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063

 いよいよヨーコとの再会を、ユイネとの別れを明日に控えた夜、その日に限ってユイネはいつもと同じ時間に帰宅しなかった。時刻が七時を回り八時を過ぎて九時を回った頃、俺はこらえ切れず立ち上がった。


「遅い! 何をしているんだあいつはっ」


 もう共にいられる時間は残り少ないというのに。


「ううーん。残業かも?」


 テルが首をかしげて呟く。


「待ってられん。迎えに行く」

「あたちも行くっ」

「ついてくるな! テルっ。こいつを押さえておけ!」

「ずるいーっ」


 わめいている声を背中で受け、サンダルを履いて扉を開ける。途端に熱気を含んだ大気がまとわりついてきた。どうにもこの世界のこの土地の、「夏」の気候だけには馴染めない。このぬめるような重たい熱が、とてつもなく苦手だ。手早く髪をまとめ上げてエレベーターに乗り込む。もうじわりと汗をかいてきた。外の街路に降り立ち、青々とした緑の匂いといまだに熱を持ったアスファルトのむっとする匂いに眉根を寄せ目を閉じた。大きく深呼吸をしてユイネの気配を探る。心を一定に保ち鎮めるのは元々苦手な行為だというのに、不快な暑さのせいで倍に骨が折れた。

 

「……そこか」


 案外近くに感じた愛しい気配を辿っていくと小さな公園に行き着いた。じいいい、と鬱陶しい虫の音が聞こえ、闇を照らす街灯には小さな羽虫が群がっている。遊具がぽつぽつと置かれた人気のない公園。薄闇の中にある一つのベンチにユイネの背中を見つけた。半袖の青いシャツにジーンズという服装は、確かに今朝見たものと同じだ。その細い背中を見た瞬間に、身体が硬直した。


「す、すみませ……」


 バイクの走り去る音にユイネのか細い声が重なる。細い肩は儚げに震えていた。その肩にかかる柔らかな髪も、ふるふると震えている。ユイネは俯いて両手で顔を覆い、泣いていた。


「大丈夫です。我慢しないで良いんです」


 穏やかな男の声が、労わるように言った。隣に座っている男の格好にも見覚えがある。それはその男の仕事着だ。コンビニの制服というもの。夜の公園のベンチで涙を流すユイネの隣には、コーイチがいた。目の前の光景の、意味が分からず混乱する。

 何故、こんなところでユイネは泣いているのか。何故、その隣にあの男がいるのか。一体どうした。何があったんだ、ユイネ。何を悲しんでいるんだ。何故泣いているんだ。家にも帰らずに。

 その男の前で。

 ゆっくりとコーイチの腕が動いた。びくりと俺の心臓が縮まる。


 やめろ。触るな。俺のユイネに……。


 何か少しでもやましい動きをしたならば飛び出して行ってぶん殴ってやろうというのに、その手はあまりにも紳士的に、泣いている相手を優しく包み込むように、ゆっくりと背中をさすっていた。涙を流す幼子をあやすような、純粋な慈愛に溢れている。

 強い風が吹いた。公園の木々が一斉にざわざわと騒ぎ始める。俺の心が不安定に揺らいでいる為だ。ぶるぶると心が震えている。

 くそ……。


「……さ、笹本さん」

「はい」

「ありがとうございます。も、大丈夫です……」

「本当ですか?」

「はい。なんだか泣いたら少し、すっきりしました。本当に、ありがとうございます。仕事中だったのにすみません」

「良いんです。少しでも唯音さんの役に立てたんなら俺は」

「え……。わっ」

「うわっ」


 ざざざ、とひと際強い突風が吹きぬけ、ユイネとコーイチは咄嗟に身体を縮めた。


「すごい風ですね。台風でも来てるのかな」

「ほ、ほんとですね……」


 二人が立ち上がったので俺は慌てて姿を消した。何故だか気付かれたくなかった。息を殺し、目の前を行き過ぎる二人を見守る。コーイチは恐縮するユイネを説き伏せ、家まで送ると言って二人で夜道をてくてくと歩いていった。俺は街灯の光で出来た二つの影を呆然と見つめ、その後ろを阿呆のようについていった。息をするのもやっとで、めまいを起こしそうだ。


「笹本さん。何から何までほんとすみません。でも、ありがとうございます」


 マンションの前でユイネはぺこりと頭を下げ、それからコーイチに向かって恥ずかしそうに微笑んだ。するとユイネの前に立つ優男も照れたように笑って頭をかく。俺はそれを随分遠くの路地から眺めていた。これ以上近づく事が出来ない。耐えられない。俺の心は既にがたがただ。あんなものを間近で見ようものなら意に反して、竜巻でも起こすに違いない。


「あ、あの……唯音さん……今度、またどこか行きませんか? 映画も良いし、そのうち花火大会もあるし」

「あ。はい。是非」

「良かった。じゃあまたメールしますね」


 ユイネの姿がマンションに消えても、男はしばらくじっとそこに佇んでいた。それからゆっくりと踵を返し、こちらに向かって歩き出す。俯き加減のその男の口元には、微笑が浮かんでいる。それを複雑な思いで見つめた。はっと男が顔を上げ、ばちりと俺と目が合った。


「たっ、太郎さんっ!?」


 しまった。あまりにも悄然として姿を消し忘れていた。


「なっ……いっ、いつからここにっ」

「五月蠅い。お前には関係ない」


 わたわたと慌てふためいているコーイチを無視してすれ違う。


「あ、た、太郎さん! ちょっと待って下さい」


 ぴくりとこめかにみ青筋が立つ。立ったに違いない。腹が立つ。何故だ。何故お前が……。お前などの好きにさせてなるものか。こんな軟弱な男にユイネはやれん。俺が神ではなくこの世界の単なる一人の男だったなら、決して黙ってなどいない。こんな男に渡すものか。

 背後を振り返り、ひょろ長い体躯をした男を睨みつける。黒ぶちの眼鏡の奥の瞳が僅かに怯えた色を見せる。


「……なんだ」

 

 数秒の沈黙の後、覚悟を決めたようにコーイチが真っ直ぐに俺を見上げ、毅然とした声で言った。


「太郎さんはいずれアメリカへ帰るんですよね。太郎さんの過ごしている場所は、ここではないんですよね」

「だったら何だ! 何が言いたいっ!?」


 俺の剣幕に一瞬怯み、しかしコーイチは負けずに声を荒げる。


「だったらこれ以上、唯音さんを巻き込まないでくださいっ! 唯音さんにこれ以上、負担をかけないでください!」


 その言葉の重みと鋭さは脅威の破壊力を持ち、俺の心を手加減なしで打ちのめした。

 何も言わない俺を訝しげに見やり、コーイチは頭を下げて会釈を寄こす。


「俺の言いたい事はそれだけです。……じゃあ」

 

 去っていく男の背は、音もなく夜に消えた。

 扉を開くと、ひんやりとした空気が流れてくる。明るい照明に目がくらんだ。


「もうタロちゃんてば。ユイネと行き違いになってたよ」

「あっ。タロさんごめんなさい。ちょっと今日残業になっちゃって……タ、タロさんっ!? どうしたんですかっ。顔、真っ青ですよ」


 俺を見上げるスウェット姿のユイネ。その目元は少し赤らんでいる。それを見ながらぐっと腹に力を込めて、何とか声を絞り出した。


「ユイネ……。お前」

「は、はい」

「何か、悩んでいる事はあるか」

「え……。な、ないですよ」

「……そうか」

「タロさんどうしたんです。具合悪いんじゃ……」

「いや。腹が減っているだけだ」


 そろりと伸びてきた手から逃げるようにテーブルへと向かった。触れたら、まともでいられなくなる。

 俺のどす黒い孤独が、あたたかな魂を求めて暴れている。お前が欲しいと泣き叫ぶ。

 間違うな。もう二度と。


 何が神だ。笑わせる。


 たった一人の大切な者の、涙さえ拭えずに。心さえ救えずに。自らの思いだけを押し付けて。何が、神だ。

 これでは何も変わっていない。あの頃と何も……。

 ユイネ。お前が望むなら何だってしてやろう。何が欲しい? どうしたい? 俺の力があれば全て意のままだ。なのに……。

 この愚かな化け物は、お前の幸せが何なのかを知らずにいる。

 

 

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