065
「唯音さんっ」
聞き覚えのある声に呼び止められて振り返った。
金曜日。仕事を終えて、タロさん達が待つ家へ帰ろうと歩いていた時だった。コンビニの制服にジーンズ姿の笹本さんが駆けてくる。その背後には夜道を煌々と照らすコンビニの明かり。
「笹本さん?」
はい、と言いながら爽やかな笑顔が返ってきた。黒ぶち眼鏡の奥の瞳は柔和に微笑んでいる。
「ど、どうしたんですか? 今バイト中じゃ」
「あ。そうなんですけどね、えっと……今お仕事の帰りですか? お疲れ様です」
「あ、はい……」
どうしたんだろう。まさかこれを言う為にわざわざバイト中のコンビニを出て、私を追いかけてきてくれたんだろうか……。私は困惑気味に笹本さんを見上げた。
「風邪はもう良くなりましたか?」
「はい。もう大丈夫です。ありがとうございます」
そう言ってお辞儀をしてまた笹本さんを見上げる。きっと、何か他に言いたい事があるのだ。笹本さんは少しだけ困っているような表情をして、もう一度唯音さん、と私の名前を呼んだ。
「あの……俺の勘違いだったら申し訳ないんですけど、その、何かあったんですか?」
漠然とした問いかけに、私はぼんやりと笹本さんを見つめてしまった。
「あ、いえ。えーと……唯音さん、ここ数日ずっと元気ないみたいで、落ち込んでるように見えたから……」
突然に、胸がぎゅうと押し潰される。笹本さんは俯き加減のまま申し訳なさそうに続けた。
「俺が出しゃばって聞くような事でもないと思うんですけど、なんかすごく辛そうだったから。心配で……その……。えっ。ゆ、唯音さん」
驚いた声にはっとする。私は慌てて下を向いた。
「あっ。ち、違うんです……これはっ」
自分の意思とは関係なしに涙があふれてきた。一気に混乱してしまい、それでますます涙がぼとぼとと落ちていく。
「す、すみません……わ、私……あの……っ……」
「……唯音さん、こっち」
笹本さんに腕を引かれ、涙でにじんだ視界の中をよろよろと歩いていった。
一度流れてしまった涙はどうやっても止める事が出来なくて、一度泣いてしまったらどんどん悲しくなって、私はとうとう嗚咽を漏らして泣きながら公園のベンチに座った。
「……っう、すみませ、ほんとっ……ううっ」
思ってもみないところで優しい言葉をかけられて、笹本さんが私の事を気にしてくれていた事がありがたくて、また涙が出る。私は鞄からハンドタオルを取り出して顔を覆った。喉がひくひくして苦しい。
「こういう時は我慢しないで、泣いた方が良いんです」
「うっ……あのっ……あのっ」
「はい」
「タ、タロさんがっ」
「え? 太郎さん?」
「タロさんと、テ、テル君が、もう帰っちゃうんです……」
そう言葉にして声に出してみると、もう、どうして良いか分からない程悲しくなった。私は歯を食いしばって目をぎゅっとつぶって、泣きながら続けた。苦しくて苦しくて、勝手に言葉が飛び出してくるのだ。
「もういなくなっちゃうんですっ……こ、ここに来たのも、ほ、本当は会いたい人がいたからでっ……。それは私じゃなくって……でも、その人が見つかったから……ううっ」
私は頑張らなくちゃいけないのに。どうしてこんなに弱いの。
「それで私っ、よ、喜ばないといけないのに、本当はっ……」
ヨーコさんが羨ましくて……。
タロさんにあんなに思われているヨーコさんが羨ましいんだ。これからもタロさんとテル君と、ずっと一緒にいられるヨーコさんが羨ましくて仕方ないんだ。だって、それはもともと、私のものじゃないから。
「もう……タロさんに会えなくなる……」
やっと仲良くなれたのに。
もう一緒にご飯も食べられなくなる。メルバースのプリンも一緒に食べれない。一緒にお酒も飲めない。あの大きな背中も見られない。私に笑いかけてくれた可愛らしい笑顔も、あの腕の温もりも、何もかも、なくなってしまう。
好きなのに……。
「……そうか。太郎さん達ってたしか、アメリカに住んでるんでしたよね」
「は、はい……。だから、いつかこうなるって分かってたのにっ……うっ……」
「そりゃ、寂しいですよ。悲しいです。……こっちで暮らす事は出来ないんですかね」
私は首を左右に振った。
タロさんは異世界のかみさまなんです。本当は、この世界を守っているんです。ガルクループっていう世界があって、そこでタロさんの帰りを待ってる人達がいるんです。だから、ここに残る事は出来ないんです……。
「うーん……そっかぁ」
「良いんですっ。我が儘な事言って、困らせたくないんです……。ただちょっと、少し……寂しくって……」
「うん。分かります。……ねえ唯音さん。それって我が儘な事でも、恥ずかしい事でもないですよ。当然の事です。だって大好きな人達が遠くへ行ってしまうんでしょう? 寂しくて泣くのは、その人達が大好きだっていう証拠です。……俺がいますから。太郎さん達がいなくなっても、俺はここにいます」
優しい言葉を聞いて、また私は泣いた。どこにこんなに水分があったのかというくらい、涙があふれて止まらなかった。笹本さんは本当に、優しい人なんだ。
「うっ……ありがとうございます……」
私は本当に、タロさんが好きなんだ。だからこんなに、寂しいんだ……。




