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066

 朝からどんよりとした曇り空。夏だというのに半袖では少し涼しいくらいの天気だった。

 いつもと変わらない土曜日。だけど、何かがしっくりいかない一日。

 珍しくふーちゃんはソファに座って一日中眠たそうにしていて、タロさんは誰も近寄るなオーラを放って始終むっつりとしていた。テル君だけが普段通りの爽やかさで、家事を手伝ってくれたり、私と話をしたりしてくれた。夕方外出するその時まで、ヨーコさんの話題が上がる事はなかった。


「じゃあ先に行くね」

「うん」


 ポロシャツにジーンズ。薄手のジャケットを持って玄関に立ち、テル君に向き直る。清潔な白シャツにカーキ色のハーフパンツという格好のテル君は、今日もとっても可愛らしかった。少し見上げるような角度で私を見て微笑む。何度となく見てきたその笑顔に、私はいつものようにときめいた。


「ユイネ……」


 するりとテル君の白い両腕が私の背中に回った。ちょうど顎のあたりに、テル君のつやつやの茶色の髪が当たる。ほっそりとした男の子の身体が私にぴたりとくっついた。


「……大丈夫だよ。ヨーコさんは分かってくれる。心配しないで」


 私はテル君を元気づけたくてそう言った。タロさんもテル君もきっと不安なんだ。ヨーコさんが半身になってくれるかどうか。ヨーコさんの返事が、イエスなのかどうか。


「ありがとう。ユイネ」


 テル君の鈴の音のような可憐な声は、私の身体を伝って届いた。



*



 何度となくシュミレーションを繰り返して入念な準備をしていた大事な瞬間は、意外にもあっけなくおとずれるものだ。


「唯音?」


 その声は想像していたよりも落ち着いていて、大人の女性の声音だった。


「久しぶり! 大きくなったね」


 たくさんの人々が行きかう駅前で、その人の輪郭だけが浮き上がっているように見える。すらりと背が高く、スマートなパンツスーツを完璧に着こなしている。軽快に大きな歩幅で近づいてくる。明るい色の髪は女性らしいショートボブ。


「ヨーコさん!」


 私の声に大きく頷く、綺麗な女性。明るくて華やかで、きらきらとした笑顔。


「うわーっ。懐かしい! 唯音、元気だった?」


 ぱっと両手を広げ、それから私の肩を包んだ。私よりも少しだけ背の高いその人を見上げる。


「お姉さん……」


 ヨーコさん。

 やっと、会えた。


「ヒロから聞いたよ。私を探してくれてたんでしょう? 覚えててくれたの、すっごく嬉しい」


 長いまつ毛に大きな瞳。控えめに施されたお化粧が、ヨーコさんの素肌の美しさを引きたてている。


「わ、私も嬉しいですっ。覚えていてくれたんですね」

「当ったり前よぉ。でもほんと、唯音ったら私のイメージとぴったり。優しい雰囲気ちっとも変わってない。良かったぁ」


 にこにこと笑う綺麗なヨーコさんにそう言われて、私は嬉しくて赤面した。


「ヨーコさんも、やっぱり美人さんですね。とっても素敵です。そうだろうなって思ってたんです」

「やあねもう! 褒めたって何も出ないわよ」

「元気でした?」

「うんもちろん。元気だけが取り柄だもん」

「あは。良かった……。あの、私ずっとお礼が言いたくって。ヨーコさんのお陰で私、色々乗り越える事が出来て」

「待った待った。ね、どこかお店入らない?」

「あ……じゃあ東口の方に行きませんか?」


 ああどうしよう。どきどきしてきた。

 ヨーコさんと待ち合わせをしたこの場所は有名なスポットで人も多い。反対側の出口は比較的人通りも落ち着いているので、タロさんとテル君には東口で落ち合う事にしていた。

 ヨーコさんと並んで人でごった返す駅前を右へ歩いていく。


「あのっ。いつからこっちに?」

「うーんとね、小六の時に家族と引っ越してきて、それからはずっとこっちよ。大学出てから今の会社に入ってさ、やっと最近になって色んな事を任せてもらえるようになってきたの」

「仕事、大変そうですね。で、でもやりがいがある?」

「そうなのよ。休みもなかなかとれないけど、今はそれでもすっごく充実してるっていうの? ふふっ。絶対婚期逃すわよねえ」


 きらきらと眩しいヨーコさんの横顔に思わず見惚れてしまう。元気そうで安心した。きっと本当に毎日が充実しているんだろう。自分の力で、自分の人生をきっちりと生きている。ヨーコさんはそんな人が持つ力強い輝きを放っていた。良かった。ヨーコさんはあの頃と変わってない。優しくて明るくて美しくて、強い。


「ほら唯音。ぼっとしない」

「わっ」


 目の前を横切っていく男性にぶつかりそうになって、ヨーコさんに腕を引かれた。


「す、すみません。すごい人ですね」

「土曜の夜なんていつもこんなよ」


 近状を報告し合いながら東口へと回りこんでいくと、だんだんと人の流れが落ち着いてくる。行きかう人達がまばらになったところで、私は足を止めた。


「……ヨーコさん」

「なあに?」


 夜の闇が落ち始めたビルを背景にヨーコさんが振り返る。苦しいくらいどきどきして、胸が張り裂けそうだ。大きく息を吸い込む。

 ヨーコさん。


「覚えてますか? 一緒に遊んだ裏山の神社……」

「ああ、うん。ちっちゃくて古ぼけた神社ね。人外様の」


 人外様。

 その言葉にまた私の心臓がどくんと跳ねる。


「……はい。それで私が引っ越すときにくれたお守りも、覚えてますか? 真っ黒でまん丸の、すべすべの石」


 漆黒の珠。それはタロさんが半身であるヨーコさんに渡した大切なもの。守り人の、もうひとつの命。


「石?」

「はい。泣き虫だった私を元気づけてくれたんです。そのお守りのおかげで、私は、今まで頑張ってこれた……」


 ぎゅっと両手を握り締める。よし。言うんだ。


「ヨーコさんに会ってもらいたい人がいるんです。その人もヨーコさんに会いたくて、ずっとヨーコさんを探していたんです。ずっと遠くから、ヨーコさんに会いに来てて……」

「えっ。そうなの!?」


 ヨーコさんは驚いた顔をして少しだけ首を傾けた。


「カラスっていう名前……覚えてますか?」


 祈るような気持ちで、じっとヨーコさんを見つめる。


「カラス? カラスって鳥の?」


 急にひやりと背筋が冷たくなった。慌ててかぶりを振る。


「ヨーコさんが子供の頃、私が遊んでもらってた頃です。その頃に人外様の神社で会ってるんです。背が高くて髪が肩まである男の人と、天使みたいに綺麗な男の子」


 そこまで言うとヨーコさんの眉がきゅっと寄った。傾けられた頭が今度は反対側にかっくりと傾く。

 まさか……。


「お、覚えてないですか?」


 まさか、そんな。

 ヨーコさんの態度に動揺して私の頭の中が一瞬真っ白になった。その時。


「ユイネ?」


 その声にはっとして振り向く。タロさんとテル君が、そこにいた。


「あっ、テ、テル君。あのっ」

「唯音。知り合い?」


 きょとんとしたヨーコさんの声。


「……ヨーコ?」


 これもまたきょとんとしたテル君の声。わわっ。どうしよう。はやく説明しなくちゃ。

 ヨーコさんお願いっ。思い出して!


「あっうん。ヨーコさんだよ。あ、ヨーコさん、あのね……」

「ユイネ」


 私の言葉を遮って凛と響いた低い声。その声の主はつややかな黒髪を一つに束ね、シンプルな黒シャツとジーンズをモデルのように着こなしていた。


「タ、タロさん」

「……ユイネ。お前は先に帰っていろ」


 え……。


 足が震えた。一瞬、目の前が真っ暗になった。

 タロさんは私を見ていなかった。


 「カラスって、この人?」


 ヨーコさんの声が随分遠くに聞こえた気がした。

 タロさんは何も言わずヨーコさんだけを、ただ一心に見つめていた。そこから一度も、視線をはずす事はなかった。

 ぎゅっと目をつぶって背を向ける。


「あ、あの……じゃ、じゃあ私」

「えっ。ちょっと唯音っ!?」


 足を動かす。

 ヨーコさんの呼び止める声も無視して、私はその場から逃げ出した。

 つらくて悲しくて、息が止まりそうだった。もうあの場所に立っていられなかった。そこには私の居場所なんか、あるわけなかった。私じゃなかった。最初から。


 タロさんはずっとヨーコさんを見つめていた。最後まで、私を見る事はなかった。


 すれ違う人と肩がぶつかる。すみません、と謝って自分の足元だけを見て歩いた。どんどん息が上がっていく。ぼやぼやと視界がにじんでいく。雑踏の騒音も遠のいていって、無音の世界にたった一人、取り残される。息を吸うと、喉が痛んだ。泣きそうになって唇を噛んだ。


 タロさんとテル君には、まだお別れの言葉を言っていない。

 だってなんて言ったら良いか、考えても考えても、ちっともまとまらなかったから。



 


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