068
目の前に迫った若者の背中に手を伸ばす。右手でシャツを掴んだ。
「だめだって……言ってんでしょ!!」
素早くシャツを両手で鷲掴みにして、勢い良くうしろへ引っ張った。ぐらりと相手の身体が傾く。あり得ないくらいの怪力を発揮して、私は若者と一緒に道路に転がった。
「唯音!」
身体の色んなところが一気に痛くなる。それでもすぐに立ち上がると、ヨーコさんの腕が私の肩を包んだ。
「大丈夫っ!?」
「に、にげなきゃ」
「うう! ううう……」
若者がよろりと立ち上がった。その手にもうナイフはない。転んだ時の衝撃で遠くに飛んでいった。
「あっ」
若者の背後に、恐ろしいものを見た。そこだけ景色がぼやけている。黒いもやがかかっているみたいに。私はその時になって、急に恐怖を感じた。目の前に立つ若者が白目を向いていたからだ。
「ぎ、ぐぐ……」
若者の表情が苦しげに歪んで、背後の黒いもやがだんだんとはっきりしていく。うねうねと動いている。まるで生き物みたいに。あれはどこかで見た事がある。そんな、馬鹿な。まさかそんな。
「うぐうっ」
うめき声を上げている若者の身体から力が抜け、地面に崩れ落ちた。黒いぐねぐねが一気に空へと伸びあがる。五メートル以上はあるかと思われるような、大きな『負』だ。
「ユイネ!」
声に振り返る。暗い道の先から、テル君の走ってくる姿が見えた。その後ろにいるタロさんの姿を見て、また慌てて黒いぐねぐねの方へ振り返った。中空で暴れている黒い闇。激しく伸びあがってぎゅっと縮んで、めちゃくちゃにもがいている。逃げ出そうと必死に暴れ回っている。もう既に、この黒くて気味の悪いぐねぐねはタロさんに捕まっているのだ。ひどい暴れようで、きっとこの『負』を捕らえているタロさんの全身は激痛にさいなまれているはずだ。なんて巨大な『負』なんだろう。
「ユイネっ。危ないよ! そこから離れてっ」
テル君の叫び声。私はすぐ目の前の大きな『負』をじっと見つめて、そして確信した。
『負』は集まって世界に歪みを作り出し、そのまま見過ごすと天変地異が起こる。生物の中に入れば病や悪意となる。
世界に害を及ぼす『負』の存在は決してなくならない。世界がそこに在って、そこに命がある限り『負』は生まれ続ける。いくら消しても知らない間に生まれている。だから守り人達は『負』を昇華する力を持っているのだ。
世界を守るために、そこで生きる人々のために、『負』は消滅させるべき存在なのだ。
ああっ……。でも!
「ユイネ! 何をしているっ。さっさと離れろ!」
「待って! タロさん待ってくださいッ!」
私はこの『負』を知っている。ずっと一緒だった。とっても可愛くて、優しい子だった。生まれてきた事を喜んで、いつだって私の味方をしてくれた。
ああ……それなのに私は……私はなんて事を。
震える足を何とか動かして、苦しんで暴れている大きな『負』の目の前に立った。息が上がる。口元がわなないて、涙が流れた。両手を広げる。大きく息を吸ってその名前を叫んだ。
「ふーちゃんっ!!」
私のせいだ。
ふーちゃんはただ、生きたかっただけなのに。ふーちゃんは優しい女の子なのに。私のせいで……『負』に戻ってしまった。
「ふーちゃん! もう良いのっ。もうやめて!」
ぎゅ、と黒いぐねぐねが鋭く尖る。ひゅっ、と風を切るような早さで私の身体を貫いた。その瞬間に、両手両足がもがれるような味わった事のない激痛に襲われる。
痛い!
「あ、ああっ!」
「ユイネ!」
駄目っ。
私は咄嗟に両腕を動かして黒いぐねぐねをぐっと掴んだ。
ギャアアアアアアアーーー。
鼓膜が破れそうな程のひどい叫び声が頭の中に反響する。捕まえた。
「ふーちゃん!」
ぎゅっと目をつぶって、暴れまわる『負』を力づくで、無理矢理抱き込める。
「ふーちゃん、ふーちゃん、ふーちゃんッ」
内臓が燃え上がるような痛み。頭が割れてしまいそうな激痛。だけど、絶対、手を離さない。
だってふーちゃんは私のために。
「ごめんっ。ごめんねふーちゃん。もう良いの。もうやめて……」
ごめんね。ごめんね……。私のせいで。私のために。
サーシャさんに頼まれていたのに。ふーちゃんをお願いねって言われたのに。
ふーちゃんはいつだって私の味方をしてくれたのに。ずっと一緒にいたいって言ってくれたのに。
──ゆいね……。なんで? ……どう、して? ゆいね。ゆいねゆいねゆいね……──
ふーちゃん。
──よーこが、いなければいいんだ。よーこなんて、いなければいい。よーこさえいなかったら、ゆいねはかなしくない。だから、よーこをころそうと思ったの──
ごめんね……ふーちゃん。
ふーちゃんをこんな風にしたのは私だ。私の醜い心だ。私はヨーコさんに嫉妬して、妬んだ。
──なんで? なんでゆいね。泣かないで。あたち、わるいことしたの? よくなかったの? ──
違うよ。ふーちゃんは悪くない。ふーちゃんはうんと優しくて可愛くて、とっても良い子だよ。
──……ほんとう? ──
うん。ありがとう。ふーちゃん、ありがとうね。私、とっても嬉しい。もう大丈夫だよ。悲しくなんかない。ふーちゃんのおかげで、もう元気になったよ。
──嬉しい。あたち、ゆいねが大好き──
すっと力が抜けた。全身を貫いていた痛みが引いていく。うっすらと目をあけると、腕の中にふーちゃんがいた。だけどその小さな身体は透けている。まるで幻みたいに。
「ふ、ふーちゃんっ」
目の前の女の子が、嬉しそうに微笑んだ。
「ね、ねえ。大丈夫? どうしたの? 身体がっ……」
「ゆいね……」
「ま、待って」
「ゆいね。ごめんね」
「いやっ」
私は慌ててふーちゃんを抱き締めた。小さな身体を抱えて、泣いた。
消えてしまう。ふーちゃんがいなくなってしまう。
──ゆいね。ゆいねゆいね──
「だ、だめっ。ふーちゃんいかないでっ! だ、だってまだ、動物園に行ってないよっ。こ、この世界にはもっともっと、楽しい事がいっぱいあるんだよ。ふーちゃんに見てもらいたいものがたくさんっ……」
ふーちゃんが私の胸にぐりぐりと顔を押しつけた。
──もういいの。あたち、しあわせ──
ふーちゃん!
──ゆいね。ごめんね──
「ふ、ふーちゃん……ふーちゃん。ごめんねっ。ごめんっ」
──ゆいねはわるくない。ゆいねは優しい。だからあたち、ゆいねが大好き──
「ううっ……うあぁあ。ふーちゃんっ!」
みっともないくらいに、ぼろぼろと泣いた。じわりとふーちゃんの重みがなくなっていく。
──ゆいね、ごめんね。ゆいね、さよなら──
「ふーちゃ……」
──ゆいね、ありがとう──
両手を地面についた。そこには何も、残っていなかった。
目の前が真っ暗で、ぼたぼたと涙が落ちていく。そのままそこにうずくまって、泣いた。
消えてしまった。ふーちゃんが。私のせいで。私は守ってあげれなかった。
あんなに小さくて必死に生きようとしていた、可愛らしい女の子を。
「……ユイネ」
低くて落ち着いた声が聞こえた。肩をそっと包む手の温もり。途端にまた涙が溢れて、身体を起こして振り返った。そこにタロさんがいた。じっと私を見つめていた。
「わ、わたしっ……ふーちゃんをっ」
胸がぐっと苦しくなる。タロさんの温もりが、ぎゅうと私を包み込んだ。
「……『負』は、いずれこうなる運命だ。お前の手で昇華させたあいつは、最期にはちゃんとあいつに戻っていた。俺が今まで見て来た中でも、一番安らかな最期だ。幸福な最期だった」
「う、ううっ……だ、だけどっ」
両手でタロさんの服を掴んだ。いくら歯をくいしばっても、涙を止められなかった。タロさんの胸にぐいぐいと顔を押しつける。ぎゅうっと一層力を込めて抱き締められた。
「お前はきちんとあいつを昇華させたんだ。あいつにとっては、それが一番の幸福だ」
ふーちゃん……。
黒くてつやつやとした長い髪。ゆるくウェーブがかったその髪はとっても綺麗だった。いつもきらきらと輝いていた大きな瞳。小さな手足。
ちっちゃな身体で、力いっぱい私を抱き締めてくれた。いつだって私が好きだと、全身で、好意を示してくれた。
美味しそうに口いっぱいにご飯を頬張って喜んでいた。おいしいねって言って、嬉しそうに笑っていた。
歌が好きだった。一緒にぞうさんの歌をうたった。何回も、何回も……。お絵かきもした。とっても楽しかった。
楽しかった。楽しかったよふーちゃん。
にっこりとふーちゃんが笑う。ふっくらとした桜色のほっぺ。
小さな両手で私にしがみついて、私の胸にぐりぐりと顔を擦りつけて、それからぱっと顔を上げて笑うんだ。
「ゆいね大好き」
ありがとう。ふーちゃん。
私を好きになってくれて、ありがとう。