064
柏木葉子。
それがヨーコさんの本名だった。
ガルクループから戻って来たのは水曜の夜。翌日仕事の合間を見計らってヒロさんに電話をかけた。
『俺もさ、そっちに行ければ良かったんだけどやっぱり休めなくって。セッティングだけしとくから』
「そんな、ヒロさん。ありがとうございます。全部していただいて……本当に感謝してます」
『良いって良いって! あいつ土日も働くような仕事してるからさ、夕方になっちゃうけど良い?』
ヨーコさんは大都会に本社を構える外資系の会社の、企画部で働いているのだそうだ。会うのは土曜の夜になった。ヨーコさんが働く会社のある駅の、有名な待ち合わせ場所に午後六時。目印に私はうちわを持っていく事にした。人がたくさん集まる場所なので、タロさんとテル君には別の場所で待っていてもらうようにした。ただでさえ二人の外見は目立つのだ。雑誌から抜け出てきた外国人モデルのような大男と、天使のように綺麗な男の子を連れて、大都会を闊歩するなんて荒技、私には無理だと分かっている。
ヨーコさんの連絡先は携帯の番号だけを聞いたけれど、多分当日までその番号にかける事はないと思う。ヒロさんには気になって仕方のない事だけを、失礼とは思いつつ先に聞いてしまった。
答えはとりあえず一安心な内容で、本当に良かった。
ヨーコさんには今、旦那さんや恋人と呼べる特定の相手はいない、という事だった。
これで最初の難関はクリアできた……。
私はパソコンの画面と向き合って仕事をしながら、頭の中では全く別の事を考えていた。
タロさん……帰って来た時から何だか不機嫌な気がする。大きな身体から苛々オーラをばっしばっしと放っているのだ。目つきも相当険しい。あれはもう、相手を射殺すような勢いだ。ヨーコさんとの事も本当はもっと手伝いたかったんだけれど、少し迷惑そうだった。それに昨日も気を届けたかったのだけれど、すぐに寝室に行ってしまった……。
本当に疲れてるだけなんだろうか。私、何かしてしまったんだろうか。どうしよう。一緒にいられるのはあと少ししかないのに。少しでもタロさんの役に立ちたいのに。気を届けるくらいしか私には出来る事がないのに……。
身体が椅子にめり込んで、椅子ごと地面に沈んでいきそうなくらい落ち込んでしまう。
うう。駄目駄目。ちゃんとしなくちゃっ。
暗くならないようにして、なるべく普段と変わらないように過ごそうと決めたんだから。あとちょっとでも一緒にいられるのなら、笑っていたい。仲良くしていたい。
終了のチャイムが待ち遠しい。早く家に帰りたい。テル君、今夜は何を作ってくれたんだろう。テル君の美味しい料理を食べられるのも、あと数回だ。うん。大事に食べなくちゃ……。
*
夕食の時間は、ふーちゃんのおかげで更に賑やかになって私はとても嬉しかった。リビングのテーブル席にタロさんとテル君とふーちゃんがいて、みんなで美味しい料理を食べられるなんて。それがこんなに楽しいなんて……。
「あ、そうか……。テル君に料理習っておけば良かったな……」
テル君の料理を覚えておけば、一人になった後もこの楽しかった時間をちゃんと前向きに思い出せたかも知れない。もうすぐ、タロさん達が来る前の私に戻るのだ。
それがこんなに寂しいなんて……。
私はきっとしばらくの間、一人で夕食をとる状況に落ち込んでしまうだろう。今のこの楽しい時間を思い出しては、しょんぼりとするだろう。
あ。泣きそう……。
「ヨーコさんにもうんと美味しいもの、作ってあげてね」
私はまた暗くなりがちな思いを振り切ってテル君に笑いかけた。天使のように可愛い男の子が、綺麗な微笑で答えてくれる。
「うん。そうだね……」
たしかに一人になれば寂しいに決まってる。でもそれは、私の一方的な思いだ。ヨーコさんやタロさんの思いを考えれば、逆にこれからはずっと一緒にいられるんだ。だから、このお別れは全然悲しい事でも寂しい事でもない。うん。そう思おう。
……って、そう簡単には思えなかったりする。ああ私ったら……。
「ゆいねっ。だっこ!」
お風呂から上がったらふーちゃんが私を見上げて両手を伸ばしてきた。ゆるい曲線を描く黒の髪はつやつやとして、ぱっちりおめめが可愛らしい。私は喜んでふーちゃんを膝に抱いてソファに座った。
「ゆいね。あたちね、どーぶつえんにいきたいのっ」
「動物園?」
「うんっ。てれびでやってた。ぞうさん見たぁい」
ふーちゃんのふわふわの髪を梳きながら、そうか、と思う。ふーちゃんにとってはこの世界の色んな場所が初めてできらきらとして、きっと楽しい場所なんだろう。私も子供の頃はそうだったんだろうか。
きっと動物園に行ったら、ふーちゃんは好奇心を爆発させてとっても喜んで、ちっちゃな身体の全部を使って、嬉しさを表してくれるんだろう。うん、楽しいに違いない。色んな所へ連れていってあげたい。私は思わずにやりと笑った。だけど次の瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
ふーちゃんとも、ずっと一緒にはいられないよね……。
「ゆいね?」
「あっ。うん。動物園ね、今度行こうね。色んな動物がいっぱいいるんだよ。楽しいよ」
「よーこってだあれ?」
びっくりしてふーちゃんの可愛らしい顔を凝視する。
「……え?」
「よーこってなあに? ゆいねはずっとそのひとのことをかんがえてる。たろもてるもよーこを知ってる。みんなよーこをかんがえてる」
ふーちゃんが桜色のほっぺを少し膨らませて、瞳を不安げに曇らせた。ふーちゃんは自分だけが知らない事に不安を感じている。私は少し考えてから言葉を選んで説明した。
「え、えーと。ヨーコさんはね、何て言うか……タロさんの大事な人だよ」
そうだ。何よりも、誰よりも。タロさんの、全て。
「……きっとタロさんの半身になる人で、そうなったらみんなでガルクループに帰れるんだよ」
「ゆいねも一緒?」
「わ、私は……違うの。私は……」
「なんでっ。ゆいねとずっと一緒がいいっ! よーこなんていらないっ。ゆいねがいいのっ」
「ふーちゃん……」
ふーちゃんが私の胸にぐりぐりと頬ずりをして、小さな手で必死にしがみついてくる。そのあたたかみが嬉しくて嬉しくて、また泣きそうになる。
私の中の寂しくて卑怯で孤独な私が、喜んでいる。うれしいうれしい、と言って両手を伸ばしている。
ふーちゃんは私を選んでくれるの? こんな私がいいって言ってくれるの? 本当? 本当に?
「あ、あのね、ふーちゃん」
情けないくらいに声が震えていた。ふーちゃんがぐりぐりをやめて、大きな瞳で私を見上げる。
「もしね、もし、タロさん達がガルクループに帰るってなっても……ふーちゃんは私と一緒にいてくれる?」
「うんっ。ゆいねとずっと一緒にいるよ!」
ふーちゃん。ほんと? ほんとに?
うんっ。ほんと! ほんとだよ!
どきどきと心臓が暴れている。ふーちゃんに縋りつく私は、なんて情けないんだろう。でも、だけど、やっぱり嬉しい。ありがとう。
まさか自分が、一人になる事にこんなに怯えてしまうなんて思わなかった。今までは平気だったのに、それがとても寂しいと感じてしまう。
タロさんはきっと、すごく強い人なんだ。
こんな寂しさを抱えながら相手の幸せを願う事が出来るなんて……。
頑張ろう。最後の最後まで、笑顔でいられるように。タロさんとヨーコさんがうまくいくように。私に出来る限りの事をしよう。私の好きなタロさんは、うんと強くて優しい人だから。
私だって、強くならなくちゃ。