはちゃんとあいつに戻っていた。俺が今まで見て来た中でも、一番安らかな最期だ。幸福な最期だった」

「う、ううっ……だ、だけどっ」


 両手でタロさんの服を掴んだ。いくら歯をくいしばっても、涙を止められなかった。タロさんの胸にぐいぐいと顔を押しつける。ぎゅうっと一層力を込めて抱き締められた。


「お前はきちんとあいつを昇華させたんだ。あいつにとっては、それが一番の幸福だ」


 ふーちゃん……。


 黒くてつやつやとした長い髪。ゆるくウェーブがかったその髪はとっても綺麗だった。いつもきらきらと輝いていた大きな瞳。小さな手足。

 ちっちゃな身体で、力いっぱい私を抱き締めてくれた。いつだって私が好きだと、全身で、好意を示してくれた。

 美味しそうに口いっぱいにご飯を頬張って喜んでいた。おいしいねって言って、嬉しそうに笑っていた。

 歌が好きだった。一緒にぞうさんの歌をうたった。何回も、何回も……。お絵かきもした。とっても楽しかった。

 楽しかった。楽しかったよふーちゃん。


 にっこりとふーちゃんが笑う。ふっくらとした桜色のほっぺ。

 小さな両手で私にしがみついて、私の胸にぐりぐりと顔を擦りつけて、それからぱっと顔を上げて笑うんだ。


「ゆいね大好き」


 ありがとう。ふーちゃん。


 私を好きになってくれて、ありがとう。



 

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